[テーマ/目次] 
江戸幕末期から明治期にかけての時代をどう教えるかをめぐる話題をピックアップしました。「日本史】近現代史を教える」と題して1995年に NIFTY-Serve FKYOIKUS(教育実践フォーラム専門館) MES(6) 【社会科】会議室に連載したものですが、連載そのものが第10回で中断したままになっています(^^;。
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( 6)   95/05/04 15:29

ようやく予告を具体化できますが(^^;、
このシリーズで、最低限の情報を覚えてもらいながら、いかに具体的なイメージを
つくりあげるのかを考えてみたいと思っています。

生徒に対しては、素材としては A〜K(この単元の場合は) までの短文があら
かじめ提示されており(それ以外に 年表なり地図なりがテキストに添えられてい
ます)、その空欄を最低限、教科書を見ながらでもよいから、埋めてきてくれるよ
うに指導してあります(私の場合)。

いわば、ある程度 単位化された情報をあらかじめ仕込んでおいてもらい、その単位
化された情報の処理の仕方の、ひとつの事例を授業で提示しようというものです。
(これはあくまでも私の個人的な意図ですが(^^;)

あくまでも大学受験を目的としていますから こういう形式をとりましたが、
情報の単位化とその処理 という形に慣れてくれれば と 思っています。

なお、文字化けしている文字があると思いますが、それは丸付数字です(^^;。
そこまで全部、修正するのは手間なんで、そのままアップしちゃってますが、
ご容赦をm(..)m。
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第1回 開国と貿易開始

ペリー来航を機に鎖国体制下とは異なる国際関係におかれ、それが幕閣の分裂を招
いたこと、さらに安政の五か国条約により西欧的な国際秩序と世界市場とに強制的
に包摂されたこと(これを次の単元の尊王攘夷運動へつなぐ)を確認する。

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A 1853年アメリカ使節ペリーが浦賀に来航し,開国を求めた。つづいてロシア使
 節【@  】が長崎に来航した。翌年ペリーがふたたび来航して開国を強硬に迫
 ったので,ついに幕府は日米和親条約をむすび,【A  】・箱館を開港して薪
 水や食料の提供を約束した。
B イギリス・ロシア・オランダともほぼ同様の条約を結んだ。ロシアとの間で結
 ばれた日露和親条約では,千島列島は【B  】・得撫両島の間に国境を定め,
 樺太は国境を定めず,両国民【C  】の地とした。
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「鎖国」が終わり、「開国」せざるを得なくなった契機を確認する。

ここから近代史を始めるのは、まあ、教科書の一般的な記述にしたがっての話で
す。実際の授業では、いわゆる「列強の接近」から近代史を説き起こしていきます
し、また、18世紀後半以降の身分的階層秩序の動揺とそのなかでの幕府の指導力低
下(その一方での集権化の試み)についても触れる必要があるとは思います(それ
ぞれについては後述)。ここではテキストの都合上、ペリー来航から一気に始めて
います。
ところで、このペリー来航ならびに日米和親条約の締結をもって、一般に「開国」
と呼び慣わしているのですが、いったい何をもって「開国」と呼んでいるのか。山
川の高校教科書などで後期倭寇を中世で説明しておきながら近世を「鉄砲伝来」か
ら始めているのと同じような違和感があります。なにしろ、いわゆる「鎖国」後の
江戸時代においても、江戸幕府支配下の日本が対外関係を保持していた国家がいく
つか存在しているわけなんですから。だいたいは近代の授業はここから(つまり、
この「開国と貿易開始」の単元の前提になる話から)始めています。江戸時代とい
う時代は、国土・国民を一元的に支配しようとする志向性がある程度現実性をもっ
た時代であること、つまり、「国」土と「国」民がある程度明確に成り始めた時代
であること(もちろん、成り始めたというような自然的な過程ではなく、幕府の施
策によって実現されていった過程ですけど)、幕府という中央政府が認める対外関
係以外は国民に対して自由な対外関係・対外渡航を認めなかったことなどの説明か
ら始めるわけです。
では、結局のところ、ペリー来航と日米和親条約の締結のどこが「開国」なのか。
私としてはとりあえず、“(1)西洋諸国と国交関係をあたらしく結ぶにいたったこ
と (2)他国の外交官が日本に常駐する体制が始まったこと”の2点を、それ以前
の対外関係とは異なる点として指摘することにしています。

なお、1853年のペリー来航ですが、もしロシアがアメリカの使節派遣に対抗する形
でプゥチャーチンを派遣していなかったら、1854年のペリーの再来航(品川沖への
軍艦進入)を契機とする和親条約の締結も、少し違った形をとったのではないかと
も思うんですが、どんなもんでしょう?

 なおなお、この時、琉球王国とアメリカ・フランスとの間にも和親条約が締結さ
 れていますが、それについてもできる限り触れます。実態がどうであったにせ
 よ(これについてはいつだったか、つい最近に琉球放送が作成した番組がテレビ
 で放映されていましたね)、近世琉球が独立国家としての体裁を保っていたとい
 うことを確認しておきたいからです。

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C 老中【D  】は幕政改革にのりだし,【E  】を設置して西洋技術の摂取
 につとめるとともに武芸教練の講武所などを設けて国防の充実をはかった(安政
 の改革)。
D アメリカ総領事として【A】に着任したハリスは,中国での【F  】を利用
 して通商条約の締結を迫った。老中【G  】は条約締結の許可を朝廷にもとめ
 たが,成功しなかった。
E 前水戸藩主【H  】や越前藩主松平慶永・薩摩藩主島津斉彬ら,親藩・外様
 の有力大名は,賢明な将軍のもとで雄藩連合によって幕府の再建をはかろうと考
 え,13代将軍家定の後継ぎに一橋家の一橋【I  】を推した。それに対して,
 幕府独裁を維持しようとする譜代大名らは紀伊藩主徳川【J  】を推し,幕府
 は将軍継嗣問題をめぐって分裂した。
F 1858年大老に就任した彦根藩主【K  】は【J】を将軍にむかえるととも
 に(14代将軍家茂),勅許をえないまま日米修好通商条約に調印し,対立する一
 橋派の大名・公家・幕臣らを弾圧した(安政の大獄)。
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開国にともなう幕府運営の再編成の試みとそれへの反発を確認する。

ここにはいる前に、前提として幕藩体制下の支配システムを簡単に確認しておかな
いと、ここでの幕閣の分裂の背景やら、これ以降の幕末の動乱の背景が理解しにく
くなります。

(1) 将軍・大名により、いわば共同で日本列島が支配されていたこと−将軍が日
本全体の支配権を有しており、対外的に日本を代表する存在ではあれ、大名にそれ
ぞれの領知の支配を委任し、かつ、その領知内においては(原則として)自由裁量
を保証していたこと−を確認しておく。つまり、支配が分権的であったことを確認
してもらうわけですが、その際に“税金”の納入先を例として出します。
(2) その一方で、将軍は大名の領知を変更したり、没収したりする権限を有して
いたこと、そして、将軍は大名配下の武士や大名に管理を委ねている領民(百姓な
り商・職人など)の動員権を有していたことなどを確認し、将軍キ下の幕府におい
ては、古くからの将軍直属の家臣たち−要するに譜代大名やら旗本−がその運営に
あたっており、外様大名やら将軍の一族やらはその運営からは原則として排除され
ていたことを確認する。つまり、幕藩体制の集権的な側面をここで確認しておくわ
けです。
(3) そうしたことを確認したうえで、そのような支配・統治を担うのは、武士と
いう特別な身分のものだけであり−くだけた言い方を使えば、政治に参加したり、
政治に対して意見を表明したりできるのは武士だけ(もっともその武士にしても藩
という機構を介してしか政治に参与できていないわけですが)−、それ以外の身分
とされた人々は政治には参加する権限がなく、基本的に支配・統治をうけるだけの
存在であること。百姓は武士のために年貢を差し出したり、さまざまな労働奉仕を
おこなったりするし、また商・職人などの町人は武士の必要な物資を提供したり、
税を取り立てられたりする−武士は基本的に税金を負担する必要はない−。でも、
政治には原則として参加できないし、身分やら職業などを変えることは基本的にで
きなかった。

ところが江戸後期には、そういう支配のシステムがうまく機能しなくなっていたわ
けですが、その要因として指摘できるのは次の2つです。
(a) 天保の改革の失敗による幕府(あるいは幕閣)の指導力の低下
(b) 身分にもとづく階層秩序がくずれ始めていたこと、それに対する不満・スト
レスが大きくなってきていたこと
 これについては、在郷商人の話(最近は内海船の研究とかもある)、御蔭参りや
 物見遊山の話−なんで旅行が流行ったんだろうかというような話から幕藩体制の
 動揺を見ていくというのもひとつの方法だと思います。簡単な素材としては「信
 仰から娯楽へ」『授業に役立つ日本史100話 上』(あゆみ出版)、「富士山は
 なぜ信仰されたか」『日本の歴史を解く100話』(文英堂)。滑稽本を素材にす
 るという手もあります(旅行じゃないけど『浮世風呂』を素材に使った論述問題
 を東大が1986年度第3問で出題しています)。

ここではまず、(a) に関連する部分を確認していくわけですが、
ペリー来航時についていえば、天保の改革の失敗後、西洋の軍事技術の摂取につと
めながら、軍事力の育成(海防掛といういわば対外問題担当の役職が新設されたり
している)が図られながらも、指導力の低下ゆえに、積極的な対外政策がとれない
ままに−オランダ国王の開国勧告の際にそれに応える形での自発的な「開国」も可
能であったと私は思う−、当時における世界最大規模の艦隊を迎えるにいたったわ
けで、その圧迫があって始めて「開国」となり、さらにその新たな事態への対処と
して幕府運営の再編成=安政の改革が否応なく進んでいったわけです。
つまり、安政の改革は、譜代大名・旗本の幕閣のみによる幕府運営を打破し、それ
まで幕府運営−要するに国家レベルでの政治運営−に参加する権限のなかった他大
名が幕府運営に参画するシステムを確立させ、それを通じて挙国一致の態勢をつく
りだしていこうとする動向の出発点だったと言えます。
もう少し具体的にいえば、朝廷にペリー来航と国書受理について報告を行って、“
幕府が朝廷から大政を委任されている”という形式を再確認させ−もっともその形
式自体、新しいものであって、江戸時代初期からあるものではないですが−、諸大
名に意見を具申させ、さらに徳川斉昭を幕政に参与させ、そうして幕府を中核する
形での公議政体−各藩の代表者が国政に参画するという形態−を摸索し始めたわけ
です(そういう形を実現させることによって挙国一致の態勢をめざしたと言えま
す)。そのような阿部正弘の動きに対応して、島津・越前松平などの有力大名は、
御三家のひとつ水戸藩というルートを媒介としながら、幕政への発言権の確保を摸
索する姿勢を見せはじめるわけで、それがのちの将軍継嗣問題に際しての一橋派に
つながっていくと言えます。
他方、この安政の改革においては、軍事力強化をめざして軍制改革が行われます
が、その前提的な政策として、西洋技術の導入をはかるための機関の充実−洋学
所(のちの蕃書調所・開成所)の設置と西周・津田真道らの登用・オランダへの留
学−と大船建造の解禁が行われますが、これに関連させつつ、佐久間象山なり橋本
左内らの“東洋道徳・西洋芸術、和魂洋才”の発想を指摘しておきます。明治政府
のもとで本格化していく“近代化”政策の出発点は幕府側の人々によって担われて
いたことを確認しておきたいですし、幕府=保守・反動、明治政府=進歩・開明、
というイメージも払拭したいです(授業では、ソ連とロシアの例を出すことが多い
です)。

さて、そういう安政の改革に始まる雄藩連合による公議政体実現の方向性が表面化
してくることに対して、当然のことですが、譜代大名のなかに反発がでてくるわけ
で、その両派の対立が13代将軍家定の継嗣問題という形で現れてくるわけです。
と同時に、その将軍継嗣問題で幕閣が揺れ動いている時期は、アメリカ総領事ハリ
スが着任し、通商条約を要求するハリスとの交渉が本格化している時期でもあるわ
けです。交渉を担当する老中堀田正睦や岩瀬忠震・井上清直などは通商条約の締結
による開国には積極的であり、ペリー来航時にくらべて諸大名のなかでも開国派の
数が増え、積極的に攘夷を主張するものの数は減ってきています。とはいえ、水戸
の徳川斉昭を中心とする攘夷論者の存在は無視できるものではなく、それゆえに、
条約調印の勅許を獲得しようとする方策が具体化するわけです。とはいえ、この方
策自体が、ペリー来航に際しての老中阿部正弘の方策とはすでに異質のものであっ
たこと、この方策をとったことによって京都の朝廷が国政のもう一つの中軸として
浮上する直接のきっかけとなったことをここでは確認していきます。
結局のところ、当時の京都は、条約勅許の実現をめざす勢力とそれを阻止しようと
する攘夷派、将軍継嗣問題でみずからを優位におこうと朝廷工作−といっても金の
ばらまきだな(^^;−を進める一橋・南紀の両派が、入り乱れる形の泥仕合が繰り広
げられたわけですが、これが、攘夷派の下級武士たちが藩という枠を逸脱しなが
ら、自分達の政治的な発言を行なう回路を獲得していく過程だったんでしょうね−
政治から疎外された存在が政治的発言を行なう回路としての尊王論というわけでし
ょうか−。
この泥仕合の結果がどうなったかはご存知の通りで、孝明天皇は条約調印を拒否、
将軍継嗣問題は井伊直弼が大老に就任することにって南紀派の勝利で決着、そし
て、ハリスがアロー戦争をつかって条約調印をせまるなかで、岩瀬らによって日米
修好通商条約が調印されるにいたったわけです(もっとも井伊大老が条約の調印に
対して正確な意味でゴーサインを出したわけではないようですね)。

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G 日米修好通商条約のあと,ロシア・イギリス・オランダ・【L  】とも同様
 の条約を締結した(安政の五か国条約)。日本も西洋的な国際関係のなかに包摂
 されたのである。
H 条約では,【M  】・長崎・新潟・兵庫の開港と江戸・大坂の開市を定め,
 開港場に居留地を設けて,そこで自由貿易を行うこととされていた。
I これら条約は,列国に対して領事裁判権を認め,また貿易章程で関税を協定し
 て日本には【N  】権を認めない不平等条約であった。
J 貿易は1859年に開始された。なかでも【O横浜 長崎 箱館】が中心的な貿易
 港となり,【Pアメリカ イギリス】が主要な貿易相手国であった。輸出品の第
 一位は【Q  】で,茶・蚕卵紙が続き,輸入品では毛織物・綿織物が大半を占
 めた。
K 日本では金銀比価が1対【R5 15】であったのに対して,国際相場は1対【
 S5 15】と銀安であったため,大量の金貨が海外に流出した。幕府は金貨の品
 位を下げて流出を防いだが,かえって【チインフレ デフレ】に拍車がかかった。
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うーむ、ここまでを2時間でおわらせることはまぁ無理ですが(^^;、この単元の最
後で安政の五か国条約の内容とそれにともなう「貿易の開始」を確認する。

明治以降との関連でいえば、不平等条約であったことを確認することが主になって
きそうですが、ここでは当時の政治動向との関連を優先させ、貿易の方に力点を置
きます。
まずは、安政の五か国条約にもとづく、1859年の横浜・箱館・長崎の開港が「幕府
の統制しない自由貿易の開始」であったことを確認します。単なる「貿易開始」で
はないわけです。なにしろ、貿易なら「鎖国」下の江戸時代でも行なわれていたわ
けですし、それが既成の流通機構の混乱をもたらしたわけですから、そこのところ
の違いはきちんとおさえておきたいです。
あとは、輸出がさかんに行なわれ、生糸などを中心に国内で消費物資が不足したこ
と、金銀比価の違いから金貨が流出し、それに対して幕府が万延小判の鋳造で対処
したことなどから、物価の騰貴が進んだことを確認する。
そうして、公議を尊重して挙国一致の態勢をつくりはじめようとしていた矢先の井
伊大老による専断−条約調印の強行と反対派に対する弾圧−が尊王攘夷派の反幕閣
の動きをよりいっそう高揚させ、さらに、貿易開始にともなう物価騰貴とそれによ
る下級武士・庶民の生活不安が攘夷の気運の高まりを助長したこと(つまり、先に
指摘した (b) の部分が、貿易開始を契機に大きな社会的広がりと政治性をもちは
じめ、尊王攘夷運動に集約されていくこと)を確認して、次の単元につないでいき
ます。
[補足のコメントを読む]
00087/00088 GED01324  つかはら         日本史】近現代史を教える(2)
( 6)   95/05/10 21:01  00070へのコメント

文字化けしている文字があると思いますが、それは丸付数字です(^^;。
そこまで全部、修正するのは手間なんで、そのままアップしちゃってますが、
ご容赦をm(..)m。
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第2回 幕末の動乱の開始

尊王攘夷運動の反幕閣から反幕府への転換とその敗北をひとつの軸とし、幕閣独裁
路線の後退とそれにともなう公武合体運動・公議政体論の具体化を対抗軸として政
治動向を確認する。

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A 貿易開始による経済混乱や物価騰貴は下級武士・庶民のあいだに排他的な【@
    】思想を呼び起こした。これに朱子学の尊王斥覇の思想や伝統的な神国思
 想,さらに幕府の施策への反発も加わって尊王【@】運動が激しくなった。
B 大老井伊直弼は幕府独裁の強化をはかったが(安政の大獄),かえって強い反
 発を招き,井伊は1860年【A  】門外の変で暗殺された。
C 老中【B  】は公武合体策をすすめて【C  】天皇の妹和宮を将軍家茂の
 夫人に迎え,幕府の権威を回復しようとした。しかし尊攘派の批判をあび,坂下
 門外の変で失脚した。
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貿易開始と安政の大獄とを契機に反幕閣の動きとしての尊王攘夷運動が激化したこ
とを確認する。

