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年度 2021年

設問番号 第1問

テーマ 9世紀後半の国政運営の特徴/古代


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問われているのは,9世紀後半に皇位継承をめぐるクーデターや争いはみられなくなり,安定した体制になった背景にあった変化。

まず,資料文を参考にして9世紀後半の「安定した体制」を定義づけておきたい。
その際,念頭におきたいのは,設問文で「9世紀後半になると…(中略)…皇位継承をめぐるクーデターや争いはみられなくなり」と書かれている点である。ここから「安定した体制」とは,皇位が安定して継承される体制を指すことがわかる。では,具体的にはどのような事態なのか。注目したいのは資料文⑴である。

資料文⑴
仁明天皇の長男道康親王(文徳天皇)が皇太子に立つ
→以後皇位は,直系で継承されていく …⒜
資料文⑶
文徳天皇…851年には天皇に在位している
資料文⑷
清和天皇…858年に即位 → 876年に陽成天皇に譲位

資料文では文徳天皇,清和天皇,陽成天皇の続柄が明示されていないが,⒜の記述を前提とすれば,文徳天皇→清和天皇→陽成天皇という皇位継承が直系によるものだと判断できる。そして資料文⑶・⑷によれば,これらの天皇はすべて9世紀後半に即位しているので,「安定した体制」とは皇位が仁明天皇の直系で継承される状態を指していると理解することができる。
ただし,884年に陽成天皇が廃位された後は,同じ仁明天皇系とはいえ,別系統の光孝天皇が即位する。したがって,9世紀後半の「安定した体制」を「直系による皇位継承」と規定するのは厳密には適切ではない。しかし,ここでは資料文で示された情報の枠内で考察を進めていきたい。

設問では,こうした「安定した体制」になった背景にある変化が問われている。そこで,まずは9世紀前半と後半とで何が異なるのかを確認したい。

資料文⑵
嵯峨・淳和天皇…学者など有能な文人官僚を公卿に取り立てる

嵯峨・淳和天皇がそれぞれ個人の判断で公卿を人選している様子がわかる。
ここで想起したいのが嵯峨天皇による政治改革である。嵯峨天皇は,平城太上天皇の変に際して蔵人頭を設けて太政官組織との連携を密にし,変後には検非違使を置いて京内の治安維持にあたらせたように,天皇直属の令外官を創設することを通じて天皇権力の強化をはかった。
嵯峨・淳和天皇は,このように天皇権力が強化されるなか,みずからの個人的な判断により公卿の構成を整えていた,と整理できる。

こうした9世紀前半と対比的なのが資料文⑶・⑷で示されている事態である。

資料文⑶ 文徳天皇…紫宸殿に出御して政治をみることがなかった …⒝ 資料文⑷ 清和天皇…9歳で即位 → 藤原良房が実質的に摂政 …⒞ 陽成天皇…藤原基経が摂政に任じられる       …⒟

陽成天皇は,即位にあたって摂政が任じられていることを考えれば,⒞を前提とすれば,陽成天皇も即位時,幼少であったと推察できる。⒝のように文徳天皇が政治をみることがなかった理由は不明だが,⒝・⒞・⒟の事例から天皇に関する共通点を抜き出せば,9世紀後半には天皇個人の政治的判断が求められる機会がなくなった,あるいは少なくなり,天皇が実質的に不在ななかで国政が運営されていたと判断できる。

ところで,天皇が実質的に不在で,天皇個人が判断を下さずとも国政が運営できるようになったのはなぜか。

資料文⑶
文徳天皇が政治をみることがなかった事情=出題者の仮説
 官僚機構の整備が進む=天皇がその場に臨まなくても支障のない体制となる…⒠
有力氏族が子弟のための教育施設を設ける    …⒡
〔具体例〕藤原氏の勧学院,在原氏や源氏の奨学院
資料文⑸法典の編纂
清和天皇…『貞観格』『貞観式』,唐にならった儀礼書である『儀式』 …⒢

