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年度 2011年

設問番号 第1問


次の文章を読んで下記の問いに答えなさい。(問1から問5まですべてで400字以内)

 古代から現代までのわが国の制定法は,大づかみに,人々が自分たちの社会を協同して管理することを理念とする法(自己統治型法)と,支配者が被支配者に対して命令することを理念とする法(命令型法)との,二類型が存在した。
 律令(飛鳥浄御原令・大宝律令・養老律令など)は命令型法の典型である。すなわち,それは,被支配者一般に対する天皇の命令にほかならなかった。(1)それまで人々を規律していた原始時代以来の法は,主として,伝統的呪術的な性質の不文法であり,そこでの天皇(大王)の役割は,基本的に,裁判における単なる判定者にとどまっていたが,(2)七世紀後期の国際情勢によって,わが国は,専制君主(皇帝)を朝廷に戴く発達した官僚制国家を確立していた中国から合理的な制定法の大系(唐の律令)を導入し,命令と服従の関係を確立することを通じて,強力な王権と国家を建設する必要にせまられたのであった。しかし,中国生まれの制定法とわが国の伝統法とのギャップは甚だしく,律令体制はなし崩し的に変容して,九世紀以降,律令条文の補足や改正を目的とする[  1  ]という名称の法が制定されていった。とはいえ,これとても,命令型の法であることにかわりはなかった。
 (3)中世の制定法は,自己統治型が基調をなしていた。鎌倉幕府の御成敗式目は,その典型である。これが自己統治型の法であることは,法の末尾に記された[  2  ]によって知られる。これは,執権・連署・評定衆などの鎌倉幕府有力者たちが自分たちの制定した法を遵守することを神仏に誓うために作成した文書にほかならない。中世後期に盛んに作成された国人たちの一揆契約状はもとより,戦国大名相良氏(肥後国)や六角氏(近江国)の分国法も,家臣団による起草という事実が示すようように,家臣たる国人領主たちの自己統治の法というべきものであった。自己統治の法の制定の動きは,やがて庶民にも広まり,数多くの惣掟(村掟)が生まれた。
 近世幕藩体制時代に入って,武家の法は,一転して命令型となった。江戸幕府が諸大名を統制するために制定した[  3  ]がその典型である。各大名が制定した家法(藩法)も,大名が家臣団を統制するための命令型法に変容した。その一方で,近世の庶民たちは,村法などの自己統治型の法を作り続けていったが,(4)近代初頭の自由民権運動の中から生れた,民選議院を中心に国家権力を編成しようとする数多くの私擬憲法は,その発展形態と位置づけることができる。しかし,わが国の近代国家は自由民権運動を押し潰し,民権とは正反対の[  4  ]を中心に据えた,欽定憲法としての大日本帝国憲法を最高法規とする法体制を構築することになった。
 アジア・太平洋戦争の敗北により大日本帝国憲法体制は瓦解し,かわって,日本国憲法が制定された。日本国憲法は,大日本帝国憲法の改正という形式で制定されたが,[  5  ]を高らかに宣言した内容に着目するならば,自己統治を理念とする法にほかならない。この意味において,日本国憲法は,自由民権運動の私擬憲法,さらには,中世の諸法にまで遡りうるこの国の伝統に深く根ざしている,ということができる。

問1 1から5の空欄に入れるべき適切な語句は何か(解答語句の前に番号を付すこと)。
問2 下線部(1)に記された原始時代の法状態を端的に示す呪術的性質の裁判の名称につき,漢字とヨミの両方を記し,その概要を述べなさい。
問3 下線部(2)に関し,わが国を律令国家の建設に導いた「七世紀後期の国際情勢」について,軍事を中心に説明しなさい。
問4 下線部(3)に関し,御成敗式目が自己統治型の制定法となりえた社会経済的,政治的条件について,説明しなさい。
問5 下線部(4)の「私擬憲法」は,わが国の自己統治型の法の伝統をひく一方で,西欧の法思想の影響を受けていた。その一つは,問題文に記されている民選議院論であるが,その他にも今ひとつ,きわめて重要な法思想が存在した。その名称を記し,その思想内容と,それが今日の法に与えている影響について,説明しなさい。


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