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年度 2022年

設問番号 第2問


 次の史料は,大山捨松の死去を報じる『東京朝日新聞』1919年2月19・20日の記事である(一部を省略のうえ,表記を改めている)。これを読んで下記の問いに答えなさい。(問1から問4まですべてで400字以内)

大山公爵未亡人捨松刀自は本月六日軽微なる感冒に罹り咽喉部に微痛を感じたるにより,千駄ケ谷隠田の本邸にて静養に努めたるが〔中略〕十六日に至りて肺炎に変症し,爾来刻々険悪となりて昨十八日〔中略〕午後二時半よりは応答も不明となり,同四時二十分令嗣柏氏同武子夫人其の他近親に守られつつ遂に逝去せり。享年六十。
(大山捨松刀自 ⒝流行感冒にて逝去」)
刀自は〔中略〕⒞明治四年〔中略〕黒田清隆が政策上婦人要請の必要を感じて,婦人留学生といふ一新例を開いたとき,刀自は瓜生海軍大将夫人しげ子刀自,津田梅子女史等と共に選ばれて渡来し,紐育州ボツケブレー女学校に入つて女子教育上の諸科を修め,明治十五年に帰朝して大いに婦人界先覚者の名を肆〔ほしいまま〕にした〔後略〕
(婦人界の先覚者 明治初年選ばれて 津田女史等と共に渡米」)
大山さんはお若い時代に米国の教育を受けられた為めでもありませうか,大変温順な,そして大変美しい御性格の方であつた。我国婦人に特有な陰険とか陰日向の心は微塵も御座いません。常に無邪気な御快活な方でした。ですから又旧式の御婦人方とも巧に調和がお出来になり,いつでも⒟西洋の御婦人方と日本の御婦人方との中に立つて其の仲介の労をとつて居られました
(「快活で温順な婦人 熱心な読書家 山脇房子女史談」)
※刀自…女性に用いる敬称 ※紐育…ニューヨーク

問1 下線部⒜に関して,捨松の夫である「大山公爵」の氏名を書きなさい。

問2 下線部⒝に関して,捨松が罹患したこの「流行感冒」は,「スペイン風邪」などと呼ばれたインフルエンザで,1918年から世界規模で流行した。この流行の背景には,当時のどのような世界情勢が関わっていたと考えられるか,簡潔に説明しなさい。

問3 下線部⒞に関して,捨松が同行した使節の名称を書きなさい。また,留学生のひとりだった津田梅子が,帰国後に力を注いだ事業について,説明しなさい。

問4 下線部⒟に関して,捨松らによる仲介は,1880年代,どのような歴史的背景のもとで,どのような目的をもっておこなわれたか,説明しなさい。


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