年度 2023年

設問番号 第2問


次の⑴〜⑷の文章を読んで,下記の設問に答えよ。解答は,解答用紙(ロ)の欄に記入せよ。

⑴ 1433年4月,安芸国の国人小早川家の家督をめぐり,持平〔もちひら〕・凞平〔ひろひら〕兄弟が争った。兄弟の父則平〔のりひら〕は,当初持平を後継者に指名したが,死去の直前あらためて凞平を指名していた。将軍足利義教が有力守護に意見を問うたところ,まず一族・家臣の考えを尋ねるべしという回答が大勢を占めた。

⑵ 1433年11月,義教は,かつて管領を務めた斯波義淳〔よしあつ〕の後継者として,その弟たちのなかで以前から有力な候補と目されていた持有〔もちあり〕をしりぞけ,その兄義郷〔よしさと〕を指名して斯波家の家督を継がせた。

⑶ 畠山家では,惣領持国〔もちくに〕と将軍義教との関係が良くなかったため,1441年,有力家臣たちが義教に願い出て,弟の持永〔もちなが〕を家督に擁立した。しかし同年,義教が嘉吉の変で討たれると,持国は軍勢を率いて持永を京都から追い落とし,家督に復帰した。

⑷ 斯波家では,義郷の跡を継いだ義健〔よしたけ〕が幼少だったため,有力家臣甲斐常治〔じょうじ〕が主導権を握った。義健が早世したあと一族の義敏〔よしとし〕が跡を継いだが,常治と義敏の父持種〔もちたね〕が対立した結果,義敏は家臣たちの支持を失い,1459年,家督をしりぞいた。

設問
1467年に応仁・文明の乱が起きた。乱の発生と拡大には,この時期の武士の家における家督継承決定のあり方の変化がかかわっていたと考えられる。その変化と乱との関係について,5行以内で述べよ。


解法のヒント