まず、条約の調印が強行され、貿易が始まったころの政治動向を確認します。孝明
天皇の承認が得られないままに日米修好通商条約の調印を強行したのが大老井伊直
弼だが(実際のところは大老井伊にはそれほどの強硬な意思はなかったようで、交
渉の当事者に判断をゆだねてしまっていたようです。もっともそれも、あらかじめ
責任回避を考慮にいれてのことだったのかもしれませんが)、彼がやったことは基
本的には、譜代大名らの幕閣による幕政=国政の独裁という路線を強硬な形で復活
させようとしたことだという点をまず確認し、そのうえで、その大老井伊による幕
閣独裁の復活が安政の大獄とよばれる、強権的な政治、反対派(具体的には一橋派
と尊王攘夷派)への弾圧という形をとったことを確認する。かつ、その大老井伊の
政策は、孝明天皇の攘夷の意思を無視・抑圧する政策であったがゆえ、貿易開始に
ともなう攘夷意識の高まり(社会的広がり)が尊王論を媒介としながら下級武士や
豪農などを主体とする尊王攘夷運動という形で社会的な広がりをもつにいたるとと
もに、幕府の指導者への反発という政治性を帯びるようになったこと-具体的には
大老井伊の暗殺事件、桜田門外の変-を確認する。そして、大老井伊の暗殺という
事態に直面して、完全に失墜してしまった幕府の権威・指導力を回復すべく、老中
安藤信正によって将軍家茂と和宮の政略結婚(公武合体策)が推進されるものの、
これまた坂下門外の変を招き、幕閣の指導力の低下をさらに露呈させてしまう結果
となったことを確認する。

つまり、ここの部分では、幕閣による幕府権威の回復の試みがことごとく挫折し
て、幕府の権威の失墜と、幕閣の指導力の決定的な低下をまねいたことを確認する
とともに、その一方で、孝明天皇の意思を媒介としつつ、幕府指導者に異議申し立
てを行なう政治運動としての尊王攘夷運動がさかんになり、天皇・朝廷のはたす政
治的役割が拡大し、朝廷が国政のもう一つの中軸となっていったことを確認しま
す。

**************************************************************************
D 1862年薩摩藩主の父【D   】は勅使を奉じて江戸に赴き,幕政改革に乗り
  出した(文久の改革)。朝廷の権威を利用して幕府での雄藩の発言力を確保しよ
 うとするものであった。
E この改革では一橋派の人々が再登用され,一橋慶喜が【E  】職,松平慶永
 が【F  】職に任命されると共に,参勤交代が緩和された。さらに幕府は京都
 守護職を設置して会津藩主【G  】を任命し,京都での幕府の影響力を回復し
 ようとした。
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朝廷を背景に雄藩が幕府運営に発言力を強化しようとする動きを本格化させたこと
を確認する。

条約勅許問題などを契機に、天皇の政治的役割が大きくなったわけですが、その天
皇の権威を利用することによって、政治的な発言権を確保・強化しようという動き
が活発になってくる。もと一橋派の雄藩(有力大名と上級武士)による公武合体運
動がそのひとつであり、阿部正弘によって路線としてしかれた雄藩連合による幕府
運営の実現(諸大名の意向を反映した幕政=国政運営の実現)をめざすものであっ
たこと、その具体化が、薩摩の島津久光の文久の改革であることを確認する(身分
的な階層秩序を維持しながら,国政運営のあり方を変化させようとする動き)。

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F 京都では【H  】藩を中心とする急進的な尊攘派の動きが活発になり,1863
  年朝廷を動かして幕府に【@】決行を誓わせた(文久の打払令)。勢いに乗る【
  H】藩は下関海峡を通過する外国艦船を砲撃した。
G 公武合体派の薩摩藩は生麦事件の処理をめぐってイギリスと戦火を交えたが(
  薩英戦争),尊攘派の過激な動きを警戒し,会津藩と結んで【H】藩や急進派公
  家【I  】らを朝廷から一掃した(【J  】の政変)。
H この政変前後には尊攘派の挙兵があいつぎ,大和五条の【K  】の乱,平野
  国臣らによる生野の変などが起こったが,すべて鎮圧された。
I 【H】藩を中心とする反幕勢力はひそかに復権を画策したが,1864年【L 
   】事件で多数を殺害され,報復のために大挙して京都を攻めた【M  】の変
  でも大敗した。
**************************************************************************
尊攘派が姿勢を反幕閣から反幕府へと転換させていくなかで尊攘派と公武合体派の
対立が激化したことを確認する。

さて,政治的役割の大きくなった天皇を利用して政治的な発言権の確保をめざした
のは,何も公武合体派の雄藩だけではないわけで、先にも確認したように尊攘激派
の下級武士たちも同様だったわけです。下級武士たちは、為政者としての存在・意
識を育成されながらも,政治−国政−に参加する回路を持たず,高まる攘夷意識を
背景に,朝廷を媒介として,藩をこえた形で政治的発言の回路を見い出していった
と言っていいと思います。

尊攘激派の下級武士たちが攘夷意識を強く抱く公家たちを担ぎあげながら,朝廷の
主導権を掌握し,それによって実現させようとしたのは,幕府に攘夷・条約の廃棄
を実行させることだったわけです。つまり,当初においては尊攘激派は朝廷(天
皇)の権威を利用し,かつ朝廷を媒介として自分たちの政治的な意思(そしてそれ
は孝明天皇の意思でもあった)を幕政に反映させようとしていたと言えると思いま
す。
実際,攘夷実行という彼らの意思を幕政に反映させることは,ある面では実現した
わけで,文久の打ち払い令を幕府が発令したことがそれだったわけです(彼らにし
ても,幕府->大名というルートで政策を実行するというスタイルを取っていた)。

ところが,その打ち払い令に基づいて外国船への砲撃をおこなったのが長州藩だけ
であったこと,幕府みずからが攘夷の実行を率先する姿勢をみせなかったことを契
機に,尊王攘夷運動の性格が大きく変化するわけです。つまり,幕府の存在を無視
する(あるいは否定する)方向性を持ち始めてしまいます。それが大和行幸計画と
各地での挙兵なわけで,そういう風に,階層秩序を無視・否定し,さらに幕府の存
在を否定する方向性を持つに至ったがために,尊王攘夷運動は孝明天皇からも見放
され(裏切られ),薩摩藩らにより徹底した弾圧をうけるに至ったわけです。

ですから、ここでは幕府指導者への異議申し立ての政治運動として展開し始めた尊
王攘夷運動が、攘夷実行を契機として、幕府を否定する動きへと転換し始め、か
つ、その身分・階層秩序をこえた(あるいは乱す)行動ゆえに、弾圧を受けるにい
たったことを確認しておくというわけです。

結局、八・一八政変によって尊王攘夷派は国政レベルから姿を消し、代わって公武
合体派が国政運営を独占する形になってくるわけですが、もう一つ、確認しておき
たいのは、このように天皇の権威を利用することで幕政=国政への発言権を確保し
ようとする動きが、結果的には、朝廷を国政の中軸にすえる傾向を生んでしまった
ことです(国政のもう一つの中軸という限定された役割ではなく)。つまり、朝廷
のもとで幕府=徳川家や諸大名が国政運営を協議するという形式が登場してきてし
まうわけで(その意味では参預会議というのもきちんと教えたいなと思う)、ここ
から幕末の政治動向は大きな展開をとげていくと言ってよいのではないでしょうか
−なお、イギリスが幕府・薩摩藩の融和のもとでの雄藩連合政権への平和的移行を
望んでいたという話は確か芝原拓自氏などによって論じられてたように記憶してい
ますが、いい加減(^^;−。

 なお、尊王攘夷運動の意義を問う問題が一橋大で出題されています。オーソドッ
 クスには、ナショナリズムを高揚させ、国民意識の形成の契機となったという話
 になるんでしょうが、身分的な階層秩序をおおきく揺るがせたことも、見逃せな
 いなと思っています(どのみち身分意識をこえたレベルでの国民意識の形成なん
 ですからね(^^;)。そういう性格を持っていたがゆえに,公武合体派(上で見た)
 ならびに後の討幕派の指導者は,尊王攘夷運動が内在していた社会的な胎動に依
 拠し,それを利用したとしても,基本的には危険視していたと言えるわけで、だ
 からこそ、彼らの姿勢は、戦術的には武力を背景としつつも、戦略的には武力の
 発動を極力おさえ、内乱を回避しようとする姿勢になってしまうわけですよね
 (話は先走りますが,西郷・勝による江戸の無血開城は(太平天国の乱に類する
 ような)混乱を避けるための演出だったのではないかと判断しています←それが
 果たして列強の介入を回避するための方策だったかといえば、イギリスは基本的
 に平和的な政権の移行を希望していたし、戊辰戦争に際しても積極的に中立の立
 場をとったわけですから、必ずしもそうは言えないんじゃないかなと思ってます)。

***************************************************************************
J これに対して幕府が【H】征伐をおこし,さらにアメリカ・イギリス・【N 
   】・【O  】の四国艦隊が下関を砲撃すると,【H】藩内で政権交代がおこ
  った。この政変では保守派が主導権を握り,反幕派は弾圧された。
K 【H】藩を降伏させたアメリカ・イギリスなどの列国は,朝廷に安政の五か国
  条約の勅許を求めた。1865年朝廷は兵庫開港をのぞいて条約を勅許し,翌年に
  は【P  】に調印した。
L 貿易ははじめ【Q輸入 輸出】超過だったが,【P】によって税率が一律5%
  に引き下げられた結果,【R輸入 輸出】超過に転じた。
***************************************************************************
尊攘派の敗北を確認するとともに、それによってもたらされた対外関係上の変化を
確認する。


00100/00101 GED01324  つかはら         日本史】近現代史を教える(3)
( 6)   95/05/17 22:58  00087へのコメント

一応、1回分を2時間で講義する予定にしているんですが、なかなかそうは
いかないですね(^^;。やっぱり激動期を説明するのには時間がかかる。
(文化・文政期のような静かな激動期を説明するのも時間がかかるが(^^;)

文字化けしている文字があると思いますが、それは丸付数字です(^^;。
そこまで全部、修正するのは手間なんで、そのままアップしちゃってますが、
ご容赦をm(..)m。
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第3回 江戸幕府の滅亡

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A 【@  】の率いる奇兵隊など諸隊の決起で長州藩は再び倒幕姿勢に転じ,
 1866年土佐の【A】・【B  】の仲介で,倒幕姿勢を明確にしはじめた薩摩藩
 と同盟を結んだ。
B 幕府はフランス公使【C  】の支援のもとで独裁強化をはかったが,1866年
 第2次長州征伐に失敗するなど,政治力は大きく低下して民心も離反した。
C 世直し一揆や打ちこわしが頻発し,1867年には畿内をはじめ西日本各地で【D
   】の集団乱舞が流行した。民衆の世直しへの願望が宗教的な形をとってあら
 われたものである。
D  薩長両藩はイギリス公使【E  】の支援提供を断わって自力倒幕を目指し,
 1867年薩摩の大久保利通らが公家岩倉具視とはかって,朝廷に【F  】を出さ
 せることに成功した。
E 武力倒幕による混乱を避けようとした前土佐藩主【G  】は家臣【H  】
 を通じて幕府に建白を提出した。15代将軍慶喜はそれを受け入れ,1867年10月朝
 廷に【I  】を行った。
F 武力倒幕に固執する薩長側は,12月【J  】の大号令で新政府を樹立し,そ
 の夜の【K  】会議で徳川慶喜の辞官・納地を決定した。
G 旧幕臣達はこれに猛反発し,1867年1月【L  】の戦をきっかけに戊辰戦争
 に発展した。内戦は約1年半にわたったが,1869年箱館五稜郭の戦を最後に新政
 府側の勝利に終わった。
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江戸幕府の滅亡への過程を、戦術的には武力を行使するものの戦略的には内乱回避
をめざすという姿勢を取った薩摩を軸に確認する。その際、公議政体の実現形態の
違いを対立項に設定する。

一般的には,”攘夷の放棄=開国への転換”という図式で討幕勢力の形成を教える
パターンが多いと思うのですが,朝廷が国政の舞台になったことを確認した上で,
朝廷のもとでの幕府と薩摩との主導権争いを一つの軸とします。

そして,もう一つの軸は,尊王攘夷運動(政治勢力としては勢力を後退させたとは
いえ,社会的な影響力はまだまだあったと言える)や世直しを求める動きです。特
に世直しを求める動きはそれまで以上に大きくなっていきます。また、世直しなど
というようなかっこいい(^^;ものではなく、身分に基づく階層秩序が動揺・崩壊す
るなかで,無宿や博徒のなかに,身分の上昇を求めて積極的な動きを見せるケース
がけっこう見られるようですね。長谷川昇氏が「博徒と自由民権」(中公新書で持
っているんですが,いまは平凡社ライブラリーに入っているんですね)で解明した
話ですが,新選組なんかに集った人々もそういうケースなんだろうなと思っていま
す。尊王か佐幕かなんかはそれほど大きな意味を持っていなかったのではないでし
ょうか。
前の単元の最後で,改税約書の調印・輸入超過への転換という話を確認したわけで
すが,輸入超過への転換=欧米諸国にとっての自由市場として,それまで以上に日
本市場が開放されたことが,そうした”世直し”+αの動きを高揚させていたこと
を確認しておきたいです。
つまり,”世直し”+αの社会的動向を基盤に,朝廷を中心として,薩摩と幕府と
のあいだで国政の主導権争いが繰り広げられていくわけです。そして,そのいずれ
が”世直し”+αを掬いとるのかが,その主導権争いのポイントになるわけです。


そして,それらの中間に,長州藩や豪農・豪商たちの動向を配置しておきます。つ
まり,身分的な階層秩序を崩そうとする動向に基盤を持ちつつも,それらの動向を
警戒し,あくまでも手段としてのみ利用する姿勢をもっていた勢力です(当然,公
武合体派にしてもそうなんですが、藩に依拠するようになった長州の旧尊攘激派も
このようにおさえておきます ← この辺の評価はちょっと危ういなと思っているん
ですが、いかがでしょう? 最近だったか、高杉晋作の上海日記に関する著作がでて
たように思ったのですが、それではどういう評価が下されているのか興味あるんで
すが、私は読んでいません(^^;)。薩摩のような勢力からすれば,社会的に大きな
広がりをもっていた,身分に基づく階層秩序を揺るがす動向・意識を,討幕という
方向へと集約していく媒介項といってよいと思います。

結局,薩摩は長州と組み,さらにイギリスとの結び付きをつよめ,フランスの援助
をうけながら軍制改革などをすすめる幕府と対立(パリ万博へは幕府と薩摩が出
品。幕府はこのとき芸者・浮き世絵などを出品し,日本趣味の盛行のきっかけとな
った -> 着物もフランスでけっこう流行ったそうで、そういう下地があったから
貞奴がフランスへ行っても うけたと言えるわけでしょう)。

そして,前回にも確認したように,戦術的には武力に訴えつつも,戦略的には武力
の発動を極力抑制して内乱の回避を策す薩摩が,幕府・薩摩を中軸とする雄藩連合
政権への平和的移行を望むイギリスの外交姿勢にもささえられながら,民衆の”世
直し”+αをもとめる意識動向をフルに活用して(ええじゃないかがその典型),
宮中におけるクーデターで主導権を確保したわけです。
そこに成立したのは,薩摩・土佐・越前・尾張などの諸藩によって構成された,各
藩代表者会議でして,その意味では大政奉還によって慶喜がめざしたものと,その
形式においては違いはないわけで,公議を尊重できる国政運営を実現し,それによ
って挙国一致の体制を作りだそうとした(それによって現体制を修正しつつ維持し
ていこうとする)阿部正弘の試みが,この命脈の源流となっているわけです。

じゃあ,薩摩と慶喜では何が違うかと言えば,結局のところ,徳川宗家を含むかど
うかの違いにすぎなかったと思うわけで,薩摩と土佐の山内豊信との対立点もそこ
だったわけですよね(そうでしかなかったゆえに、王政復古のクーデターでは薩摩
は土佐などとも手を組むわけです ← まあ、少数派なんですから、手を組まざるを
えないわけですけど(^^;)。

でも,徳川宗家の徹底した排除を図ろうとする勢力はきわめて少数派に過ぎなかっ
たわけで(薩摩藩内でも多数派とはいえず,だからこそ藩論をまとめて藩兵を上洛
させるためにも討幕の密勅が必要だったわけです),小数派の彼らが主導権を掌握
するための手段として活用されたのが武力であり,博徒や無宿たちを編成した軍隊
組織であったわけでしょう(江戸での西郷の策動)。結局,薩摩・長州はうまく戊
辰戦争を引き興すことに成功し,草莽隊をうまく活用して,新政府における主導権
を確保するとともに,徳川宗家ならびに旧幕府支持派を政治の表舞台から徹底して
排除したわけです。

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H 新政府は1868年には由利公正の起草・福岡孝弟の修正・【M  】の加筆によ
 る【N  】を発し,公議世論の尊重や開国和親など,政治の基本方針を示した。
I 民衆統治に関しては【O  】を掲げ,旧幕府の民衆統制をほぼ踏襲して儒教
 道徳を説き,民衆運動やキリスト教を禁じた。
J 新政府は【P  】を発布して太政官制を採用するとともにアメリカにならっ
 て三権分立制を取り入れ,1870年の機構改革では祭祀をつかさどる【Q  】官
 を復活させた。
K 1869年天皇神格化のために神仏分離令を出し,1870年には【R  】の詔を発
 して神道国教化をすすめて民衆支配の強化をはかったが,必ずしも成功しなかっ
 た。
L 戊辰戦争の終結後,新政府は【S  】を実施した。旧藩主を新たに【チ 
  】に任命してそのまま藩政にあたらせたが,新政府が全国の土地・人民に対す
 る支配権を獲得した。
M 租税と軍事の両権を全国的に統一して中央集権体制を強化するため,1871年薩
 長土の御親兵の軍事力を背景に【ツ  】を断行し,各府県に中央から府知
 事・【テ  】を派遣した。
N この時の機構改革では太政官の下に【ト  】・左院・右院の三院が置か
 れ,【ト】の下に八省が置かれて政治機構の大枠が固まった。こうして神格的権
 威者の天皇を頂点とする有司専制が確立し,官僚の大部分が薩長土肥出身者で占
 められる【ナ 】政府が形成された。
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ここでは、明治新政府が中央集権体制を整えていく経過を確認する。

