呉座勇一『一揆の原理』(洋泉社)を読了。中世の一揆が分かりやすく説明してあり,なかでも,特に興味深かったのは,次の2点です。
①一味神水という行為のもつ呪術性が相対化されていた点。必ずしも参加者みなが神罰を心の底から信じていたから行われたわけではないこと,訴願をおこす相手に対するアピール,パフォーマンスという性格を強くもっていたことの指摘,そして,起請文には,焼くものと残すものがあり,残された起請文は人に渡すものであったこと(起請文は神に捧げると同時に人に渡すもの)の指摘。
②「相手にふりかかった問題を自分の問題として考え,親身になって,その解決に協力する。実は,これこそが一揆という人間関係の本質である」との評価にみられるように,お互いに助け合うという点から出発する一揆こそが本質的なものと論じる点。そのなかには,集合せずに結ばれる一揆,敵味方に分かれた陣営に属するものどうしがこっそりと結ぶ秘密同盟のような一揆があるとの指摘は興味深かった。
とはいえ疑問点があります(原発問題など現代社会に関連する指摘は棚に上げます)。素朴な疑問として次の3点を挙げておきます。
第一点目は,一揆とは何か,という問題についてです。
「権力者に対する陳情であるという本質論」と書かれる一方,「相手にふりかかった問題を自分の問題として考え,親身になって,その解決に協力する。実は,これこそが一揆という人間関係の本質である」との評価に注目するならば,お互いに助け合うという点から出発する一揆こそが本質的である。
もちろん,この2つは矛盾するものではない。
しかし,一揆の中核グループはともかく,高札が立てられ,高札を見た人々の口コミで一揆蜂起の情報が伝達されるなかで参加した人々も含めて,同様に考えてよいのか。
次に,一揆は「訴願・陳情」のためだけに結ばれたのか?「相手にふりかかった問題を自分の問題として考え,親身になって,その解決に協力する」というのであれば,その解決手段は必ずしも訴願・陳情だけとは限られません。
ここで,気になるのが「暴力」の問題です。
「徳政一揆が土倉の傭兵や幕府軍と戦うのは,革命を起こすためではなく,軍事的勝利を得ることで幕府への訴訟において優位に立つためである」と書かれていますが,では,徳政一揆にともなう暴力行為をすべて訴訟(訴願)との関連のなかでとらえられるのか。もちろん,「「規律正しい交渉」の要素と,「放火,略奪などの暴力行為」の要素」とを「矛盾することなく併存している」と理解する点は,納得いきます。
しかし,「徳政一揆の「高札」という動員形態からは,徳政一揆への個人参加が多かったことがうかがえる」と書かれているのですが,中核グループはともかくとしても,契約状を取り交わしていないような,個人参加の人々をどのような形で統制のとれた集団として確保できたのか。
もちろん,暴れたのは「見物衆」(やじうま)だけだとの話も出されているのですが,徳政一揆のメンバーは「放火,略奪などの暴力行為」と無縁だったのか。徳政一揆に参加し,「近江国(現在の滋賀県)や南山城(現在の京都府南部)などの遠方から京都にやって来て土倉の蔵から物を取っていく百姓は,債務を破棄したというより,単に略奪を働いただけ,ということになる」との話も出ています。彼らの略奪行為は,徳政一揆の中核グループにより幕府への訴訟において優位に立つための方便として許容され,統御された行動だったというのか(動員に応じてくれた褒美?だとしても,統御できるのか?)。
(なお,土倉など京都の高利貸が代官請に関わっていたことを念頭においたとき,近江国や南山城は「遠方」であり,そこから来た人々が土倉など高利貸と利害関係をもたなかった,と判断することが果たして妥当なのか?との疑問があります)
そして,富裕者に対する「施行」の要求は,幕府に対する訴願ではありません。
「革命」でもなく「訴願・陳情」でもない側面はないのだろうか。上記の「一揆という人間関係の本質」についての指摘からすれば,そこに焦点があてられてもよいのではないか,と思います。(「肥後・薩摩・大隅・日向国人一揆契状案」をめぐる議論がそれに近いのか,と思いましたが)
ところで,一揆を結んだものどうしの暴力(水平方向の暴力)はなかったのでしょうか?
第二点目は,一揆が正義である理由について。
「「一味同心」という意思統一によって,自分たちの行動が“正義”であるという確信を得ていたからなのである」,「「一味同心」に基づく訴えは合理的な判断を超越した絶対の正義であり,その主張が正しいか否かを論理的に検討することすら許されなかった」としたうえで,「これは一揆を結んだ側の手前勝手な理屈にとどまるものではなく,強訴を受ける権力者側にもある程度,共有された認識であった。彼ら自身が時と場合によっては一揆を結ぶことがあったので,一味同心の正当性を否定することはできなかったのである」と論じられている。
室町時代における大名の一揆は知っているが,では,(寺社による強訴を念頭におくならば)朝廷という組織も一揆を基盤とするのか?(荘家の一揆を念頭におくならば)本所である天皇・公家も一味同心して一揆を結ぶことがあったのか?
そして,ともに一味同心して一揆を結ぶからと言って,そのことが相手の主張と行動を,自分にとっても「正義」だと認識する根拠にはならないと思います。相手の立場においては「正義」だと認識できたとしても。
第三点目は,起請文の対象が「神」である点について。
「そもそも仏教の教義には,仏が仏敵に罰を下すという内容は含まれていない」という点から,「「日本国仏神の御罰」によって実効性を担保しようとする「一味同心」観念が仏教本来の教えと無関係であることは明白である。一揆を結ぶ際に活用されたのは,来世における救済を約束する仏ではなく,現世の賞罰を司る神の権威であった」と結論づけられている。しかし,『日本霊異記』に見られるように,平安時代以降の仏教には「仏が仏敵に罰を下す」という発想が存在していることを考えると,「仏教本来の教え」を持ち出したところで「一味同心」が仏教と無縁であるかどうかは結論づけられないのではないか。(それに,仏は「来世における救済を約束する」存在に限られるわけではないと思います)
また,「地域限定のローカルな存在=「神」」(この「神」は個別寺院に安置されている仏像をも含む概念)→「起請文に登場する神々は,人々にとって地域に根ざした身近な存在である」と論じた上で,「実際,起請文には伊勢神宮の天照大神や熊野三山の熊野権現など全国区の有名な神だけでなく,“ご当地”神様が勧請されることが多い」と書かれてているが,では,なぜ天照大神や熊野権現など「全国区の有名な神」(「地域限定のローカルな存在」ではない神)も勧請されるのか,その理由についての説明が抜けていると思う。仏教(仏)が普遍性を持つのに対し,天照大神や熊野権現が「日本」という「地域限定のローカルな存在」であることに依る,という議論になるのだろうか?
このような疑問点はありますが,中世の一揆について,いろいろと考えるてがかりと,教える際のさまざまなヒントを与えていただきました。
追記ですが,江戸時代の百姓一揆が非武装で,明治になったら凶暴になる,と,きれいに分けて説明されていたが,須田努氏が明らかにされているように,天保期以降,世直し騒動(一揆)のなかで武器の携行・使用が始まり,それとともに村々のなかでは世直し勢を「悪党」とレッテル貼りして殺害するという行為が生じている点も念頭におくべきではなかったか,と思います。
6月以降の読書備忘録です。(最初にある日時は Twitter にてツィートした日時です)
6/13
8世紀初めから新羅との関係が悪化していたのか,について。 参考文献は、古瀬奈津子「隋唐と日本外交」(『日本の対外関係2 律令国家と東アジア』),河内春人「詔勅・処分にみる新羅観と新羅征討政策」(『駿台史学』108)。元ネタは古畑徹氏の論文のようですが,こちらは未確認。
670年代以降,唐が新羅や吐蕃との戦争に敗北し,さらに,突厥が復活,契丹が反乱,渤海が建国されるといった情勢のなか,唐が新羅への対応を緩和し,親密化をはかる。そのため,新羅も唐との関係を重視し,日本との関係を弱めようとする動きが進んだ。こうして,日本と新羅の関係が次第に悪化し始めたのが持統天皇のころ。このように持統朝から日羅対立の素地はすでに醸成されていたが,唐と渤海の対立が激化(唐渤紛争が発生)する730年代以降(天平期),新羅がはっきりと対等の立場を主張し,対立が顕在化した。
では,大宝の遣唐使が派遣された意図は何か,というと,古瀬氏は「中華思想を強化するためにも,実際の外交関係においても,新羅に対する優位性を確保する」ため,唐と単独で国交を結ぶ必要があった,と推測し、さらに南路をとったのも日羅関係の微妙な変化に対応したもの,と推測している。
ただ,唐から冊封を受けなくても朝貢形式をとる限り,唐を中心とする国際秩序のなかでは日本とは同格の位置にあるとの自己認識を新羅のなかを生み出してしまうわけで,「中華思想を強化する」ことにはなりません。その意味で、この古瀬氏の推論にやや疑問はありますが。
補(6/14)
持統天皇の頃から日羅関係がギクシャクしたことの根拠としては、まず、天武死去を伝えた遣新羅使への新羅側の応接者、689年の新羅使とも以前より地位の低いものであったこと、持統が新羅使に送付物を返却し、今後はきちんと礼を尽くすようにと詔していることが挙げられています。さらに、毎年のように新羅使が派遣されていたのが、次第に間遠になったことも指摘されています。
なお、701年正月元日の朝賀の儀式に新羅使が参列している件については、この新羅使は日本側が遣新羅使を派遣して来日を促して迎えた使者であると考えられていると指摘しています。つまり、使節が来朝しているからといって関係が良好だったとは限らないというわけです。
もっとも、遣唐使の航路を変更しなければならないほどの関係悪化なのかと言われると、確かに疑問です。しかし、大宝時から南路がとられたことは事実なわけです。これをどう解釈するか。古瀬氏らの議論はその一端を説明できることは確かだと思います。疑念は残ってますが。
補2(6/15)
7世紀後半から8世紀にかけての日羅関係については,(随分以前)白村江の戦いで悪化,だから8世紀に再開した遣唐使は南路(南島路)を使った,(ちょっと前)白村江の戦いのあとの羅唐戦争にともない,遣唐使が中断している天武・持統朝は親密だったが,唐渤紛争にともない羅唐関係が親密化,逆に日羅関係は悪化,(最近)羅唐戦争にともない天武朝は親密だったが,持統朝には羅唐関係の改善にともなって日羅関係が疎遠になりはじめ,唐渤紛争にともなう羅唐関係の親密化により日羅関係は悪化,と変化しています。
持統・文武朝に日羅関係が悪化していた,という最近の議論をどう受け取るのか,というのが焦点の一つです。古瀬氏らの議論のもとになっている古畑徹「七世紀末から八世紀初にかけての新羅・唐関係」(『朝鮮学報』107,1983)を今日,参照したのですが,唐の新羅への接近を背景として,新羅が日本との関係を次第に弱めようとしていたことは間違いない,と言えます。日羅関係が緊張を生じはじめていたものの,まだ軍事的な対立関係に発展するほどではなかったのが,持統・文武朝と言ってよいのでしょう。
次に,持統・文武朝に日羅関係が悪化していた(疎遠になりはじめていた)ことを前提としたとして,このことと大宝の遣唐使が南路をとった事情とに関連があるのか,です。古畑氏も,大宝の遣唐使が新羅に対する一種のデモンストレーションだと論じています。「新羅に対して,日本が新羅よりも優越した存在で,上に君臨すべき国であることを,唐との隣国性を有した遣唐使という行為によって示そうとしたのではないか」と推論しています。さらに,遣唐使帰国直後に遣新羅使を派遣し,日本が唐と隣国としての交渉をもったことを示そうとした,だからこそ,新羅がそれに対抗して遣唐使を頻繁に派遣する一方,日本への使節の派遣頻度が低下した,と論じています。羅唐関係の急速な接近は大宝の遣唐使がきっかけ,つまり,大宝の遣唐使は逆効果だった,となりそうです。それはともかく,ここでの古畑氏の議論の要は,「隣国関係というのは,日本と唐との実際の関係ではなく,日本に於ける対唐関係の意識であって,これがその意識を踏まえた遣唐使の実現・成功によって,現実のものとして裏付けられる」という点にありそうです。これは,日本での外交儀礼で有効であっても,そこを離れてしまえば非現実的でしかない。古畑氏も,唐との隣国関係を結ぶことが「認められるとは考え難いし,そのような事実もない」と論じています。ならば,日羅関係において有効なのか?よく分からないです(苦笑
なお,日羅関係の悪化が外交関係の断絶につながるほどのものではなかった,というのは,別に難しい話ではないですよね。現実に,唐渤紛争のころに日羅関係が悪化し,日本で新羅攻撃が計画される事態になったあとも,しばらくは日羅の外交関係は続いていますしね。
補3(6/18)
問題は「中華思想」あるいは「帝国構造」との折り合いをどうつけるのか。これが納得いかない(苦笑)。大宝の遣唐使を,倭王に代わって日本天皇の称号,そして,諸蕃・夷狄に君臨する小帝国としての日本を唐に認めさせようとしたもの,とする古典的な,しかし今は否定されている理解に立てば納得できるんですが,その前提が成り立たないからなぁ(苦笑
補4(8/15)
山里純一『古代の琉球弧と東アジア』(吉川弘文館)には,「新羅との関係悪化のため北路を避けて新航路で渡唐したとは考えられない」としたうえで,「新羅の協力を得なければ中国の文化を移入できないというのは,大宝令において新羅を蕃国と位置づけ優位性を保とうとする日本にとって好ましいことではない。そこで律令政府としては,新羅の世話を受けずに,直接唐文化の移入を図ることが求められていたのではなかろうか」と推論がなされている。
7/12
山口謡司『てんてん』(角川選書)を読了。 万葉仮名では清音も濁音も使い分けられていたのが,ひらかなには濁音のかながなく,第二次世界大戦後になって初めて濁点のついた仮名文字表が現れる。なぜひらかなに濁音のかながないのかについての説明は納得しにくかったものの,言葉の歴史としては面白い。とりわけ音声と書記のズレが面白かった。書記が同じであれば,現在と同じように発音されていると勘違いしてしまうが,たとえば,奈良時代から平安初期では「は」行は両唇音で(「ぱぴぷぺぽ」と発音),平安中期ころには上下の唇を軽く触れ合わせた発音の「ふぁ……」に変わる,など。
8/19
中央公論の伊藤・古川対談を読了。伊藤氏は、明治憲法体制をイギリスの立憲君主制に類似したものと把握するから、古川氏の、昭和天皇個人による権限行使がイギリスの立憲君主制を理想としたものとする評価が自分の体系を継承したものと映るんだろうな。すれ違った議論ですが、面白いですね。
8/26
杣田善雄『日本近世の歴史2 将軍権力の確立』(吉川弘文館)を読了。
3代家光から4代家綱にかけての時期に,江戸幕府の政治機構や天皇・公家・門跡,寺院に対する統制がいかに整い,そして鎖国制が形成されたのか,そのうえで,どのような意味で支配の安定なのかが丁寧に説明されている。
個人的には,キリシタン禁制と武器輸出禁止の両面に注目しながらの鎖国制の形成過程についての記述が面白かった。マードレ・デ・デウス号事件あたりからシャム事件(アユタヤで朱印船がスペイン艦隊に捕縛された事件)へ,という緊張の歴史だけをピックアップしてながめてみたくなりました。なお,このなかでは,清水有子氏の研究をもとにスペイン船来航禁止を1625年に訂正している点,1631年以降,奉書船以外の海外渡航が禁じられたと明記している点は注目に値する。高校教科書の記述も書き換えられるべきではないかと思う。
不満を一つ書けば,社会の動向についての記述が少ない。家綱期までが対象であることを考えると,寛文・延宝検地まで含め,もう少し村々の動向を読みたかった。また,かぶき者について,慶長・元和期と寛永期以降との違いが論じられ,寛永期以降は「かぶき者の風俗化・流行化現象」が生じたと評価されているのだが,その変化がなにゆえに生じたのか,分かりにくかった。
とはいえ,最初に書きましたが,幕府の政治機構が整っていく経緯,家綱期に幕藩体制が安定したというのはどのような意味でなのか,を明快に説明してくれています。
8/31
この夏のセミナーで,「円本」の1冊1円とは現在に換算するとどれくらいなのか,との質問が出たものの答えられなかったもので,少し調べてみました。 同じ廉価本で比較するという手法から,岩波文庫を取りあげてみます。岩波文庫は創刊当時,★で定価が表示されていましたが,「100ページ=20銭=★」という基準だったといいます。創刊書の一つに夏目漱石『こころ』がありますが,定価表示は★★★=60銭です。今は525円ですので875倍,円本1冊はだいたい900円くらいとなります。 同じように教養的なジャンルということで芝居で比較すると,1926年ころ,築地小劇場での前衛座の芝居が1円です。とりあえず本多劇場での芝居を取りあげると4000円から5000円。 というわけで,1000円から5000円くらいの幅のなか,ということになりそうです。
9/2
細川重男『頼朝の武士団』の最初に出てくる、「頼朝は武士か?それとも貴族か?」という問いは、「猫は哺乳類か?それともカワイイか?」という問いと同質のトンチキなものだとの説明は、喩えとして使える!
