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年度 1992年

設問番号 第2問


下記の問いに答えよ。(400字以内)

 (1)井伊掃部頭はこの前殺されて,今度は老中の安藤対馬守が浪人に疵を付けられた。その乱暴者の一人が長州藩の屋敷に駆け込んだとか何とかという話を聞いて,なるほど長州藩も矢張り攘夷の仲間に這入っているのかとこう思ったことがある。
 (略)それから攘夷論というものは次第々々に増長して,徳川将軍家茂公の上洛となり,続いて御親発として長州征伐に出掛けるというようなことになって,全く攘夷一偏の世の中となった。
 (略)(2)文久三年癸亥の歳は一番喧しい歳で,日本では攘夷をすると言い,また英の軍艦は生麦一件について大層な償金を申し出して幕府に迫るという,外交の難局というたらば,恐ろしい怖いことであった。(略)兎に角に癸亥の前後というものは,世の中はただ武張るばかり。(略)四面八方ドッチを見ても(3)洋学者などの頭を擡げる時代でない

問1.下線部(1)について,この二つの事件名をあげ,幕府と朝廷の関係がどう変化していったかを具体的に説明せよ。
問2.下線部(2)について,福沢は「文久三年発亥の歳は一番喧しい歳」であったと記しているが,このように攘夷が激しくなったのは,何故か。その社会的・経済的背景について具体的に説明せよ。
問3.下線部(3)について,開港後,洋学を摂取するため,幕府はどのような組織をつくったか。また,その組織に関係した代表的な洋学者二人の名をあげ,明治初年の活動と関連させて,その学問・思想の特徴をのべよ。
問4.全体として,幕末における尊王攘夷運動は,明治維新にとって,どのような意義を持ったか説明せよ。


【解答例】
1幕閣独裁を進めた大老井伊直弼が桜田門外の変で暗殺されると,幕府と朝廷の和解をはかって幕府権威を立て直そうとする動きが強まったが,老中安藤信正が坂下門外の変で襲撃をうけて失脚し,朝廷の幕府に対する発言力が拡大した。
2安政の五ヵ国条約に基づいて貿易が開始されると,輸出が拡大して国内で物資不足が生じ,在郷商人の台頭により流通機構が混乱したため,物価騰貴を招いた。それに加え,大量の金流出に対し,幕府が著しく軽量化した万延金を発行して対処したため,物価騰貴に拍車がかかった。そのため,下級武士や庶民の生活が圧迫され,外国貿易に対する反感が高まって攘夷運動が激化した。
3開成所。西周,津田真道。西欧の国際法や政治理論を紹介し,明治初年には明六社の同人として啓蒙活動を行った。
4天皇を新たな政治中枢へと押し上げるとともに,身分や幕府・藩の割拠性を超えた国家意識の形成を促進し,集権国家樹立の基礎となった。
(総計398字)