さて,新政府において薩摩・長州が主導権を掌握したことの政治的な宣言が,五箇
条の御誓文です。由利・福岡の草稿が木戸によって加筆・修正されたことは,おお
きな転換だと言われます。新政府が各藩代表者会議という形式から脱却する方向性
を示したものであるために大きな転換なわけですね。もっとも,新政府・藩が共同
で日本を支配するという,幕藩体制と同じ支配体制が存続しています。その支配体
制が明確に確認されたのが、1869年の版籍奉還だと言えます。そして、新政府・藩
が共同で支配する体制をしっかりとまとめ上げるための意識装置として神道−祭政
一致のイデオロギー−がクローズアップされたわけで、神仏習合を廃して神道を自
立させ、神道の国教化によって、日本という国家の統合軸をつくりあげようとした
わけです(結局のところは、神道の国教化には失敗し、仏教の改革運動とキリスト
教浸透のプレッシャーのなかで、国教化政策自体は後退し、かわって祭政一致のイ
デオロギー−宗教ではなく国家祭祀の一形式としての神道−が形づくられていくわ
けで、その過程で神祇官・省は教部省へと変質していくわけです)。

他方で、“世直し”+αの動向に対する新政府の姿勢は、それまでのものから大き
く転換していきます。先にも確認しましたが、戦略的には内乱の回避をめざすとい
う姿勢をあくまでも堅持していたが故に、草莽層の動きは基本的に抑制されていき
ます。江戸城総攻撃前に起こった赤報隊事件や五榜の掲示がその転換を示すもので
すし、戊辰戦争終結後の草莽隊に対する姿勢も基本的にはそういうものです。結
局、戊辰戦争のなかで旧幕府側への優位が確定して以降は、新政府は基本的に“世
直し“+αの動きに敵対するわけで、だからこそ、新政に反発する一揆が散発した
り、長州において脱隊騒動がおこったりするわけです(外国人殺傷事件や政府要人
の暗殺なども多発してますし、天理教の中山みきが世直しのやり直しを唱え始めた
りするわけですね)。

つまり、版籍奉還後=戊辰戦争後というのは、けっこう不安定な政情だったわけで
す(だからこそ木戸孝允が征韓論を唱えたりするわけですね)。そして、そういう
不安定な政情に積極的に対応するために、そして、新政府の財政基盤を整えるとと
もに、戊辰戦争のなかで破綻に瀕した藩財政を救うためにも、廃藩置県が挙行され
たわけです。

こうして租税と軍事の両権が全国的に統一され、中央集権体制形成への第一歩がこ
こに踏み出されたわけです。それとともに、新政府の構成にしても、藩主層が後退
し、薩長土肥出身の中・下級武士たちによって占められていくわけです。

結局、幕府(->新政府)・藩の共同統治体制が 新政府のもとでの中央集権体制へ
転換していった背景は、“世直し“+αの動向だったことを確認する(しかし、α
というのはいい加減だなぁ(^^; → とはいいつつ、長谷川昇氏の『博徒と自由民
権』のうち、博徒と草莽隊との関係のところなどは授業のネタとして面白いんじゃ
ないでしょうか)。



00110/00110 GED01324  つかはら         日本史】近現代史を教える(4)
( 6)   95/05/24 17:13  00100へのコメント

前回のアップは 文章が「わけです」のオンパレードになっていて、非常に読みに
くかったですね(^^;。それに 内容もまとめきれていないですね(^^;。こりゃ、授
業中って けっこうそういう風にいい加減にしゃべっているんだろうなと頭を掻い
てしまいました(^^;−整理した形で板書していれば、しゃべっていることがらの
いい加減さって ごまかせるので そんな気付かなかったりするけど(^^;−

*補* 版籍奉還ごろの新政への反発の動きとしては、横井小楠(版籍奉還前のこと
ですが)や大村益次郎など政府要人へのテロ事件も 例として出せます。

文字化けしている文字があると思いますが、それは丸付数字です(^^;。
そこまで全部、修正するのは手間なんで、そのままアップしちゃってますが、
ご容赦をm(..)m。
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第4回 明治維新の進展

国土・国民の一元的支配を実現・徹底させるための近代化政策として地租改正・
徴兵令とそれを代表とする近代化政策への(士族・農民の)反発を一つの軸に、
欧米諸国にならぶ国づくりをめざす明治政府が東アジアの諸国と新たな国際関係
の整備を摸索していった過程をもう一つの軸として
明治維新の進展とそのなかでの政府の分裂・混乱の様子を確認する。

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A 廃藩置県の直後,政府は戸籍法を制定し,翌年それにもとづき近代初の【@ 
  】を作成した。国家の最末端の単位としての「戸」の確立をはかるもので,徴
 税と徴兵の基礎を整えた。
B 政府はまず租税制度の改革に着手した。1872年田畑永代売買の禁令を解き,地
 主・自作農に【A】を発行して農民の土地所有権を確認し,納税者を明確にした。
C そして1873年【B  】条例を公布して財政基盤の確立をめざした。課税基準
 が収穫高から【C】に変更され,【A】所有者がその3%を地租として金納する
 ことが定められた。
D 廃藩置県によって全国の軍事権を獲得した政府は,「国民皆兵」の原則のもと
 に常備軍の創設をめざし,1872年の【D  】告諭を経て翌年に【D】令を布告
 した。
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地租改正と徴兵令を発令を国土・国民の一元的支配を実現するための政策として確
認する。

明治維新というと非常に教えにくいという印象を私は持っています。というか、そ
れは明治維新だけに限らないんですが、支配システムが新しくなっていく時期の話
は、これも変わりましたね、あれも変わりましたね、ってな感じで、なんかまとま
りがないわけです。そこでこの単元では思い切って、地租改正と徴兵令のみに焦点
を絞りました。

ここで再度、江戸時代の幕藩体制との違いを確認しておいた方がよいとも言えます。

江戸時代は、土地・人民に対する支配は 幕府・大名によって分担されており、中
央政府ともいえる幕府がすべての土地・人民を直接掌握していたわけではなかった
わけですが、廃藩置県によってその体制が完全にくずれ、中央政府=明治政府が土
地・人民を直接掌握する体制へと移行しました。それゆえに、まずは 人民の直接
掌握をめざして戸籍の編成を行って「戸」を確立させると共に(個人を掌握するの
ではなく「戸」で掌握するわけですね)、土地に対して権利関係を有するものを土
地所有者に単一化するために地券を発行していきます(賃貸している小作人の権利
は保証されないということになります)。同時に国民皆兵の実現もめざされるわけ
ですが、ここのところで、欧米諸国に対抗しうる国づくりをすすめるための基礎と
しての租税制度と軍隊制度の整備が着手されたこと、それが可能になったのも 廃
藩置県で全国の土地の支配権・全国の人民の動員権を明治政府が旧大名からとりあ
げて中央に集めたからであること、そして、こうした政策がすすむなかで、四民平
等の政策も推進されていったこと(新しい身分制度への再編成:戸籍に身分が明記
されている -> 士族に対しては一定の社会的ステータスを持たせようとしていた部
分があるようだし、そういう通念が培われていったようです)を確認しておきま
す。

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E 1871年から73年にかけて,欧米諸国に【E  】使節団が派遣された。条約改
 正交渉は最初のアメリカで早々と失敗に終り,欧米の政治や産業の発展ぶりを視
 察して帰国した。
F 1871年には清国と国交を樹立し,対等条約である【F  】を結んだ。
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とともに、対外関係を忘れてはなりません。欧米諸国間の国際関係を万国公法とし
て(いわば)自然的なものと捉える傾向のあった新政府(ならびにインテリ)は、
対欧米に対してはその一員となるべく、卑屈とも言えるような外交姿勢をとりま
す。そのための視察旅行が岩倉使節だったわけです(もちろん条約改正の予備交渉
の打診がまずの目的でしたが、そもそも全権委任の手続が整っていなかったなどの
不備もあったし、アメリカににべもなく断られてしまった後は、結局、本当に外遊
ですね。なお、フランスでパリコミューンを目撃した参加者たちは、そのような蜂
起に対する警戒心をしっかりと抱いたようです。論者によっては中江兆民さえも 
パリコミューンを教訓に 武装蜂起・激化事件 という 方向性に対しては非常に警
戒的であった という評価が下されます)。

ところが、対アジア諸国に対してはそうではなく、高姿勢で臨みます。伝統的に東
アジアの盟主としての地位を保持してきた中国(清)に対しては対等の外交的地位
を確保するとともに(皇帝と天皇=皇帝)、朝鮮に対しては高圧的な態度で、それ
までの外交慣例を無視するような形でのぞみ、琉球に対しては藩属国としての扱い
をします(琉球国王=藩王へ:大城立裕氏の『琉球処分』[朝日文庫]を読んでい
て、そうかぁ 藩王ってことは 冊封ってことなんだな と気付いたんですが、違う
のかな(^^;)。つまり、朝鮮・琉球に対しては、欧米諸国が域外の諸国に対してす
るのと同じように、一段下に見下した態度をとります(北朝鮮に対しては強硬な姿
勢を見せるのに、同じように核疑惑のあるイスラエルには寛容的なアメリカ政府や
日本のマスコミの姿勢と似てますねって話は 少し前なら非常に時事性が高かった)。

こういう感じで、国内外の基本的な施策を確認しておきます。
(国土・国民の一元的支配を実質化するための政策の実施、新たな国際関係の整備
 とその際の問題性)

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G 朝鮮との国交交渉は進展せず,国内には【G  】がおこった。1873年には朝
 鮮遣使をめぐって政府が分裂し,西郷隆盛や板垣退助らは下野した。
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新しい国際関係の模索とその難航->征韓論をめぐる政府の分裂

地租改正も徴兵も、明治初年の段階では法令が施行されたものの、政策として軌道
に乗ったわけではわけではなく(地租改正が本格化するのは大久保政権の確立後の
はなしですしね)、なかなかうまく進行していないわけです。徴兵令に対しては血
税一揆が起こりますし、また兵役免除規定にもとづく兵役忌避の動きも盛んです。
そのためのマニュアル本も出ているし、養子縁組みも急増します。

また、草莽隊に参加したものの、その後はいいかげんな扱いをうけ、ほとんど特別
な措置もほどこされないままに放っておかれていた人々も−だいたいそういう人々
は都市の下層民(細民)として滞留しています−、その不満(士族身分にとりたて
られなかったことへの不満だったり、金銭的な問題だったりしたことでしょう)も
高めています。

そのようにあまりに性急な新政に対する不満が噴出する一方(もっとも、かつて大
学院時代に山田昭次氏のゼミに出席していた時、山田氏が”一般的にはそういわれ
るけれども一揆はそれほどでもないんだよ”というようなことを指摘しておられた
のを記憶しています(^^;。じゃあ、なんなんでしょうねぇ(^^;)、朝鮮に対する新
しい国際関係の調整も難航します−当時の朝鮮は大院君が積極的な攘夷政策が展開
していた−。
そこで征韓論が政府において大きくなってきます。国内の不満を対外的な緊張関係
を作り出すことによってそらすとともに、いっこうに進行しない朝鮮との外交交渉
の打開を策巣ことを意図したといえます−だからといって、当時の政府首脳が本当
に戦争を起こそうとしていたのかと言えば、必ずしもそうは思えないです。なにし
ろ、具体的な戦闘体勢の準備をやっていたようには見えないからです(この辺は毛
利敏彦氏の『明治六年の政変』中公新書が詳しいですね)−。

さらにこの時期は政府の各省は自らのかかえる政策の推進のみに専念して各省のセ
クショナリズムも激しくなり、政府としてのまとまりも欠如していた時でした(陸
軍省の不正をめぐる問題とか、大蔵省と他の省との対立とか−それを契機に渋沢栄
一なんかは大蔵省をやめてます−、島津久光の反政府的な言動とか・・・)。

このように、近代化を進めるための諸政策が遅々として進まない状態のなかで、そ
して政府の内部対立が激しくなる中で、太政官の体制が強化され(参議の補充によ
る調整能力の回復)、さらに征韓論が登場するわけです。

ところがその征韓論は米欧視察から帰国した岩倉・大久保らによって覆されてしま
い、いったん政府で決定したことであるにもかかわらず岩倉の(いわば)専断でそ
れが葬りさられてしまったことへの反発から、留守政府の中心であった西郷をはじ
め、板垣・江藤らが政府を去り、それに追随する西郷派・板垣派の軍人たちも政府
を去っていき、明治政府は大きく分裂、動揺を迎えます(もっとも岩倉・大久保ら
が征韓そのものに反対していたわけではなく、”内治優先”を考えていたわけでも
ないと思います。基本的には政府内部の派閥争いだと言ってよいと思います)。

というわけで、ここでは理想的にすぎる近代化政策の強引な推進が民衆や士族の不
満、さらには政府の内部対立を表面化させるに至って征韓論の高揚を見た(不満を
そらすため)が、岩倉・大久保らが帰国するに至り、内部対立がさらにし烈さをき
わめて政府の統一が保てず、明治6年の政変に帰結したことを確認する。

**************************************************************************
H 下野した板垣退助,後藤象二郎,江藤新平,副島種臣らは,1874年愛国公党を
 結成して【H  】建白書を政府に提出した。
I 愛国公党は佐賀の乱などのために解体したが,板垣が高知で設立した【I 
  】社をはじめ,各地に自由民権を主張する政社が作られた。1875年には政社の
 全国的な連合組織として【J  】社が大阪で結成され,士族中心の自由民権運
 動が始まった。
J 新聞や雑誌で,国会の設立をめぐって知識人たちのあいだで活発な論争が展開
 されると,政府は1875年新聞紙条例と【K  】を制定して言論への取締を強めた。
K 1873年に殖産興業・警察・地方行政を管轄する最高権力機関として【L  】
 省を設置し,その長官に就任した大久保利通は,1875年に【M  】会議を開い
 て板垣や木戸孝允と妥協し,両人を参議に復帰させるとともに,漸次立憲政体樹
 立の詔を発した。
L この詔では,立法機関として【N  】,最高裁判所として【O  】を設置
 し,府知事・県令からなる地方官会議を召集することがうたわれていた。
************************************************************************
士族民権の開始とと大久保政権の内政面を確認する。

さて政府の分裂後、下野した板垣・江藤らは政府への発言力回復をめざして、建白
書を提出し、現政府の不当性をこわだかに主張します。その際、彼らは、主張の正
統性を確保すべく、五箇条の御誓文でかかげられた公議世論の尊重の精神とフラン
ス流の天賦人権説とに基づき、租税負担者(ようするに士族と豪農)による民選議
院の設立を主張します。そしてその建白書が左院の御用新聞(というか官報的役割
をもつ)であった日新真事誌に掲載されたことにより、新聞によることの多かっ
た(官僚も多いが)旧幕臣や他のインテリ・士族をまきこむ形で民権論がさかんに
主張されるようになる(政府でも立憲制樹立の動きがあったため、民撰議院の設立
自体は肯定的に受け取られ、争点は開設時期をめぐるものだけとなる)。ととも
に、その反政府的な立場に触発されつつ、不平士族の不穏な動向も激しくなってい
きます。その象徴が江藤らによる佐賀の乱ですし、政府要人へのテロもおこってき
ます(1875年には岩倉が襲撃される)。

さて分裂後の政府において実権を掌握したのは大久保利通であり、彼は欧米諸国に
対抗できる国づくりをめざして民間活力の涵養へと向かいます。そして、その民間
活力の涵養は政府の強力な指導のもとで企図されます。それを実現すべく、内務省
が新設され(地方行政・警察行政そして殖産興業を担当)、大久保がその長官に就
任します。

ところがその大久保政権も政権基盤が安定していたわけではなく、台湾出兵をめぐ
っては、イギリスなどの反発を受けて中止しようとした大久保らの意向(基本的に
欧米追随の外交姿勢)を無視して出兵を強行した西郷従道(その背後には薩摩の不
平士族の存在があったーもっとも台湾出兵をめぐる清との外交交渉では大久保がう
まく事態をきり抜けているが)や出兵に反対して下野した木戸などの存在に代表さ
れるように、政府の結束は非常に脆弱なものであった。

このような脆弱な政権基盤を強化するために、民権論を含めた反政府的言動を抑制
すべく弾圧立法を制定し(警察制度も整備)、そして大阪会議をひらいて板垣・木
戸の政府復帰を実現させるとともに、立憲体制の樹立準備へと入ります(地方官会
議で地方の民情をできるかぎり反映した政策立案をはかろうと努め、元老院を設置
して憲法草案の作成を命じます−なお、元老院はどちらかというと保守派が多く、
その作成した憲法草案はその保守的な性格ゆえに葬り去られます。立法機関が保守
派のよりどころ的な位置をしめたのはこのときだけでなく公議所以来のことで
す)。

**************************************************************************
M 1875年政府は朝鮮に対して軍艦を派遣して示威を行った。その際に【P  】
 事件が起こったため,翌年【Q  】の締結を強要して不平等条約を押しつけ,
 朝鮮を開国させた。
N 日清両属状態にあった琉球王国については1872年琉球藩を設置して日本領への
 編入をすすめ,さらに琉球漁民殺害事件を口実に1874年【R  】出兵を行な
 い,琉球の日本帰属を清国に強引に認めさせた。そして1879年には軍隊を動員し
 て沖縄県設置を強行した(琉球処分)。
O 蝦夷地は1869年に北海道と改称されて【S  】が設置され,1874年には士族
 授産のために【チ】が入植した。翌年にはロシアとの間に千島・樺太交換条約が
 締結された。
**************************************************************************
大久保政権の対外政策(懸案事項を強引な形で解決)->k・m・nで政権の基礎が
ため。