9/5
積読状態だった安野真幸『バテレン追放令』(日本エディタースクール)を取り出してきて摘み読みしました。
安野氏は,6月18日の法令と翌19日のバテレン追放令とが出された経緯と内容を,次のように説明しています。
1587年段階に高山右近を中核とするキリシタン大名のまとまり(キリシタン党)が形成されており,6月18日の法令は右近を中核とするキリシタン党とイエズス会(代表コエリュ)とに宛てられたものとし,そのなかに統合の論理と排除の論理が共存している。ここで,豊臣政権は右近を中核とするキリシタン党を政権のもとに統合することを第一にめざし,そして右近には棄教を求めた。
この政策が右近の拒否によって失敗し(→右近の改易),つづいてイエズス会のコエリュも強硬な布教路線の変更を拒否したため,その結果,排除の論理を前面におしだすバテレン追放令が翌19日に出された。 一方で既存のキリシタン大名の体制内化は実現し,たとえば小西行長は豊臣政権のもと,大村・有馬など九州のキリシタン大名の「寄親」的な存在として,彼らを体制内に繋ぎ留める役割を果たした。また,コエリュとは異なって妥協的な布教路線をとったのがオルガンチーノでありヴァリニャーニであった。
9/7
橋本雄『偽りの外交使節』(吉川弘文館)を読了。
以前,山川『新日本史B』(2004年版)で「日本から朝鮮に対しては,将軍をはじめ,管領や大内・大友・宗氏などの守護,対馬・壱岐・松浦地方の武士たち,商人や僧侶など多様な人びとが朝貢という形で通交した。」と将軍も朝鮮に朝貢しているかのように読める説明になっていること(現行版では修正されている)を指摘したことがきっかけで橋本氏と何度かメールでやり取りをした内容が書かれていて,非常に恐縮しています(汗
続いて,詳説日本史(山川)の新課程見本に呉越との交流が出てきたので,榎本渉『僧侶と海商たちの東シナ海』(講談社メチエ選書)を摘み読み。
9/8
バテレン追放令について山本博文『天下人の一級史料』で論じられていることをご教示いただいたので読んでみました。そのなかでバテレン追放令(6月19日令)第3条の訳が紹介されていますが,すんなりと納得できるものではないですね。
訳;「バテレンが,その教義をもって人々の考えを教化することによって信者を獲得していると思っていたのに,それに反して実際は右(第二条)のように日本の仏法を破壊しているとはとんでもないことで(後略)」
そして,次のように内容解説を加えています。「秀吉は,バテレンたちが教えによって信者を増やしている,つまりキリシタンの信仰は個々人の「心ざし」の問題だと思っていたのですが,神社仏閣を破壊するという暴力的な行為を行っていることを知り」,と。
この訳と解説についての疑問は次の2点です。
第一。
この説明では「神社仏閣を破壊するという暴力的な行為を行っている」主体がバテレンたちであると読めます。しかし第二条では,給人と国郡在所知行との関係が取り上げられていることを意識すれば,(バテレンたちだけでなく)キリシタン大名が神社仏閣を破壊するという暴力行為に出たことが問題とされている,と読めます。つまり,「個々人の「心ざし」」により信者となった大名たちの行動が指弾されていると思うのです。
第二。
「思っていたのですが」と逆接で訳されているが,「被思召候ヘハ」は順接ではないのか,と思うのです。 さらに,山本氏は「バテレンが,布教によって人々を信者にすることは許しているのですが,領主が領国をキリシタン王国化することは許せないことだったのです」とも評しているのですが,ではなぜバテレンを追放したのか?との疑問が出てきます。 この立場からするならば,領主(大名)たちの「心ざし」を改めるだけで十分だったのではないのか?(つまり18日令のみでよい) もちろん,バテレンの布教路線とキリシタン大名による神社仏閣の破壊行為とが密接に関連していると秀吉政権が認知したとき,バテレンが布教によって人々を信者にすることを許す,という政策が消え,バテレンを追放する政策が出てきますが,山本氏はそうした政策の変化を説明していません。なお,そうした政策の変化を考えるのが安野真幸氏ですね。
9/9
『耶蘇会士日本通信』のなかで足利学校に並ぶ大学として高野,根来,比叡山,そして多武峰があげられていますが,日本での禅宗受容のあり方を調べようと手にした『古代中世日本の内なる「禅」』のなかで,横内裕人「大和多武峰と宋仏教」に出会いました。多武峰って面白い存在ですね。
大塚紀弘『中世禅律仏教論』(山川出版社)を読了。
9/13
新課程用・詳説日本史の見本では、宝暦・天明期の文化が独立したのは良いが、特色の説明がない。とりあえず、化政文化を分割してみただけか? 中途半端なやり方だなぁ。
「歴史へのアプローチ」のなかで兵庫北関入船納帳がとりあげられ、そのなかで「商品が大量に流通していた背景を考えてみよう」との発問が載せられている。東大入試の問題そのままやないですか(苦笑
「鹿子木荘条々事書」がまだ掲載されている。院政開始の史料は、神皇正統記から中右記に変更されて久しいというのに!
9/14
京都国立近代美術館で「高橋由一展」をみてきました。
記録を残すための道具としての油絵の有用性という立場からの作品として,肖像画,三島通庸がつくった道路の写生画などが紹介されていたのが印象的でした。有用性を強調せざるを得ない点に明治前期の洋画家が抱えていた時代性を感じます。
なお,三島通庸が作った道路(栃木・福島・山形)の写生帖を見ていて思ったのですが,明治期における道路の整備過程,その政治的な意味をフォローしたいな,と。
9/16
清水有子『近世日本とルソン −「鎖国」形成史再考−』(東京堂出版)を読了。
「鎖国」の閉鎖的側面を意識しつつ,17世紀前半を中心に日本・ルソン関係を論じたもので,「鎖国」形成過程に対してルソンという(僕にとって)新しい視角からの議論だったので非常に刺激的でした。
スペインには日本進出・侵略の意志がなかったこと,日本人の積極的なルソン進出から日西交渉が始まっていること,日本・ルソン貿易において宣教師の発給文書がルソン渡航に際しての仲介・保護の機能をもっていたこと(徳川家康が禁教令を出したタイミングが複数の貿易ルートを成立させた後のことだとの指摘は目から鱗でした),などを指摘しつつ,徳川秀忠の政策に画期性を見出している点で江戸初期の対外関係についての認識を豊かにしてくれました。家光期だけでなく,秀忠期にももっと注目しないといけませんね。
なお,「1624年のスペイン船来航禁止」(山本博文氏の新説も含め)が妥当でないことを論じた歴研論文も入っています。教科書記述に影響するかどうかは不明ですが,杣田善雄『日本近世の歴史2 将軍権力の確立』(吉川弘文館,p.82)も清水説に従っているので注意は必要です。
ところで,ルソンでは総督府より教会勢力のほうが発言力があったのに対し,マカオでは宣教師の日本渡航を自主的に抑制する動きがあったとの指摘があった。なぜそうした違いが出てくるのか。次は,日本・マカオ貿易に関して何か読んでみようと思っています(いつかは不明ですが^_^;)。
『金沢大学人文学類歴史文化学コース ブックレット1 歴史学の可能性』(金沢大学,2011)を読了。
近年,大学で行われている研究・教育を大学以外へと発信していこうという動きがさまざま試みられています。このブックレットもその流れのなかにあり,今年1月に行われた金沢大学人文学類シンポジウム「歴史学の可能性」の講演録で,歴史学という分野に限られてはいるものの,大学教員が普段行っている営みを発信しようとしたものです。木畑洋一氏(成城大・イギリス史)による基調講演,金沢大教員としては能川泰治氏(日本史),古市大輔氏(中国史),田中俊之氏(ヨーロッパ史),足立拓朗氏(西アジア史)の4氏の個別発表が収められています。これから大学で歴史学を学ぼうと思っている人々に対する,ひとつの道しるべとなっています。興味のある方は,是非手にとって読んでみられるとよいと思います(入手方法はこちら)。
ただ,残念なのは,シンポジウムでのパネルディスカッションが収録されていないことでしょうか。各教員の方々がどのような営みをなされているのか,その営みの楽しさは伝わってくるのですが,歴史文化学コースの総体としての雰囲気・方向性をうかがい知ることができませんでした。もちろんコース全体として共通の方向性があるとは思いませんが,コースの雰囲気があるのではないか,と思うのです。パネルディスカッションの記録があれば,そうした雰囲気を知ることもできたのではないか,と思いました。
ところで,僕個人として興味深かったのは,能川氏の「日本現代史研究におけるオーラルヒストリーの可能性」でした。能川氏の主旨とはズレると思いますが(苦笑),特に次の表現を興味深く読みました。
「聞き取りによって得られた証言」を「個別具体的に重要な史実として扱うだけではなくて,証言者の語る姿勢とその証言に込められた思いに注目し,その姿勢や思いがいかなるプロセスで形成されたのか」,「証言者の語る姿勢や思いの背後にあるものは何かを考えることが大切だと自覚しています」(p.41-42)。
語りそのものが歴史なのです。そして,その語りは,当事者が経験を語ることだけに限定されるわけではありません。ノスタルジックなリアリティ(形容矛盾か?)を排して,たえず歴史化せよ!と。
上里隆史(文)・富山義則(写真)・一ノ関圭(絵)『琉球という国があった』(月刊たくさんのふしぎ2012年5月号,福音館書店)を読了。
琉球王国成立期の様子を知るための入門書として最適です。
ただ単に平易というだけでなく,元末の混乱のなかで寧波が戦乱にまきこまれたため,博多・寧波航路が使えなくなり,代わりに,高瀬(熊本)から琉球を経由して福建につながる航路がさかんに利用されるようになったことが,那覇が国際的な貿易港として成立する背景の一つであったことが指摘されている。などなど,興味深い記述がころがっています。
森靖夫『永田鉄山』(ミネルヴァ書房)を読了。
永田鉄山を,陸軍と政党政治との共存という視点のもと,「軍事官僚としての本分に忠実であろうとした」人物,いいかえれば,直面している情勢にいかに対応し,いかに陸軍の統制を確保するか,それに腐心する官僚として描いている。つまり,国家改造派というイメージで描いていない,という点に特徴がある。たとえば,「バーデン・バーデンの盟約」の中心であったこと,満州事変後に中国一撃論を主張したこと,を否定する。岡村寧次や荒木貞夫の回想に基づいた,彼らの立場にたったものでしかない,と論じている。永田を田中義一,宇垣一成のラインのうえに位置づけている,と言ってよいのかもしれない。
政党政治と共存した,陸相(ひいては陸軍省)による陸軍統制を維持しようとする永田の姿勢,そして,それが瓦解していく状況が説得的に描かれているが,果たして,この議論が妥当なのか。いくつか関連書を総合して読みながら,自分の理解を整え直す必要がありそうだ。
とりあえずは,小林道彦『政党内閣の崩壊と満州事変』,須崎慎一『日本ファシズムとその時代』がすぐ手元にあるので,これらから読もう。
********************
4/6に このようにツィートし,facebook にも載せたら,「歴史像が対立しているのは川田稔さんの一連の研究なので、それらと比較するのがいいのではないでしょうか」とのアドバイスを戴きました。まずは川田稔『浜口雄幸と永田鉄山』に手を付けるかなと考えているところです。
昨日は京阪神大入試問題研究会でした。その準備として,寺内浩「軍団兵士制の廃止理由について」,「九世紀地方軍制の一考察」(ともに『愛媛大学法文学部論集』),本郷恵子『日本の歴史 六 京・鎌倉ふたつの王権』(小学館),古川貞雄『増補 村の遊び日』(農文協)を読みました。
寺内論文は,792年の軍団制・兵士制の廃止を,当時行われていた対蝦夷戦争における軍事動員との関連のなかで把握しようというもので,同年の健児制の採用との関連を単純に,軍団に代わって健児制を採用した,などと評価しきれないことが了解できます。
1月,2月の読書備忘録です。(最初にある日時は Twitter にてツィートした日時です)
1/27
前川健一「新仏教の形成」(『東アジア仏教史12 日本2 躍動する中世仏教』佼成出版社)を読了。
近ごろ輪郭がぼやけてしまった鎌倉新仏教を,既存の「新仏教」の枠に沿いつつも,祖師の思想に焦点をあてるのではなく,輪郭を広げながら論じている。
2/7
吉次公介『日米同盟はいかに作られたか 「安保体制」の転換点1951-1964』(講談社選書メチエ)を読了。
第1章は,日米安保条約から新安保条約までの経緯が,アメリカが日本にどのような「負担分担」を求め,日本がいかに交渉・妥協したのかを軸として,コンパクトにまとめられている。第2章以降が本書のメインで,池田内閣の政策が論じられている。アメリカの政策に抗って経済的手段を重視しつつも,反共外交を展開するなど,アメリカの「主要同盟国」「大国日本」を志向する様子が描かれています。岸内閣と佐藤内閣にはさまって穏健なイメージがありますが,日米安保体制が定着するうえでの池田内閣の役回りの重要性が伝わってきます。 なお,安保条約のおかげで日本は軍事支出を最小限にとどめて経済発展に励むことができた,との論理が,池田内閣のもとで日米安保体制を定着させるために作り出された,との指摘は重要です。
2/12
保立道久氏のブログ院という言葉と「院政」 「院」という言葉を漢字の字義から教えることの重要性が強調されている。「院」だけに留まりませんが、歴史教育に関わる人間にとって傾聴すべき提言です。
2/13
大門正克「高度成長の時代」(『高度成長の時代1』)を読み直していたら,高度成長のなかで「電産型賃金体系が普及した」と書かれていた。
電産型賃金体系は企業の収益・支払い能力に左右されない生活保障給のシステムで,1950年代に崩壊したと理解していたのだが,今は評価が変っているのか? 確かに,年功賃金は電産型賃金体系からの遺産だから「普及した」と評価できるのだろうが,「企業の支配能力」の枠内での生活給だと電産型の換骨奪胎のように思うんだが。
昨日,東京で教育研究セミナーを終えたあと,いつものように何人かの高校教員の方と食事をしていた際,「最近,読書備忘録がサイトに書き込まれていない」との指摘をいただきました。Twitter では,それなりにツィートしているのですが,Twitter を使っていない方には不便なようです。今後は,できる限り早く,こちらにも掲載するようにします。
というわけで,9月以降の分をいっきにまとめて掲載しておきます。(最初にある日時はツィートした日時です)
2011/09/03
鎌倉政治史の説明の仕方を組み直すべく,熊谷隆之「鎌倉幕府支配の展開と守護」(『日本史研究』547号),保永真則「鎌倉幕府の官僚制化」(『日本史研究』506号),下村周太郎「鎌倉幕府不易法と将軍・執権・得宗」(『日本歴史』732号)を読み直していました。将軍独裁→御家人の合議政治→得宗専制政治,という枠組みはそろそろやめにしたい。単純で分かりやすそうに見えるんだけど,やはり,独裁と合議を対立的にのみ捉えるわけにはいきませんからね。将軍親裁と御家人の合議が共存していた時期,評定での合議のもとで執権が決裁した時期(泰時から),寄合が評定より上位の機関に位置づいた時期(貞時から),と分けて説明してみたい。クラスによっては,教科書記述とのすり合わせが必要だけど(苦笑)。
2011/10/10
出口汪『「論理力」短期集中講座』(フォレスト2545新書)を読了。野矢茂樹『論理トレーニング』の平易版がないかと探していたのですが,この出口著は使えそうです。(それでも,論述を必要とする受験生には,個人的には野矢『論理トレーニング101題』をまずは薦めたいが)
2011/10/10
與那覇潤『翻訳の政治学 −近代東アジア世界の形成と日琉関係の変容』(岩波書店)を読了。長らく積読していましたが,ようやく一気に読み通しました。琉球処分(1879)の段階では登場しなかった民族(統一)問題が事後的に現れること,「民族統一」がどのような政治的想像力のもとで現れたのかが,論争的な形で提示されていて刺激的でした。東亜共同体論での尾崎秀実,アジア主義での竹内好に似た(より明示的ですが)印象を受けました。
2011/10/28
元木泰雄『河内源氏』(中公新書)を読了。確かに,河内源氏を主題とするドラマとして面白い。
ただ,いくつか不満も残った。一つには,以前にもツィートしたが,貴族と武士とを対立的に描く部分がある点です。「公的権威より,自身の力量や思惑を重視する,すなわち自力救済が武士の行動を支える一方の原理であった」(p.iv),「王朝権威と自力救済の間で,河内源氏以下の武士は揺れ動いていた」(同)と論じられているのですが,これは「武士」だけの特性なのだろうか?第二点めは,この本の主題から言って「ないものねだり」なんだろうが,「軍事・武芸を職能とする武士」(p.4)が,いかにしてそのような存在として社会的・公的に認知されていたのか,が分からなかった。武士として動員される人々が何を基準に武士として動員されたのか,です。「東国は実力がものをいう自力救済の世界である」(p.22),「追い詰められても,あえて生きのびようとした点に,坂東の自力救済の世界を生き抜いてきた,義朝の真骨頂があった」(p.197)などと書かれるのだが,なぜ東国・坂東だけが特記されるのだろうか? 武士の行動を支える原理の一つが自力救済だと論じられていること(iv)を前提とすれば,それは畿内近国であれ,どこであれ,同じなのではないか?何が異なるのだろうか? 軍事貴族が軍事貴族の郎党になるケース(従者となっているものが実は同じ軍事貴族であること)が実例として多く出てくる点が興味深かったのだが,そこではどのような関係が結ばれているのだろうか?受領予備軍が受領の郎党になることと同様,事態としては理解できるのだが。
ところで,この本の良いところとして,ドラマとしての面白さを最初に挙げましたが,それ以外に(いや,それ以上に)指摘できるのは,武士として知られている人々の多くが,地方に土着した存在ではないことを,具体的な形で示している点だと思う。武士の多くが,地方に拠点を構えながら,京都を舞台に,そして知行国主や受領との関係をもとに,行動している様子が描かれており,その点において,新書という形で刊行されたこの本によって,武士の古典的なイメージが変わってくれることを期待したい。高校教科書で描かれる,荘園成立のあり方や荘園と国衙の関係などを相対化する事例が,さまざまちりばめられている。国衙の乱妨を防ぐために所領を寄進した,あるいは,荘官には土着の開発領主が就いた,などと思い込んでいるとズレてくる事例が,それとなく出ているのもいいな。
2011/10/30
山田康弘『戦国時代の足利将軍』(吉川弘文館)も読了。明応の政変以降,15代将軍義昭まで約1世紀も将軍が続いている,という事態は,戦国時代にあっても将軍に存在意義があったことを示しているわけですが,この著書はその具体相を論じたものです。それだけでも必読書だと思う。大名にとっての将軍の利用価値が15ほど列挙されていますが,織田信長や豊臣秀吉による惣無事政策が前代からの遺産を引き継いだものであるように思えてなりません。また,義昭を擁した信長包囲網をも「幕府」と評することができる,との指摘は面白い。戦国時代の幕府のあり様を意識することで,室町幕府のもつ特徴の一つがよりはっきりしてくるようにも思えました。何をもって「室町幕府」と称するのか,将軍分立も含めて,つめて考えておかないといけないな,という思いを強くしました。
2011/11/13
速水健朗『ラーメンと愛国』(講談社現代新書)を読了。ラーメンとともに第二次世界大戦後の歴史,産業や社会の変化をみる,という構成になっていて面白い。「ご当地ラーメン」が列島改造論以降にフェイクとして形成され,「伝統」へと塗り替えられていった様子が描かれているのだが,「伝統」を装うところから,タイトルの「愛国」へどうつながるのか,その点がうまく読み取れなかった。ナショナルな気分への繋がりは読めたのだが。
2011/11/26
與那覇潤『中国化する日本』を読了。面白かった部分と,なんだかなぁという部分に分かれました。
面白かったのは,歴史を<見立て>として使って現在を語る本,としてです。「中国化」という言葉にも疑問があるし(たとえば,農業はどう位置づくのだろう?),グローバル化を「中国化」と「翻訳」することについては,ズレがあるなとの印象は受けるものの,面白さがあります。
ただ,ご本人には申し訳ないのですが,日本通史の本としては,それほど面白くありませんでした。たとえば,平清盛・後醍醐天皇・足利義満・明治維新(明治初期)の画期性を強調されていますが,案外,古典的な印象をもちました。まず平清盛に関連するところで言えば,「農業中心の荘園制社会」「農業基盤に依拠する武家勢力」といった理解が古典的です。要するに,荘園制や武士の理解が古い,との印象です。荘園制は遠隔地間交通の発達があって成り立つシステムですし,武士が流通への支配を志向していたこともしばしば指摘されます。平安貴族にしても,九州に来航する中国商船との交易には平安中期からすでに積極的ですよね。後醍醐にしても,彼の政策を鎌倉後期の公家政治,あるいは公武両政権による徳政の流れのなかに位置づける動きもありますよね。明治維新(明治初期)については,当初は官営事業が中心でしたし,公選制議会の設立をめぐる議論は,自由民権運動が始まる以前から政府内部に存在しています。教育勅語が発布され,高等文官試験が始まるとされる1890年代は,著者は「中国化」と評価されていますが,一方,明治憲法体制を政治システムの「再江戸時代化」と評されます。つまり,「中国化」と「再江戸時代化」の同時進行を指摘されているように読めるのですが..
