目次

19 国際社会への復帰 −1948〜1956年−


外交史 第2次世界大戦後のアメリカ・ソ連の2大国を中心とする資本主義陣営(西)と社会主義陣営(東)の対立を冷戦とよぶ。

1 冷戦と民族独立運動の展開

(1)冷戦のはじまり アメリカとソ連の対立は第2次世界大戦末期からすでに表面化していたが,大戦後,東ヨーロッパに社会主義国が次々と成立したことから,その対立は冷戦へと発展していった。
 アメリカは,ヨーロッパにおける資本主義陣営の結束をめざし,1947年3月トルーマン米大統領が共産主義勢力の封じ込めを宣言し(トルーマン・ドクトリン),さらに同年6月マーシャル米国務長官がヨーロッパ経済の復興に向けた援助計画(マーシャル・プラン)を発表した。
 それに対してソ連は,同年10月ヨーロッパ8か国の共産党・労働者党とともに国際共産主義運動の指導機関としてコミンフォルムを結成し,さらに1949年東ヨーロッパ諸国とのあいだで東欧6か国経済相互援助会議(コメコン)を設立して,社会主義陣営の結束を固めた。
(2)朝鮮の分断 米ソに分割占領された朝鮮では,独立をめぐる合意が成立しないまま,1948年8月南部に大韓民国(韓国・初代大統領李承晩),翌9月北部に朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮・初代首相金日成)が成立した。そして,たがいに朝鮮全土にわたる支配の正統性を主張して対立した。
(3)中国内戦の展開 中国では,1946年7月から国民政府と中国共産党のあいだで内戦が本格化していた(中国内戦)。そのなかで,共産党が農民の支持をえて優勢にたち,1948年には中国本土の制覇が確実となっていた。アメリカは中国が“アジアの安定勢力”となることを期待していたが,その戦後構想が破綻したのだ。
(4)東南アジアでの民族独立運動 東南アジア各地では,日本降伏後,再侵略してきた欧米諸国からの独立運動が激化していた。オランダ領東インドでは,1945年8月スカルノらがインドネシア共和国の独立を宣言し,オランダ軍と戦って独立を実現(49年12月),イギリス領ビルマでは,日本軍に当初協力していたアウン・サンらが日本軍に対抗して武装蜂起し,さらに復帰したイギリス軍と戦って独立を確保した(48年1月)。フランス領インドシナでは,45年9月ヴェトナム独立同盟会(ヴェトミン)がヴェトナム民主共和国を樹立したが,復帰したフランスとの対立が激化し,46年12月からインドシナ戦争に突入していた。


経済史 東アジアでも共産党勢力が拡大し,さらに東南アジアで民族独立への動きが進むにつれ,アメリカの占領政策が転換しはじめる。

2 占領政策の転換

(1)経済の民主化から自立化へ アメリカは,民主化の徹底よりも,日本経済の復興・自立化を最優先させ,日本をアジア経済復興のための拠点として育成・活用していく方向へと転換しはじめた。日本を工業製品の輸出国,アジアの他地域は食料・原材料の輸出国として位置づけ,日本の経済復興を進めることによって日本だけでなくアジア全体の復興を実現しようとしたのだ。
 1948年1月ロイヤル米陸軍長官が無賠償方針へ転換することを示唆するとともに,日本が共産主義に対する防壁として役立つべきことを表明し,3月にはドレーパー米陸軍次官が来日し,過度経済力集中排除法による企業分割を緩和するようマッカーサーに提案,その結果,適用は大幅に緩和された。農地改革については政策は転換されなかったが,集中排除政策を中心として経済の民主化政策が後退していった。
(2)労働運動の抑圧 労働運動に対する抑圧も強まる。
 片山哲内閣と続く芦田均内閣は,傾斜生産方式により経済復興をすすめるとともに,インフレ抑制のために賃金抑制策をとっていたため,かえって労働運動が激化していた。そこで,1948年7月芦田内閣は,マッカーサーの指令にもとづいて政令201号を公布し,国家公務員の団体交渉権とストライキ権を剥奪した。さらに,労働運動のなかでも,労働組合に対する共産党の指導力を排除しようとする動き(民主化同盟)が強くなり,GHQはその動きを積極的に支援していく。