大阪会議による板垣・木戸の政府復帰により政権基盤を固めた大久保は、対外的な
懸案事項を解決する事を通じて、士族の政府批判の手段を封殺してしまいます。

朝鮮における政権交代に乗じて朝鮮へ開国を迫り、樺太問題についてはイギリスの
助言などにより放棄という方針をとるとともに、生計に窮する不平士族への授産の
意味も込めて蝦夷地(北海道)への武装植民が着手されます(蝦夷地=北海道の「
開拓」というのは 「植民」と表現すべきだと私は思います)。

こうして政権基盤を固めた大久保は大隈・伊藤を片腕としつつ、地租改正の本格
化・民間活力を涵養秩禄処分・士族の挙兵を抑制するための廃刀令(治安対策)と
いった政策を強権的に推進していこうとしますが、その強引な政策推進は農民・士
族の反発を受け、1876〜77年はきわめて危機的な状況をむかえることになります。
でもそれは、次の単元の話です。
[補足のコメントを読む]
00141/00142 GED01324  つかはら         日本史】近現代史を教える(5)
( 6)   95/06/07 21:35  00110へのコメント

うーん、書いているうちに よりいっそうまとまりがなくなってきてしまったよう
で、なんかいやになってしまってますが(^^;、
連載すると公言した以上、最終回の 第23回まで(長いなぁ(^^;)続けましょう。

文字化けしている文字があると思いますが、それは丸付数字です(^^;。
そこまで全部、修正するのは手間なんで、そのままアップしちゃってますが、
ご容赦をm(..)m。
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第5回 自由民権運動の高まり

大久保政権下の経済・財政政策と豪農層の成長・豪農民権の盛り上がりをひとつの
流れで確認する(もうひとつの軸として大隈財政とその破綻・大隈重信の失脚)。

**************************************************************************
A 政権の基礎をかためた大久保利通内務Sは,群馬県に開設された【@  】な
 ど,技術の導入を目的に官営模範工場の経営を行なったのをはじめ,殖産興業政
 策を積極的に進めた。
B 1872年に【A  】条例を制定して兌換銀行券を発行させていたが,1876年に
 は兌換義務を取り除いて銀行の設立をうながした。殖産興業に必要な資金を確保
 しようとしたのである。
C こうして多額の不換銀行券が発行され,また貿易・官営事業の赤字の補填や西
 南戦争の軍事費のために政府紙幣が増発されたこともあって,激しい【Bインフ
 レ デフレ】がおこった。そのため,租税収入は実質的に減少し,政府の財政は
 苦しくなった。
D 政府は財政負担を軽減するため,華族・士族の俸禄を削減する【C  】を徹
 底させた。1876年に【D  】条例を発し,一定の【D】を与えた上で秩禄の支
 給を廃止した。
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大久保政権の経済・財政政策を確認し、それを政治動向を確認するための軸にする。

大久保政権の基本的姿勢は、国づくりの基礎を豪農にすえ、政府の強力な指導と保
護のもとで、彼らの経済活力を増進させることによって国家の自主独立(富国強
兵)を確立させようとするもので、そのための政府機関として殖産興業・地方行
政・警察行政を一手に扱う内務省を設置し、自らのその長官に就任して、民間産業
の奨励・育成へと入っていきます。

 地方土木事業の奨励や近代的工業の移植・在来産業の改良と奨励−官営模範工場
  の経営や内国勧業博覧会の計画など−、そしてそれを通じた(いわば)民族資本
  の育成−三菱会社に保護=台湾出兵で台頭したわけですが、台湾出兵へのイギリ
  スなどの非協力が思わぬ効果を生んだと言えます−。

この点を中軸にすえて、大久保政権の諸政策をすべてまとめ上げていきます。

 立身出世主義にもとづいて実学(実用的な学問)を重視した学制もこの関連で把
  握しておきたいです。国家の自主独立を実現する基礎としての個人の自主独立を
  確保しようとする姿勢です。ただし、だからといって、大久保の施策と民権運動
  の要求とがイコールだと言おうとは思っていません。大久保の場合、あくまでも
  政府主導の官民調和(あるいは官民一体)のもとで官が民を指導していく・民の
  自主性は規制していくという方向性が強いように思います。それはあとで出てく
  る三新法などにも現れています。

さて、明治6年の政変による政府の分裂とその後の士族民権・士族反乱の始まりの
なかで、なかなか政権基盤を安定させることのできなかった大久保も、
台湾出兵後の台湾をめぐる清との緊張を粘りづよい交渉で解決し、朝鮮の開国問題
も江華島事件で解決の糸口をつかみ(ともに列強の介入を極力排除し、戦争状態の
発生という非常事態も回避したうえで、国威の発揚・国権の拡大を図ることができ
たという意味において、不平士族の彼らの要望に応える政策だったとともに彼らか
ら政府批判のひとつの標的を奪いとる政策だったといえます)
国内では大阪会議で板垣・木戸を政府に復帰させて政権基盤を整えていきます。
こうして政権基盤をかためた大久保は、財政基盤の確立をめざして地租改正事業を
本格化させるとともに(73年段階で地租改正が完了したのは山口のみで、西南地方
で事業が完了するのは79・80年のことです−福井・佐賀が79年、鹿児島・高知が80
年−)、秩禄処分を断行する。つまり、民間活力を政府の強力な指導のもとにかん
養していくための財政基盤を整えようとしたわけです。

とはいえ、地租改正事業にせよ、秩禄処分にせよ、それらの事業が取り組まれたば
かりであって、1875・76年段階ではまだまだ財政基盤は整っていませんでした。そ
のような状態のもとで殖産興業の資金を調達するために実施されたのが、国立銀行
条例の改正です。つまり、国立銀行の設立条件を緩和すること(金禄公債を資本と
することも可能になったし、国立銀行券のだ換義務も取り除かれた)により通貨の
供給量を増やそうとしたわけです。いいかえれば、インフレ政策によって景気を刺
激し、豪農(地主・自作農)層による産業活動の活性化をはかろうとしたといえま
す。

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E 徴兵令・【C】などで特権を失った士族たちは相次いで反乱を起こした。1874
 年の【E  】らの佐賀の乱に始まり,1876年には廃刀令が出されたために反乱
 があいつぎ,翌年には【F  】らが挙兵して西南戦争となった。これらはすべ
 て「国民皆兵の軍隊」により鎮圧され,士族の武力反乱は終りを告げた。
F 財政基盤の確立を急ぐ政府は,地租改正事業を本格化させたが,従来の年貢収
 入の総額を減らさない方針で実施されたため,農民の負担は従来とかわらず,反
 対一揆が各地で起こった。その結果,1877年に地租は【G  】%に引き下げら
 れた。
G 政府は1878年【H  】を制定して豪農たちを地方政治に取り込もうとした
 が、【H】のひとつ・府県会規則によって公選制の府県会が開設されると,逆に
 民権思想が農村にも深く浸透し,自由民権運動は国民の各層へと広がっていった。
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士族反乱・農民の地租改正反対一揆という武力による政府への抵抗運動と、豪農層
の地方民会設立の運動−下流の民権−とを確認する。前者が、大久保政権がその経
済政策を推進するうえで必要な施策に対する反発−あるいはその反発を未然に防ぐ
ための施策に誘発されたもの−であったのに対し、後者は大久保政権の−ある意味
で−意図した通りの動きであり、その意図を乗り越えてしまった動きでもあった。
 76年の廃刀令は不平士族の不穏な動向に対処するための治安対策として出され
 た政策です。

大久保政権による民間活力の涵養・強引な近代化(文明開化)政策は、士族や農民
の不満をより激しくさせるわけですが、そこにはタイプの異なる2つの構成要素が
含まれています。
(1)没落する士族(あるいは博徒)、貧窮する農民
(2)インフレ政策の中で成長する豪農・インテリとしての士族

士族民権の段階−(2)の要素−といえば、
インテリ士族やもと幕臣がジャーナリズムを舞台に民権論を展開し、時期尚早論者
と論争し(上流の民権)、地租改正の過程において地価の算定作業に不平を抱く豪
農層らは地方民会の設立をもとめます(下流の民権 ← 維新直後からの伝統をひき
ますが)。

ところが同時期に、士族による武装蜂起(これにはインテリ士族などの呼応が各地
で見られるが=熊本や立志社)もあれば、地租改正反対の大規模な農民蜂起もあり
ます。地租改正反対一揆と豪農による地方民会設立要求の運動とはかならずしも連
動があるわけではないとのことですが(だれの議論だかを再確認せずに記憶で書い
ています)、こちらが(1)の人々によって主として担われた動向です。大久保政
権は、地租改正反対一揆と士族反乱との結合−つまり、この(1)の要素どうしの
結合−をおそれ、予防策として地租の軽減を実施しています。

つまり、御一新への幻想が破れた時の対応のしかたに2通りあったわけです。
ひとつは政府の転覆−天賦人権説に基づく革命権との親和性−をめざす動向であり
−(1)の要素−(だからといって天皇を中心とする国家体制への異議申し立てで
はないですが)、世直しのやり直しを主張した天理教などもこの部類に入るでしょ
う。
もうひとつは現政府を前提にした上で自らの政治的発言権の確保をめざす動向であ
り、いわば権力の分有をもとめる動向と言えます−(2)の要素−。


ただし、いずれにしても天皇を中心とする国家体制は前提となっており、国づくり
の正統性を競うという形になっています。さらに、先にも指摘したように天賦人権
説にもとづく革命権と武力蜂起路線との親和性も手伝って、(2)のなかにも
(1)の動向に−具体的には西南戦争に−加担・呼応する動きがあったわけです。

さらに、いずれにおいても共通しているのは、その英雄的行動(義民!)です。武
装蜂起路線がそもそも英雄的行動であることはいうまでもなく、民権運動の中でも
演説会というパフォーマンスは人々の心情を喚起した行為でした。演説という行為
自体、さらに警官の規制に抗しながら演説する(比喩を駆使しながら規制ギリギリ
のところで政府批判を展開していく)というスタイルもやはり英雄的な行動と評価
してよいと思います。こういった点からも(2)の要素が(1)の要素の動きに積
極的に加担していく基礎があったわけです。
 ちなみに、この傾向は、激化事件を主導した民権左派や博徒(民権左派もやっぱ
 り国士−憂国の士−なんですよね)、帝国議会開設後の院外団へと継承されてい
 きます。


結局、士族反乱は1877年の西南戦争でもっておわり、現政府を前提とした権力への
参入を求める動きに反政府活動は限定されていきます。

大久保政権が1875年以降に民権運動に対して施してきた政策は、要するに、武力を
もった反乱と民権運動との結合をできる限り防止し、なんとか現政府の枠内に(つ
まり、政府そのものの是非を争うのではなく、政府の政策を争うものへ)おさえて
いこうとする政策だったと言えますが、その意味では、1877・8年段階に、ようや
くそれが効を奏し、明治政府−大久保政権−の政権基盤が整ったといえます(実
際、大久保自身がそういう感想をもらしてますね。そして次の10年で日本の経済基
礎を整えるんだ、そこまで俺が指導者たり続けるんだ、と大久保は考えていたよう
ですが....... -> 寺島宗則外務卿による税権回復をめざす条約改正交渉)。

ところが、これから国づくりが本格化するという段階に入ったところで大久保が暗
殺されてしまいます。その後、大黒柱を失った明治政府は伊藤・山県・黒田・大隈
らの集団指導体制に移行していきます。

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H 同年には愛国社が再興され,豪農たちの支援を受けた全国各地の政社も活発に
  活動し,1880年には【I  】が結成された。【I】は,河野広中・片岡健吉ら
  を中心に国会開設請願の署名運動を進めたが,政府は1880年集会条例を発令して
  弾圧を加えた。
I 政府内部でも参議【J  】が国会の早期開設を主張し,伊藤博文らと対立し
  た。
J 1881年【K  】事件で薩摩出身の参議【L  】と政商【M  】の癒着が
  露見すると,世論の政府攻撃は一気に高まった。
K 事態対処に当った伊藤らは払い下げを中止し,参議【J】を政府から追放し
  た。そして【N  】年に国会を開設することを約束して危機を回避しようとし
  た(明治十四年の政変)。
L 国会開設の時期が約束されると,国会期成同盟を中心に【O  】党が結成さ
  れ,【J】は【P】党を結成した。これに対して,政府も福地源一郎らに立憲帝
  政党を作らせた。
M どのような国会にするかを明確にする必要が広く自覚されはじめ,交詢社の私
  擬憲法案,立志社の日本憲法見込案,植木枝盛の【Q  】,東京五日市の民権
  家による五日市憲法など,多数の憲法草案が民間で作成された。こうした憲法草
  案を【R  】という。
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大久保流の殖産興業政策と大隈財政下のインフレによって豪農は著しく成長し、三
新法にもとづく府県会の設置によって民権思想が農村へも広く普及し、学習結社も
増えていきます。その動きを基礎に愛国社が再興され、さらに国会期成同盟へと発
展していきます。豪農たちが地域社会における自治にとどまることなく、国会開設
の要求へと、主体的な形で国家形成に参加し始めたと言えます。
つまり、国家の自主独立を実現させる(国権の確立)ために個人の自主独立を確立
させようとする(民権の確立)動きが、大久保政権の意向をこえて拡大してしまっ
たわけです。
 もっとも、その運動には国権の確立を優先させようとする勢力も含まれており、
  非常に雑多な形で運動が展開していたようです。

さらに、西南戦争の戦費のために乱発された不換紙幣が、不換の国立銀行券ともあ
いまって、インフレが高進して、国家財政は破綻の危機を迎えるに至り、それに対
する対処法をめぐる政府部内の対立も表面化し始めていきます。

こういう状況のなかで、政府はといえば、集会条例で民権運動に規制を加えるもの
の、その集団指導体制に亀裂を生じさせます。

薩摩の保守派・漸進的に立憲体制の形成をすすめようとする伊藤らの穏健派・財政
破綻に直面して増税への合意形成のために早期国会開設と議院内閣制を構想する大
隈派の3つの勢力の対立が激しくなり、結果的には、開拓使官有物払い下げ事件を
契機とする(大隈派よるリークが疑われた)民権運動による薩派攻撃の激化と立憲
体制形成に関する大隈のスタンドプレーから、政府内部の抗争は大隈派の追放とい
う形で決着がつきます。

薩長藩閥勢力は、同時に、10年後の国会開設を公約し、国会の権限論議を中心に憲
法作成作業を民権勢力を排除してすすめていきます。民権派は国会開設を前提とし
た(要するに権限に関する論議を省略して)政党活動へと比重を移していきます。

その一方で、財政政策の転換にともない、民権派のなかでの混乱−方針の対立と乖
離−がはげしくなっていきますが、それは次回の話。

ふ〜ぅ。



00186/00186 GED01324  つかはら         日本史】近現代史を教える(6)
( 6)   95/06/21 20:10  00141へのコメント

この連載ですが、別に授業の実況を中継しているわけではありません(^^;。
ある意味で 私の予習のための(そして今後のための)整理です。
受験日本史は 覚えなければならないとされる語句が非常に多いわけですが、
それらをいかに グルーピングし、さらに それらをラベリングしていくのか
そのひとつのネタを提供し、さらにそれに対するリアクションから 私自身
の 処理の仕方を検証していければな と 思ってやっております。

と 改めて 能書きを垂れておきます(^^;。

文字化けしている文字があると思いますが、それは丸付数字です(^^;。
そこまで全部、修正するのは手間なんで、そのままアップしちゃってますが、
ご容赦をm(..)m。
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第6回 自由民権運動の転換

松方大蔵卿による財政政策の根本的転換の内容を確認するとともに、そのなかで自
由民権運動の分解と変質(国会の権限などを問題にせず、政府が用意する国会の開
設を前提に政党準備へ)が進んだことを確認する。

大久保政権下の殖産興業政策は豪農層の経済力(民間活力)の涵養が第1であり、
地租改正が完了していないという、財政基盤が脆弱な状態でそれをすすめるため
に、不換紙幣の乱発というインフレ政策を展開せざるをえなかったわけです。
ところが、そうした基調をもつ大久保政権の施策がもたらしたものといえば、それ
は(1)豪農層の政治勢力としての成長であり(地方自治にとどまることなく、国
政への発言権を求めるにいたる)、(2)国家財政の破綻の危機です。

このことが前回の最後に登場した明治14年の政変の前提であり、それに対する対
応策のズレが、集団指導体制にあった明治政府の分裂を招いたといえます。

つまり、まずは(2)からですが、財政基盤を強化するために(それまでのインフ
レ政策をある程度は修正しつつも−工場払い下げ概則の制定−)外債を募集するこ
とで乗りきろうとする大隈−基本的には大久保政権下の経済政策の継承:なお、輸
出伸張を目指して横浜正金銀行を設立して貿易金融の便を図っている−、それに反
対し、殖産興業政策からの転換=財政の緊縮をもとめる松方、という対立があり、
さらに(1)については、国会を開き−官民調和をはかりつつ−議院内閣制により
政府の安定化をめざす大隈と、国会開設の必要性を認識しつつも(だからこそ大隈
や福沢らと官民調和を実現させるための新聞発行を準備しようとしていた)開設に
は時期尚早の態度を取り、かつ議院内閣制を否定する伊藤・岩倉(や保守派の薩摩
系)という対立があったわけですが、
開拓使官有物払い下げ事件と大隈が独断で国会開設の意見書を提出したことをきっ
かけに、薩長藩閥による政権独占と財政政策の転換が進行することになったわけで
す。

このことをうけて、まず(2)に関して、財政政策の転換が具体的にどういう形で
すすめられたのかを確認し、そして(1)に関して、その財政政策の転換が豪農層
ならびに彼らの担う民権運動にどのような影響を及ぼしたのかを、ここの単元で確
認していきます。