少し脇にそれます。明治維新の「安っぽさ」についての指摘は「逆なで」的で好みですが,「騒ぎまわった割のスケールの小ささ」については,逆に,大して騒ぎまわっていないという判断(騒ぎそのもののスケールの小ささ)もあり,じゃないですか。
ところで,江戸幕末期の「動乱」の基礎に「次三男」に見ておられるのですが,幕末の志士たちのどの程度までが「次三男」だったのだろう。統計上の根拠が知りたいところです。
一方,江戸時代についてなのですが,イエごとに家職が定まっていたかのように書かれていますが,村や町などの集団がそれぞれ固有の役を負担することによって身分に位置づけられ,人々がそれぞれの集団の成員として役を果たすことと,それぞれがどのような生業を営むかは必ずしも一致していなかったと思うのですが。百姓が必ずしも農民ではないし,無高だからといって経営が零細かどうかは分からない,という点は,網野善彦氏も強調した点だと思います。
まとめますと,清盛・後醍醐・義満・明治維新に画期性がないなどとは言いませんが,「中国化」と「再江戸時代化」という二項対立に合致しやすい部分を拾い出し,単純化し,強調している部分が強すぎる,との印象を受けました。もちろん,単純化されることによって,かえって語られていないことが燻し出されてきて,書かれていないことを探すことの面白さがありました(そこに狙いがあるのなら,僕はうまく罠にはまったわけです)。
なお,牧原憲夫氏の議論をひいて,自由民権運動を「明治政府の自由競争政策への不満と,江戸時代の不自由だが安定した社会への回帰願望によって支えられていた点を,強調する傾向が強い」と書かれているのですが,一面を強調しすぎです。牧原氏は自由民権運動を政府に向って「国民の権利」を要求する一方で,民衆に向かって「国民としての自覚」を喚起しようとする政治運動ととらえていると思いますし,秩父事件などを「異質なもののスパーク」と表現されています。
2011/12/01
桜井英治『贈与の歴史学』(中公新書)を読んでいる途中。室町時代には,現物(貨幣など)をともなわずに折紙(目録)だけを贈る,という形の贈与が行われていたことが紹介されている。面白い!
また,『へうげもの』を読んでいて(見ていて),茶器などの名物のやり取りとは,どういう類いの政治なのだろう?と疑問に思っていたのだが,桜井『贈与の歴史学』で少し取り上げられている(参照:竹本千鶴『織豊期の茶会と政治』)。「将軍家が手放した御物は,所々に流出していわゆる「名物」を形成することになる。とくに茶の湯の流行にともない,戦国武将や茶人らによって所蔵された茶器には,御物(茶の湯の世界では「東山御物」とよばれた)に由来するものも少なくなかった」(p.187-8)。「名物の創造者たりえた室町将軍とは対照的に,竹本の表現を借りれば,信長は新たな名物を生み出すことなく,すでに名物として価値が認められたものを集めるにとどまった」。「千利休らを使って新たな名物を生み出していった豊臣秀吉との違いでもあった」(p.190)。
2011/12/12
松尾剛次『太平記』(中公新書)を読了。太平記を,室町幕府を正当化する正史に準ずる歴史書・神話と位置づけている。
2011/12/15
日明勘合貿易で使用された勘合については,「常識」がくつがえされつつあるようです。詳しくはこちら→「日明勘合のカタチ」
なお,執筆者の橋本雄氏のサイトにも復元された勘合(試案)の写真が出ています。
2011/12/19
冬期教育研究セミナー(東京会場)「中世荘園の展開をどう教えるか」に関連して。
永井晋『日本史リブレット人35 北条高時と金沢貞顕』(山川)では楠木正成を静岡県(清水)出身と明記してあります(p.52)。
悪党もそれに対抗する側も同様の軍事構成(他所からの合力)をとっていたことを指摘のが,高橋典幸「荘園制と悪党」(『国立歴史民俗博物館研究報告 第104集 室町期荘園制の研究』)。南北朝期の地域的な一揆を,悪党の「合力」関係を整序するものとして把握のが,市沢哲「十四世紀政治史の成果と課題」(日本史研究2007.8,540号)。
平安末期〜鎌倉時代の荘園制についての参考文献としては,鎌倉佐保「寄進地系荘園を捉えなおす」(『歴史評論』710号,2009.6),高橋典幸「地頭制・御家人制研究の新段階をさぐる」(『歴史評論』714号,2009.10),服部英雄『日本史リブレット24 武士と荘園支配』(山川)がコンパクトにまとまっています。
2011/12/31
「1624年のスペイン船来航禁止」について。
清水有子「日本・スペイン断交(1624年)の再検討」(『歴史学研究』853,2009.5)は,スペインとの関係を,①幕府とスペイン国王(あるいはフィリピン総督など)の間での通信関係,②その通信関係に付随して行われる公的な貿易関係,③民間貿易,の3つに整理し,①②は1615年で実質的には断絶しているものの,以降も③は盛んだったとしています。
2012/01/07
野村剛史「「抄物」の世界 室町時代の言語生活」(『古典日本語の世界』東大出版会)を読んでいたら,足利学校を再興した上杉憲実が大内氏の庇護を受けた,と出てきてビックリ。憲実は,関東管領を退いた後,出家し,諸国を放浪した後に大内氏を頼って,その領内で死去したんですね。知りませんでした
2012/01/11
先日,読み終えた古瀬奈津子『摂関政治 シリーズ日本古代史⑥』(岩波新書)についてです。 摂関政治について,良房・基経のころ,忠平のころ,道長のころ,それぞれの違い(道長の権力形態の院政への継承性も含め),母后の政治的な役割などをコンパクトに学べるのが,最大の利点だと言えます。改めて,宇多天皇や藤原忠平のころの重要性を痛感するし,良房から道長までの約200年間を「摂関政治」という言葉でまとめてしまう教科書記述のアラが見えてきます。ただ気になったのは,母后を「母后」とカッコ付きで表記していた点。どのような意図があるのだろうか? 社会経済については,摂関期における平安京の民衆,受領のあり方が具体的に,かつコンパクトに説明されている点が参考になります。特に官衙町や雑色など都市民衆については,天皇家や上級貴族の,一種の企業体としてのあり様とからめて授業で活かせれば,と思います。 日宋交渉のあり方もコンパクトに説明されていますが,なかでも,入宋僧が宋で国使に準じた扱いを受けていたこと,皇族や上級貴族を後援者としていたこと(彼らは「入宋巡礼僧を援助することで功徳を積み,現世・来世の利益を願った」),浄土教の発展に呉越国からもたらされた典籍が大きな役割をはたしたことなど,摂関期における「開かれた」対外交渉のあり様が知れる事例は興味深かった。ただ異国をケガレとみなす意識と照らしたとき,両者がどのような関係にあるのか,説明があってもよかったのではないか,とも思いました。 最後に,摂関期文化についてです。「唐帝国滅亡により,中国の求心力は低下し,周辺諸国では,独自の文化が開花するようになっていく」と説明されているのだが,これは整合的な説明ではないと思います。高校教科書が菅原道真までを弘仁・貞観文化に含めて説明していることが多いため,僕も仕方なく,このような説明をすることがあります(9世紀後半には唐の衰退により中国の求心力は低下し…と説明したところですが)。それと同じことを,学者さんが教養書で書いてはダメだろう,と思うのです。そもそも,上記のように書いた,すぐ後に,「日本の漢詩文は大きな転換期を迎える。承和年間(八三四〜八四八)の『白氏文集』の受容である。(中略)『白氏文集』の受容を通じて,日本人は中国の事物ではなく,自らの周囲にある事物や生活における感情を詠むことができるようになったのである。日本独自の漢詩文の誕生と言えるだろう。その代表的な漢詩文作者が菅原道真であった」との説明が続いている。時期がズレているじゃないですか,と言いたい。とともに,『白氏文集』の受容が,なぜ「自らの周囲にある事物や生活における感情を詠むこと」につながるのか,説明がほしかったところです。
なお,この本を読んでいて思ったのだが,平安時代は,①桓武天皇から嵯峨・淳和天皇,②藤原良房から忠平・村上天皇,③藤原実頼から兼家,④道長から師通・堀河天皇,⑤堀河没後,くらいに小分けするほうが分かりやすいのかもしれない。
2012/01/19
川嶋将生「応仁・文明の乱と美意識の転換」(『立命館大学京都文化講座 京都に学ぶ② 京の乱』)を読了。以前に話題になった「東山文化」という用語の問題性(義教期の重要さ),応仁の乱以降の都市文化(天文期文化と表現した)がコンパクトにまとめてあります。
この間,松岡心平『宴の身体 バサラから世阿弥へ』(岩波現代文庫)も再読了しました。
2012/01/21
大山喬平「鎌倉初期の郷と村⑴」(鎌倉遺文研究第4号)を読了。「重要なことは国ー郡ー郷ー村によって成り立っている一個の社会にたいして、中世における庄ー名の系列はそういう社会をさまざまに切り取ることによって形づくられていたという点にある。清水三男はこの名を実体化して把握し、名を主軸にして中世を説明しようとした。みずからの反省をも含めていうのだが、ここに清水の学説上の落とし穴、重大な欠陥が潜んでいた。清水の名の理解の系列の上に、戦後歴史学を主導した松本新八郎・安良城盛昭らの学説が位置している」。この史学史上の関係を述べるのは別の機会を待ちたい、とある。
原稿が山積みで,かつ遅れているためもあって,日誌を更新している余裕があまりありませんでした(もちろん Twitter はやっているのですが,あれは,ふと気づいたことをツィートすればいいし,あるいは,他人(フォローしている人)のツィートに反応すればいいだけなので,けっこう気楽に書けてしまいます)。さらに,衛星授業「センター試験対策日本史」をまとめて事前収録したため(まだ残っているが),さらに余裕ナシってところです(苦笑)。
というわけで,この間,読んだと言えるのは,『歴史評論』8月号(特集/院政期王家論の現在)に収録の遠藤基郎「院政期「王家」論という構え」,高松百香「<王家>をめぐる学説史」,佐伯智弘「中世前期の王家と家長」,野口華世「内親王女院と王家」,樋口健太郎「白河院政期の王家と摂関家」,伊藤瑠美「院政期の王家と武士」,『日本史研究』7月号に収録の小島道裕「戦国期城下町と楽市令再考 -仁木宏氏の批判に応えて-」,『思想』8月号(特集/戦後日本の歴史学の流れ−史学史の語り直しのために)に収録の成田龍一・小沢弘明・戸邉秀明「【座談会】戦後日本の歴史学の流れ」,「【インタヴュー】戦後日本の歴史学を振り返る 安丸良夫」,成田龍一「違和感をかざす歴史学」,高澤紀恵「高橋・ルフェーヴル・二宮」,木本好信『藤原仲麻呂』(ミネルヴァ書房),などです。
小島道裕「戦国期城下町と楽市令再考 -仁木宏氏の批判に応えて-」は,豊臣秀吉の「楽座令」に関連して,「特権を全部否定することは現実にはできないが,「楽座」が原則であると宣言すれば,特権はその例外として領主が認めたものとすることが可能となる。「殺生禁断」とすることで漁業権を管理下に置くのと,同じ手法である」,と指摘されていた点が非常に印象に残っています。
『思想』8月号(特集/戦後日本の歴史学の流れ-史学史の語り直しのために)の座談会は,議論がかみ合っているように思えなかったのだが,それは,参加者3名が「メタヒストリーの会」を続けてきて,そこでの議論を踏まえているからなのかもしれない。僕としては,国民的歴史学運動から民衆史へのつながりが気になるところです。
木本好信『ミネルヴァ日本評伝選 藤原仲麻呂 −率性は聡く敏くして』(ミネルヴァ書房,2011)は,『日本歴史』8月号の榎本淳一氏の小論(「歴史手帖 比較の視点」)に触発され,藤原仲麻呂政権の唐風化政策や藤原仲麻呂の「乱」を確認したくて読みました。藤原仲麻呂政権では,752年の遣唐使がもたらした唐の知識に基づき,日本の実情を加味した政策が実施されていること,鑑真の意向も汲みながら寺院粛清(三綱を通じた統制・規律強化)が図られていることなど,平安初期の唐風化政策の先取りとも言えそうな政策が取り上げられています。藤原仲麻呂の「乱」も,孝謙上皇側の主導性,王権奪取という側面が強調されている。
これら以外には,西谷正浩『日本中世の所有構造』(塙書房,2006)のうち「第2編 在地社会の所有構造をめぐる研究」を読み,さらに,海老沢衷「中世に置ける荘園景観と名体制」,水野章二「中世村落と領域構成」,安田次郎「百姓名と土地所有」,久留島典子「東寺領山城国久世庄の名主職について」(以上すべて木村茂光・井原今朝男編『展望日本歴史8 荘園公領制』東京堂出版に所収),長谷川裕子『中近世移行期における村の生存と土豪』(校倉書房,2009)のうち「中世・近世土地所有史の現在」と「村・土豪・地域権力研究の軌跡」を読みました。あるところで,中世の荘園制のもとでは荘園領主だけが土地所有権を持っている,と書かれた文章を目にしたため,そりゃないでしょう!?,と思いつつ,百姓レベルの土地所有のあり様を確認するために読み散らした,というわけです。なお,名主と作人についての高校教科書での説明は,これらの論文に示された研究状況とは隔たったところにある,と言えます。どのように対処すべきか,悩ましいところです。問題は「用語」ですね。
ところで,いまは小川原宏幸『伊藤博文の韓国併合構想と朝鮮社会 −王権論の相克』(岩波書店,2010),長谷川裕子『中近世移行期における村の生存と土豪』(校倉書房,2009)に同時に手をつけてしまっている,という非常にまずい状況です(苦笑)。原稿の執筆を考えると,読み進める余裕がなかなかなさそうです。
「日誌」をしばらく書いていませんでした。Twitter が楽なもので,読み終えた書籍の感想はそちらへは書いていたんですけどね(苦笑)。 というわけで,この間,読み終えた書籍をとりあえず列挙しておきます。
秋山哲雄『都市鎌倉の中世史』(吉川弘文館)。一般の御家人は,鎌倉,京都,所領のどこに在住するのか,一族内で分業しあっている,との指摘は,高校日本史レベルでも強調したいところですね。そして,邸宅の所在や寺院の由来を確定する作業が面白かった。秋山氏には,次は「得宗専制」政治あたりを軸にした一般書を書いていただきたいものです。
細川重男『鎌倉幕府の滅亡』(吉川弘文館)。末期鎌倉幕府における地方分権と中央集権の相克,それと北条一門など特権的支配層との関連など,非常に面白かった。確かに室町幕府とのつながりが見えてくる。
大津透『天皇の歴史01 神話から歴史へ』(講談社),佐々木恵介『天皇の歴史03 天皇と摂政・関白』(講談社)は,それぞれ摘み読み(苦笑)。
佐々木『天皇と摂政・関白』では,平城から文徳にかけての贈太政大臣と,文徳が外伯父藤原良房を太政大臣に任じたことをつながりのなかで把握していた点が,興味深かった。
藤井譲治『天皇の歴史05 天皇と天下人』(講談社)。印象的だったのが,①豊臣政権期の末,公家関白・大臣がいなくなり,武家関白・大臣の体制になったこと。藤井氏は「秀吉が意図して作り出したのかは,いま明らかにしえない」と書いているが。②信長と秀吉の天皇に対する距離の取り方の違い。③壬辰戦争(藤井氏はこの表記を使っていないが)をめぐる豊臣秀吉の構想。まず,明軍と日本軍のあいだで50日間の休戦協定が結ばれた少し後に,秀吉が「唐入り」を放棄した点。文脈からすると,後陽成天皇から北京行幸をやんわり断られたことと関係がありそうだが..
次に,1596年に明使節を引見した際,秀吉が明からの冊封文と明皇帝から送られた常服等を受け取った点。秀吉が日本国王への冊封に激怒し,朝鮮への再出兵に踏み切ったというのは,近年の研究で否定されているとのこと。秀吉は明からの冊封自体をともかく受け入れたものの,王子を伴わなかった朝鮮使節に矛先を向け,朝鮮の「礼」なきことを責めたという。朝鮮への再出兵の動機は明示されていないが,文脈からすると,朝鮮の服属を実現するため?
