年度 2016年

設問番号 第2問


15世紀から16世紀にかけて,京都郊外の桂川流域には,東寺領上久世〔かみくぜ〕荘をはじめ,領主を異にする小規模な荘園が多く分布し,それぞれがひとつの惣村としてまとまりをもっていた。この地域に関連する次の⑴~⑸の文章を読んで,下記の設問に答えなさい。

⑴ 15世紀,桂川両岸には多くの灌漑用水の取入れ口があったが,主要な用水路は,十一カ郷用水,五カ荘用水などと呼ばれており,各荘園はそこから荘内に水を引き入れていた。
⑵ 荘内の用水路が洪水で埋まってしまったとき,上久世荘の百姓らは「近隣ではすでに耕作を始めようとしているのに,当荘ではその準備もできない。用水路修復の費用を援助してほしい」と,東寺に要求することがあった。
⑶ 旱魃〔かんばつ〕に見舞われた1494年,五カ荘用水を利用する上久世荘など5つの荘園(五カ荘)の沙汰人らは,桂川の用水取入れ口の位置をめぐって,石清水八幡宮領西荘と争い,室町幕府に裁定を求めた。
⑷ 幕府が西荘の主張を認める判決を下したため,西荘は近隣惣村に協力を要請して五カ荘の用水取入れ口を破壊しようとしたが,五カ荘側もまた近隣惣村の協力を得てそれを阻止したため,合戦となり,決着はつかなかった。
⑸ 1495年,五カ荘では西荘に対して再び用水裁判を始め,沙汰人らがみずから幕府の法廷で争った結果,五カ荘側にも用水を引くことが認められた。しかし,その後も争いは継続し,最終的には1503年になって,近隣惣村の沙汰人らの仲裁で決着した。

設問
灌漑用水の利用による生産の安定をはかるため,惣村はどのような行動をとったか。近隣惣村との関係に留意しながら,5行以内で述べなさい。


解法のヒント