**************************************************************************
A 1881年に大蔵卿に就任した【@大隈重信 松方正義】は殖産興業政策の転換を
  はかって政府の財政基盤を確立させようとした。
B 一部の官営事業を民間に払い下げて歳出を削減するとともに,間接税の増税な
 どで歳入を確保することによって【A緊縮 積極】財政を実施し,不換紙幣の回
 収に乗り出した。
C 1882年日本銀行を設立し,ここに紙幣発行権を集中した。そして1885年から兌
 換銀行券の発行を始めて【B金 銀】本位制を確立し,日本銀行を頂点とする信
 用制度を完成させた。
**************************************************************************
まずは松方財政そのものを確認します。

1881年に大蔵卿に就任した松方正義が進めた財政政策を、(1)財政緊縮−増税と
軍事費を除く徹底的な支出の削減(その具体策として官営事業の払い下げなど)に
よる財政黒字の捻出−、(2)紙幣整理−黒字をつかって不換紙幣を回収し、通貨
流通量を減少させて1円紙幣<1円銀貨という状態を解消し、1円紙幣=1円銀貨
という状態に近づける−、(3)兌換制度の確立−黒字を使って正貨を蓄積、1882
年に中央銀行として日本銀行を設立、ここの銀行券発行権を集中したうえで(国立
銀行から発券権を取り上げる)、1885年から銀兌換の日本銀行券を発行させた−の
3本柱で確認し、その結果、通貨価値(信用)が安定して物価も安定、ようやく国
家財政が安定・確立するに至ったことを確認します。

**************************************************************************
D こうした一連の財政政策の結果,【Cインフレ デフレ】がおさまって財政は
 健全化したが,かえって深刻な【Dインフレ デフレ】がおこって米や繭など農
 産物価格が下落したため,豪農のなかにも経営危機に陥り,土地を手放すものが
 多かった。
E そうしたなかで没落農民と地主や高利貸との間で対立が激化し,没落農民たち
 が自由党急進派と結託して各地で武装蜂起した。まず1882年福島県令【E  】
 が行った圧政に対抗して,県会議長河野広中ら自由党を中心に農民が蜂起した
 が,徹底的な弾圧を受けた。
F 1884年には福島・栃木県令を兼任した【E】の暗殺を自由党員が画策した【F
   】事件が起こり,自由党は事態を収拾できずにみずから解散した。
G さらに埼玉県の没落農民が困民党を組織し,借金取り消しなどを要求して武装
 蜂起した【G  】事件など,各地で大規模な実力行動が起きたが,軍隊・警察
 により鎮圧された。
**************************************************************************
松方財政の民権運動に与えた影響を確認する。

松方財政によるデフレの発生(物価、とりわけ米価や繭価の下落)は、大久保政権
下の殖産興業政策(そして大隈財政下のインフレ)を背景に経済的に成長をとげて
いた豪農たちを直撃します。とりわけ、最大の輸出産業である製糸業、またはその
原料を供給する養蚕業をいとなむ人々を直撃し、その結果、借金の返済におわれ、
土地を手放す豪農も出現します。
ここでは松方財政の影響を、この豪農層の階層分化の激化とそれにともなう激化事
件の発生にしぼります。松方財政が地主制の成長・資本主義の形成過程に与えた影
響についてはここでは省略し(前後のつながりが悪いため)、後に資本主義形成の
話をおこなう際にやります。

さて、激化事件は、いま触れた没落農民の発生という状況をひとつの背景としてい
ますが、一方で政府の徹底した弾圧姿勢(あるいは民権運動に対する分断工作)を
もうひとつの背景ともしています。それが象徴的にあらわれているのが福島事件で
あり、その延長線としての加波山事件です−なお、この加波山事件で爆裂弾が使用
されたことが自由党幹部に大きな衝撃をあたえ、自由党の解党をもたらしてしまい
ます−。
他方、激化事件のなかで最大の騒乱であった秩父事件は、文字通り没落農民たちが
博徒の親分を中心に武装蜂起したできごとであり、自由党の指導・影響がきわめて
すくなかった事例です。

こうして自由党左派や没落農民(そして博徒)による激化事件が多発するなか、先
にも触れたように自由党は解党し、また立憲改進党は大隈らが脱党して活動を事実
上停止させてしまいます。

こういう状況の中で民権派はきちんとした憲法・国会論議をする余裕もなく、国民
の知らない所で、政府による制憲作業が着実に進んで行くわけです。

**************************************************************************
H 自由民権運動はもともと国家の独立と対外進出をめざす【H  】論の主張と
  深く結びついていた。1875年以来の日本の内政干渉に対して朝鮮で反日感情が高
  まり,清国との対立が深まると,清国に対する強硬論がしだいに強まった。
I 朝鮮で甲申事変が起こると,【I  】・景山英子らは武力によって朝鮮の内
  政改革を実現しようとして朝鮮渡航を計画したが,1885年【J  】事件で逮捕
  された。また福沢諭吉は,朝鮮・清国との連帯を強めて両国の近代化を進めよう
  とする主張を転換させ,日本も欧米諸国とともに東アジアの分割に加わるべきだ
  という【K  】を新聞「時事新報」に発表した。
**************************************************************************
民権運動が国権拡張をも求める運動であったことを確認する(ちょっとこれは、こ
この文脈では難しいかもしれません。どちらかといえば、次の次に日清戦争へ至る
過程を確認しますが、そこで触れる方が楽だとも言えます(^^;)。

激化事件の多発により民権運動が後退する一方で、朝鮮情勢の変化に伴い民権運動
の中で国権色が前面に出てきます。文明開化意識に規定された対外進出論の台頭で
す。そもそも民権の伸長をめざす自由民権運動は、国権の確立・海外への進出をめ
ざす国権論とふかく結び付いたものでしたが(征韓論者が民権運動の口火をきった
こと)、日本による指導への朝鮮側の反発と朝鮮に対する支配力の確保(内政干渉
の実施)をめざす清との緊張関係の発生とに触発されて、その国権色を強くしま
す。
日清戦争の勃発に伴って、対清・朝鮮蔑視の傾向、欧米と同等に東アジア分割への
参加をもとめる傾向が強くなっていきますが、激化事件に伴う民権運動の後退局面
においてもすでに傾向が見えてきているわけです。

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J 激化事件以降,自由民権運動は沈静したが,国会開設を目前にした1886年星亨
  ・後藤象二郎らを中心に【L  】運動がはじまり,民権家の再結集がはかられた。
K 【M  】外務大臣の条約改正交渉に対して政府内部でも反対がおこると,
  1887年には地租軽減・言論集会の自由・外交失策の挽回を求める【N  】運動
  が全国で展開した。
L 第1次伊藤内閣は1887年に【O  】を発して民権家を東京から追放し,さら
  に大隈重信を外務大臣にすえ,後藤象二郎を逓信大臣として入閣させて運動の分
  裂を図った。
************************************************************
復活してきた民権運動がどういうものであったかを確認する。

デフレが落ち着き、景気の回復傾向が見え始めたのが1886年ころですが、そのころ
からようやく民権運動にも復活のきざしが見え始めます(この時期は綿紡績・鉄道
を中心に株式会社ブームが始まった時期でもあります)。国会の開設をひかえ、民
権派の結集を目指そうとする動きです(それが井上外交への反発を機に三大事件建
白運動ヘと発展します)が、すでに国会の開設は前提とされており、国会の性格論
議は後景にしりぞいています。
政府による憲法制定を前提とする政党活動に運動が限定されてしまったわけです。
その理由については、松方デフレによる豪農層の階層分化(と激化事件の発生)に
より、豪農民権段階に存在した学習会活動とそれを中央が集約するというシステム
が機能しなくなり、そうして憲法論議などの相互の啓蒙・学習活動が進まなくなっ
てしまった(あるいは広範な形で成立し得なくなった)ため、といえるのかなと、
私は想像しています(実証ぬき(^^;)。


00205/00208 GED01324  つかはら         日本史】近現代史を教える(7)
( 6)   95/06/28 18:29  00186へのコメント

文字化けしている文字があると思いますが、それは丸付数字です(^^;。
そこまで全部、修正するのは手間なんで、そのままアップしちゃってますが、
ご容赦をm(..)m。
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第7回 立憲国家の成立

藩閥がどのような形で政治支配を機能させていこうとしたか(天皇に権力を集中さ
せつつも、天皇を政治から除外→各国家機関を元老が人的に統合)、公選制の議会
は明治憲法体制の中でどのような位置を占めているのか、この2点を確認する。

 ただ、明治憲法のもとでの立憲体制、とりわけ行政府と公選制の議会との関係に
 ついては、初期議会(とくに第3議会までの動向)ならびに伊藤博文がどうして
 自ら政党を組織しようとしたのかを具体的にみることによって確認する方がよい
 ように思います。さらに、以下の短文のなかには軍隊に関する話も入っています
 が、ここで触れるよりも、日清戦後の政治運営−とくに第2次山県内閣の施策の
 なかで確認するのが確認しやすいと思います。また、さまざまな天皇大権につい
 ても、ここでは緊急勅令と外交に関する大権にとりあえず触れておくだけで、統
 帥権については日露戦後の政治運営とともに確認する方が整理しやすいと思いま
 す。つまり、ここでは、天皇中心の体制がどのような形式として整備されたのか、
 公選制の議会がどのように位置づけられていたのかが把握できればよいのではな
 いかと考えています。

**************************************************************************
A 政府は【@欽定 民約】憲法制定の方針を定め,伊藤博文を中心にその準備に
 着手した。
B 伊藤は渡欧してドイツ憲法について学び,帰国後,【A  】・伊東巳代治・
 金子堅太郎らとともに,ドイツ人法律顧問【B  】の助言を受けつつ憲法草案
 の起草にあたった。
C この間,1882年に【C  】を発布して軍人の政治関与を禁じ,軍人が天皇に
 直属することを明確にする一方,前後して陸軍【D  】,海軍【E  】とい
 う軍令機関を整備した。
D 二院制議会開設の準備として1884年に【F  】を制定した。新たに公・侯・
 伯・子・男爵の五等の爵位を設け,明治維新の功労者にも爵位を与えて皇室を守
 る特別の身分とした。
E 1885年には太政官制を廃止して【G  】制度を創設し,内閣総理大臣(首相)
 と国務大臣(各省の長官)によって行政府を構成することとした。
F さらに行政府と宮中を明確に区別するため,天皇を補佐する【H  】を設置
 して三条実美を任命し,宮中事務を取り扱う機関として宮内省を行政府である
 【G】の外に独立させた。
G 憲法草案は,1888年に創設された【I  】で審議され,1889年2月11日大日
 本帝国憲法として発布された。同時に,憲法にならぶ基本法典として【J  】
 が定められ,皇位の継承や皇室財産については議会など外部からの干渉が一切排
 除された。
**************************************************************************
自由民権運動に対抗しつつ、藩閥主導の官民一体を実現させるべく、1881年に国会
開設が公約されたわけですが、それに備えるべく進められた憲法草案の作成とそれ
にともなうさまざまな政策の実施の経過を、まずは確認しておく(Cについては省
略)。

まず、憲法は天皇が制定して国民に下すという形式をとり(欽定憲法)、国民には
秘密のうちに制定作業がすすめられます。伊藤らがヨーロッパに派遣され、ドイツ
などで憲法理論の調査・研究をおこなってきます(普通、ベルリンとウィーンの話
が強調されますが、イギリスにも滞在していたようです)。そうして伊藤らは、18
84年に日本に帰国し、ここから立憲体制作りの準備が本格的に始まります。
言いかえると、国会開設により国民が国政に参与することになるという事態に対処
するための方策をたてられていったわけです。

国会については二院制の採用とし、華族令で明治維新の功臣を新しく華族に加え
て、公選制の下院に対抗するための上院設置にそなえます。
さらに、岩倉の死去(1883年)にともない、実権をもつ参議が天皇を輔弼できない太
政官制を廃止し、各省の長官(それまでは卿)である国務大臣と内閣総理大臣とに
よって構成され、それぞれが天皇を輔弼する内閣制度を創設します。とともに、内
閣=行政府と宮中との区別を明確にし、天皇ならびにその宮中が政治に関与するこ
とを極力排除できる体制をとった。つまり、天皇を中心とする−天皇親政を建前と
する−体制のもとで、天皇に政治責任が及ぶ恐れをできる限り回避しようとしたわ
けです(一方では天皇側近グループの政治関与を封殺する効果もあった)。

こうした準備作業が進む中で、伊藤を中心に憲法草案の作成もすすみ、草案の完成
した1888年には草案審議のために枢密院が設置され、そこでの審議を経て、翌年の
紀元節に大日本帝国憲法として発布されます。と同時に、憲法にならぶ国家の基本
法典として皇室典範を制定し(国民に発布はしなかった)、皇位の継承などを規定
します。

つまり、天皇を中心とする体制をつくりあげつつ、天皇を国民からは直接見えない
存在として、国民が直接は接触・関与できない存在として(ポインタはついている
けど、リンクがはられていないWWWのようなものでしょうか(^^;)、奉りあげられ
ていったといえます。そのことが、憲法において具体的にどのように規定されてい
るのかを、次に憲法の条文にしたがって見ていきます(受験が目的だから生徒は聞
いていますが、はっきり言って面白くないでしょうね。その意味で、初期議会の過
程のなかで、内閣と衆議院の関係を中心に見ていく方がドラマ的で面白いですね)。

**************************************************************************
H 憲法では,天皇は国の【K  】を総攬し,宣戦・講和・条約締結などの外交,
 軍隊の統帥,官吏の任免,緊急勅令の発布など広範囲な【L  】を保有する存
 在と規定された。
I 国民は天皇の臣民とされ,【M  】の範囲内において,所有権の不可侵,部
 分的な信教の自由,言論・出版・集会・結社の自由を与えられた。
**************************************************************************
まずは「天皇」と「臣民」から確認していきます。

大日本帝国は「天皇」(ならびに皇族)と「臣民」とによって構成されていたわけ
です。天皇は神話にもとづいて日本を統治する存在であり、神聖で不可侵な、超越
的な存在(現人神)であります。それに対して一般の国民は、その天皇の「臣民」
というわけです。

これは天皇を国家のまとまりの基軸、いいかえれば国民統合の精神的な基軸にすえ
たということです。

ここの部分が日本の国家体制(国家・国民としてのまとまり)をめぐる規定だと言
えます。これによって、国家体制の不変性を確保しようとしているわけです(しか
し、神聖で不可侵な存在であると規定しなければならないというのは、逆に天皇の
地位の不確定さをしめすものと評価できるともいえます)。

この部分と国家の運営(政治体制)をめぐる規定とは区別しておいた方がわかりや
すいですね。つぎはその政治体制についてです。

**************************************************************************
J 【N  】・衆議院の2院からなる帝国議会が設けられたが,単独の立法権は
 なく,その権限は天皇の立法権の【O  】に限られていた。しかし,法律の制
 定や予算の決定には必ず議会の承認を要するものとされ,国政運営において大き
 な影響力をもった。
K 衆議院議員は財産にもとづく制限選挙のもとで選出された。衆議院議員選挙法
 では,選挙権は満【P  】歳以上の男子で直接国税を【Q  】円以上納めた
 ものに限定された。
L 内閣は各国務大臣がそれぞれ単独で【R天皇 議会】を輔弼し,【S  】に
 対して責任を負ったが,議会に対する責任は明らかでなかった。
M 伊藤博文・黒田清隆・山県有朋ら,藩閥の長老たちは,天皇側近の最高顧問と
 して【チ  】とよばれて内外の重要政策の決定や後継首相の選任に当たり,絶
 大な勢力をもった。
**************************************************************************
天皇が統治権を総覧する以上、さまざまな国家機関はその権力の源泉を天皇にもち
ます。ところが、その天皇が政治から除外されるために、その諸国家機関の独立性
が非常に強くなってしまうわけなんですが、その不備を人的なネットワークでもっ
て補ったのが藩閥であり、そういう形で藩閥が国家運営の主導権を握ったわけで
す(だから、その人的ネットワークが機能しなくなったときに 各国家機関のセク
ショナリズムが大きな問題になってきます)。

なかでも伊藤・山県ら藩閥の実力者が元老として重要政策の決定に携わることにな
りますが、直接的には、国務にかかわるさまざまな事項の協議は、天皇の輔弼機関
として規定された内閣(もっとも憲法では内閣そのものは規定されていませんが)
が担当します。

 この内閣は天皇を輔弼する機関として天皇に対して責任を負うものとされていま
 すが、議会に対する責任については、規定されていないのですから、不明確であ
 る(あるいは、責任を負うわけでもないし、負わないわけでもない)としかいえ
 ません。つまり、議会に対する責任がないとは断言できないわけです。

 むかしむかし、京都のとあるR大学が 50字程度の論述で 大日本帝国憲法では
 内閣はどのように規定されているか という問題を出題したことがありましたが、
 ちょいと無理な出題だったと思います。どのような基準で採点したのか、知りた
 いです(^^;。

それに対して、立法機関である帝国議会です。

明治憲法においてはすべての統治権が天皇に集中している以上、帝国議会が天皇と
は独立した形で立法権をもっているわけではありません。つまり、帝国議会は法律
なり予算なりを審議して、その内容に同意・不同意を与えることはできますが、基
本的に天皇の裁可がなければその帝国議会の意思表示は効力を発揮しないわけです。

もちろん、それは形式面での話で、先にも触れたように天皇が政治からほぼ除外さ
れることになっている以上、帝国議会の決定に天皇が不同意を与えることはほぼあ
りません(しかしそれは運用上の問題であり、形式面から言えば、その可能性を消
し去ることはできませんが)。

このことは、帝国議会の動向が内閣の政策立案・実行を大きく左右するということ
でもあります。内閣が行政をおこなう上で必要な法律・予算は帝国議会の同意・承
認が不可欠なわけですし、帝国議会もその権限の源泉を天皇にもっている以上、内
閣とは相対的に独立した地位を保持しています。