読み終えて気になったのは,家康は外交交渉をめぐっては朝廷・天皇との関係をどのように扱っていた,あるいは考えていたのだろうか?ということ。壬辰戦争に関連した秀吉と朝廷・天皇との交渉が描かれていたのに対し,家康期は外交に関する記述がないので,気になった。続いて,ちょっとした不満があったのが,公家のなかに信長や秀吉,家康ら天下人に追従する人々がいたと思うのですが,そうした公家たちの動向がほとんど描かれていなかったことです。天皇を主人公に描いているのだから,仕方ないのでしょうが。
歴史的な順序が逆になりますが,1565年,正親町天皇が女房奉書をもってキリシタン追放が命じていた,との冒頭の指摘はびっくりしました。
下坂守『京を支配する山法師たち 中世延暦寺の富と力』(吉川弘文館)。中世の延暦寺について書かれた概説書はないのか,と思っていたところに,今月刊行され,ばっちり概説していただき,嬉しいばかりです。特に一番知りたかった義満期から義持没の直後までの動向が分かってよかった。
橋本雄『中華幻想』(勉誠出版)。著者本人によれば,半ば一般向け・半ば研究者向けに書いた論文集だけあって読みやすい。
「中華幻想」とは,室町・戦国期日本の国際意識を名づけたもので,「中華にあこがれ,「中華なるもの」を自在に思い描き,それとのギャップにもだえ苦しむ,という一種の≪妄想癖≫」であり,「ちょっといじらしくも複雑な,「帝国意識」の亜種」だという。
興味深い指摘①明からの冊封を受ける儀礼について,義満が明側の儀式規定を逸脱し,はるかに尊大な態度で臨んでいたことを指摘している。そもそも建文帝への国書自体,「上表」という書式を守っておらず,冷静に建文帝の足下をみていた,とも指摘している。②明からの冊封使が僧侶によって構成されていた点について,日本など使節を受けいれる側が,明の設定する外交儀礼を遵守しない場合でも明の体面を崩さないための工夫だったのではないか,との仮説を示している。③対明断交をおこなった義持期に,理想型の中国がクローズアップされたことに関連して,義持が自身の将軍就任とともに始まった応永年号を生涯変えようとしなかった点に,明の一世一元制にも擬せられる時間支配観念をみている。④室町殿が,天皇とは異なる文脈において「皇帝イメージ」をつくろうとしていたことを指摘し,<徽宗皇帝イメージ>をその中心にすえている。室町殿がもつ外交権は朝廷から奪ったものではない,という議論と同じ発想。⑤義満時代の遣明船をすべて「幕府船」と考える通説には,史料的根拠がどこにも存在しない,と言い切っている。なお,遣明船団に幕府船以外のものが参加する仕組みが分かりやすく論じられている。⑥室町幕府は現実の国際関係と<仮想の国際関係>とのギャップに苦しんでいたが,15世紀半ば以降,明使・朝鮮使節の来日が途絶えると,その悩みが消え,そのまま<仮想の対外観>が日本国内で増幅され,豊臣政権による壬辰戦争へつながっていく,と指摘。
『歴史評論』731号(2011.3)所収の渡辺尚志「近世村落史研究の課題を考える」,小酒井大悟「中近世移行期の村をどうとらえるか」,野尻泰弘「近世地域史研究の潮流」,『歴史評論』734号(2011.6)所収の長谷川裕子「太閤検地・兵農分離と中近世移行期研究」,『日本史研究』585号(2011.5)所収の渡辺尚志「中世・近世移行期村落史研究の到達点と課題」。
これらの研究史整理を読んで思ったのだが,高校教科書に出てくる<小農自立→惣村の形成>という枠組は注意が必要なようだ。室町・戦国時代の村は地侍(土豪)を軸とし,村に属することで小農の自立が進んだとしても,小農の経営が安定したかどうかは別問題;飢饉や戦乱のなかで経営を破綻させ,流浪する小農は少なくない;言い換えると,村の成員を固定的なものとみなしてはいけない,と考えておくのがよさそうだ。
あとは,『歴史評論』735号(2011.7)の特集「通史を読み直す−歴史学の「間口」と「奥行き」2」,『日本史研究』585号(2011.5)所収の跡部信「豊臣政権の対外構想と秩序観」などを読了。
黒川みどり『近代部落史』(平凡社新書,2011)を読了。明治以降における被差別部落をめぐる歴史を俯瞰するのに最適の概説書だと思います。
吉川真司『天皇の歴史02 聖武天皇と仏都平城京』(講談社,2011),末木文美士ら編『新アジア仏教史11日本1 日本仏教の礎』(佼成出版社,2010)を読了。後者には,吉田一彦「仏教伝来と流通」(もっと「流通」の面を詳しく論じてほしかったなぁ),曽根正人「奈良仏教の展開」,大久保良峻「最澄・空海の改革」(教義に関わる議論にはついていけなかった),上島享「仏教の日本化」(大著『日本中世社会の形成と王権』の内容を仏教史に即してまとめなおしたもの),門屋温「神仏習合の形成」,三橋正「院政期仏教の展開」,勝浦令子「女性と仏教」,が収められている。
今は原稿に追われてほとんど本が読めていませんが,この間,河上麻由子「遣隋使と仏教」(『日本歴史』717号,2008.2),広瀬憲雄「『東天皇』外交文書と書状」(『日本歴史』724号,2008.9),同「倭国・日本史と東部ユーラシア −6〜13世紀における政治的連関再考」(『歴史学研究』872号,2010.10)を読みました。
1つ目の河上論文は,遣隋使が仏教用語を多用していることに注目し,当時の東アジア世界での外交における仏教の役割を論じたもの,2つ目の論文は,608年の遣隋使派遣に際して倭から隋へ送られた国書についての分析です。東大で2009年に遣隋使・遣唐使の役割・意義について出題があって以降,遣隋使とその際に送られた国書については非常に気になっていて,その関係で読んだものです。このあたりの議論を読んでいていつも思うのですが,『隋書』に記載されている607年の国書と,『日本書紀』に記載されている608年の国書とを同一のものと考える,という議論はあり得ないのでしょうかね。『日本書紀』だと608年に留学生・留学僧を送っているのに,『隋書』では607年に送っているように読めるので,いつも疑問に思っているのです。『日本書紀』をきちんと読んでいないものの戯れ言でしかありませんが(笑)。
なお,推古朝あたりの情報については,石井公成氏のブログ「聖徳太子研究の最前線」が非常に有益です。
今日,名前もメールアドレスも記載のない人から,次のような質問が来ました。
花畠教場は辞書やネットで調べると「藩校」となっているのに、教科書や用語集では「私塾」となっているのはなぜでしょうか?古い辞書では「藩校」とする記述もあるでしょうが,岩波『日本史辞典』(1999)には(ですら?)「藩校」とは説明されていません。花畠教場は,熊沢蕃山ものとにあつまった私塾的なサークルで,『歴史と地理 日本史の研究226』(山川,2009)の倉地克直「賢問愚問 解説コーナー 花畠教場」によれば,花畠のグループは蕃山の致仕などによって解散し,それとは別に,池田光政によって藩校設立が企画されたとされ,両者のあいだの継続性は,現在,否定されています。
この間,衣川仁『僧兵=祈りと暴力の力』(講談社選書メチエ,2010),前田勉『兵学と朱子学・蘭学・国学』(平凡社選書,2006)を読了。
衣川著は(すでに Twitter にツィートしたが),平安中期に僧侶が増加して門流が拡大・発展していくところを出発点として,寺院(延暦寺)による武力の保持・行使が段階を追って説明されていて,分かりやすい。とはいえ,その一方で,なぜ10世紀に「僧侶が増加」したのか?その点が疑問として残り,他方で,この著書の続き(少なくとも永享の山門争乱にまで至る議論)を読みたい,という思いを強くした。
前田著は,12月に見に行った,歴史民俗博物館の特別展示展「武士とはなにか」で,江戸前期において軍学(兵学)が武士イメージを形作ったという点が強調されていて(江戸将軍家が甲州流(の流れをくむ)軍学をとったのに対し,紀伊の徳川頼宣が越後流を採用して対抗したなどの指摘は,特に興味深かった),そこに触発されて読んでみた。
この間,早島大祐『室町幕府論』(講談社選書メチエ,2010),斎藤光政『偽書「東日流外三郡誌」事件』(新人物文庫,2009),和田竜『のぼうの城』(小学館文庫,2010)を読了。
この間,古田亮『俵屋宗達 −琳派の祖の真実』(平凡社新書,2010),深谷克己『日本史リブレット人52 田沼意次』(山川出版社,2010),外村大「植民地に生きた朝鮮人にとっての日本 −民族指導者尹致昊の日記から見えてくるもの」(『日本の科学者』2010.12)を読了。
古田亮『俵屋宗達』は,いろいろと面白い指摘があったのですが,これを読んで装飾画というものの規定が明確になりました。もともと尾形光琳については,要するにデザインでしょという意識はあったのですが,宗達については「風神雷神図屏風」を見てもいまいちピンときませんでした。ところが,この本で了解できました。そのなかでも,「風神雷神図屏風」の構図が扇面を意識したものだとの指摘は面白かった(さっそく一昨日までのお茶の水での冬期講習「日本文化史(近世・近現代)」では使わせてもらった)。深谷克己『田沼意次』は,田沼の人柄が知れたのが収穫です。外村大「植民地に生きた朝鮮人にとっての日本」は,主題とはあまり関係ないのかもしれないが,最後に紹介されている日本人女性の挿話が印象深かった。
この間,塚田孝『近世身分社会の捉え方 −山川出版社高校日本史教科書を通して−』(部落問題研究所,2010),「g2」vol.6(森功「同和と橋下徹」,安田浩一「在特会の正体」,渡瀬夏彦「我喜屋優 野球バカをつくらない始動哲学」,古市憲寿「ポスト1991 27歳天才企業家の物語」,久坂部羊「世界一おもしろい医学概論」などを所収),大門正克「高度成長の時代」(『高度成長の時代1 復興と離陸』大月書店,2010)を読了。
この間は原稿と添削に追われていたため,ほとんど全く本を読んでいませんでした(苦笑)。読了したのは,坂野潤治『明治国家の終焉 −一九〇〇年体制の崩壊』(ちくま学芸文庫,2010,原題:大正政変)のみです。
この間,渡辺治編『日本の時代史27 高度成長と企業社会』(吉川弘文館,2004),三森ゆりか『外国語を身につけるための日本語レッスン』(白水社,2003)を読了。
中村太一『日本の古代道路を探す −律令国家のアウトバーン』(平凡社新書,2000)を読了。
この間,深井雅海『江戸城 −本丸御殿と幕府政治』(中公新書)を再読しつつ,中北浩爾「自民党型政治の定着」(『年報日本現代史』第13号,2008),菅英輝「「核密約」と日米安保体制」,加藤哲郎「戦後米国の情報戦と六〇年安保」,道場親信「ゆれる運動主体と空前の大闘争」,滝本匠「日米安保条約改定と沖縄」(以上,『年報日本現代史』第15号,2010)を読了。
この間,本郷恵子『将軍権力の発見』(講談社選書メチエ,2010)を読了。南北朝期に「官宣旨」という古めかしい様式の文書が幕府によって活用されていることを素材として,鎌倉幕府と対照しながら室町幕府を論じている。室町幕府は,活性化した諸国に依拠し,地域単位での再生産構造の構築をめざす守護が,それを維持するために中央政権をいただく体制としてとらえ,そのなかで室町幕府は,全国政権としての意思表示を行うことのできる正統性の根拠として朝廷(とその遺産)を活用した,と論じられている。面白い議論だなと思う一方,吉田賢司氏の議論と接合させたらどうなるだろう?という興味もある。さらに,永享の乱に際して幕府が「治罰の綸旨」を活用したことは,この議論のなかでどのように位置づけられるのだろうか,という疑問がある。本郷氏による続きはあるのだろうか?
この間,中村政則『戦後史』(岩波新書,2005)を再読。第二次世界大戦後を俯瞰するにはやはり便利な一冊だと思うものの,「貫戦史」を強調するのなら,その要素をもっと盛り込んでほしかった,との思いを強くした。
なお,『歴史地理教育』10月号に和田春樹「『日露戦争 −起源と開戦』(上・下)を書いて」が掲載されている。<戦争を避けようとした日本 対 戦争に訴えようとしたロシア>という図式が妥当ではないことを,新発見資料を用いながら具体的に明らかにしている,という。横手慎二『日露戦争史』(中公新書,2005)にせよ,「セキュリティ・ジレンマ」という概念を用いながら,日本側の積極的な態度を論じていた。和田氏の著書も読んでおかないといけないようだ。
この間,吉田賢司『室町幕府軍制の構造と展開』(吉川弘文館,2010),高橋一樹「荘園制の変質と公武権力」(『歴史学研究』794号,2004),清水克行「荘園制と室町社会」(同前),市沢哲「鎌倉後期公家社会の構造と「治天の君」」(『日本史研究』314,1988.10),市沢哲「鎌倉後期の公家政権の構造と展開」(『日本史研究』355,1992.3),山田徹「南北朝期の守護在京」(『日本史研究』534,2007.2),黒田基樹『戦国期の債務と徳政』(校倉書房,2009),そして『ユリイカ 特集・電子書籍を読む!』(2010.8)を乱読していました。
タイトルで気づかれると思いますが,教育研究セミナーに向けて頭の整理をするため,以前読んだことのあるものも含めて読み漁っていました。ただ,読み漁りすぎると,当日,頭のなかが未整理のままになってしまう可能性があるんですけどね(笑)。
最近,石川晶康・西尾鉄也(イラスト)『教科書よりやさしい日本史』(旺文社,2010)を購入しました。作りとしては一般教養書のようで,巻頭に西尾鉄也氏のイラストで「日本史ビジュアル絵巻」が配置されるなど,パッと見,受験参考書じゃない違う印象をうけます。しかし,内容はよくまとまっています。そして見開きで完結しているので読みやすい。受験勉強の導入に使うのに最適じゃないかなと思う。
立川談四楼『記憶する力 忘れない力』(講談社+α新書,2010)を読了。昨日まで神戸校で講習だったので,その行き帰りに軽く読めるものと思って読んでいました。このなかに出てくる「耳を澄ませ,耳で覚えろ」という指摘は,大学受験の現場ではあまり強調されませんが,実は受験勉強でも大切なことだと思います。
ある歴史事項を説明する際,講師がどのように構成しているのか。この点に意識することは,歴史をながめる多様な視点を意識するうえで大切ですが,そのためには講師のしゃべることをきちんと聞きとっていかねばなりません。講師の口から出てくる,自分の知っている用語だけに反応していては,講師の視点や構成を意識することはできないでしょう。もちろん,その視点や構成を「覚え」なければならないわけではありません。そこが落語の稽古との違いです。しかし,講師が提供している(意識していないかもしれないが)視点と構成を考えることが,自分のもっている視点と構成を再確認する作業につながります。自分の知識を明確に意識化することにつながります。
こうした作業は,私大しか考えておらず,受験の日本史なんて用語さえ覚えてしまえばそれでOKという向きには必要のない作業でしょう。しかし,センター試験や論述問題へ対応したいのであれば,視点や構成を意識し,さまざまな歴史事項の「違い」と「つながり」をつかみ,つまり時代の特徴を相互対比的に把握しようとすることは必要な作業です。と同時に,この作業がふつう「流れをつかむ」と表現されることを意識すれば,私大受験生にとっても無意味な作業ではないと言えます。
これ以外に,田中大喜「鎌倉〜南北朝期の在地領主組織における被官の位相」(『鎌倉遺文研究』第24号,2009.10),佐藤雄基「院庁下文と国司庁宣」(同前),田中大喜「南北朝期在地領主論構築の試み」(『歴史評論』674号,2006.6),菊地浩幸・清水亮・田中大喜・長谷川裕子・守田逸人「中世在地領主研究の成果と課題」(同前)を読了。なお,『鎌倉遺文研究』当該号は先日,ジュンク堂BAL店に行ったときに見つけて購入したものです。ジュンク堂BAL店は,こうした日本史専門誌のいくつかのバックナンバーがそろっているため,大学を離れ,大学図書館を日常的に使えない身としては,非常にありがたい本屋さんです。とはいえ,全てが入手できるわけじゃないからなあ(苦笑)。
この間,野内良三『日本語作文技術』(中公新書,2010),宮地正人『通史の方法 -岩波シリーズ日本近現代史批判』(名著刊行会,2010),渡辺尚志『百姓の力 −江戸時代から見える日本』(柏書房,2008)を読了。
野内良三『日本語作文技術』と宮地正人『通史の方法』については,少しツィッターにも書きましたが,まず野内『日本語作文技術』は,受験生が文章の書き方を学ぶにはよい本です。ここで紹介されているような,伝えるための実用的な文章の書き方は,高校までの段階ではなかなか教えてもらわないんじゃないでしょうか。僕にしても,そうした類いの本を読んだのは,予備校で教えるようになってからのような気がします。そのなかでもっとも参考になったのが本多勝一『日本語の作文技術』(朝日文庫)でした。それに並ぶ良いノウハウ本です。次に宮地正人『通史の方法』です。これは本来,岩波新書のシリーズ日本近現代史10巻になるはずだった原稿で,いろいろあって(その事情も書いてあります)名著刊行会から出版されたものです。宮地氏の専門分野もあって,幕末から明治期にかけての論説が多く,井上勝生『シリーズ日本近現代史① 幕末・維新』と牧原憲夫『シリーズ日本近現代史② 民権と憲法』に対する批判に多くのページが割かれています。一読して,宮地氏の「変革主体」へのこだわりがすごく感じられるものの,その「変革主体」に多様性がないように思います。たとえば,幕末期における国家編成のイニシアチブが云々される割に,幕府内部や雄藩諸侯の動向への目配りが少ない。また,牧原氏の立論について,藩閥政府と自由民権運動家がともに民衆を抑圧するため近代化と国民化のために手を組んで闘った,とまとめている箇所があるように,井上氏や牧原氏の議論のまとめ方がちょっと極端な印象をうけます。「変革主体」にこだわるがゆえに視野がせばまってしまっているように見うけました。ところで,この宮地著をうけて,井上氏や牧原氏はどこかの誌上で反論を展開するのでしょうか。ちょっと期待したいですね。
もう1冊の渡辺尚志『百姓の力』は,ずいぶん以前に読みかけていたのですが放ってありました(苦笑)。というわけで,そろそろ読まねばと思い,読み通しました。昨年, ここで渡辺尚志『百姓たちの江戸時代』(ちくまプリマー新書,2009)を推奨しましたが,それ以上に読み安い本です。一橋大志望者だけでなく,論述問題を必要とする受験生は読んでおいて損はないです(定価2200円なので,ちょっと高いけど)。
昨日,「院など権門による領域支配への衝動が何を背景としていたのか,分かりにくい」と書きました。というわけで,元木泰雄『院政期政治史研究』(思文閣出版,1996)を摘み読みしてみました。院政は院とその近臣とが主導する国政のあり方と把握できますが,院とその近臣との間の緊密な関係は何によって担保されるのかといえば,それは官職の推挙とは異なった,院からの給恩ということになります。そのことが,院(とその近臣)による立荘,領域支配の私的な確保につらなると考えておいてよいようですね。とはいえ,その領域は何に基づくのだろう?
