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年度 2010年

設問番号 第1問


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【解答例】
1近世初頭には各地に城下町が建設され,兵農分離策のもと,武士が移住を強制されて消費生活をおくり,さらに商工業者の集住も進んでいた。こうして拡大した都市での需要に対応するため,農村では商品作物の栽培が一定程度行われていた。
2桑・漆・楮・茶。
3商品・貨幣経済の進展は都市での消費生活を活発にし,それにともない,米価の低迷・諸物価の上昇という物価傾向を生じさせた。幕藩領主は米納年貢を経済基盤としていたため,年貢米換金による貨幣収入が減少する一方で消費支出が増加し,財政難に陥った。
4ア田沼意次。イ水野忠邦。田沼は,商品・貨幣経済の成果を幕府財源に取り込むため,商工業者による株仲間を積極的に公認し,営業税として運上・冥加を徴収した。水野は,倹約令を発して商品・貨幣経済を抑制するとともに,物価騰貴が株仲間の流通独占によるものと誤って判断してその解散を命じ,物価の引下げをはかったものの失敗した。
(総計395字)


【解法の手がかり】

問1
問われているのは,時期:近世初頭,テーマ:農村においてどのようなかたちで商品・貨幣経済が浸透していたのか。リード文の「近世は,当初から一定の商品・貨幣経済の展開を前提として出発した」という表現を手かがりに考えたい。
近世は豊臣政権のもとで基礎が整った。具体的には,太閤検地により石高制と村の把握が全国的に実現したこと,兵農分離(兵農商分離)が進められたこと。そのもとで近世初期には,武士の城下町(都市)集住が進み,武士は農民が納める米納年貢を経済基盤とし,都市で消費生活をおくるようになる。ここで考えるべきは,武士たちの消費物資はどうやって調達されたのか。あるいは,武士たちの需要に応えて商品さらにはその素材・原料を供給するのは誰か。
このように考えてくれば,兵農分離のもと,都市で消費生活をおくる武士たちの需要に対応し,農村では商品作物の栽培が一定程度行われていたと考えることができる。
なお,近世初頭というにはやや後になるが,徳川3代将軍家光の時期を考え,慶安の触書に代わって教科書に掲載されるようになった「1642(寛永19)年の農村法令」(山川『詳説日本史』)を思い浮かべてもよい。そこには「男女衣類の事,これ以前より御法度の如く,庄屋は絹紬・布・木綿を着すべし。わき百姓は布・もめんたるべし。右のほかは,えり・帯などにも仕るまじき事」とある。

問2
「四木」とは,桑・漆・楮・茶。

問3
問われているのは,「こうした」商品・貨幣経済の進展が領主財政に与えた影響,そのような影響が生じた理由。
「こうした」の指示対象は,全国の農村で広く商品作物の栽培や農村工業・商業の発展がみられ,多様な生業がさかんに営まれたことである。そして,時期は「18世紀以降」。この対象時期を意識しながら考えていこう。
第一に,そうした商品作物の栽培や農村工業の発展が都市での消費に応えたものであることを意識すれば,商品・貨幣経済の進展にともなって都市での消費生活が発達したことを指摘できる。第二に,農村の生活水準が総体的に向上し,地域市場が成長したこと,第三に,その一方で,農村での階層分化が促進されたことが指摘できる。
これらの事態のうち,幕藩領主の財政に直接影響を与えるのは一点目である。そこで,都市での消費生活の発達が領主財政に与えた影響を考えていけばよい。
都市での消費生活の発達は,主食の米ではなく,それ以外の需要を拡大するため,米価の低迷・諸物価の上昇(米価下直・諸色高直)という物価動向をもたらす。ところが,こうした物価動向は,幕藩領主にとっては年貢米換金による貨幣収入の減少につながり,一方,消費支出の拡大につながる。つまり,財政難を招いてしまうのである。

問4
問われているのは,まずア,イに入る人名。
ア田沼意次。イ水野忠邦。
もう一つ問われているのが,ア,イが実施した政策をそれぞれ一つあげ,その内容を説明すること。その際,下線部(4)の「商品・貨幣経済の進展に対応する政策」についての説明が求められている点に留意しよう。
田沼意次について。商品・貨幣経済の進展を幕府財政の新たな財源に組み込むため,株仲間を積極的に公認して流通統制をはかるとともに,営業税として運上・冥加を徴収した。
水野忠邦について。商品・貨幣経済の進展にともない,各地で在郷商人が台頭し,北前船や内海船といった新興の廻船業者が成長した結果,株仲間の流通に対する統制力が低下したことを背景として江戸での物価騰貴が生じたのに対して,株仲間が流通を独占し,物価を意図的に引上げていると誤って判断し,株仲間の解散を命じて自由交易を保障することで物価の引下げをはかり,失敗した。