そして、そのように行政府とは相対的に独立した存在であるがゆえに、帝国議会は
二院制がとられ、公選制の衆議院(選挙資格から言えば中規模以上の地主の利益を
代弁する存在−もちろん議会は利益を代弁するとともに利益を誘導する存在です
が)に対抗する存在として、皇族・華族などによって構成される貴族院が設置さ
れ、衆議院とほぼ対等の権限が付与されています(衆議院が貴族院よりも優位であ
ったのは予算を先に審議する権限のみ)。公選制の衆議院を包囲する仕組みがとと
のえられたと言えます。

とはいえ、予算先議権を衆議院が有していたことは、衆議院の動向が内閣の政策立
案・実行を大きく左右することになります。そのことが具体的にあきらかになった
のが、初期議会なわけです。

 藩閥(黒田と伊藤)は憲法発布に際して、内閣は政策の立案・実行に際して政党
 には左右されないという超然主義の意向を表明しますが、1890年に開催された帝
 国議会では、民権運動の系譜をひく政党が過半数を占め、予算審議権をフルに活
 用して藩閥内閣に対抗していきます。結局、藩閥は買収・衆議院の解散と選挙干
 渉・天皇の詔勅といった非常手段でしか、議会運営をおこなうことができなかっ
 たわけです。公選制の議会に対抗して、天皇の存在・権限を背景に藩閥が(いわ
 ば恣意的に−それを国家本位=中立的と表現するわけですが−)政治を領導する
 という体制は、憲法の存在ゆえに制約されることが、初期議会の中で明確になっ
 ていきます(日清戦後の山県なり伊藤なりの動向を規定します)

**************************************************************************
N 地方制度は,内務大臣を経て首相となった【ツ  】がドイツ人法律顧問【テ
   】の指導のもとで整備し,1888年に市制・町村制,1890年に府県制・郡制を
 制定した。
**************************************************************************
諸制度については、家制度・刑法などについても触れるべきなのでしょうが、ここ
では地方制度のみに限定しておきました(明治維新からここまでの過程を戸の編成
からボアソナード民法−こういういい方を普通はしないな−、明治民法へと、家制
度の確立過程を軸としてみていくという視角も必要でしょうね)。とくに、北海道
と沖縄が特別な地域として残されたことは確認しておきたいと思っています(たと
えば衆議院選挙法が実施されるのは、北海道は1900年、沖縄は1912年のことです)。


00345/00347 GED01324 つかはら RE:日本史】近現代史を教える(7)補足 ( 6) 95/07/12 15:32 00205へのコメント 「輔弼」とか「協賛」とかの憲法用語は なにやら やたらと難しいですが、英訳す ると 非常に簡単な英語になってしまいます。 輔弼 = advice 協賛 = consent

00337/00337 GED01324  つかはら         日本史】近現代史を教える(8)
( 6)   95/07/11 13:49  00205へのコメント

しばらく滞っていましたが 第8回目です。

文字化けしている文字があると思いますが、それは丸付数字です(^^;。
そこまで全部、修正するのは手間なんで、そのままアップしちゃってますが、
ご容赦をm(..)m。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

第8回 東アジアの緊迫と条約改正

受験ですので、条約改正をある程度網羅的におさえておく必要があります(なにし
ろけっこう出題されるんですよね)。ですからこの単元にまとめておきました。そ
ういうわけで、この単元の短文リストはちょっとまとまりに欠けています(^^;。と
はいえ、最初と最後をとり除けばまとまりはあります。

基本的には

(a)欧米に追随しつつも、欧米に対抗し(それゆえに東アジア諸国の提携論も登場)
(b)東アジアにおいては清に対抗する(東アジアにおける盟主の地位をめぐる争い
 →朝鮮・琉球はその手段とみなされる)

これを日本の基本的な外交姿勢として設定した上で、日本による朝鮮の開国から日
清戦争勃発の直前までを俯瞰していきます。そして、条約改正・初期議会について
も その過程の中に位置づけ、外交と内政を完全に組み合わせて ほぼ年代順に講義
していきます。

 ちなみに、日本の対外進出の方向は
 (1)朝鮮->満州・山東省
 (2)琉球->台湾・福健省
 という2方向あったわけですが結局、(1)のなかで、朝鮮において、朝鮮政府・
 民衆と清との軍事的緊張関係が直接的なものとして生じたことが(ロシアの極東
 進出の本格化もありますが)、”富国”強兵から富国”強兵”への比重の変化を
 次第にもたらしていったと言えます。
 なお方向性としては、(3)北海道->千島・樺太、(4)小笠原諸島->南洋 の
 2つを追加してもいいとも思います。地政学的には東シナ海・日本海・オホーツ
 ク海と北西太平洋地域を内海に包摂しようとする傾向という風に把握できます。

ただここで注意しておきたいのは、朝鮮は単なる舞台でも客体でもないことです。
日清・日露戦争の過程の記述をみていると、ときどき朝鮮が単なる舞台になってし
まっている例が多いですしね。

**************************************************************************
A 1871年右大臣【@  】を中心とする使節団が欧米に派遣され,条約改正の予
 備交渉を打診するとともに,欧米の政治や産業の発展ぶりを視察して帰国した。
B 大久保政権のもとで外務卿【A  】が【B領事裁判権 関税自主権】の回復
 をめざして条約改正交渉を行った。アメリカの同意は得たが,イギリスなどの反
 対により失敗した。
**************************************************************************
ここは簡単に済ましてしまいます。

**************************************************************************
C 日本は【C  】で朝鮮を開国させ,内政にも干渉した。そのため1882年反日
 を掲げる暴動がおこり,この【D壬午 甲申】事変をきっかけに清国が朝鮮への
 内政干渉を強めた。
D 朝鮮の近代化の実現を急ぐ金玉均らの【E事大 独立】党は,1884年日本の援
 助を得てクーデターを起こしたが,失敗した。これを【F壬午 甲申】事変とい
 う。
E 日本・清国の両国は1885年【G  】条約を結び,朝鮮から撤兵した。これ以
 後,日本は清国に対抗するための態勢を徐々に整えていった。
**************************************************************************
日本の朝鮮進出には2つの契機があったように思います(冒頭での話を少し変形し
ています -> 授業ではたいていは冒頭のまとめから話を進めますが)。

 (1)朝鮮・清の近代化・文明開化を日本が指導し、欧米の侵略に対抗できる体
    制を整えようとする
 (2)清を頂点とする東アジアの伝統的な国際秩序と英露の極東侵略とに対抗し
    て日本の自主独立を確保するために、防波堤として朝鮮の独立を日本の指
    導のもとで確保する(清なりロシアなりの影響力を排除できればよい)

ところが、その試みは朝鮮民衆の反発を招く(壬午軍乱=下級兵士とソウルの都市
貧民による日本公使館襲撃とそれに乗じた大院君のクーデター)とともに、宗主国
清(冊封体制のもとでは本来は内政干渉はしないもの)の警戒・内政干渉による朝
鮮の属国への再編成をめざす動きを誘い出してしまいます(壬午軍乱以降の動き=
軍隊駐留と内政干渉)。
さらに、朝鮮の文明開化・近代化をすすめようとする朝鮮政府内の人々のなかで
も、日本の支援を求める動きもあれば清との宗属関係のもとでそれを実現しようと
する動きもありますし、そのうえ、近代化政策は−明治維新でもそうであったよう
に−伝統的な生活を破壊していきますから、朝鮮民衆の反発を招く結果となり、そ
のために政策の失敗の責任を追及されて急進的な開化派は朝鮮政府内部で次第に孤
立していきます。
このように、朝鮮をめぐる日本と清との覇権争いにあわせて、近代化の遂行にとも
なう朝鮮政府内部の内紛の激化・朝鮮民衆の反政府的動向により、朝鮮半島情勢は
著しく緊迫していきます。

そうした時にベトナムでの主導権をめぐって清仏戦争が勃発し、清の形勢不利が伝
えられます。朝鮮に駐留する清国軍隊の削減を予想した開化派はクーデターによる
政権奪取を計画し、影響力回復を策す日本は開化派支援をきめます。その結果遂行
されたのが甲申政変ですが、予想に反して清国軍隊の撤退はわずかにすぎず、清国
軍隊の圧倒的な兵力の前に開化派のクーデター政権は崩壊、日本も軍事的敗退を喫
します。この日清間の軍事的緊張の高まりは天津条約の締結で緩和されますが、日
本の影響力の後退という結果に終わります。
 もっともだからといって、清による朝鮮の属国への再編が順調に進んだというわ
 けではなく、天津条約により日清両軍の朝鮮からの撤退が規定されますし、甲申
 政変後には、朝鮮政府の内部でも清の勢力強化に対抗しようする動きがみられ、
 そのなかでロシアの影響力が強まることもあったようです(それがイギリスの巨
 文島占拠事件を誘引します)。

ここの段階で前々回にでてきた大阪事件・脱亜論を再度確認しておきたくのがよい
のかもしれません。文明開化意識に規定された指導者意識が、この壬午軍乱・甲申
政変を通じた朝鮮・清との対立を契機に、朝鮮・清を「野蛮」と規定し、それらの
国々に対して暴力的態度でもって接していこうとする傾向(軍事的圧力を背景に、
日本にとって有利な形での近代化・独立の確保を実現させる)として、露骨な形で
あらわれていきます。
もともと自由民権運動は、人々の国政への参加権を政府へ要求するとともに演説
会・学習会活動などでの啓蒙を通して国民意識の形成を促していたというレベルに
おいてすでにナショナリズムを内包していますし、出発点が征韓論であったことに
象徴的にうかがえるように(民撰議院設立建白書では人民が国家と一体になること
によって強い国家の基礎が整うのだというようなことを言ってますしね)、対外的
独立だけではなく対外的進出への志向も強く持っていました。
だからこそ、激化事件とそれを契機とする民権運動への政府の弾圧強化によって民
権運動が行き詰まりをむかえるなかで(自由党の解党・大隈らの脱党による立憲改
進党の活動停止)、朝鮮情勢の緊迫にともなって、次第に海外雄飛、さらには対外
侵略の主張へとその比重が移っていったと言えます。政府に追随するのではなく、
逆に政府を鼓舞し、政府の対外政策の先をいくことによって政府批判を展開したと
言ってよいでしょう。

他方、政府はこの壬午軍乱・甲申政変を契機に清に対抗できる軍事力の整備(なに
しろこの段階では完全な劣勢)へと進むことになります。内乱鎮圧型の鎮台制にか
えて大陸戦を想定した師団制を採用するとともに、兵役免除規定をほぼなくして国
民皆兵を実現させます(→だからこそ松方大蔵卿の緊縮財政策のもとでも軍事費が
削減されることはなく、逆に軍備拡張のための増税が行われることになり、豪農層
の階層分化に拍車をかけることになります)。もっとも、財政難が続いていたこと
もあって山県や西郷のような軍首脳の主張は退けられて軍拡はスローテンポで行わ
れていきます。

**************************************************************************
F 【H  】外相は【I領事裁判権 関税自主権】の撤廃をめざして条約改正交
 渉をおこなった。しかし,外国人判事の任用を認めていたことなどに対して,政
 府内外から非難をあびた。
G フランス人法律顧問【J  】や農商務相谷干城らが反対の意見書を提出し,
 民間では地租軽減・言論集会の自由・外交失策の挽回を掲げる【K  】運動が
 おこった。
H ついで外相に起用された【L  】の改正案も,外国人判事を【M  】に任
 用することを認めていたため反対にあった。
**************************************************************************
さて、そのように朝鮮情勢が緊迫を迎えていた1880年代初頭は井上外務卿のもとで
徹底した欧化政策による条約改正の試みが本格化し始めたころでした。
つまり、1880年代前半は松方大蔵卿によって通貨の信用安定を実現させて国家財政
を確立するためのデフレ政策が進められ、伊藤を中心に憲法制定が準備され、さら
に憲法を軸とする法制度の整備が進められる一方で、領事裁判権の撤廃を中心とす
る条約改正交渉が行われつつあったのです。国家が制度として次第に整いつつあっ
た過程です。

ところが、井上・大隈外交には国民のあいだから(そして政府部内からも)批判が
出ます。井上外交に対しては三大事件建白運動が民権派・国権主義者をも含んだ運
動として展開し、大隈外交に対しても世論が沸騰して最後には大隈が玄洋社の来島
恒喜から爆裂弾を投げ付けられます(加波山事件の際に準備されていた爆裂弾が使
われたとのことです)。
先にも確認したように、もともと民権運動は国民が一体になって国家としてのまと
まりを作りあげることによって強い国家を築きあげようとする動向だったわけで
す。ですから、極端な欧化政策ならびに 外国人判事の任用という問題が そのナシ
ョナリズムの部分を大いに刺激したと言えます。

1880年代前半の対清・朝鮮強硬論を継承する形でもりあがりを見せた この条約改
正反対運動は、1890年代前半の条約改正をめぐる対外強硬論につながっていきます
し、そうした動きを土台として、「藩閥主導の、上からの文明開化=欧化」に対抗
する形で「国民主導の、下からの文明開化=伝統尊重」と特徴づけられるナショナ
リズム思想が1880年代末にジャーナリズムに登場することとなります(ですから、
いわゆるナショナリズム思想は社会的弱者に対する共感・支援の傾向をもちますが、
同時に排外的要素、そして他に対する優越意識をもつ傾向があります)。

**************************************************************************
I ロシアが1891年【N  】鉄道の建設にのりだすなど,東アジアへの進出を本
 格化させると,イギリスは日本がロシアの南下策に対する防壁として役立つこと
 を期待しはじめた。
J 【O  】外相の条約改正交渉は,イギリスとの間で妥協が成立しかけた。し
 かし,1891年訪日中のロシア皇太子が傷つけられる【P  】事件が起こり,失
 敗に終わった。
**************************************************************************
次に、日本をめぐる国際環境の変化を確認します。

日本国内で国権論−対清・朝鮮強硬論から条約改正反対運動へ−が前面に出始めた
 その時期、極東における英露の対立はしだいに激しさを加えていきます。シベリ
ア鉄道の起工に象徴されるようにロシアの極東進出が本格化し、中国で支配的地位
を誇ってきたイギリスがそれに対して次第に危機感を高めていきます。
そうした東北アジアにおける英露の緊張の高まりが、立憲体制を整えつつあった日
本の国際的な地位を相対的に高めます。つまり、ロシアの極東進出を警戒しつつ
も、必ずしも余力のないイギリスが、日本がロシアの南下に対する防壁として役立
つことを期待し始めるわけです。それが条約改正交渉におけるイギリスの態度の変
化となってあらわれます。
とはいえ、その条約改正交渉も結局、ロシアの極東進出の余波ともいえる大津事
件(シベリア鉄道の起工式に出席する途中に軍艦7隻を率いて日本を親善訪問[長
崎→瀬戸内海→神戸→京都]したロシア皇太子ニコライが襲われた)により頓挫し
てしまいます。

つまり、イギリス・ロシア(要するに欧米諸国)の植民地市場争奪戦が極東におい
ても本格化するきざしがみえはじめたことが、日本の国際的地位の相対的な上昇を
もたらして条約改正を具体的に実現可能なものとするとともに、他方では、日本の
自主独立の確保のためにも朝鮮への勢力回復(日本の保護のもとでの朝鮮の独立の
確保)をめざそうとする動きに拍車がかかったと言えます。

**************************************************************************
K 1890年から開催された帝国議会では,軍備拡張をめざす藩閥内閣と【Q  】
 ・【R  】を主張する政府反対派の自由党・立憲改進党とが激しく対立した。
L 藩閥は,政党に左右されずに政治をおこなうという【S  】の立場を表明し
 ていたが,第二次伊藤博文内閣は予算を成立させるため,次第に政党にあゆみよ
 った。
**************************************************************************
帝国議会開催→山県首相の主権線・利益線演説

ちょうどその時期は帝国議会が開催された時期でもあります。
藩閥内閣は、政策の立案・実行については政党には左右されないという超然主義の
立場をとりつつも、予算については帝国議会の承認を得なければ成立しないわけで
すから、予算案をまずは衆議院に提出することになります。その予算案には清に対
抗しうる軍備を確保するための海軍拡張費などが含まれていました。

1890年に第1回総選挙が行われますが、その結果は民権派の系譜をひく勢力の圧勝
でした。もっとも、第1次伊藤内閣への大隈の入閣、黒田内閣への後藤の入閣など
の影響で、大同団結運動は完全な失敗に終わって民権派の結集は成功しておらず、
民権派は四分五裂の状態でした。帝国議会の開催直前に旧自由党の再結集は図られ
ますが(立憲自由党)、立憲改進党との合同は実現しませんでした。
このように2派の対立が残ったものの、第1議会の開催に際しては両党そろって「
経費節減」「民力休養」を掲げて藩閥内閣に対抗していきます。つまり、地租など
の租税負担の軽減をもとめて予算の削減をおこなっていくわけです。なんといって
も、民権派の系譜をひく両党は、中規模以上の地主を支持基盤としており、彼らの
利益を国政レベルにおいて代弁する存在だったわけです(まだ初期議会の段階で
は、藩閥内閣が超然主義の立場をとっていたこともあって、政党は利益誘導の機関
としての役割をほとんどまったくといってよいくらい果たしていませんね)。

それに対して、藩閥の第1次山県内閣は、主権線・利益線演説でもって予算成立へ
の衆議院の協力を求めます。つまり、日本の自主独立確保のためには国境(主権
線)の防御だけでは足らず、近隣の朝鮮半島(利益線)の保護・確保が必要であ
り、そのためにも軍備拡張が不可欠であることを強調し、予算案の議会通過をめざ
します。
ところが、立憲自由党・立憲改進党は予算案を徹底して削減する動きにでて、山県
内閣の議会運営は完全に機能停止に陥ってしまいます。それを打開したのが陸奥農
商務相を使った立憲自由党への買収工作でした。
つづく第1次松方内閣のもとでの第2議会でも同様に自由党・立憲改進党の予算削
減の動きはやみません。ところがその1891年と言えば、前述のロシア艦隊の親善訪
問を受けた年ですし(4月のこと)、さらには清国艦隊6隻の東京湾への親善訪問
も受けます(7月)。そういう状況の中で樺山海相の蛮勇演説が飛び出すわけで
す。それが翌年の第2回総選挙の呼び水となります。