この間,藤木久志『中世民衆の世界 −村の生活と掟』(岩波新書,2010)を読了した後,川端新『荘園制成立史の研究』,西谷正浩『日本中世の所有構造』,鎌倉佐保『日本中世荘園制成立史論』を乱読していました。発端は,守田逸人『日本中世社会成立史論』のなかで,川端新氏の研究が「封戸という国家的給与の代替としての立荘」「封戸の荘園化」という文脈のなかに位置づけられていたことへの違和感なのですが,川端著ならびに鎌倉著での川端評価からすれば,やはり,この守田氏の評価は不正確です。平安後期における立荘は,国家的な給付の延長線上ではなく,院を中心とする貴族社会の再編のなかに位置づけ,非公的(私的)な権門による立荘が同時に公的(国家的)な性格をもったことを意識すべきでしょう。しかし,院など権門による領域支配への衝動が何を背景としていたのか,分かりにくい。院政という新しい政治形態が始まったこととの同時代性としては了解できるのだが。
この間,藤井譲治「「惣無事」はあれど「惣無事令」はなし」(『史林』93.3,2010),岡本公一「比較植民地主義史論 −日本とアメリカを事例として−」(『歴史学研究』867号,2010),屋良朝博『砂上の同盟 −米軍再編が明かすウソ』(沖縄タイムス社,2009),高橋典幸『日本史リブレット人26 源頼朝 −東国を選んだ武家の貴公子』(山川出版社,2010)を読了。
藤井譲治「「惣無事」はあれど「惣無事令」はなし」は,yjisanさんからご教示いただきました。少し前に竹井英文氏の惣無事政策関連の論文をまとめ読みしましたが,なんというタイミングなんでしょうね。「惣無事令」(秀吉の関白就任との関連も含めて)を軽々しく使って豊臣政権の統一過程を論じることができなくなりそうですね。ちなみに,『東大の日本史25カ年』の2009年第2問の解説では「惣無事令」という言葉は全く使わなかったので(三鬼清一郎「「惣無事」令について」(『歴史と地理』.3,592号、日本史の研究212)を意識したためですが),改訂せずとも大丈夫そうです。
岡本公一「比較植民地主義史論 −日本とアメリカを事例として−」は,大学時代からの友人の論文というのもあり,興味深く読みました。日本の台湾統治とアメリカのフィリピン統治の「共犯」関係についての論文(この論文の続編として書かれるはず!)を,早く読みたいものです。
屋良朝博『砂上の同盟 −米軍再編が明かすウソ』は,米軍基地を沖縄に集中させる必然的な理由がないことを,関係者へのインタヴューから論じています。普天間問題がフェードアウトしそうな気配のある今だからこそ,読んでおくべき文献だと思います。ただ,アメリカが恒常的な海外駐留という「負担」から解き放たれ,必要なときにいつでも基地を確保できる戦略へと転換しようとしている,との指摘が含まれている点が気にかかる。シーベーシング構想という新しい戦略について,少し勉強をしておかないとダメなようだ。
高橋典幸『日本史リブレット人26 源頼朝』は,鎌倉幕府成立の過程をコンパクトにまとめた好著だと思う。受験生にもお薦めできます。
この間,守田逸人『日本中世社会成立史論』(校倉書房,2010)を読了。荘園が政界での政治工作をともないながら設立されるなか,都鄙間のネットワークを利用しながら「開発領主」が地域社会で地歩を占めていく様子を論じた部分が,躍動的で面白かった。都鄙双方につながりをもちつつ領域にとらわれない経営のあり方を具体的にイメージさせてもらえた点が収穫です。問題は,これを授業のなかで活用できるレベルまで,どのように加工するのか,鎌倉時代における地頭御家人の広域な所領経営にどのようにつなげていくか,です。とりあえずは,もう一度,野口実『源氏と坂東武士』(吉川弘文館)を読んでみる必要を感じています。
この間,森公章『奈良貴族の時代史 −長屋王家木簡と北宮王家』(講談社選書メチエ,2009)を読了し,中筋直哉『群衆の居場所 -都市騒乱の歴史社会学』(新曜社,2005)を再読。
この間,小松裕『日本の歴史14 「いのち」と帝国日本』(小学館,2009),佐々木俊尚『電子書籍の衝撃』(ディスカヴァー携書,2010)を読了。
この間,有馬学『日本の近代4 「国際化」の中の帝国日本』(中央公論新社,1999),クリス・アンダーソン『フリー <無料>からお金を生みだす新戦略』(NHK出版,2009)を読了。
この間,竹井英文氏の「戦国・織豊期東国の政治情勢と「惣無事」」(『歴史学研究』856,2009.8),「戦国・織豊期信濃国の政治情勢と「信州郡割」」(『日本歴史』738,2009.11),「「関東奥両国惣無事」政策の歴史的性格」(『日本史研究』572,2010.4)をまとめて読了。高校日本史の教科書では,豊臣秀吉が「惣無事令」という法令を出したことは普通に記述されているが,竹井氏は関東・東北地方をめぐる惣無事政策の分析から,秀吉の惣無事政策は織田政権の関東惣無事政策の延長線上に位置づけることができ,藤木久志氏らが想定した「関東奥両国惣無事令」なる法令は存在しないことを論じている。三鬼清一郎氏が「「惣無事」令について」(『歴史と地理』2006.3,592号、日本史の研究212)で,「惣無事の論理」という言葉が独り歩きし,自明の前提とされる傾向にあることに注意を促したのは読んでいたのですが,竹井氏はそもそも「惣無事令」をきれいさっぱり否定してしまっています。もちろん「惣無事」というものを否定しているわけではない。「基本的に和与・停戦により形成される秩序を表す言葉であって,その内実や和睦形態は地域や時期によってさまざまに変化すると考えられる」(上記の歴研論文より)としている。
こうした研究があるからと言って,高校教科書の記述が修正されるとは思わないが(苦笑),ちょっとは意識しておかないといけませんね。
それから,吉見俊哉『親米と反米 −戦後日本の政治的無意識』(岩波新書,2007)も読了。第二次世界大戦後の日本において,「アメリカ」が日本人の意識のなかにナショナルな主体を育みながらいかに浸透していったのかを俯瞰したものです。
岩崎稔ほか編『継続する植民地主義』(青弓社,2005)を読了。第二次世界大戦後も東アジアで継続した植民地主義を俎上にのせた論文集です。
戸辺秀明氏が「帝国後史への痛覚」(『年報日本現代史』第10号)で,「植民地主義は植民地の領有によって帝国が抱え込んだ様々な暴力の質とその相互の関係を測るために採られた包括性をもつ言葉である」と規定しているように,植民地主義とは「包括」的であるため,裏返せば,漠然とした概念であるように思える。複数の論者が集まっているから余計にそのような印象を受けるのかもしれない。その中でやや異質な印象をうけたのは(直接に植民地主義を対象とせずに「ある迂路」をとっているからだが),岩崎稔「戦後詩と戦後歴史学 −一九五〇年代の叙事詩的渇望の史学史的文脈」です。1950年代前半における「サークル運動」や「国民的歴史学運動」とそこで要請された「民族的主体」の構築について論じ,そこでは「民族解放闘争を戦う民族こそが範型となる民族として捉えられている」と評されていた。植民地空間が敗戦によりすっぽり消えてしまうと同時に,「植民地主義を問う」という視座も意識化されずに過ぎてしまった一端がうかがえるように思う(冷戦構造が植民地主義への批判を凍結させてしまったことがあるにせよ)。
菅野仁『教育幻想 −クールティーチャー宣言』(ちくまプリマー新書,2010)を読了。
高橋敏『江戸の教育力』(ちくま新書,2007)を読了。寺子屋(手習塾)とその影響下における文字文化の広まりを軸としながら,村々の非文字文化とのつながり,地域をこえたネットワークのあり様などを具体的に紹介してあります。
本橋哲也『カルチュラル・スタディーズへの招待』(大修館書店,2002)を読了。
小林泰三『日本の国宝,最初はこんな色だった』(光文社新書,2008)を読了。以前,Twitter で Nakano Kenji さんから紹介され,NHK大阪支局前に再現された大仏を見に行くついでに読み通しました。
昨日,少しツィートしたのですが(→こちら),春期のセミナーでしゃべった<論述作法>について,少しまとめておきます。
問いを3つの型(カタ)に分類してみます。(1)違いに注目,(2)つながりに注目,(3)多面的な説明を求める,の3つ。
(1)違いに注目する型には,ア.対比させる,イ.特徴(特色)を問う,ウ.変化・推移・展開を問う,という3つのバリエーションがある。
ここで,「特徴(特色)」や「変化・推移・展開」は,違いに注目してはじめて説明できることを意識したい。まず,「特徴(特色)」という言葉は「内容」を単に強調するときに使うもの,あるいは「特徴(特色)」が問われたら「内容」を思い浮かべる,というのは,大きな勘違い。次に,「変化(転換)」は前の状態を説明せず今の状態だけを説明してOKだ,というのも大きな勘違い。さらに,「推移・展開」は個別的な年代を書きながら並べたら説明できる,と思ったら大きな間違い。「推移・展開」は,いくつかに時期区分し,それぞれの時期を特徴づけて説明することが必要です。
(2)つながりに注目する型には,ア.事情(原因・背景)を問う,イ.結果・影響を問う,ウ.関係を問う,エ.意義・意味を問う,という4つのバリエーションがある。
「事情(原因・背景)」については,原因や背景・理由が問われたとき,まず過去や同時代に「つながり」のあるものを探すことからはじめればよい,ということを意識したい。もちろん,相関関係があるからといって因果関係が成り立つのかどうかは検討の余地がある。しかし,「つながり」のある事柄(事情=いきさつ)を探ることが,原因や背景・理由を考える手がかりになる。
「関係」は,双方の立場に目配りすることが必要。ストーカー行為と恋愛関係は違うんだから。そして,「意義・意味」は,変化のなかで果たした(あるいは構造のなかで果たす)役割,もしくは,変化(あるいは構造)のなかでの重要さを考えたい。いずれにしても「つながり」への注目。
(3)多面的な説明を求める型は,1つのテーマをいくつかの視点から説明することを求めるもの。いくつかに区分して説明するという点で,「変化・推移・展開を問う」タイプと似ている。共時的に区切るのか通時的に区切るのかが違うし,さらに,ここの視点どうしの「違い」や「つながり」に特に注意しなくてもよいという点が異なるが。
このような問いの型を意識すれば,問題と向き合ったとき,どのような回路で考えをめぐらせばよいのか,その手がかりが得られる(もちろん,型など意識せずに考えられるようになれば一番なのですが)。
もう一つ,「まとめ(ルール)」と「具体例(エグザンプル)」の区別にも注目したい。個別的な具体例を書き並べるだけではダメで,「まとめ」が必要。言い換えれば,「要約と編集」という観点を意識することが不可欠だ,ということです。
この間,米谷匡史『アジア/日本』(岩波書店,2006)を読了。
藤沢伸介『ごまかし勉強 学力低下を助長するシステム』(新曜社,上下とも2002)を読了。
藤沢氏は,学力低下の大きな要因として「ごまかし勉強」の広まりを指摘しています。この「ごまかし勉強」とは「指示されたところだけ機械的に処理する」勉強のあり方ですが,その言葉により,学習の方略や手段などが全て人任せにされ,「学習の主体が学習者本人でなくなった」事態を指摘しています。そのうえで,この本の独自性は,「ごまかし勉強」の広まりの要因の一つとして,学校における「定期試験における教科書に忠実な出題」を指摘しているところだと思います。
では,こうした教員・生徒を問わない「ごまかし勉強」の広まりは,どのような歴史的状況のなかで生じたのか。藤沢氏はそこまで分析してくれていません。ただ,高木幹夫+日能研『予習という病』(講談社現代新書)が,高校入試における内申書重視という動きが,内申書対策,そのための授業対策として一生懸命予習をして平常点をよくするための努力をするようになり,すでに決まっている・わかっているはずの答えに向かって努力する「予習病」が広まるようになったと指摘している点が参考になるかもしれません(ちなみに,文部省は1966年,高校入試における学力検査実施教科数の削減を示唆するとともに内申書重視の方向を打ち出しています)。
なお,藤沢著でも「『教科書を勉強』するのでなく『教科書で勉強』すべきだ」「教師は『教科書を教える』のでなく『教科書で教える』べきだ」とのフレーズが登場します。その一方で,教科書を勉強する・あるいは教えることの難しさに関心が払われることが少ないように思います。「教科書を読む」という作業への関心が低い,と言っていいかもしれません。
佐藤学『岩波ブックレット548 学力を問い直す』(岩波書店,2001)を読了。学力を「「学校で教える内容」についての「学びによる到達」」と規定し,さらに「基礎学力」を「リテラシー」つまり「共通教養」と定義したうえで,「日本社会の現実に深く根をおろした教養」を蘇らせ,教養教育を充実させることが強調されています。ただ,佐藤氏の求める「教養」とは何なのかが読み取れなかった。「今日では,ほぼ全員が高校を卒業しているわけですから,高校卒業程度の教養を「基礎学力=リテラシー」に設定すべき」とも書かれているんですが,高校までで「教える内容」(教科だけに限定されない)を「教養」と言われても分からない。個々に示唆的なことはあるけれども,なんだか捉えどころがなかった。もっときちんとした著書を読むべきだったんだろうな。
ただ,受験産業がボロクソに書かれています(笑)。とくに次の記述は笑った。
大手の予備校で,今後も受験産業を続ける方針を固めているのは,資本金が少なくて転業がはかれない企業か,大量の講師を正規に雇用しているためリストラに踏み切れない企業だけです。めっちゃ偏見じゃないの? それに,これって,多くの大学も該当するんじゃないの?とも思ったんですけどね(笑)。
鈴木謙介『サブカル・ニッポンの新自由主義』(ちくま新書,2008)を読了。
藤原和博・岡部恒治『人生の教科書[数学脳をつくる]』(ちくま文庫,2007,原著は2003)を読了。
なお,日本植民地研究会編『日本植民地研究の現状と課題』(アテネ社,2008)を読了。
中筋直哉『群衆の居場所 −都市騒乱の歴史社会学』(新曜社,2005)を読了。明治後期から大正期にかけて頻発した都市民衆騒擾(中筋氏は都市騒乱と表現)を,大通り(交番と路面電車),都市公園(日比谷公園),繁華街(ショーウィンドウ)に注目しながら分析している。具体的には,それぞれ日比谷焼打ち事件,第1次護憲運動(大正政変),米騒動を対象としているが,なかでも日比谷焼打ち事件について「昼の群衆」と「夜の群衆」を区別して分析している点,米騒動(東京に限定されているが)を米の廉売強要,ショーウィンドウへの投石,米穀取引所など公共機関への投石に区分しながら分析している点が興味深い。
なお,群衆の行動において多くの場合,モノの破壊のみが徹底的に実行されるという傾向性を指摘する一方,他者の身体をモノと錯視して破壊する事態がありうることを指摘し,「その事例と見なせるかもしれない,一つの極端な史実」(p.63)として関東大震災時の自警団による朝鮮人虐殺を挙げている。ただし分析は行われていない。日比谷焼打ち事件,第1次護憲運動(大正政変),米騒動に続く4つ目の都市民衆騒擾(都市騒乱)としての中筋氏の分析を読んでみたいところです。朝鮮人虐殺という「都市騒乱における主体性の遂行を通して,人びとが各自の生活の内側の事実としたこと」(p.263)とは,何だったのだろうか?
加藤陽子「総力戦下の政−軍関係」(『岩波講座アジア・太平洋戦争2 戦争の政治学』岩波書店,2005)によれば(p.9),
憲法第一二条の編制権が海軍大臣によって担われただけでなく,第一一条の統帥権も海軍大臣と海軍軍令部長の双方で担われていた。とのことであり,海軍内部の力関係が変化し,軍令部長に兵力量の起案権が与えられるようになったのは,統帥権干犯問題よりも以降のこと,1933年以降のことと書かれている。山川『新日本史』の執筆担当者である伊藤之雄氏みずからの『日本の歴史22 政党政治と天皇』(講談社)でも,統帥権干犯問題に関する説明のなかに海軍軍令部条例への言及がないことを考え合わせると,山川『新日本史』の記述はミスの可能性が高いのかもしれない。
なお,野中信行『困難な現場を生き抜く教師の仕事術』(学事出版,2003)を読了。僕とは全く異なる現場,小学校の元教員が書かれたものです。野中氏のブログ風にふかれてを日頃読んでいるもので,「なぜ,子供達は,こんなに変わってしまったのか」というフレーズにひかれて出版元から直接購入し,読みました。次の指摘は印象的でした。
<みんな>と<自分>というものを区別していて,<みんな>のなかに<自分>は入っていない(中略)。先生が言ったことは聞こえているが,あれは<みんな>に言ったことだから<自分>には言われていない。だから,いちいち先生の所に確かめにこなければいけない。
山川の『新日本史』には,ロンドン海軍軍縮条約の際の統帥権干犯問題をめぐる記述のなかに,次のような説明がある(p.332)。
海軍の軍令部条例では,兵力量の決定にも軍令部の同意が必要とされていたので,軍令部・立憲政友会・右翼らは統帥権干犯であるとして,政府を攻撃した。ところが,百瀬孝『事典 昭和戦前期の日本 制度と実態』(吉川弘文館)では,次のように説明されている(p.258)。
海軍では,以後兵力量の決定は海軍大臣と海軍軍令部長の合意によることが勅裁を経て決定された。つまり,軍令部の同意が必要であると明確化されたのは統帥権干犯問題よりも以後のことである,と説明されている。山川『新日本史』は何に基づいて上のように記述したのだろうか? きちんと調べないとあかんな。
三枝暁子「中世における山門集会の特質とその変遷」(村井章介編『「人のつながり」の中世』山川出版社,2008),同「南北朝期京都における領域確定の構造」(『日本史研究』469,2001.9)大石雅章「寺院と中世社会」『岩波講座日本通史第8巻 中世2』岩波書店,1994),衣川仁「中世延暦寺の門跡と門徒」(『日本史研究』455,2000.7)をまとめ読みしました。
同時に,兵藤裕己『琵琶法師』(岩波新書,2009)も読了。
『室町時代の屏風絵』(東京国立博物館,1989)を入手しました。
予定通り,三枝暁子「室町幕府の京都支配」(『歴史学研究』859)と山家浩樹「室町時代の政治秩序」(『日本史講座第4巻 中世社会の構造』)を読了したあと,榎原雅治「寄合の文化」(『日本史講座第4巻 中世社会の構造』)へと読み進んだところ,室町時代にも金銀をふんだんに使用した日本絵画(大和絵)の指摘があってびっくり。この榎原論文はずいぶん以前にも読んだ記憶はあるのですが,この指摘は記憶からすっぽり抜けてます(笑)。というので,辻惟雄『日本美術の歴史』(東京大学出版会,2005)をネットの「日本の古本屋」で見つけ,さっそく注文しました。
この間,佐藤博信「鎌倉府についての覚書」(『中世東国の支配構造』思文閣出版,1989),清水克行「正長の徳政一揆と山門・北野社相論」(『室町社会の騒擾と秩序』吉川弘文館,2004),高橋康夫「室町期京都の空間構造と社会」(『日本史研究』436,1998.12),田坂泰之「室町期京都の都市空間と幕府」(『日本史研究』436,1998.12)を読了。続いて,三枝暁子「室町幕府の京都支配」(『歴史学研究』859,2009.10)と山家浩樹「室町時代の政治秩序」(『日本史講座第4巻 中世社会の構造』東京大学出版会,2004)を読み進める予定。
なお,元教え子の塩崎皓平くんから三谷博・並木頼寿・月脚達彦編『大人のための近現代史 19世紀編』(東京大学出版会,2009)を薦めてもらった。日本史・朝鮮史・中国史などの研究者が集まって作った東アジア近現代史の概説書です。すでに買ってはあったものの積ん読状態でした(苦笑)。時間をみつけて読んでみたいと思っています。
高木幹夫+日能研『予習という病』(講談社現代新書,2009)を読了。「予習」ではなく「復習」が大切ですよ,なんてことが書かれているわけではない。「予習」と「準備」の間にある深い懸隔に注目し,「復習」ではなく「ふり返り」を重視している。なかでも,「テスト終了後も答案を考え直す,考え続ける」ことの重要性はまったく同感です。そもそも,僕が論述問題の解答例や解説を考えるときにやっていることなんですから。ただ僕には,それを作法化するシステムを用意できていない。その意味で参考になります。
なお,山田芳裕『へうげもの』第10巻(講談社,2009)も読み終えました。
この間,小関素明「支配イデオロギーとしての立憲主義思想の思惟構造とその帰結」(『日本史研究』322,1989.6),河島真「戦間期内務官僚の政党政治構想」(『日本史研究』392,1995.4),源川真希「普選体制確立期における政治と社会」(『日本史研究』392,1995.4),住友陽文「近代日本の政治社会の転回」(『日本史研究』463,2001.3),高岡裕之「「十五年戦争」・「総力戦」・「帝国」日本」(歴史学研究会編『現代歴史学の成果と課題1980-2000年 Ⅰ 歴史学における方法的転回』青木書店,2002),宮崎隆次「時期区分論としての戦後史」(『日本史研究』400,1995.12),原朗「戦後五〇年と日本経済 -戦時経済から戦後経済へ-」(『年報日本現代史』創刊号,1995),といった諸論文を読みました。1930年代の政治,特に「憲政の常道」が終焉して以降,ならびに戦時から戦後への転換,という2つの時期に関連する論文です。先日の教育研究セミナーで扱った分野ですが,時間的に少し余裕ができたので,もう一度,読みなおしてみようと思い,自宅の本棚をあさって出てきたものを読んでみました。近年,坂野潤治氏が1930年代半ば,なかでも1936・37年をすごくクローズアップしてきている。それに対する自分の判断をもっと明確にしておかないといけないという思いをより強くしました。
さらに,京都府立図書館へ行き,西成田豊『近代日本労働史 -労働力編成の論理と実証』(有斐閣,2007)と谷川穣『明治前期の教育・教化・仏教』(思文閣出版,2008)をつまみ読み(苦笑)。西成田氏の著書を読んで気づいたのですが,一橋大2006年第3問は西成田氏の出題だったんでしょうね。
そして,神谷利徳『繁盛論 −“人が集まる”7つの流儀』(アスキー新書,2009),田中聡『妖怪と怨霊の日本史』(集英社新書,2002)を読了。前者は店舗デザイナーの方が自分の仕事ぶりを語ったものですが,業種が全く異なるとはいえ,触発されるものが多かったです。後者は,楽しいです。イマジネーションの世界が楽しめます。ただ「妖怪と怨霊」というより,「神々の痕跡」を日本史(記紀神話を含め)のなかにたどったもの,というほうがピッタリなように思いますが。
檀上寛『永楽帝 −中華「世界システム」への夢』(講談社選書メチエ,1997)を読了。元(モンゴル)から明初までを統一性をもった流れのなかで捉えようとするもので,永楽帝のさまざまな政策を<フビライを越える>という野望のもとに見ようとする視点が面白かったです。永楽帝の治世は日本では,ちょうど足利義満のもとで日明勘合貿易がはじめられ,遣明船が頻繁に派遣されていた時期ですが,その頻度の高さを明の永楽政権の積極姿勢ゆえと指摘する,橋本雄氏の議論(「遣明船の派遣契機」『日本史研究』479)とつながるところがありますね。
池田太郎『ディスコミュニケーションを生きる』(寺子屋新書,2005)を読了。
本屋で新書コーナーをながめていて「ディスコミュニケーション」という言葉につられて買ってしまいました。ネット上のある説明によれば,ディスコミュニケーションとは「対人コミュニケーションの不全状態」を指す和製英語らしいが,だとすれば,ディスコミュニケーションとは改善されなければならない,あるいは消し去らねばならない事態と言えます。しかし,僕の感覚だと(「理解」などと大それたことが言えない),ディスコミュニケーションはコミュニケーションとともに生じる事態であって,改めることはできても消し去ることのできるような事態ではない,と思います。その意味で,池田氏がディスコミュニケーションを否定するなく受け止める必要があると書くのは,感覚的に分かります。もっとも「三流小説家知事でも,戦後六十年,平和ボケした人間の内部が外部と齟齬したままでは長く耐えられるはずのないことを知っているのだ。だからこそ,わたしたちは,ディスコミュニケーションに親しまなければならない」と書かれているように,感覚的に分かるとか言うような言葉で済ませない事態が現実に存在しているわけですが。
1月7日の記事について,木許裕介くんがブログでコメントしてくれています(→こちら)。
「日本史の知識は,雑学的な小ネタなんでしょうかね?」との問いかけに,「そんなことはないですよ」と応えてくれています。その通りだと思います。受験で得た知識が内容的にみて,大学で学ぶうえでどこかで役立つことは承知しています。
ただ,僕が特に問題にしたかったのは形式面です。大学の出題者の方々は,出題を通じて受験生にどのような勉強スタイルを求めているのか,です。正解(あるいはマニュアル)を単に覚えることを求めているのか?それとも?