⒠で示された出題者の仮説に従えば,官僚機構の整備が進んだため,天皇個人の政務能力・判断が直接求められなくなったと推論できる。
では,官僚機構の整備とは具体的にどのようなものか。それを示すのが⒡の大学別曹の設立,⒢の法典編纂である。9世紀前半から文章経国思想のもとで貴族・官人に儒教的学識だけでなく漢詩文の教養が求められ,官吏養成機関である大学が隆盛するとともに,さまざまな職務や儀礼を社会の実情にあった形で定型化し,貴族・官人が職務や儀礼を行う際の便宜に供するため,法典の編纂が進められていた。⒡や⒢は,そうした動きを受け継ぎ,9世紀後半には官僚制の整備・充実が進んでいた様子を示している。一方で,藤原氏や源氏などは官僚制に合致する形で一族のあり方を再編し,また,朝廷のさまざまな儀礼が天皇を中心とするものであることを念頭におけば,天皇を含めて貴族社会のあり方が唐にならって制度化・定型化されていったことも意識しておきたい。

次に,公卿の構成に注目したい。

資料文⑵
9世紀前半
◦嵯峨・淳和天皇…学者など有能な文人官僚を公卿に取り立てる
9世紀後半=承和の変以後
◦文人官僚が勢力を失う
◦太政官の中枢(公卿)を嵯峨源氏と藤原北家が占める

9世紀前半に天皇権力が強化されて以降,天皇と個人的に結びつく少数の皇族・貴族が権勢をふるう傾向が強くなっていた。こうした少数の皇族・貴族は,具体的には次のようなタイプに分けることができる。
①天皇の父方の親族(父方のミウチ)
②天皇と姻戚関係をもつ貴族(母方や妻方のミウチ)
③儒学的学識や漢詩文の教養,政務能力などに優れた能吏(良吏)

文人官僚が③のタイプであることは言うまでもない。嵯峨源氏は嵯峨天皇の皇子で源の姓を賜わって貴族となった人々(賜姓皇族)で,資料文では嵯峨天皇と仁明天皇との血縁関係は書かれていないものの嵯峨源氏が①のタイプであることは推論でき,そこから仁明天皇以下の皇位は嵯峨系皇統による直系継承であるとも判断できる。そして藤原北家は,藤原良房が清和天皇の外祖父であったこと(資料文⑷)を念頭におけば,②のタイプであることがわかる。
つまり,天皇と個人的な結びつきをもった皇族・貴族のうち,承和の変以後,③のタイプが公卿から排除され,①・②のタイプつまり嵯峨系皇統のミウチ(血縁や姻戚などの親族)が国政を主導するようになった。

9世紀後半には,先に⒞・⒟で確認したように,幼帝が即位し,摂政が出現した。
最初の摂政である藤原良房は,資料文⑷によれば,清和天皇の外祖父(より一般化すれば外戚)であり,太政大臣という天皇の師範となる人物が任じられる太政官の最高官職に任じられていた。そして,858年に清和天皇が即位した時点では,良房は「実質的に摂政となったと考えられる」だけのことである。つまり,天皇の外戚であり,太政大臣に就任するのにふさわしい人物が登場したことが幼帝が出現した背景の一つだったと言える。そして,陽成天皇の即位に際して藤原基経が摂政に任じられたのも同様だと推論できる。
以上を整理すれば,藤原北家が清和・陽成天皇の外戚の地位を確保したことにより,摂政の出現をセットとする幼帝の即位が可能となり,天皇個人の年齢や資質・能力にかかわらず国政運営を安定させるしくみが整ったのであり,それをサポートしたのが嵯峨系皇統のミウチのもう一つである嵯峨源氏,そして整備・充実の進んだ官僚機構だったと言える。


(解答例)
9世紀前半は天皇権力の強化が進み,天皇個人の判断が国政で重視された。ところが,官僚養成機構の充実や法典の編纂を背景として官僚制が整備される一方,藤原北家が天皇の外戚の地位を独占して嵯峨天皇の直系で皇位が継承され,そのミウチが公卿を占めるなか,天皇の年齢や資質・能力に依存しない国政運営が可能となった。(150字)