その第2回総選挙では品川内相の指揮による選挙干渉が行われ、死傷者も多数でま
す。にもかかわらず自由党・立憲改進党は多数を確保することができたわけです。
それが第1次松方内閣の倒閣の原因となり、ついで明治維新の元勲を総出動させた
第2次伊藤内閣となります。とはいえ、元勲が総出動したところで衆議院の運営が
うまくいくわけはありません。結局、天皇の詔勅を利用するしか方法は残っていま
せんでした(憲法停止という方法も意見としては出されたようですが、さすがにそ
れはねぇ・・・)。

ところがその建艦詔勅が衆議院・内閣の関係の転換のきっかけとなります。

これ以降、自由党は徐々に伊藤内閣に協力する姿勢をみせはじめ(民力休養路線か
ら利益誘導による民力涵養路線への転換が徐々にはじまっていきます←資本主義の
成長を背景[詳しくは次の単元へ])、それにもとなって吏党の国民協会が次第に
野党的立場をとりはじめ、その国民協会と立憲改進党、そして自由党左派(とくに
大井憲太郎)が提携して、条約改正を争点にし烈な政府攻撃を行うようになりま
す(いわゆる対外硬派による現条約励行論)。これが伊藤内閣の議会運営を困難な
ものにしていき、1894年にはその対外硬派によって第2次伊藤内閣は完全に追い詰
められてしまいます。そういう状態であったからこそ、対外戦争へとなりふり構わ
ず邁進することによって事態の打開をはかっていったわけです。

**************************************************************************
M 【チ  】外相はイギリスと条約改正の交渉を進め,1894年【ツ領事裁判権 
 関税自主権】の撤廃などを内容とする日英通商航海条約の調印に成功した。この
 結果,日本はイギリスの好意的立場をとりつけ,清国との戦争への列国の干渉を
 回避することができた。
**************************************************************************
ちょうどそのころ、朝鮮では甲午農民戦争が勃発し、それをきっかけに日清両国が
出兵していました。
もっとも、甲午農民戦争自体は両国の出兵とともに休戦状態となり(農民軍が和平
に応じた-> 日清戦争の勃発後に農民軍が再蜂起する)、日本にしてみれば出兵し
ている大義名分が消滅してしまっていました。当然、そうなれば撤兵しなければな
らないわけで清はそれを要請してきますが、日本はその要請にはこたえず、強引に
清との開戦にもちこもうと画策します。それが大院君のかつぎだしによる朝鮮政府
のクーデター挙行です(この辺は次の単元の最初でもふれるところです)。
その計画へと具体的に着手しはじめたときに、譲歩に譲歩をかさねた日英通商航海
条約の調印に成功します(99年施行がその譲歩の最たるモノ)。これでイギリスか
らほぼ対等の国際的地位の認知を受けたわけで、いわば日清開戦にあたってのイギ
リスの好意的立場を獲得することに成功したわけです(もちろん中国へと勢力が及
ぶ時は微妙なことになりますが)。

準備万端、政府は日清開戦へと突き進んで行きます(このときにはすでに清国に比
肩する海軍力を作り上げていた)。

**************************************************************************
N 【テ領事裁判権 関税自主権】を完全に回復したのは,1911年【ト  】外相
 によってアメリカとの間に日米新通商航海条約が調印されたときである。
**************************************************************************
これは 最初にも述べたように 蛇足です。

[補足のコメントを読む]

00620/00624 GED01324  つかはら         日本史】近現代史を教える(9)
( 6)   95/09/17 22:43  00337へのコメント

夏休みに突入して夏期講習が始ると同時に 連載を中断させてしまっていました
が(^^;、授業も始りましたので、連載を復活させます。

文字化けしている文字があると思いますが、それは丸付数字です(^^;。
そこまで全部、修正するのは手間なんで、そのままアップしちゃってますが、
ご容赦をm(..)m。
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第9回 日清戦争と中国分割

日清戦争が東アジアにおける帝国主義的な国際秩序の形成の契機となったこと、日
本もそれに積極的に加担し、藩閥がそれに対応できる国内体制を整備・確立させて
いったことを確認する。

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A 1894年朝鮮では,民衆宗教である【@  】の信者が中心となり,朝鮮政府の
 改革・外国商人の排除をもとめる農民が蜂起し,【A  】が始まった。
B 朝鮮政府が鎮圧のために清国に援兵を要請すると,これに対抗して日本は【B
   】条約を口実として出兵し,日清戦争が始まった。
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甲午農民戦争と日清戦争勃発の瞬間をこちらにまわしたのはちょっと失敗。条約改
正・初期議会、そして朝鮮での動向をセットにして関連づけながら確認することを
考えれば、前の単元にまわす方がよかったともいえます。

さて、日清戦争は甲午農民戦争の勃発にともなう日清両国の出兵を契機とします
が、日清両国の出兵を受けて、東学を中心とする農民軍は自らの行動が外国勢力の
介入を招くことを危惧して政府と和議を結んでいったん休戦します(にもかかわら
ず、山川の教科書では甲午農民戦争が鎮圧されたなどという記述がされている)。

そういう形で甲午農民戦争が休戦するにともない、日清両国軍の撤兵が要求される
に至ります。ところが日本は軍隊の駐留を続け、さらに朝鮮からの清国勢力の排除
をなんとしてでも実現させるべく、日清開戦へと策略をめぐらせます。朝鮮政府の
内政改革を清国に提案するわけですが、同時に朝鮮政府におけるクーデターの挙行
と、日清間の戦争への欧米諸国の干渉を排除するための条約改正の実現を急ぎま
す。その結果、イギリスとのあいだで日英通商航海条約の調印にこぎつけ、それを
ばねに軍隊つかって朝鮮王宮を占拠、大院君を担いで親日派にクーデターを挙行さ
せ、その親日派政府を利用する形で清国に対して戦争を仕掛けていきます。
(甲午農民戦争が休戦したにもかかわらずなぜ日本軍は朝鮮から撤兵しなかったの
 か、というテーマで、日清戦争とそれを仕掛けるにいたった日本政府を取りまい
 ていた状況−政治と外交−を確認するのも面白いのではないでしょうか。もしこ
 のとき日本軍が朝鮮から撤退していたらどうなったでしょうね。高橋秀直氏の研
 究によると、伊藤内閣が日清開戦に踏みきったのは基本的に内政−つまり議会対
 策が理由であって、対外的には必然的な理由がないとのことらしいんですが、そ
 の著書のチラシを見ただけで、高かったので購入してません(^^;)。

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C 1895年日本は清国との間に【C  】条約を結び,朝鮮が独立国であることを
 認めさせたほか,賠償金2億両や【D遼東 山東】半島・台湾・澎湖諸島などを
 獲得した。
D 日本と同様に満州に野心のあるロシアはフランス・【E  】とともに三国干
 渉を行い,日本に対して【D】半島の清国への返還を迫った。やむなく日本は返
 還に応じたが,政府はこれを利用してロシアに対抗する気運をかきたて,軍備増
 強をすすめた。
E 朝鮮では【F  】殺害事件によって反日感情が強まった。さらに,三国干渉
 後はロシアの発言力が高まり,日本は影響力を後退させた。
F 台湾では日本の侵攻に対する抵抗がおこったが,日本はそれを武力で制圧し,
 【G  】を設置して植民地統治を開始した。
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下関条約と日清戦後の日本をめぐる情勢を確認する。日本の国際的地位が植民地を
有する地位へと変化する中でアジア民衆の反発をうけるとともに列強との摩擦も生
じ始める、つまり、第2次世界大戦にいたる基本的な枠組みがここですでに出そろ
っていることを確認する。

日本は日清戦争に勝ったわけですが、朝鮮をめぐって日本と緊張関係にあった北洋
軍閥の李鴻章が戦争に消極的であったこと、それ以外の軍閥が関与しようとする姿
勢をまったく見せなかったこと(いいかえれば清が国家としてのまとまりに欠如し
ていたこと)などが、日本に有利に働いたことは言うまでもないです(ただ、戦死
にくらべて病死が非常に多いというのは、表現は変ですが、ちゃちいですね(^^;)。

それはともかく、清に勝利した日本は下関条約でさまざまなものを獲得します。領
土の割譲であり、賠償金であり、そして揚子江流域における開港と通商上の特権(
その結果として不平等条約を獲得し、日本は中国市場へ有利な立場で進出すること
が可能になった)です。さらに、もともとの日清戦争の名目であった朝鮮の独立国
としての清に認めさせます。

この結果、東アジアにおける中国を頂点とした、伝統的な国際秩序は、最終的な解
体を遂げることになり、一方で、日本も(欧米諸国同様)その国際秩序に包摂され
ていた地域へ支配圏を拡大していくことになります。その地域とは、琉球であり(
琉球=沖縄の日本帰属が明確になったのがこのとき)、台湾であり、朝鮮です。琉
球については、1872年以来の琉球処分のいわば名目的な仕上げに過ぎなかったわけ
ですからそれほど緊張関係は生じませんでしたが、台湾・朝鮮については著しい緊
張をひきおこします。

台湾では日本への割譲(いわば清本国から捨てられた)に反対する動きが大きくな
り、先住民らの支持のもと、台湾民主国が設立されます。日本領への編入を実行す
るべく、日本から軍隊が派遣されてくると、この台湾民主国は簡単に崩壊してしま
いますが、先住民高砂族の抵抗がつづき、日本はその鎮圧に相当苦労します。いち
おう台湾総督府を設置して植民地統治を開始しますが、そののちも抵抗は続き、児
玉源太郎総督の時代になって後藤新平のもとで製糖事業を中心とする植民地統治が
ようやく軌道に乗ります。

朝鮮においては、日清開戦の直前に日本軍の軍事的圧力のもとで成立した親日派政
府のもとで近代化政策が実施されますが、戦時下・戦後を通じた日本の内政干渉と
ともに、日本および親日派に対する反発が強まります。その動きは、三国干渉にあ
った日本が遼東半島を清に返還したことによって、さらに強まります。閔妃や国王
高宗のロシアへの接近の動きがそのひとつの現れです。それに対して日本のとった
態度が、閔妃殺害だったわけですが、この結果、日本は朝鮮から大きく後退するこ
とになります。そして、国王高宗のロシアへの接近がいちだんと強まり、民間で
は、独立協会による朝鮮の自主独立を確保しようとする動きが大きくなります(こ
の動きによりロシアも影響力を後退させざるをえなくなり、それにともなって日本
の朝鮮における勢力は経済面を中心に若干回復します。その辺の事情が西・ローゼ
ン協定に反映されます)。この民間の動きは朝鮮政府によって弾圧を受けますが、
こうした動向の延長線上に、高宗の皇帝への即位、つまり朝鮮の大韓帝国への国号
改称が挙行されるわけです。

このように日本は台湾・朝鮮において徹底した抵抗を受けます。つまり、戦争を通
じて日本も、東アジアにおける帝国主義的国際秩序をきずきあげる側に、明確に位
置することになった(二等国にすぎないにしても)と、表現できます。

と同時に、遼東半島の割譲に対するロシアの反発(→三国干渉)という形で、帝国
主義的国際秩序をきずきあげようとする側どうしの緊張関係も生じます(日本によ
る威海衛の占拠に対するイギリスの反発も同様と言えます)。これはすでに日本の
「国境=主権線」を維持することをめぐる対立ではなく、領土・市場の分割・争奪
をめぐる対立となっています(日清戦争にしても 日本の「国境=主権線」を維持す
ることをめぐる対立ではないですが)。

こうして日清戦争直後の1895年に日本が直面した国際情勢は、これ以降の(アジア
太平洋戦争に至る)日本の外交的位置の基本的なパターンとなっていきます。
そういう意味では、最近、日露戦争直後の桂・ハリマン覚書の段階をクローズアッ
プする視角があるようですが(それも面白い視角ですが)、日清戦争の勃発直前(
具体的に言えば、甲午農民戦争が休戦し朝鮮から撤兵すべき状況になったにもかか
わらず撤兵しなかったとき)をひとつのターニングポイントとして考えてみる必要
もあるのではないかと思います。「もしそのとき日本が朝鮮から撤兵していれ
ば・・・」(日清戦争は勃発せず....でも、藩閥による議会運営は破綻して...)

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G 日清戦争を契機にヨーロッパ諸国による中国分割が進んだ。ロシアは【H 
  】,イギリスは威海衛,ドイツは膠州湾をそれぞれ租借して軍事拠点を建設し
 た。フィリピンを領有してアジア進出を本格化させたアメリカも,中国市場の【
 I  】・機会均等を要求した。
H 欧米諸国や日本の侵略に対して中国民衆の間に反発が広まり,1899年「扶清滅
 洋」のスローガンを掲げた【J  】の乱がおこった。日本・ロシアを中心とす
 る連合軍は1900年これを鎮圧し(北清事変),翌年には清国に賠償金の支払と軍
 隊の駐留を認めさせた。
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清が日清戦争に敗北することにより欧米諸国・日本による中国の分割競争が始ま
り、中国が半植民地状態に陥っていったことを確認する。

さて、日清戦争を経ることによって、日本は東アジアに帝国主義的国際秩序をきず
く側へと位置するようになりますが、逆に清はその「舞台」へと転落してしまいま
す。日本を含む列国による分割競争の客体と化していきます。ここでは日本もその
分割競争に加担し、台湾の対岸・福健省の不割譲を約束させたことも確認しておき
ます(日本の琉球・台湾・福健への進出、朝鮮・遼東半島への進出は、東シナ海を
とりこもうとする動きと整理することも可能だと思います)。

なお、この中国分割競争において他国と若干異なる姿勢をみせたのがアメリカで
す。アメリカは(単に米西戦争のために出遅れただけとも言えますが)中国市場の
門戸開放・機会均等を主張します。いわば経済上の自由主義の主張と言えます(ア
メリカは1922年の九ヶ国条約でイギリスなどにその主張を認めさせることに成功す
ることになります)。

このような列国による中国分割競争がピークに達するなかで義和団事件が起き、そ
れを契機に清が列国に対して宣戦を布告してしまいます(情勢認識が不十分だなぁ
と思いますが)。

これに対して、日本を主力として8ヶ国の軍隊が中国に派遣され、こうして日本は
2度目の対外戦争を経験することになります。日本は、南アフリカでのボーア戦争
に忙殺されて余力のないイギリスの強い要請を背景に、最大規模の軍隊を出兵させ
ますが、日本は自ら「極東の憲兵(あるいは番犬)」としての役割を積極的に担っ
たわけです。

じゃぁ、どこの国にとっての「番犬」なのかといえば、それはやはりイギリスと言
えます(もちろん、欧米諸国総体とも評価できないことはないですが)。そして、
何に対して「番犬」としての役割を果たしたのかと言えば、まず第一に、中国の民
族運動に対して欧米諸国総体の利害を(そしてそれは日本の利害でもあった)まも
る「番犬」であり、そして第二に、満州をうかがい南下策を進めるロシアに対し
て、中国市場において支配的地位をほこるイギリスの利害をまもる「番犬」であっ
たと言えます。

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I 日清戦争をきっかけに藩閥と政党とのあゆみよりがいっそう進んだ。第二次伊
 藤博文内閣は【K自由 進歩】党と提携し,次いで第二次松方正義内閣は【L自
 由 進歩】党と結んだ。
J 1898年両党が合同し,【M  】を結成して藩閥に対抗すると,藩閥内閣はも
 ろくも崩壊した。かわって【N  】を首相とする初の政党内閣が成立したが,
 4か月で総辞職した。
K 官僚・軍人勢力を基盤として成立した第二次山県有朋内閣は,1899年政党員が
 自由に官僚になれないように【O  】を改正し,翌年には軍部大臣【P  】
 制を採用して陸海軍の同意なしには内閣が成立しない仕組みを作り上げた。
L 伊藤博文は円滑な議会運営を実現するために政党結成にのりだした。1900年伊
 藤系官僚と【Q憲政憲政本】党を中心に【R  】を結成して藩閥の政治力を補
 強した。これは他方で,政党が藩閥の実力者をとり込んだことも意味し,政党は
 政権獲得への近道を確保した。
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列国の東アジア分割に積極的に対応・加担できるだけの国内体制の整備が、藩閥に
よる議会勢力の統制・抑制という形で形成され、と同時に藩閥勢力に取り込まれる
なかで政党勢力が政権を担当しうる勢力として成長したことを確認する。

日清戦争後、藩閥政府は、海軍を中心とする軍備拡張・地方における産業基盤の充
実などの戦後経営を進めようとしますが、そのための予算編成を円滑に行うため
に、政党との提携に本格的に乗り出します(第2次伊藤内閣は日清戦争開始直前か
ら既に自由党との実質的な提携関係にあったが)。第2次伊藤内閣と自由党、第2
次松方内閣と進歩党という形で藩閥と政党との提携が進みますが、結局のところ、
その提携は一時的なものに留まってしまいます。基本的には、自由党・進歩党が日
清戦争前と同様、地租の軽減を求め、地租増徴には否定的であったからです。戦後
経営のための財源不足から地租増徴案が浮上すると、結局、藩閥と政党との提携は
破綻し、ついには自由党と進歩党との大合同が実現し、憲政党が結成されます。初
期議会の時代へと逆戻りしてしまったわけで、藩閥にしても政局を乗りきることが
できなくなってしまい、ついに憲政党の中心人物、大隈重信と板垣退助の両人に組
閣の勅命がくだることになります。