教科書の理解度あるいは到達度を確かめる,と言われることがあります。では,教科書は正解なのか? 記載されている知識をその通り覚えているかどうかを確かめる,という手法をとるならば,「教科書は正解」という立場です。そのような場合,「誰か」が提示する正解を覚えることを勉強スタイルとして身につけることを受験生に求めている,と言えるでしょう。
一方で,教科書に記載されているデータをもとに,そのうえで処理能力を試す,という「理解度の確かめ方」もあります。
東大の日本史は,その好例だと思います。たとえば,2008年度第4問の
原敬内閣が,第一次大隈重信内閣とは異なり,のちの「憲政の常道」の慣行につながる,本格的な政党内閣となったのはなぜか。
という出題など,教科書記述をそのまま答えただけでは設問の要求に応えることができません。
たとえば,山川『新日本史』には「陸相・海相・外相以外の閣僚を立憲政友会会員で占めた日本で最初の本格的な政党内閣」と書かれていますが,これでは「第一次大隈重信内閣とは異な」る側面が不明です。山川『詳説日本史』では,「新首相は,歴代の首相とちがって華族でも藩閥出身者でもなく,平民籍の衆議院議員だった」と書かれていますが,これでは「のちの「憲政の常道」の慣行につなが」りません。教科書記述を覚えているかどうかではなく,その知識を前提として考えること,発想することを「型」として求めている,と言ってよいでしょう。
また,京大の日本史について僕は,連想(推論)と分節化という作業に慣れることを要求していると受験生に説明することがあります。記述問題は連想,論述問題は分節化,というわけです。もちろん京大の論述問題には,教科書をペラペラめくって200字の要約に適した箇所をひっぱってきただけではないか,と思われる出題がたまにあります。とはいえ,要約するには,自分なりの理解に基づき,通時的もしくは共時的にいくつかに区分(グルーピング)しながら表現することが必要とされます。ですから,京大の日本史(論述問題)は,物事を分節化しながら考えることを「型」として求めている,と判断しています。
この2つの事例は論述問題ですが,記述問題や選択問題の形式であっても処理能力を試す形式はありえると思うのですが,それはともかく,出題者の方々がそうした「型」,大学での学びにつながる「型」にどの程度意識的なのか? ちょっと疑問を呈してみたのです。
当然,僕自身にも戻ってくる問いかけですが。
なお,大学に入ってから気づく「ありがたさや面白さを受験生時代に気づかせてやれるように教えることが大切なんじゃないか」との指摘は,深く胸に刻んでおきたいと思います。
この間,平尾誠二・金井寿宏『型破りのコーチング』(PHP新書,2010),石見清裕『世界史リブレット97 唐代の国際関係』(山川出版社,2009)を読了。
前者は,ラグビーの平尾誠二の対談本だというので手に取りました。「型破り」というタイトルがついていますが,「型」が要らないという話が展開しているわけではなく,豊かなイマジネーションを培うため,「型」の意味・本質を教えることの重要性が指摘されています。ところで,大学入試問題は大学受験生の勉強スタイルと内容を「型」にはめてしまう性格を強くもっていますが,入試問題の作成者の方々は,そのことをどの程度意識しながら作問されているのでしょう?
「入試問題は大学への招待状であり,同時に大学からの挑戦状でもある」。これは,日本経済新聞2007.7.23に掲載された「まなび再考」に耳塚寛明氏(お茶の水大学)が書かれていた文章で,非常に気に入っているので『東大の日本史25カ年』でも使わせていただいているのですが,もう一つ,僕が以前から意識していることがあります。予備校業界で仕事をし始めた頃ですから,今から20年は以前のことですが,友人の八幡英幸氏(熊本大学)から指摘されたことです。大学受験で日本史を選択している生徒のほとんどが大学で日本史を専門的にやらない,という事実です。教える側は好きで日本史を教えているかもしれないが(そうじゃない人もいるとは思うが),受験生のほとんどは受験で必要だから,仕方なく日本史を選択し勉強している,というギャップです。そういう受験生に対して入試問題が「大学への招待状」かつ「大学からの挑戦状」として示されているわけです。日本史の知識は,雑学的な小ネタなんでしょうかね?
後者の『世界史リブレット97 唐代の国際関係』は,唐の成立(という形をとった中国の統一)を南モンゴリアと華北との抗争のなかで把握しようとしたもので,日本を中心に東アジアを考えてしまう僕にとって新鮮でした。日本史にひきつけて言えば,もっと樺太・アムール地方やカムチャツカ方面へも意識を向ける必要があると言えます(さしあたり思いつくのは佐々木史郎『北方から来た交易民 絹と毛皮とサンタン人』〔NHKブックス,1996〕)。
それらに加えて,橋本雄「再論,十年一貢制 −日明関係における−」(『日本史研究』568,2009.12),古瀬奈津子「摂関政治成立の歴史的意義 −摂関政治と母后−」(『日本史研究』463,2001.3)も読了。橋本論文は遣明船派遣で指摘される「十年一貢」の「十年」は「足かけ十年」(満ではなく数え)であることを論証しています。国会開設の勅諭(1881)でしばしば言われる「十年後の国会開設」の「十年」,鶴見俊輔が提唱した「十五年戦争」の「十五年」も,同様の数え方ですものね。
なお,川島真・服部龍二編『東アジア国際政治史』(名古屋大学出版会,2007)を並行しながら,少しずつ読んでいます。最近の研究状況を概説的に俯瞰するのに手ごろだと思います。
この間,田嶋信雄「東アジア国際関係の中の日独関係」(工藤章・田嶋信雄編『日独関係史一八九〇−一九四五』第1巻,東京大学出版会,2008),野村克也『野村ノート』(小学館文庫,2009)を読了。
田嶋氏の論文は,先日の教育研究セミナーのあと,1930年代後半,日本はなぜ提携相手としてドイツを選んだのか,との質問をいただいたのですが,今まで取り立てて疑問に感じていなかったことがらだったため,その前後の日独関係の動向が非常に気になり,読んでみました。日中戦争開始当時,中国国民政府にドイツが軍事顧問団を派遣していたことを考えると(つまり,日本の味方が,敵の味方でもあった,ということ),日独の提携は「自明」ではありませんからね。
一方,『野村ノート』は,同僚講師の田中(暢)くんがさんざん野村克也を読めと薦めるので,とりあえず最新刊の文庫ということで,読んでみました。いろいろと感心したことがらはありますが,観察(見えるものを見る)と洞察(見えないものを見る)との区別は,僕が曖昧だった点です。さっそくどこかで使ってみようと思っています(笑)。
上里隆史『目からウロコの琉球・沖縄史』(ボーダーインク,2007)を読了。琉球・沖縄史の概説として,うってつけの一冊じゃないでしょうか。高校生にも読みやすいと思う。オススメです。
ところで,本屋でつらつらと本をながめていたら,今田洋三氏の名著『江戸の本屋さん −近世文化史の側面』が平凡社ライブラリーとして再刊されているのに気づきました。講談社学術文庫といい,岩波現代文庫といい,古典的な名著・好著が再刊されるのはありがたいことです。しかし,採算は合うんだろうか?
伊藤毅『日本史リブレット35 町屋と町並み』(山川出版社,2007)を読了。近世の京都・江戸・大坂における町と町屋の形成を概観できます。
冬期講習(センター日本史・文化史)について質問をくれた森本くんへ。返信したのですが,「メール送信エラー通知」が来ています。入力してくれたアドレスが間違えているようです(苦笑)。それはともかく,テキスト(空欄ならびに練習問題)の8〜9割が答えられる程度にしておいてくれれば,授業を受けるのが楽になりますよ。
この間,井原今朝男『中世の借金事情』(吉川弘文館,2009)を読了。近代については,銀行に代表される金融機関も債務者であることが看過されており,評価がズレているように思います。近代への言及を脇におき,中世の債権・債務関係のあり様についてのみ読み進めれば,非常に勉強になります。
さらに,『ユリイカ』11月号が伊藤若冲の特集だったので,これも読了。東京国立博物館の「皇室の名宝」展があったからなのか,「動植綵絵」への言及が多かったのですが,個人的には水墨画(同誌に紹介されているものでいえば「芭蕉叭々鳥図襖絵」)のほうが好きです。ちなみに,同誌でも紹介されている,新発見の「象と鯨図屏風」は,滋賀県のミホミュージアムの「若冲ワンダーランド」で公開中です。
なお,『歴史学研究』2009.12に,高橋典幸『鎌倉幕府軍制と御家人制』の書評(高橋修氏執筆)が掲載されていますが,京都大番役の在地転嫁について「それを在地社会が受け入れた条件についても論じてほしかった」と書かれていて,専門家も疑問に思ったところなのだと分かり,なんだか嬉しかったですね(笑)。
まだ読みかけてもいないのですが(苦笑),上里隆史氏の『目からウロコの琉球・沖縄史』,『<琉球の歴史>ビジュアル読本 誰も見たことのない琉球』,『琉日戦争一六〇九 島津氏の琉球侵攻』(すべてボーダーインク)を購入しました。最近,呉座勇一氏から『琉日戦争』を紹介していただいたのをきっかけに,3冊まとめて出版社から直接取り寄せました。
この間,宇田川武久『真説 鉄砲伝来』(平凡社新書,2006),小林一岳『日本中世の歴史4 元寇と南北朝の動乱』(吉川弘文館,2009),高橋典幸『鎌倉幕府軍制と御家人制』(吉川弘文館,2008)を読了。そして,伊藤俊一「「自力の村」の起源 −14〜15世紀の在地社会をめぐって−」『日本史研究』540,2007.8),同「中世後期荘園制論の成果と課題」『国立歴史民俗博物館研究報告第104集 室町期荘園制の研究』(2003),小林一岳「悪党と南北朝の「戦争」」(『歴史評論』583,1998.11;『展望日本歴史10 南北朝内乱』所収)を再読。
宇田川氏の『真説 鉄砲伝来』は,1990年に刊行された中公新書の『鉄炮伝来』と同じような内容です。山川出版社の『新日本史』が,ポルトガル人の種子島漂着(いわゆる鉄砲伝来)を「おそらく1542(天正11)年」と記していたため,それを検証する目的もあって読んでみたのですが(中公新書の『鉄炮伝来』では「どちらが正しいともいえない」としか書かれていない),その検証はありませんでした。そもそも種子島への伝来は鉄砲伝来ルートの一つにすぎず,それ以前に倭寇によってもたらされていた蓋然性が指摘されているので,宇田川氏の関心はそこにないのかもしれません。
それ以外のものは,小林氏の『元寇と南北朝の動乱』を読み始めたところ,なぜか,高橋氏の「武家領対本所一円地体制」が非常に気になり,『鎌倉幕府軍制と御家人制』を読んでしまい(収められている論文は2つほど以前に読んだことがありましたが),本所一円地からの動員という話のなかで伊藤氏の論文が参照されていたので,そっちへ移っていった,というわけです(伊藤氏も早く著書をまとめていただけると,雑誌論文をあちらこちらから探さなくて済むんだけどなぁ)。
永井晋『日本史リブレット人35 北条高時と金沢貞顕 −やさしさがもたらした鎌倉幕府滅亡 』(山川出版社,2009)を読了。最後の得宗北条高時は,滅んだ側の人間であるがゆえでしょうか,暗君のイメージがつきまといますが,そのイメージをくつがえすことに成功している,と思う。そして,波乱を避け,協調を重んじた高時政権が崩壊していく過程を,丁寧に,かつ説得的に描いています。
そういえば,坂野潤治『近代日本の国家構想 一八七一−一九三六』が岩波現代文庫に収録されましたね。このなかの「第三章 明治憲法体制の三つの解釈」は,旧版(岩波書店,1996)が出たころに読み,参考にさせていただきました。増田知子『天皇制と国家 −近代日本の立憲君主制』(青木書店,1999)とともに再読しておかねば,と思っています。
藤田覚『日本史リブレット人 53 遠山景元 −老中にたてついた名奉行』(山川出版社,2009)を読了。時代劇でおなじみ(?)の「遠山の金さん」を通じて,天保改革の都市政策と江戸のあり様をかいま見ることができます。受験生にも読みやすいと思うので,藤田氏は東大教授だし,東大受験生は読んでおくよいですね。
川合康『日本中世の歴史3 源平の内乱と公武政権』(吉川弘文館,2009)と,山内晋次『日本史リブレット75 日宋貿易と「硫黄の道」』(山川出版社,2009)を読了。
前者は,川合氏のこれまでの鎌倉幕府成立をめぐる研究を概括できる好著と言えますが,頼朝没後から北条政子が実質的な「4代鎌倉殿」となるまでの鎌倉幕府政治史についての記述があっさりしすぎの印象を受けました。特に,2代頼家と13人の合議制との関係についての「新たに鎌倉殿になった頼家の権力を,むしろ補完する政治体制」との理解など,もう少し詳しい議論を読みたかったところです。参考文献としてあげられている仁平義孝氏の論文にあたるのがよさそうですね。
野中広務・辛淑玉『差別と日本人』(角川ONEテーマ21,2009)を読了。
高橋昌一郎『理性の限界 −不可能性・不確定性・不完全性』(講談社現代新書,2008)を読了。木許裕介くんが以前,ブログNuit Blancheで紹介していたので,それに触発されて読んでみました。高橋氏の文章がうまいからなのでしょうが,楽しかったですね。
古川愛哲『江戸の歴史は大正時代にねじ曲げられた −サムライと庶民365日の真実』(講談社+α新書,2008)を読了。授業でしゃべるネタにいいですね。
筒井清忠『近衛文麿 −教養主義的ポピュリストの悲劇』(岩波現代文庫,2009)を読了。
現在,来年の『東大の日本史25カ年』の改訂にむけて原稿を書いている(厳密には書こうとしている(苦笑))ところで,今年度第1問のネタ本とも言える大津透『日本古代史を学ぶ』(岩波書店,2009)に目を通しています。そのなかで気になる記述があったので,ちょっとコメントしておきます。
まず,遣隋使が隋へもたらした国書についてです。
607年の遣隋使が持参した国書は『隋書』に記載がありますが,それについて大津氏は「問題は,倭王が「天子」だと名乗ったことでした」としたうえで(他国では「天子」対「皇帝」という事例があるわけだから,国書に倭王・隋皇帝の双方を「天子」と称したことのほうが問題だと思うが),この国書が『日本書紀』に記載されていないのは,まもなく「倭王が「天子」を名乗る立場を撤回したため」,『日本書紀』編者が意図的に載せなかったのだ(東野治之氏の立論に基づく),と書いています。では,どのような立場に修正されたのか,と言えば,『日本書紀』によれば「東の天皇,敬みて西の皇帝に白す」というものです。ここから大津氏は,推古朝における天皇号の成立を論じていく(堀敏一氏の立論に基づく)のですが,気になるのは,607年の国書には日出づる処(東)の「天子」,日没する処(西)の「天子」とあったものが,608年の国書では東の「天皇」,西の「皇帝」と修正されている点です。東の「天子」が「天皇」に修正されている点も気になりますが,西の「天子」が「皇帝」に修正されている点も気になります。こうした双方における修正に意味はないんでしょうかね。
ところで,大津氏はここで天子に変わる号として天皇号が成立したと論じています(堀敏一氏の立論に基づく)。しかし,唐に対して天皇号が使われなかったこととの整合性はどうなんでしょうか。ここは「一般的に言えば,対外交渉の場面に,君主号成立の契機があるだろうというのは,説得的ではないでしょうか」として,論証を抜いてしまっています。
なお,大津氏は「すめらみこと」という和訓に対応する漢語として「天皇」号が作られた,と論じ,そのうえで「天皇制は」「氏族制社会に起源をもつということが言えるのです」と論じ,「天皇制は律令制の一環として隋・唐の皇帝制を継受した」との議論を否定し,それを通して天皇号の天武朝成立説を批判しています。しかし,ここで大津氏が論じているのは,「すめらみこと」が「氏族制社会に起源をもつ」「古いレジーム」だってことだけでしかないです。必ずしも天武朝成立説の批判になっていないと思います。ところで,大津氏は何も言及していませんが,「すめらみこと」はいつ成立した称号なんでしょうか。
次に,日本という国号についてです。
大津氏は「日本の国号は,倭国のときも日本になってからも,一貫して「やまと」でした」と論じています。しかし同時に,702年の遣唐使に参加した山上憶良が唐で作った和歌に関連して,「かりに「やまと」とよむにしても表記は「日本」とすべきですし,おそらくは,「はやくにほんへ」と読むのが憶良の真意だったでしょう」と書いています。702年の遣唐使に参加した人びとのなかでは,「やまと」ではなく「にほん」こそが新しい国号だと意識されていたと論じているのですが,「これは特殊な例です」と断じて,さらっと流してしまっています。ということは,「日本」という漢語は唐(唐での外交儀礼の場面)でも「やまと」と発音されていたということを意味しているのでしょうか。まさかねぇ。
なお,「『古事記』では天皇は「日本」ではなく「天下〔あめのした〕」に対応する君主号なのです」と論じたうえで「「日本」は天皇よりも成立が遅れる可能性を示しているでしょう」と評しているのですが,「日本」と「天皇」が必ずしも連関する言葉なのではない,という用法の問題とは考えられないのでしょうか。つまり,天皇号が唐に対しては用いないものの,新羅や渤海に対しては使用された,という問題との関連で考えることも必要じゃないかと思うんですが....。
宮城大蔵『「海洋国家」日本の戦後史』(ちくま新書,2008)を読了。