3 ドッジ・ライン

(1)経済安定九原則 1948年10月芦田内閣が昭和電工事件(肥料製造の昭和電工をめぐる汚職事件)で総辞職し,民主自由党総裁吉田茂が再び内閣を組織すると(第2次吉田茂内閣),同年12月アメリカ政府はGHQを通じて,吉田内閣に対して経済安定九原則を指令した。インフレ収束のための徹底した措置を実行させて日本経済を短期間で安定させ,国際貿易に復帰させることをねらったのだ。そして,その実行のためにアメリカ政府は特別公使ドッジを日本に派遣した。
(2)ドッジ・ラインの実施 1949年1月総選挙で民主自由党(のち自由党)が過半数を占めると,第3次吉田茂内閣(蔵相池田勇人)は,特別公使ドッジの指導のもと,日本経済の自立化に向けた諸政策を強行した。
 ドッジは,インフレを収束させるため,赤字を許さない超均衡予算を編成して復興金融金庫からの融資の停止・価格差補給金などの補助金の削減などを実施させた(ドッジ・ライン)。そして,1949年4月29日に日本が本格的に国際貿易に復帰するにあたり,1ドル=360円の単一為替レートを採用した。

ドッジ・ライン
超均衡予算→インフレの収束・自由市場経済に復帰
単一為替レート:1ドル=360円
→日本経済をアメリカ中心の世界経済にリンク

 ドッジにつづいて,1949年5月にはシャウプを団長とする使節団が来日し,日本の税制に関する報告書を提出した(シャウプ勧告)。

シャウプ勧告
税制改革の構想を勧告
→所得税中心主義・法人税の引下げ・地方税制の再編強化

(3)ドッジ・ラインの影響 ドッジ・ラインにより日本経済は自由市場経済に復帰し,大企業中心に経済復興をはかる体制が整ったが,他方で深刻な不況に陥った(安定恐慌)。中小企業の倒産があいつぎ,大量の人員整理がおこなわれて失業者が増大した。
 さらに,1949年7月に国鉄の人員整理案が発表されて反対運動が高まると,8〜9月には下山事件(国鉄総裁が轢死体で発見)・三鷹事件(無人列車が暴走)・松川事件(列車転覆事故)と,国鉄をめぐる原因不明の事件が連続して発生した。これらの怪事件には共産党員の関与が疑われて労働運動は打撃をうけ,それに乗じる形で人員整理が強行されたが,同時に,労働運動の主導権が共産党系から民主化同盟派(民同派)へと転換するきっかけとなった。


外交史 中国では1949年10月毛沢東を国家主席として中華人民共和国が成立し,蒋介石の国民政府は台湾へ逃れた。その前月にはソ連が原爆の保有を公表しており,アメリカの軍事的優位性は大きく動揺していた。そして,1950年にはソ連の対東アジア政策が積極化していく。

4 朝鮮戦争の勃発

 1950年6月25日北朝鮮がソ連の同意のもとで,南北境界線の北緯38度以南への侵攻を開始し,朝鮮戦争がはじまった。朝鮮半島における統一国家樹立に向けた内戦だったが,冷戦の進展を背景として国際的な戦争(国際内戦)として展開した。
 韓国を朝鮮半島にある唯一の合法政府として認知していた国際連合は,アメリカの提案により安全保障理事会を招集して(ソ連はボイコット)北朝鮮の攻撃を非難するとともに韓国を武力で支援することを決定,日本に駐留するアメリカ軍を主力として国連軍を構成し,朝鮮半島に派遣した。他方,北朝鮮側には中国から人民義勇軍が参戦し,そのため,1951年になると戦局は38度線付近で膠着状態に陥った(1953年板門店で休戦協定)。
 なお,1951年3月マッカーサーは中国への戦線拡大を主張してトルーマン大統領と対立し,国連軍総司令官・連合国軍総司令官を解任された。