こうして初めて政党内閣が成立しますが、陸海相が勅命で留任したことに象徴され
るように、この隈板内閣はその成立当初から非常に不安定でした。結局、尾崎行雄
文相がその演説のあげ足をとられて天皇から罷免され、さらにその後任をめぐって
憲政党内部で旧自由党と旧進歩党との派閥争いが激しくなります。そして、当初か
ら大合同には否定的であった星亨を中心に旧自由党系が憲政党を分裂させて独自に
憲政党を結成してしまい、第1次大隈内閣の与党から離脱します。

こうして最初の政党内閣であった第1次大隈内閣は3ヵ月ほどの短命内閣に終わっ
てしまいますが、第2次松方内閣が倒れて以降、1年ほどのあいだに内閣の交代が
3度もおこるなど、政局は不安定を極めています。そういう状況の中で、山県・伊
藤らがそれぞれの方策で政界の再編成へと乗り出していきます。つまり、列国の東
アジア分割が激化する中で、それに積極的に対応・加担しうる国内体制の確立へと
乗り出したわけです。

山県の場合は、第2次伊藤内閣の内相に自由党の板垣退助が就任して以降、内務官
僚や陸軍を中心に山県閥をつくりあげていたわけですが、隈板内閣の総辞職後、山
県がその山県閥を基礎に第2次内閣を組織します。そして、民力休養(地租などの
租税負担の軽減)から民力涵養(地方における産業基盤の充実・利益の散布)へと
経済発達を背景として基本姿勢を転換させた憲政党の支持をとりつけつつ、戦後経
営の予算化、そのための地租増徴の実現をなしとげます。そうしたあとで、憲政党
との提携をきり、政党の勢力が官僚・陸海軍へと及ぶことのないよう、官僚・陸海
軍の政党からの、ひいては内閣からの超然性を確保するための施策を具体化させま
す。それが文官任用令の改正による高級官僚の試験任用制への変更であり(それま
では内閣の自由任用であった)、軍部大臣現役武官制の明記である。

こういう山県内閣の施策(ならびに憲政党員の入閣の拒否)に反発する憲政党は、
政党結成の必要性を各方面によびかけていた、藩閥のもう一人の雄伊藤へと接近す
ることになります。いわば星亨率いる憲政党は、支持基盤である地主層への利益散
布(利益還元)を実現するためにも政権に参与することを優先させていたと言って
もよいといえるんじゃないでしょうか。

さて、憲政党が近づいた伊藤ですが、彼は第3次内閣を総辞職し、後継に大隈・板
垣を推薦した後、中国を訪問し、列国による中国分割のありさまを目撃。そうした
列国の動き対応するためにも、党利党略を優先させる既成の政党をおさえ、国家本
位の政党を結成する必要性を痛感し、帰国後、そのための運動を進めます。それに
合流しようとしたのが先に見たように星亨率いる憲政党であり、憲政党は自ら解党
して、伊藤による立憲政友会の結成に参加します。ここに藩閥の実力者自らが総裁
として率いる政党が登場したわけです。

この政友会には伊藤の予期に反して、官僚・財界からの参加をそれほど獲得するこ
とができませんでしたが、憲政党を吸収することで衆議院の過半数を占めることと
なります。藩閥がその影響力を衆議院にも及ぼすことが可能になったわけです。で
すから、このことにより藩閥の政治力は補強されることになりますが、山県閥が官
僚・陸海軍の政党からの超然性を確保したからといって、衆議院の多数派との提携
なしにはスムーズな政治運営が行えないわけですから、そう評価してよいと言えま
す。つまり、藩閥主導のもとで、藩閥と政友会が政治を領導する体制がここにでき
あがったわけです(この体制は1913年に大きな修正を受けつつも、1921・2年頃ま
で、つまり原が暗殺され、山県が没するまで続きます)。

一般にこの立憲政友会の結成は政党が藩閥に屈したものと評されますが(政党の藩
閥化)、先にも指摘しておいたように、政党にしてみれば、藩閥を政党に取り込む
ことにより、政権担当能力を確保したとも評せます(ですから、桂園時代になる
と、政友会に対抗する勢力を衆議院に確保しようとする桂の動きに規定されつつ、
万年野党の憲政本党のなかでも、桂を代表とする藩閥勢力と提携する形での政党結
成を求める動きがでてきます->この延長線上に、桂と立憲国民党の反犬養勢力とに
よる立憲同志会の結成を位置づけることができます)。

いわば、初期議会以降の憲法運用の、藩閥・政党双方からの総括が立憲政友会の結
成だったと言えるんじゃないでしょうか。



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( 6)   95/10/18 15:23  00620へのコメント

なんか月1のペースになってしまいました(^^;。年内にアジア太平洋戦争まで行く
んやろか。それはともかく.....相変わらず長文ですm(..)m

文字化けしている文字があると思いますが、それは丸付数字です(^^;。
そこまで全部、修正するのは手間なんで、そのままアップしちゃってますが、
ご容赦をm(..)m。
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第10回 日露戦争と韓国併合

日清戦争・北清事変を経てのち日露戦争を経て日本が東アジア分割に積極的に参加
していく過程を確認する。

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A 北清事変後,ロシアが【@  】を軍事占拠したため,ロシアとイギリス・日
 本との利害対立が激しくなり,第一次桂太郎内閣の外相【A  】はイギリスと
 日英同盟を結んだ。
B 主戦論が強まるなかにあって,キリスト教徒の【B  】は非戦論を主張し,
 社会主義者の幸徳秋水らは【C  】を発行して反戦運動を続けたが,少数派に
 とどまった。
C 1904年に始まった日露戦争は日本の有利に進んだが,資金不足などから戦争継
 続が困難となり,1905年【D  】アメリカ大統領の斡旋によってポーツマス条
 約を結んだ。
D この条約によって日本は,【E  】に対する指導・保護権,旅順・大連の租
 借権,長春・旅順間の鉄道と付属の利権,北緯【F29 50】度以南の樺太などを
 獲得した。
E 犠牲を強いられ続けた国民は,ポーツマス条約で賠償金が獲得できないことな
 どがわかると政府を激しく攻撃し,【G  】事件をおこした。
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日露戦争の経過を簡単に確認する。

ロシアによる満州の軍事占拠が日露戦争のきっかけになっていくのだが、そこから
すぐに開戦に至ったのではなく、日英同盟の締結とそれを背景とする日露間の交渉
(ロシアはいったんは1903年までに満州から軍隊を撤退させることを約束した)、
ロシアが交渉内容を順守しなかったことから日本国内で主戦論が大きくなっていっ
たこと−つまり、国民の好戦気運が政府を後押ししたことをみておく(「正露丸」
はもともと「征露丸」だったんですよね)。

もちろん、その好戦気運には、政府が三国干渉以降に”臥薪嘗胆”をスローガンに
国民のロシアに対する敵対感情をあおってきていたことにも起因しているわけです
が、日清開戦前とは異なって、世論が政府をあおって開戦にむけての環境を整えて
いくという傾向が顕著です。政府内の、限られた人々によってしかけられた戦争で
はなく、開戦前から世論をまきこむ形で、いわば世論が政府の”及び腰”を叱咤す
るという形で、国民あげての戦争として日露戦争は準備されたと言えます。

日露戦後の1905年には、ポーツマス条約で賠償金の獲得がなく(その限りではロシ
アが敗北したという確認が成立しなかったと言えます)、それゆえに戦時下におけ
る特別増税の継続が不可避で、負担が軽減されないことにいきどおった都市民衆に
よって、東京をはじめとする各地の都市で日比谷焼き打ち事件が発生しますが、(
いまだ総力戦とは言えずとも)国民あげての戦争として準備・遂行されたがゆえの
事件だったと言ってよいとも思います。この事件を、都市民衆が政治勢力として登
場した最初の出来事として吉野作造が評価したのも至当なことと言えます。

ところで、日露戦争前、日本の独立は危うかったんでしょうか?もちろん、直接侵
略の危険性が高かったのか、という話です。“日露戦争の勝利がなかったら日本の
独立が終わっていたかもしれない”という議論を目にしたことがありますが、ちょ
っと極端です。韓国の存亡が日本の安危にかかわるという立場から韓国の安全を守
るという名分を掲げつつ、中立を宣言した韓国のその中立の立場を否定しながら、
日本がロシアと交戦したのが日露戦争です。日本は自国の独立ではなく日本による
韓国支配の確保のために日露戦争に臨んでいたのだと言えますし、戦争のなかで日
本が対峙した相手はロシアと韓国の2か国だったと私は考えています。少くとも直
接侵略の危険性を排除するための戦争ではなかったと言えます。まぁ、軍事的に敗
北したあとにロシアの永続的な軍事占領をうける可能性があったかどうかを考える
のはいいですが...

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F 朝鮮は大韓帝国と国名を改め,独立確保に努めていたが,日本は日露戦争開始
 直後,韓国に【H  】を押しつけて軍事上必要な土地収用権を認めさせるなど,
 内政干渉を強めた。
G アメリカが【I  】,イギリスが第二次日英同盟によって,日本の韓国に対
 する優越的地位を認めると,1905年日本は韓国に第二次日韓協約を強要し,外交
 権を奪って保護国とした。そして【J統監 朝鮮総督】府を設け,その長官に【
 K  】を任命した。
H 韓国内には反日気運が高まり,1907年韓国皇帝はオランダの【L  】で開催
 されていた万国平和会議に密使を派遣して独立維持を訴えたが,成功しなかった。
I この【L】密使事件をきっかけに日本は韓国皇帝を退位させ,第三次日韓協約
 によって内政権を掌握し,【M  】を解散させた。このような日本の行動に対
 して【N  】がさらに激化し,1909年には伊藤博文が安重根に暗殺された。
J 1910年日本は韓国併合条約を結び,韓国を日本の領土に編入した。そして,新
 たに【O統監 朝鮮総督】府を設置し,その長官に【P  】を任命した。
K 植民地経営の財源を確保するため,1910年から1918年にかけて【Q  】を実
 施した。その過程で多くの朝鮮農民が土地を失い,日本人大地主が出現した。
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日露戦争をきっかけに日本は韓国を支配下に編入していく。最終的に韓国の独立を
完全に否定し、植民地として日本領に編入していくことになるが、そこに至る過程
を確認する。

ここで、日清戦争の宣戦の詔書と日露戦争の宣戦の詔書とを比較するのもひとつの
方法だと思います(板倉聖宣・重弘忠晴両氏の『日本の戦争の歴史』仮説社のなか
で、その事例が紹介されています。なお、そのなかに宣戦の詔書が適宜現代語訳が
付せられる形で出ています)。日清戦争の場合は朝鮮の独立確保・内政改革の推進
が大義名分として掲げられていますが、日露戦争の場合には韓国の独立確保という
理念は消えています。

実際、日露戦争がはじまると日本は中立を宣言していた韓国に対して日韓議定書を
締結させて(この行為に対して英米などは抗議せず黙認という態度をとった)韓国
国内の軍事行動の自由を確保するとともに(ちなみに戦闘が行なわれたのも、中立
を宣言していた清国の領土内での話)、第1次日韓協約を締結して韓国政府へ日本
人顧問をおくりこんで内政干渉をおこないます。

そして、日露戦後にはロシア、そしてアメリカ・イギリスの承認を得たことを背景
に、第2次日韓協約の締結を強要して韓国から外交権を奪い、保護国として日本の
支配・監督のもとにおくに至ります。この第2次日韓協約が無効かどうかという議
論があります。協約という形式からいえば批准書がなくても無効とは言いきれませ
んが、締結に至る経緯からすれば脅迫による締結ですし、批准を必要とする条約で
はなく批准の必要ない協約を意図的に選択していることななどからいって、道義的
にいえば有効だとはなかなか言い難い性格のものです。

こうして欧米・日本による東アジアの分割がピークに達します。中国(と日本)を
除く地域が(日本を含む)列国の政治的・軍事的支配下に分割され、それを列国同
士が相互に承認しあう体制ができあがります。残された争点は、中国を列国が政治
的・軍事的に分割するのか、中国の主権と領土を尊重した上で中国市場の門戸開
放・機会均等を列国が相互に保証しあうのか、という問題です。
ですから、保護国化以降の韓国に対する日本の支配強化の動きについては、基本的
に列国からの干渉を受けることなく遂行されることになります(もちろん、日本は
列国の反応にすこぶる敏感ですが)。

さて、日本に外交権を奪われ、さらに初代統監伊藤博文の内政干渉をうけたこと
は、韓国国内に大きな反発を引き起こします。

 高校日本史の教科書などの記述をみれば、ここまでの韓国は独立確保にむけた自
 主努力をやってきていないかのような印象を受けてしまいますし、1897年に朝鮮
 から大韓帝国と国号を変えたこともどのような経緯があるのかさっぱりわからな
 い場合が多いです(山川なんかはそうですね)。つまり、朝鮮・韓国はその独立
 を確保するのに日本(清であれロシアであってもかまわないのですが)の指導・
 保護をうけても当然であるかのような印象をあたえてしまいかねない記述になっ
 ています。

武力で抵抗運動を展開する義兵闘争や、教育・文化活動に力点をおく愛国啓蒙運動
などが反日運動として展開していきますが、そうした韓国内の情勢を背景として、
1907年韓国皇帝高宗がハーグで開催されていた万国平和会議に独立維持を訴える使
節を派遣します。当然というか、列国はその使節の要請など考慮しようとする姿勢
をみせませんし、外交権を第2次日韓協約で日本に譲り渡してしまっている以上、
その使節は「密使」であり、それが露見すれば、日韓間に緊張関係が生じます。

実際、このハーグ密使事件を口実として高宗は退位させられ、第3次日韓協約で韓
国政府は内政権まで日本に奪取されてしまいます。そして秘密協定で韓国軍隊の解
散を規定します。つまり、できる限り反対を抑圧して、日本の指導・強制のもとで
韓国の近代化を推進して行こうとします(そのための国策会社として東洋拓殖会社
を設立する)。

ところが逆に、兵士たちが武装解除を拒否して義兵闘争に参加したことによって反
日運動はいっそう拡大することになります。日本は軍隊を投入してその鎮圧にあた
り、確かに正規軍とゲリラとの軍事力の差もあって義兵闘争は後退しますが、鎮静
化することはなく、根拠地を韓国・中国の国境地帯などへと移しながら抵抗運動を
継続していきます。このように抵抗運動をなかなか根絶することのできない日本
は、韓国を日本の主権のもとにおくことで、反日勢力の完全な鎮定をめざすことに
なります(そうすることで列国の非難がおこる余地を取り除くことが可能→現在だ
と国内問題まで国際的な非難にさらされますが)。

そのために韓国国内に日本への編入をのぞむ勢力を保護・育成していき、「自由意
思で」韓国が日本に主権をゆずりわたすかのような情勢をかもし出そうとします。
そうして韓国の日本領への編入がすでに政府によって決定されていた1909年、伊藤
博文が安重根にハルビンで暗殺されます。義兵闘争が後退しつつもなかなか壊滅し
ていなかった当時の状況を象徴的に示す事件といえますが、この事件をきっかけと
して、いっきに韓国の廃滅が実行に移されることになります。1910年の韓国併合条
約の締結です。

 なお、海野福寿氏の『韓国併合』(岩波新書)によれば、「日韓対等合併の印象
 を与えず、国家廃滅・領土編入でありながら刺戟的でないことばとして、当時あ
 まり使用されていなかった「併合」を用いたという。合併でもなく、併呑でもな
 いという意味だろう」(p.209)とのことです。
 それから、日本語表記での条約名も“韓国併合に関する条約”ですし、「日韓併
 合」ではなく、「韓国併合」と私は表記したいです。

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L 南満州については1906年旅順・大連を統治するために【R  】を設置し,旅
 順・長春間の鉄道や炭坑などの付属事業を経営するために【S  】を設立し,
 権益の独占をめざした。
M 日本による南満州権益の独占に対して【チ  】が市場の開放を求めて反対す
 ると,日本はロシアと提携し,日露協約をむすんで満州と蒙古(モンゴル)にお
 互いの勢力圏を設定し,第三国の介入を排除して相互の権益を保護しようとした。
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日露戦争の結果、日本が南満州における権益(都市の利用・鉄道の敷設と経営・鉱
山や炭坑の採掘などの特権)をロシアから譲渡される形で−清にもそれを認めさせ
ますが−獲得したこと、そしてそれをめぐってアメリカとの対立が生じたことを確
認する。

欧米との関係が大きく転換することになったと評価することもできますが、欧米の
列国との直接的な利害対立はすでに日清戦後に始まっています。そういう意味で
は、利害を対立させる欧米の列国がロシアからアメリカへと変化しただけの話とも
評価できます。どちらかといえば私はそのように判断していますが(アメリカと対
立するようになったことを強調することに、あまり意義を感じないというだけの話
です)、先にも指摘したように、中国に対する列国間の対応のズレという点から南
満州をめぐる日米対立をみておく方が後々の展開を見通しやすいのではないかと思
います。

つまり、日本(とロシア)の満州における姿勢は、中国を列国の政治的・軍事的な
支配領域に分割し、その支配領域(あるいは権益)を独占しようとするものです
が、それに対してアメリカの姿勢は、中国の主権・領土を尊重しつつ、中国市場の
門戸開放・機会均等を列国どうしで保証しあおうとするものと言えます(すでに
1899年に明らかにされているものですが)。最終的には、1922年に九ヶ国条約が締
結されることによって、後者のアメリカの立場がイギリスをふくめた列国に承認さ
れることになります(そういう意味で中国における主導権がイギリスからアメリカ
へと次第に移行していくことになると言えます)。

小数の列国による地球の分割がそろそろ限界に達し始めるなかで、それにどう対処
するのかをめぐって列国間で思惑のズレが表面化してきたと言ってもいいんじゃな
いでしょうか。ヨーロッパでは世界制覇(言い過ぎかな(^^;)をめざすドイツがそ
の焦点になってきますが、中国では辛亥革命が起こり新たな展開をみせるに至りま
す。