この間,諏訪哲二『間違いだらけの教育論』(光文社新書,2009),河西晃祐「「帝国」と「独立」」(『年報日本現代史』第10号,2005),須崎慎一「総力戦理解をめぐって」(『年報日本現代史』第3号,1997)を読了。
この間,鎌倉佐保『日本中世荘園制成立史論』(塙書房,2009),石井寛治・原朗・武田晴人編『日本経済史3 両大戦間期』(東京大学出版会,2002)のうち武田晴人「景気循環と経済政策」,加瀬和俊「就業構造と農業」,平智之「帝国主義世界体制と中国」を読了。
なお,駿台教育研究所の冬期・教育研究セミナーで,また講座を担当します。今度は「日本史の研究−昭和戦前・戦後をどう教えるか−」というテーマで,1930年代から60年代を扱います。日程は大阪会場が12/13(日),東京が1/11(月)となっています(予定です)。
この間,佐藤泰弘『日本中世の黎明』(京都大学学術出版会,2001)のうち,「国の検田」と「立券荘号の成立」を読み,西谷正浩『日本中世の所有構造』(塙書房)のうち,「第一編 荘園制の所有構造をめぐる研究」を再読。そして,惣領冬実『チェーザレ』第7巻も読了。
先月あった教育研究セミナーのアンケートに,どのようなソフトを使っているのか,という質問があったのに,それに応えるのを忘れていました。
僕は基本的にMacユーザですが,ふだん使うのは, Jedit というエディタ,Tree というアウトラインプロセッサ,InDesignという dtpソフト,Logophile という辞書閲覧ソフト,Voodoopad というメモソフト, Illustrator あたりです。そして,サイトは Code をつかって作っています。なお,Word は持っていませんし,買おうとも思っていません(笑)。 OpenOffice.org があれば十分ですから。
質問を書いてくださった方,こんなところで宜しいでしょうか(といっても,サイトをご覧になっているかどうか不明ですが)。
加藤陽子『それでも,日本人は「戦争」を選んだ』(朝日出版社,2009)を読了。高校生相手の講義を書籍化したものだけあって,非常に読みやすい。ただ,突っ込みたい疑問点がけっこうありますけど,それはまた後日ということで.....。
『歴史の足跡をたどる 日本遺構の旅』(昭文社まっぷる選書,2007)を読了。「遺構」という言葉から,考古学関連の本だと思われるかもしれないが,取り上げられた遺構22件のうち,前近代のものは十三湊,鎌原村(浅間山の噴火で滅んだ村),安濃津,草戸千軒などの10個で,残りは,渋谷のどまんなかにあったロープウェイ「ひばり号」や,長崎の「軍艦島」など近現代のものです。
山本博文『天下人の一級資料 −秀吉文書の真実』(柏書房,2009),孫崎享『日米同盟の正体 −迷走する安全保障』(講談社現代新書,2009)を読了しました。山本著は,福岡校での講習中に天神の丸善でみつけたもので,刀狩令,身分法令(人掃令など),バテレン追放令を史料紹介しながら分析しています。孫崎著は,「日米安全保障条約は実質的に終わっている」とのフレーズから始め,冷戦終結前後から現在にいたるアメリカの動きと日米関係を分析しています。勇ましく核武装論や敵基地攻撃論をぶつ前に,冷静に考えることの必要性を痛感させてくれます。
山田芳裕『へうげもの』第9巻(講談社,2009)を読み終えた。千利休の切腹シーンが見物です!
木村茂光『日本中世の歴史1 中世社会の成り立ち』(吉川弘文館,2009)を読了。
高橋昌明「六波羅幕府という提起は不備か ー上横手雅敬氏の拙著評に応える-」(『日本史研究』563,2009.7)と小原嘉記「平安後期の任用国司号と在庁層」(『日本歴史』735,2009.8)を読了。
高橋昌明氏は『平清盛 福原の夢』(講談社選書メチエ)で,平氏政権を「六波羅幕府」と呼ぶという,刺激的な提起を行っていますが,高橋昌明「六波羅幕府という提起は不備か ー上横手雅敬氏の拙著評に応える-」は,それに対する批判への反批判です。
平氏政権と鎌倉幕府の間には,鎌倉幕府が中央から独立的な地域的軍事政権である点以外はさほど違いはない,という点においては両者の懸隔はないようですが,中央から独立した広範な地域を支配することをもって幕府の要件とするかどうかが,大きな論点のようです。
素人判断としては,内乱の過程を通して武家が軍事を基軸としながら政治権力(の一端)を握り,内乱から平時に移行するなかで成立した政権を武家政権=幕府と呼んでおけばいいんじゃないの?と思います。平氏政権にしても内乱(京都という局所的な空間に限定されますが)の過程を通して成立したわけですしね。それに,「中央から独立した広範な地域を支配すること」をもって幕府の要件とするならば,室町幕府はまず「幕府」としての要件を充たしていないと言えます。他方,右近衛大将への任官をもって「現に存在し役割を増大させつつある武家権力」を「権威づけ,シンボライズするもの」と理解するという議論は,室町将軍家においても代始めの基準が征夷大将軍よりもむしろ右大将の方にあったと指摘する議論(橋本雄「遣明船の派遣契機」『日本史研究』479,2002.7)もありますし,納得できるものがあります(鎌倉幕府においても右大将に大きな意義が認められていたのかどうか知りたいところですが)。もしかして,右近衛大将という地位は,内乱の過程で独立性を強めた武家権力と朝廷(天皇を頂点とする政治秩序)との関係を調整する橋渡しだったんじゃないの?(それに対して「大将軍」は<強い>独立性を象徴するもの?),とも思えます。
小原嘉記「平安後期の任用国司号と在庁層」は,平安中後期における任用国司について論じたものですが,10世紀以降,任用国司が揚名(職掌も給付もない名誉職)となっており,都と地方を往還しながら院宮王臣家に奉仕していた地方氏族が名誉職として得たものであると論じています。山川『詳説日本史』では,新課程になって以降,「受領以外の国司は,実務から排除されるようになり,赴任せずに,国司としての収入のみを受け取ること(遥任)もさかんになった」(p.70)と説明されるようになっていますが,なんとなく納得しがたいものあったので,こういう議論を読むとスッキリします(笑)。
渡辺尚志『百姓たちの江戸時代』(ちくまプリマー新書,2009)を読了。江戸時代(特に後期が対象ですが)の百姓の生活ぶりを,さまざまな具体的事例とともに紹介してあります。一橋大志望者は読んでおいて損はないでしょう。
『ZEAMI 04 足利義満の時代』(森話社,2007)所収の桜井英治・高岸輝・松岡心平・小川剛生「座談会 足利義満の文化戦略」を読み終え,続きで高岸輝「美術史の15世紀」(『日本史研究』546,2008.2)を読了。
『ZEAMI 04 足利義満の時代』(森話社,2007)所収の論文から,桜井英治「足利義満と中世の経済,高岸輝「足利義満の造形イメージ戦略」,大田壮一郎「足利義満の宗教空間−北山第祈祷の再検討」,桃崎有一郎「足利義満の公家社会支配と「公方様」の誕生」を読了。なかでも,桃崎論文が特に興味深かったです。足利義満が公家たちを動員する際の「正当化の論理の不在」に注目しながら,義満が天皇との関係による旧来の「公」(オフィシャル)を相対化し,公共(パブリック)の秩序を統一的に体現する,新しいオフィシャルな権力を創出しようとする過程を描いています。義満の「皇位簒奪」計画がだんだんと相対化されてきているんですね。
師茂樹氏のブログ「もろ式:読書日記 2009-06-02」に誘われて『アジア遊学122 日本と≪宋元≫の邂逅』(勉誠出版,2009)を購入し,そのうち,自分の興味のある分だけ(苦笑),読了。読んだのは,細川涼一「鎌倉時代の律宗と南宋」,原田正俊「日本の禅宗と宋・元の仏教」,横内裕人「重源における宋文化」,野村俊一「栄西の建築造営とその背景」,箱崎和久「泉涌寺伽藍にみる南宋建築文化」,追塩千尋「日本と異国の神について」,橋本雄「皇帝へのあこがれ−足利義教期の室町殿行幸にみる」,です。
寺院建築に関する横内論文,野村論文,箱崎論文も興味深かったのですが,僕としては橋本論文がもっとも面白かったです。橋本氏は,明皇帝からの「日本国王」冊封に国内政治における意義(天皇を上回る権威づけ)を強調する今谷明氏らの議論に批判的な立場から,これまで議論を展開してきていますが,この論文では,現実の日明冊封関係とは別次元で進行した,室町殿の「皇帝性」を確保・補強し新たな政治文化をつくりあげようとする動きを論じています。
足立力也『丸腰国家 −軍隊を放棄したコスタリカ 60年の平和戦略−』(扶桑社新書,2009)を読了。軍隊がないことを最大の防衛力と考え,積極的中立という外交姿勢のもとで軍事紛争の解決・調停にあたるコスタリカの試行錯誤がまとめられている。非武装であることが軍事紛争の調停に役立つことを強調する伊勢崎賢治(『武装解除 −紛争屋が見た世界』など)に通じるものがある。
『歴史評論』6月号・7月号も主要論文を読了。両号は「歴史を学びなおす−教科書記述と歴史研究」という特集が組まれています。『歴史評論』は定期購読していないので気づいていなかったのですが,松井秀行さんのメルマガ「高校日本史講座」で紹介されていたので(と言いつつ実は読み飛ばしていて,他人から指摘されるまで気づいていなかった(苦笑)),ジュンク堂書店まで行って買ってきて読みました。
僕が注目したのは,6月号の 鎌倉佐保「「寄進地系荘園」を捉えなおす」, 湯浅治久「中世村落論と地域社会史の課題」, 若尾政希「書物・出版と日本社会の変容」。7月号の 木村直也「「鎖国」の見直しと教科書記述」, 稲葉千晴「世界から見た日露戦争」です。
鎌倉氏の論文は,中世荘園の成立過程に関する近年の見解がコンパクトにまとまっているので貴重です(この論文にも書かれていますが,鹿子木荘の史料をいい加減,教科書から削除してほしいものです)。湯浅氏の論文では,農民・地主といった個ではなく村や町という社会的集団に注目が当たってきている点が明記されている点,惣村と言われる「自力の村」だけではなく「非力の村」も存在していたことへの指摘が注目されます(二点めの視角は授業では活かしにくいですが)。若尾氏の論文は,寛永期における仮名草子流布の前提として本屋(出版業)の成立を指摘している点が注目点です。最近刊行された小学館の日本歴史シリーズの別巻,青木美智男『日本文化の原型』につながります。木村氏の論文は,教科書での「鎖国」の扱いの変化が丹念に追ってあるので面白いですが,「かつての「鎖国」概念を単に切り捨てるだけでなく,その当否を改めて考察し」と書かれている点が共感できました。ただ一つ気になったのは,「鎖国」概念は「開国」概念と対になって存在しているものですから,「鎖国」の見直しは必然的に「開国」の見直しをともなわなければならないはずなのに,それへの注目が弱いと思われる点です。人によっては,授業のなかで「鎖国」という言葉を用いず,「海禁」という言葉をメインにすえて説明しているケースもあると思いますが,その場合,日米和親条約(さらには日米修好通商条約)によって生じた事態を何と表現するのか。相変わらず「開国」という言葉で説明しているのなら「鎖国」概念を否定していないのと一緒です。それならば「鎖国」という言葉を,「開国」と対比しながら定義し,その言葉を使いながら説明したほうが適切じゃないでしょうか。
最後に稲葉氏の論文は,日露協商論=満韓交換論と日英同盟論の対立という図式が消えていることが確認できる点,教科書記述とは微妙に異なる開戦と講和の過程がコンパクトに説明されている点が注目されます。
並木誠士『絵画の変 −日本美術の絢爛たる開花』(中公新書,2009)を読了。15世紀から16世紀における,新しい絵画の形成過程について狩野派を中心に論じたものです。図版も掲載されていますが,僕は『室町時代の狩野派』(京都国立博物館,1996),『狩野永徳』(京都国立博物館,2007)という図録を脇におきながら読みました。
苅部直・片岡龍編『日本思想史ハンドブック』(新書館,2008)を読了。
いろいろ気になったのがありますが,なかでも新保祐司「「大東亜戦争」は日本思想にとって何だったか」は,非常にひっかかりました。特に「「大東亜戦争」が,「東亜百年戦争」の終幕であったとすると」や,「「大東亜戦争」で「東亜百年戦争」が決定的に終わったとすれば」という仮定です。
まず,「この「東亜百年戦争」の開始は(中略)ペリーの黒船渡来よりも前である。外国艦船の出没が激しくなり,日本は,西洋列強との事実上の戦争状態に入る」と書かれているものの,アジア太平洋戦争から100年前といえば,中国でアヘン戦争が生じていた頃である。なのに新保氏は,どうして「日本」だけの視点で考えているのだろうか。「東亜百年戦争」と称するのならば,「東亜」に視点をすえて考えるのが妥当ではないのか。
そして,アヘン戦争からアジア太平洋戦争までを「東亜百年戦争」と総括するとして,なぜアジア太平洋戦争(大東亜戦争)で「東亜百年戦争」が「決定的に終わった」という仮定がでてくるのか? アジア太平洋戦争における日本の敗戦後もまだしばらくは継続している(いつまでだろう?)という仮定を立ててみてもいいんじゃないか? (もっとも,継続していたとすると東亜「百年」戦争にならないが(笑))
ところで,なぜ「大東亜戦争」という名称にこだわるのだろう? 戦争がくり広げられた地域をとって「アジア太平洋戦争」でいいじゃないですか,と思うんですが,やはり禁句(忌み避けるべききまりの語句)だからですかね。いいかげん,その「呪縛」から解き放たれたらどうですかね。
下村周太郎「鎌倉幕府不易法と将軍・執権・得宗」(『日本歴史』2009年5月号)を読んだ後,その脚注のひとつに導かれて,保永真則「鎌倉幕府の官僚化」(『日本史研究』2004.10),秋山哲雄「北条一門と得宗政権」(『日本史研究』2000.10)をまとめて読みました。<合議>と<専制>は必ずしも対立概念ではないよ,と授業でもしばしば指摘するのですが,やはり鎌倉幕府の政治史を<将軍独裁→執権政治(御家人の合議制)→得宗専制政治>という枠組みで説明してしまいます。言っていることが矛盾してます(苦笑)。そろそろ改めないといけませんね。
最近,本を読む時間がほとんどとれていないのですが,『日本史研究』561号(2009.5)に,佐藤泰弘「領家職についての基本的考察」という論文が掲載されていたので,なんとか時間を作って読みました。荘園研究に新風を吹き込んだとも言える川端新・高橋一樹・西谷正浩各氏の議論について,「上位者優位という論理構成のなかで領家や領家職の位置付けが不明確なままに残されていることは否めない」としたうえで,領家と領家職について考察した論文です。
佐藤氏によれば,本家は「人や土地の帰属という関係性において用いられる」,「二者間の関係を示す言葉」であり,土地所有の主体を端的に示す言葉ではなく,それに対して,領家は「領主・地主と同じく,土地の所有者を表すもの」とのことです。それに対して,領家職とは「預所職を補任して荘園を経営し,年貢・公事を収取するという荘園の所有権が物権化したもの」だと論じます。そして,本家が領家職を保持しているケースをあげながら,「領家職が示すのは,領家そのものの地位ではなく,荘園の所有権である。したがって領家職を所持する者が領家と呼ばれるか本家・本所と呼ばれるかは荘園によって異なる」と論じています。
領家と領家職が異なる次元のものであるとされると,頭のなかが混乱しかねないですが(授業では使えないな(苦笑)),近年,立荘時においては<本家−預所職=領家−下司職>と図式化されるような支配体系があったと論じられてきたことを念頭におけば,なるほどと首肯できるものがあります。
では,この「領家職」が生じたのはなぜか,と言えば,佐藤氏は,「寄進主の領家は荘園に対する権利が当初から強かった。恩給の預所職であっても伝領されることで相伝の家領のようになる。どちらの場合も,本家と領家・預所との関係は原理的に相反するベクトルを含み,荘園の領有構造は当初から矛盾を内包していた」という点に求めているようです。この「構造的な矛盾」への対応として,「土地所有者を端的に示す領家という言葉が選ばれ,その領家の権能をもとにして,一二世紀末期に根本的な所有権を意味する領家職という言葉が生まれた」とまとめられています。
ここで素人の僕が気になるのは,「領家職」という言葉がいったい誰との関係のなかで用いられるのかという点で,本家と領家の関係においてだけでなく,一般に相論の対手との関係のなかでも用いられているのではないかという,素朴な疑問があります。それに関連して,桧牧荘の領家職・預所職は(荘園の譲与を含め)佐藤氏の議論のなかでは重要な位置にあるように思いますが,佐藤氏は<長厳が七条院に寄進した際,領家職には任じられず預所職に任じられた>としています。ところが,世界大百科事典(執筆・橋本初子)や国史大辞典(執筆・朝倉弘)では,長厳が領家職をもったと書かれています(国史大辞典では領家職と預所職を兼帯したと書かれている)。佐藤氏の解釈のほうが妥当なんでしょうか。気になるところです。
ところで,「おわりに」の脚注のなかで佐藤氏は,次のように説明しています。
「領家職という言葉を用いて荘園の寄進を説明すると次のようになる。領家が荘園・所領を寄進して本家を戴くことによって,本家は領家職を保持し,領家を預所職に補任する。(以下略)」
しかし,上位者優位という論理構成を相対化したい佐藤氏は,他方で,「寄進後においても領家つまり荘園の領有者としての地位が保持されていると考えるのが妥当である」とも論じています。そもそも「領家職という言葉を用いて寄進を説明」しようとすること自体,佐藤氏が行っている「領家職」の定義からすれば全く不必要な行為だと思うのですが,それは脇におくとしても,ここの議論は矛盾していないんですかね。