朝鮮戦争勃発の影響
政治…1.レッド・パージ,2.公職追放の解除,3.警察予備隊の設置
外交…1.アメリカ主導による単独講和,2.日米安全保障条約の締結
経済…特需景気←国連軍の兵站基地となったために軍需発注が増大


政治史 東アジアにおける軍事的緊張が高まるなか,国内でも左右の対立が激化した。

5 レッドパージと再軍備の開始

(1)レッド・パージ 1950年になって日本共産党が内部対立をはらみつつ武力革命方針へと転換するなか,朝鮮戦争勃発に前後して共産党勢力に対する徹底した弾圧(レッド・パージ)がはじまった。マッカーサーが1950年6月共産党幹部の公職追放を指令したのだ。そして,朝鮮戦争勃発後には報道機関・官公庁・民間企業などからの共産党員とその同調者の追放が実施された。
(2)公職追放の解除と警察予備隊の創設 朝鮮戦争の勃発にともなって保守政治家や旧軍人の公職追放の解除がはじまった。さらに,在日米軍が朝鮮半島に出動して生じた穴を埋めるため,1950年8月マッカーサーの指令によって警察予備隊が創設された。警察力を補完する治安部隊という体裁をとった準軍事組織で,アメリカから武器提供をうけ,アメリカ軍が指揮権を握っていた。
(3)総評の結成 朝鮮戦争勃発直後の1950年7月日本労働組合総評議会(総評)が結成された。民同派労働組合の全国組織で,当初はGHQの支援をうけていたが,米ソ対立からの積極的な中立・日中貿易の復活などによる経済復興の実現をめざしていた。そのため,朝鮮戦争における北朝鮮の行動を非難しつつも,中立堅持・軍事基地提供反対・全面講和の平和三原則(のち再軍備反対が追加=平和四原則)をかかげ,社会党左派を支えながら平和運動の中軸をになっていく。


外交史 朝鮮戦争の勃発により,アメリカにとっての日本の戦略的な重要性が高まると,アメリカは早期講和の実現を急いだ。日本をアメリカの東アジア戦略の下に組み込むため,“連合国軍による”占領を終らせるとともに,日本がアメリカから自立することを防止する必要があったのだ。

6 アメリカ主導の単独講和の実現

(1)サンフランシスコ平和条約の締結 アメリカはソ連を除外した単独講和構想のもとで交渉をすすめ,1951年9月サンフランシスコで講和会議を開催(日本全権は吉田茂首相ら),その結果,日本と48か国との間でサンフランシスコ平和条約が締結された(1952年4月28日発効)。しかし,中国については中華人民共和国・台湾の中華民国とも会議には招請されず,インド・ビルマ(いまのミャンマー)・ユーゴスラビアは会議への参加をボイコット,ソ連・チェコスロバキア・ポーランドは会議に出席したものの条約には調印しなかった。

サンフランシスコ平和条約
戦争状態の終了と日本の主権回復
朝鮮の独立承認
領土… 台湾・澎湖諸島・千島列島の放棄
    奄美・沖縄・小笠原諸島など→アメリカが施政権を獲得
占領軍の撤退→協定にもとづく外国軍隊の駐留を妨げない
再軍備・工業生産に制限を課していない

 こうして,社会主義陣営を含む全面講和ではなかったとはいえ,主権を回復した日本は,1952年IMF(国際通貨基金)や世界銀行に加盟し,徐々に国際社会へ復帰していった。
(2)賠償問題 平和条約では,日本は連合国に賠償を支払うべきだが,完全な賠償をおこなうには現在の日本の経済力は十分ではないとされ,アメリカ・イギリスなど多くの連合国は賠償請求権を放棄した。しかし,東南アジア諸国が不満を示し,フィリピンとインドネシアは平和条約に調印したものの批准をしなかった。そのため,平和条約締結後に個別交渉によってフィリピン・インドネシア・ビルマ・南ヴェトナムとの間で賠償協定が結ばれ,賠償支払いがおこなわれた。また,タイ・ラオス・カンボジア・韓国・マレーシア・シンガポールなどに対しては,日本は賠償的性格をもつ無償の資金供与などを実施した。
(3)アメリカの沖縄統治 サンフランシスコ平和条約の発効により,北緯29度以南の南西諸島(奄美・沖縄)や小笠原諸島などはアメリカの施政権下に置かれた。平和条約では,アメリカは信託統治領とすることを国連に提案することになっていたのだが,結局その提案をおこなわないまま,直接統治を続けていった。
 沖縄では,住民側の自治機関として琉球政府が設立されたが,全権は琉球列島米国民政府(USCAR)が掌握して事実上の軍政が継続し,住民の土地を強制収用して軍事基地を建設していった。
 なお,奄美群島については1953年日本に返還された。
(4)台湾政府との日華平和条約 平和条約発効の1952年4月28日,アメリカからの圧力を背景として,台湾のみを支配する中華民国との間で日華平和条約が調印された。両国の戦争状態の終結を宣言し,台湾政府が日本への賠償請求権を放棄したものだが,これにより中国本土を支配する中華人民共和国との戦争状態が継続したため,戦前から原料の供給地・綿製品などの輸出市場として重要な位置を占めていた中国市場とは貿易断絶に近い状態が継続していった。 日華平和条約は,のち,1972年日本と中華人民共和国との間で日中共同声明が出されるに至って失効した。

7 日米安保体制の成立

(1)日米安全保障条約 平和条約調印の同日,日米安全保障条約が締結された(日本全権吉田茂首相)。日本の要請にもとづいてアメリカ軍が日本に駐留することを協定したもので,どこに基地を置くとも規定しておらず,具体的な事項はすべて日米間の行政協定で決めることと定められていた。アメリカは東アジアでの覇権を確保するために,日本列島全土を軍事基地として自由利用できる権利を獲得したのだ。

日米安全保障条約
日本の要請にもとづいてアメリカ軍が日本に駐留
目的…極東における平和と安全の確保(共産主義勢力への対抗)
→内乱・騒擾への米軍出動を規定
 日本防衛の義務については明記されていない
 有効期限なし

(2)日米行政協定 1952年2月安保条約にもとづいて日米行政協定が結ばれ,日本は駐留米軍に対して基地を提供,経費を負担することになった。また,軍人とその家族が日本国内で犯す犯罪はすべてアメリカ側が裁判権を行使するという不平等な規定が含まれていた。
(3)保安隊 日米安保条約では,日本が自衛力を少しずつ増強していくことが期待されていた。そのため第3次吉田内閣は,安保条約発効後,警察予備隊を改組して保安隊を創設し,非常事態における治安出動を任務とした。


文化史 文化面においても国際社会への復帰が進んだ。

8 戦後直後の文化

(1)国際社会への復帰 中間子理論を発表していた物理学者湯川秀樹が,1949年日本人初のノーベル賞(物理学賞)を受賞した。映画では,黒沢明が1951年「羅生門」でベネチア国際映画祭でグランプリを受賞,溝口健二は翌52年以降,「西鶴一代女」「雨月物語」「山椒太夫」でベネチア国際映画祭に3年連続入賞を果たした。また,オリンピックへは,1952年の第15回大会(ヘルシンキ)から復帰した。
(2)文化財保護行政のはじまり 1949年法隆寺金堂壁画の焼損をきっかけとして,文化財を保護するため,翌50年文化財保護法が制定された。このときに担当機関として設置された文化財保護委員会は,のち1968年文化庁に発展した。
(3)大衆文化の発達 戦後の混乱をたくましく生き抜いた庶民のあいだには,解放感あふれる生活文化が広がった。歌謡曲では「リンゴの歌」が戦後直後に大流行し,続いて美空ひばりがあらわれて庶民の心情を代弁した歌謡曲を歌った。また,1951年ラジオの民間放送がはじまり,1953年にはテレビ放送も開始された。


政治史 アメリカからの再軍備要求が強まるなか,占領初期に進められた民主化・地方分権化政策を否定し,国家権力を強化しようとする動き(逆コース)が強まった。

9逆コースの進展

(1)講和後の政治動向 まず政界の対立構図から確認しておく。
 自由党の吉田茂内閣が講和実現後も政権を担当していたが,公職追放されていた鳩山一郎・石橋湛山・岸信介らが政界に復帰すると,保守政党のなかには反吉田勢力が強まる。鳩山らは憲法改正・再軍備を主張し,改進党と共にのちに日本民主党に結集していった。
 他方,社会党は1951年10月平和条約・日米安全保障条約の批准承認をめぐって左右に分裂していたが(左派:平和条約・安保とも反対右派:平和条約賛成・安保反対),内灘(石川県)・砂川(東京都)などで米軍基地反対闘争が展開するなか,憲法擁護・非武装中立を掲げる左派社会党が次第に勢力を拡大する。それに対して,共産党は武力革命方針にもとづく活動を展開して支持を失っていた。
(2)国内治安体制の強化 吉田内閣は,1952年5月のメーデーが流血の事態を招いたこと(血のメーデー事件)を利用して,同年破壊活動防止法を制定した。暴力主義的な破壊活動をおこなった団体を規制しようとしたもので,とりわけ共産党対策として準備されていた。さらに,GHQのもとで創設された地方分権的な警察制度の改革にも着手した。1954年警 察法を改正し,自治体警察・国家地方警察を廃止して都道府県警察に一本化,警察庁を頂点とする中央集権的な警察制度をつくりあげた。
(3)自衛隊の創設 朝鮮休戦協定の調印(1953年)にともなって東アジアの冷戦構造が固定化すると,アメリカでは経費節減のために駐留する地上軍を撤退させるかわりに,日本の再軍備を実現させて地域防衛を義務づけ,米軍の機能を代替させようとする動きが強まる。1954年アメリカは日本との間でMSA協定を締結し,本格的な再軍備を要求したのだ。
 経済復興を優先させたい第5次吉田内閣は,協定の締結に先立っておこなわれた特使池田勇人とロバートソン国務次官補との会談(池田・ロバートソン会談)で妥協を成立させ,1954年自衛隊を創設した。陸海空の3部隊からなる本格的な軍隊で,内閣総理大臣が最高の指揮監督権を握り,防衛庁が統括,文民統制が確保された。

再軍備の進展
警察予備隊(1950・第3次吉田内閣)←朝鮮戦争の勃発
保安隊(1952・第3次吉田内閣)←日米安保条約の発効
自衛隊(1954・第5次吉田内閣)←MSA協定の締結

(4)教育への国家統制の強化 再軍備が進められるなか,愛国心教育が重視されるようになり,教育への国家統制が強まった。

教育への国家統制
教育二法(1954年・第5次吉田内閣)
 教職員の政治活動禁止・教育の政治的中立を掲げる
 →日本教職員組合(日教組)の活動制限をねらう
新教育委員会法(1956年・鳩山一郎内閣)
 教育委員を公選制から首長による任命制に変更

10 五五年体制の成立

 1954年自由党の第5次吉田内閣が造船疑獄事件によって総辞職すると,日本民主党総裁鳩山一郎が内閣を組織した(鳩山一郎内閣)。鳩山内閣 は憲法改正・再軍備の実現を掲げ,1955年総選挙では与党民主党が第1党となった。しかし,総評を基盤として左派社会党が躍進し,憲法擁護をかかげる勢力が国会でw以上の議席を確保して憲法改正の発議を阻止した。さらに,保守政党の分立のなか,左右両派社会党による統一政権実現の可能性もでてきたため,同年社会党の再統一が実現した。それに対して,社会党政権の出現を防ぐ目的で保守合同が促進され,民主・自由両党の合同により自由民主党(略称は自民党)が成立した。
 こうして形成された自民党・社会党の2大政党制を五五年体制とよぶが,両党の議席数はほぼ2:1で推移し,自民党が単独政権を継続した。

五五年体制
自由民主党(自由党+日本民主党)…憲法改正・再軍備を掲げる
    →宮沢喜一内閣まで政権を掌握(〜1993年)
 ↓↑
日本社会党(左右両派の統一)…憲法擁護・非武装中立を掲げる
    →村山富市内閣のときに日米安保・自衛隊容認へ転換(1995年)


外交史 五五年体制が成立した頃は,米ソを中心とする2大陣営の平和共存への気運が高まっており,またアジア・アフリカの新興独立国が緊張緩和を要求しはじめた時代だった。そうしたなか,鳩山内閣や続く石橋内閣は,アメリカから自立した自主外交を展開しようとしていた。

11 国際連合加盟の実現

(1)緊張緩和・平和共存への期待 1953年スターリンが死去すると,ソ連は平和共存路線へと転換し,同年7月朝鮮休戦協定が実現した。さらに,ヴェトナム・フランス間のインドシナ戦争も,1954年ジュネーブ協定により休戦した(ヴェトナムの南北分断は継続)。また,1955年には英米仏ソのジュネーブ四巨頭会談が開催された。米英ソの首脳が一堂に会するのは45年のポツダム会談以来10年ぶりのことで,緊張緩和(雪どけと称された)への期待が高まった。
 さらに,1954年周恩来中国首相とネールインド首相の間で平和五原則(領土主権の相互尊重・相互不可侵・相互内政不干渉・平等互恵・平和共存)の合意が成立したことは,平和地域を拡大して東西間の緊張を積極的に緩和し,そのもとで経済発展を確保しようとする第三勢力(A・A勢力)を台頭させるきっかけとなった。翌55年インドネシアのバンドンでアジア・アフリカ会議が開催され(日本を含む29カ国が参加),植民地主義反対・民族独立の保障・軍縮と核兵器の絶滅への協力などが謳われた。
(2)国際連合への加盟 雪どけの気運が高まるなか,鳩山内閣はアメリカへの追随から脱して自主外交をめざし,ソ連との関係改善にのりだす。ところが領土問題をめぐって交渉が難航した。その結果,1956年 月鳩山首相みずからがソ連を訪問し,領土問題を棚上げした形で日ソ共同宣言が締結された。これをうけて,国連安保理事会で日本の加盟に対して拒否権を行使してきたソ連も加盟賛成にまわり,1956年12月国連加盟が実現した。

日ソ共同宣言
戦争状態の終了→日本の国際連合加盟をソ連が承認
全権…鳩山一郎首相(日本)とブルガーニン首相(ソ連)
領土問題…平和条約締結後に色丹島・歯舞諸島の返還

(3)原水爆禁止運動のはじまり 1954年アメリカの水爆実験がマーシャル諸島のビキニ環礁でおこなわれた際に漁船第五福竜丸が被爆したこと(第五福竜丸事件)をきっかけに,原水爆禁止運動が始まった。そして,翌55年世界各国の代表を集めて第1回原水爆禁止世界大会が広島で開催された。


経済史 戦後の日本は「人さまの戦争」でもうけて経済復興を遂げていく。1回目が朝鮮戦争(→特需景気),2回目がスエズ動乱(→神武景気)だ。とはいえ,2度あることは3度あるもの…。

12 経済復興の経済成長への転換

日本経済はドッジラインのもとで恐慌に陥ったが,朝鮮戦争勃発にともなって国連軍からの軍需(特需)が急増したため,金属・繊維産業を中心として活況を取り戻し(特需景気),1951年には工業生産額が戦前の最高水準を回復した。
 さらに,MSA協定にもとづくアメリカからの援助やスエズ動乱(スエズ運河の国有化を宣言したエジプトとイギリス・フランス・イスラエルとの戦争・1956年)にともない,1950年代半ばには好景気が持続して神武景気と称された。そうしたなか,1956年度版『経済白書』は「もはや戦後ではない」と記した。これは,“戦後の廃墟からの復興は終わった,これからは技術革新により新たな経済発展をめざさなければならない”との宣言だった。そして,鉄鋼・電力・造船などの産業部門では大がかりな合理化が進められ,アメリカの先進技術が導入されていった。


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