さらに,あるところでは,「荘園経営が安定し,両者の関係が円満に継続することによって,預所職の補任という形式をとる必要がなくなり,当事者間における関係性の確認を荘園の安堵として行うようになる。そして本家は現地を把握することを放棄し,荘園を領家に委ねる」と書いているのですが,佐藤氏のいう<荘園の安堵>が多く見られる13世紀後半は,本家と領家の相論が頻発していた時代じゃありませんか。実際,佐藤氏も「一三世紀後半の公家新制にみえる本家・領家の相論は,荘園の構造的な矛盾が政治問題化したものである。その要因は本家と領家の不和,つまり世代交代や本家・領家の浮沈により,両者の関係が揺らぐことにある」と書いています。ここも議論が矛盾していないんですかね。
なお,本家・領家の関係が貴族間の主従関係と密接であるのなら,その主従関係の不安定さ,兼参という問題や承久の乱以降の揺らぎなどへの注目もほしい,と思いました。
もう一つ。p.20の下段に「七条院への寄進後も寄進主の道厳から長厳へと継承されたと考えられる」とありますが,この継承関係は逆ですよね。
藤田裕嗣『日本史リブレット76 荘園絵図が語る古代・中世』(山川出版社,2009)を読了。専門的な内容が多く,読みにくかったです。
昨日までに,服部龍二『広田弘毅 −「悲劇の宰相」の実像』(中公新書,2008)を読了。城山三郎が『落日燃ゆ』で描いた広田像をしっかりと打砕いてくれています。
この間,粟屋憲太郎「一九三六,三七年総選挙について」(『十五年戦争期の政治と社会』大月書店,1995,初出は1974)を読了後,竹内桂「満洲事変における北満政策」(『年報日本現代史 6 「軍事の論理」の史的検証』現代史料出版,2000)と小林道彦「第二次若槻礼次郎内閣期の政党と陸軍」(『北九州市立大学法政論集』2004.1)を読了。関東軍と陸軍中央とのズレを再確認しました。そして,松岡正剛『多読術』(ちくまプリマー新書,2009)も読了。
ここのところ,以下のものを読んでいました。
呉座勇一「領主の一揆と被官・下人・百姓」(村井章介編『「人のつながり」の中世』山川出版社,2008),長谷川裕子「戦国期在地領主論の成果と課題」(『歴史評論』674号,2006.6),長谷川博史「戦国期西国の大名権力と東アジア」(『日本史研究』519号,2005.11),市村高男「戦国期の地域権力と「国家」・「日本国」」(同前),坂野潤治「政党政治の成立と崩壊」『近代日本の国家構想』(岩波書店,初出は坂野・宮地編『日本近代史における転換期の研究』山川,1985),井上寿一『日中戦争下の日本』(講談社選書メチエ,2007),古川隆久「戦時議会と戦後議会」(『岩波講座アジア・太平洋戦争2 戦争の政治学』岩波書店,2005),増田知子「『立憲制』の帰結とファシズム」(『日本史講座9 近代の転換』東京大学出版会,2005),永井和「日中戦争と帝国議会」(『日中戦争から世界戦争へ』思文閣出版,2007),瀧井一博『文明史のなかの明治憲法』(講談社選書メチエ,2003)。
4月1日付けの日誌で,川合康氏の議論云々と書いたことにについて,yjisanさんから,その点は川合氏のオリジナルとは言えないとの指摘をいただきました。僕は鎌倉幕府の成立過程については川合氏から学んでいる点が非常に多いので,川合氏以前の議論(研究史)への配慮が足りませんでした。
今日,佐藤弘夫編『概説日本思想史』(ミネルヴァ書房,2005)と苅部直・片岡龍編『日本思想史ハンドブック』(新書館,2008)を購入(というか,bk1から届いた)。すぐには読み通せそうにないので書いておきます。
田中史生『越境の古代史 −倭と日本をめぐるアジアンネットワーク』(ちくま新書,2009)を読了。国家に一元化されない,その一方で,民間レベルだけでもない,中国・朝鮮・日本領域の交渉史を4・5世紀頃から10世紀頃まで鳥瞰する好著じゃないでしょうか。桃木至朗編『海域アジア史入門』(岩波書店,2008)がほぼ扱っていない時期をちょうど補ってくれます。
書きわすれていましたが,桜井陽子「頼朝の征夷大将軍任官をめぐって −『三槐荒涼抜書要』の翻刻と紹介−」(『明月記研究』9号,2004.12)を入手して読みました。
源頼朝が「征夷大将軍」の職を以前から望んでいたものの後白河院の反対にあい,院の死去をきっかけとして就任することができた,とされていますが,桜井氏は『三槐荒涼抜書要』に収められている『山槐記』(中山忠親の日記)の記事に依拠して,そのことに疑問を呈しています。ひとつには,頼朝を征夷大将軍に任じようという議論が以前からあったことの信憑性を疑っているのですが,それよりも重要なのは,頼朝は「征夷大将軍」を望んでいたわけではなく「大将軍」を望んでいたのであり,朝廷の側でさまざまな候補の中から「征夷」大将軍という職名を選んだ,と論じられている点です。この実証に依拠すれば,川合康氏の,かつて源頼義が任じられた鎮守府将軍の伝統を継承しつつ、事実上鎮守府将軍の地位にあった奥州藤原氏を超える東国軍事支配者としての地位を象徴するものとして征夷大将軍が選ばれたのだ,という議論は成り立たなくなりそうです。さらに,源義仲が任じられたのは「征夷大将軍」ではなく「征東大将軍」であり,そのうえで義仲の「征東」などを避け,坂上田村麻呂の例を吉例として朝廷側が「征夷」大将軍を選んだ,と論じられています。「征夷」という言葉に対する過剰な思い入れは改めないといけないようです。
なお,かつての同僚で,いまは作家活動に専念されている方から本を謹呈していただきました。森崎みさ緒『フリーターの長い夜 −一九四七年生まれの女のロックする三〇年(77〜07)−』(文芸社,2009)です。帯には「<あのころ>を懐かしむ団塊の男たちへ,FUCK YOU!」「“時代”にオトシマエをつける,ハードコア・エッセイ」とあります。なんだか気合いが入っていますね(笑)。ちなみに,奥付に「2009年5月15日 初版第1刷発行」とあるためなのでしょうか,オンライン書店にも文芸社のサイトにもまだ出ていませんが(苦笑)。
最近はまとまった本を読んでいません。ここのところ,読み散らかしていたのは,以下の諸論文です。永井和「東アジア史の「近世」問題」(夫馬進編『中国東アジア交流外交史』京都大学学術出版会,2007,永井氏のサイトに公開されている→こちら),同「万機親裁体制の成立 −明治天皇はいつから近代の天皇となったか」(『思想』557,2004→こちらに公開されている),伊藤之雄「元老の形成と変遷に関する若干の考察」(『史林』1977.3,『展望日本歴史19 明治憲法体制』に再録),大塚紀弘「中世僧侶集団の内部規範」(村井章介編『「人のつながり」の中世』山川出版社,2008,所収),三枝暁子「中世における山門集会の特質とその変遷」(同前),高橋哲「高等学校「日本史A」教科書における産業革命の記述について」(『東京大学大学院教育学研究科紀要』第48巻,2008,これはご本人から論文のコピーをいただいた)。
いまは田中史生『越境の古代史 −倭と日本をめぐるアジアンネットワーク』(ちくま新書,2009)を読んでいるところなのですが,古代や近代の始まりは外部的要因(だけではないが)から説明されることが往々にしてありますが,では,中世や近世の始まりには外部的な要因はないのだろうか,そういう素朴な疑問が頭をよぎります。
この間,坂野潤治『明治デモクラシー』(岩波新書,2005)を読了。官民調和体制が形成されるなかで葬り去られてしまった「二大政党論」や「準直接民主制論」をデモクラシーの伝統としてすくい上げようというものですが,しっくりこない。本当に坂野氏が自分で書いたのだろうか!?,という疑念がすごく残ってしまいました。愛国社の路線を準直接民主制論と規定するのですが,片岡健吉や植木枝盛が議会開設後は,坂野氏のいう板垣流の「官民調和」論に流れていったことが視野に入ってこないし,二大政党論を担った思想家として徳富蘇峰をあげるのはいいけれども,日清戦争を契機として徳富が思想的立場を変えたことへの言及もない。そもそも,二大政党論が二大政党制の一極をなす政党として藩閥勢力を想定していた,という「弱点」についての言及はあれ,そのことと「官民調和」との関連についての考察がカットされている,など。あえて2つの路線を二項対立的に設定したために無理が生じているのではないかとも思えてしまいます。
村井良太『政党内閣制の成立 一九一八〜二七年』(有斐閣,2005)を再読了。
田中保成『消える学力,消えない学力 算数で一生消えない論理思考力を育てる方法』(ディスカバー携書,2008)を読了。論述対策のノウハウを探るのに,こういうものも,案外使えますね。
長谷部恭男『憲法とは何か』(岩波新書,2006)を読了。
小宮一慶『ビジネスマンのための「発見力」養成講座』(ディスカバー携書,2007)を読了。
僕は,論述問題を解く,ひとつの作業として,問題文のなかにヒントを探ることが不可欠だと思っていますが,そのノウハウを意識化するための手がかりがないかと,読んでみました。印象に残ったのは,「まずは関心をもって見聞きすることです。これは,最初は訓練と思ってやることです」との指摘でした。このなかでも書かれていますが,あらかじめ見ようと決めたものしか見えませんから,ぼーっと何も気にせず見聞きしているだけで,関心が自然と生まれてくるものではありません。その意味で,とにかく「訓練と思って」関心をもつ,との指摘は納得です。そして,関心をもったことがら,すでに関心のあることがらを関連づけながら仮説を立てること,まとめてしまえば,関心と仮説でものを見ていくことが勧められていますが,その仮説を立てるための技として,「全体像を推測しうる一点を見つける」があげられているのも納得です。論述指導をしていると,個別的な具体例は書けても,まとめとなる一般的な説明が書けないケースが多々あります。それを克服する手段として,この技(というか,その姿勢を意識すること)は有効だと言えます。
この間,歴史学研究会編『越境する貨幣』(青木書店,1999),岩橋勝『近世日本物価史の研究』(大原新生社,1981)の第三部のみ(苦笑)を読了。
清水克行『大飢饉,室町社会を襲う!』(吉川弘文館,2008)を読了。この本は,応永の飢饉という,一般的にはあまり注目されていない出来事をとりあげたものです。興味深かった点,気になった点を3点ほど書いておきます。
まず,「応永の平和」のもとで大飢饉が生じた原因についてです。清水氏は,「応安の平和」のもとで荘園制下の収取以外に,守護など武家側の課役を負担しなければならなくなったこと,を原因のひとつとしてあげています。なるほど,と思う一方,武家によるさまざまな徴発は,南北朝の動乱のなかにおいても行われていたのではないか,とも思えます。動乱から「応安の平和」へ(戦時から平時へ)と移行するなかで制度的に定着したものが,そこにいう「武家側の課役」なんじゃないのでしょうか。とはいえ,「応永の平和」のもとでの京都の繁栄,京都での奢侈的な消費の活発化が,都鄙間の物価不均衡を生み出し,それとともに消費地・京都へ物資が集中し,その結果,生産地である農村から飢餓が生じ,窮民が農村を捨てて都市へ集中するという現象を引き起こした,との説明は,説得的です。
次に,冒頭で触れられている応永の朝鮮軍対馬襲撃事件(いわゆる「応永の外寇」)です。これと応永の飢饉への人々の反応の関係については説明されているのですが,では,飢饉以降はどうなのか? 冒頭に「蒙古が攻めてくる!」「蒙古の怨霊が復讐する」といった,ある意味センセーショナルなタイトルとともに説明されているだけに,後ろのほうでもう一度,言及して欲しかった気がします。応永の飢饉が対外観に与えた影響ってのを期待したんですが.....
ところで,応永の飢饉のなかで,徳政を求める動きや村や町の人々の新たな結束や習俗が生じ,定着したことについての指摘も興味深い。特に,富裕者を「有徳人」ととらえ,彼らに施行(喜捨)を当然の行為として要求する有徳思想は注目したいところです。「代替わりに徳政を求める」などという発想とは,ちょっと位相が異なります。清水氏は,この有徳思想から徳政一揆をひと続きのものとして把握しているのですが,土倉など富裕者に施行(喜捨)を要求することと,土倉などを襲撃して実力で債務破棄を行うこと,この両者の間に飛躍はないのでしょうか。清水氏の徳政一揆論を聞いてみたいところです。
福田誠治『競争しても学力行き止まり イギリス教育の失敗とフィンランドの成功』(朝日選書,2007)を読了。日本の子どもたちは「表現」を苦手としていると結論づけるのは早計である,との主張は示唆に富みます。そして,岩橋勝「近世三貨制度の成立と崩壊 −銀目空位化への道−」(『松山大学論集』1999.10)も読了。黒田明伸『貨幣システムの世界史』のなかで言及されていて,気になったので,図書館でコピーして読みました。計数銀貨登場後の銀遣い経済圏のあり様(岩橋氏は「銀目の空位化」と表現している)には驚かされます。
田中優子(共著者・内原英聡)『カムイ伝講義』(小学館,2008)を読了。お茶の水校舎で講習中,立ち寄った丸善で平積みになっていました。江戸時代の身分・社会・生活をよく知ることのできる好著です。
飯尾潤『日本の統治機構 −官僚内閣制から議院内閣制へ』(中公新書,2007)を読了。
なお,[「鎖国」という言葉はいつから用いられたのか?]を書く際,大島明秀氏の諸論文を参考文献としたのですが,それらが『「鎖国」という言説 ケンペル著・志筑忠雄訳『鎖国論』の受容史』(ミネルヴァ書房)として刊行されたようです(ミネルヴァ書房のチラシで見ただけなのですが)。
川人貞史『日本の政党政治1890-1937年 議会分析と選挙の数量分析』(東京大学出版会,1992)を読了。
この間,末木文美士『鎌倉仏教展開論』(トランスビュー,2008),黒田明伸『貨幣システムの世界史 <非対称性>をよむ』(岩波書店,2003)を読了。
梅谷繁『捨聖・一遍上人』(講談社現代新書,1995)を読了。
林敏彦『大恐慌のアメリカ』(岩波新書,1988)を読了。ずいぶん以前に読んだことがあるのですが,いい機会なので読み直しました。
曽根原理『神君家康の誕生 −東照宮と権現様』(吉川弘文館,2008)を読了。
井上鋭夫『本願寺』(講談社学術文庫,2008,原著は1966)を読了。これを読むと,親鸞の没後に形成された教団を果たして「新仏教」と呼んでよいのか,疑問に思えてきます(苦笑)。
ところで,講談社学術文庫には実にいろんな好著が入っていますね。山本博文『殉死の構造』や堀敏一『東アジア世界の歴史』も入っています。ちくまや岩波もがんばってくれていますが,なかなか手に入りにくいハードカバーが文庫化されるのはいいことです。
先延ばしにしていた伊藤正敏『寺社勢力の中世』(ちくま新書,2008)についてです。
境内都市という概念が新鮮で面白く,京都における延暦寺の勢力の強さについての説明など,目からウロコが落ちる思いでした。とはいえ,京都を延暦寺の「門前」として一律に描きすぎではないか,という印象も強く持ちました。
それ以上に疑念が残ったのは,「無縁所」の成り立ちについての説明です。
境内都市という無縁所が成立した条件をp.182以下で列挙しているのですが,第一の条件として「都市の未開地性」があげられています。境内「都市」が無縁所であるのは,まずもって「都市である」からだ,というのでしょうが,伊藤氏のいう「都市」がどのような概念なのかが不明なので(僕が読みとれていないだけなのかもしれませんが),なかなか了解しがたいです。それよりも,「境内」であることと「無縁所」として成り立つこととの関連を具体的に論じてほしかった。もっとも,「無縁所は移民が作った括弧つきの「国」なのだ」(p.184)と断じる姿勢からは,「寺社という無縁所」の成り立ちを論じようとする姿勢は生まれにくいのかもしれません。しかし,さまざまな人々が行人・神人であることを勝手に称することができたとしても,その前提には正規に行人・神人となっている人々(寺社との縁をもつ人々)とその集団がいるように思うのです。寺社と彼らの関係のあり方を論じたうえで,境内都市へ流入した移民たち,各地で活動する聖のような<無縁の人々>との関係を論じてほしかったところです。そして「無縁」も,ある特定の関係や秩序との関係からの「無縁」として論じる必要があるんじゃないかと思うのですがね。
なお,別の箇所で,「惣村」とは自治都市なんだ,と論じているところがあります。
「自治を行う地域組織は,学界ではかつて「惣村」と呼ばれていた。中世は農業社会だという大前提による。だがこれは誤解で,そのほとんどは自治村落ではなく自治都市である」(p.225)とか,「農村が実際は都市化しているのに名称が変更されず,「村」と表記されることはざらだ。都市を「惣村」と見誤ったのは,「『村』と書いてあればそれはすべて農村だ」という農業中心主義的思い込みに原因がある」(p.226)などと説明されているのです。
しかし,もし「農業主義的思い込み」を取り除いて考えさえすれば,<村=「農村」>という設定も消えます。そうすれば,「都市化」していようがいよまいが,自治で運営される村落は村であり,「惣村」と名付けてもなんの問題もありません。ただ,ここで問題になるのは,「都市」の定義です。もっとも伊藤氏の立場からすれば,中世における都市とはすべからく境内都市である,と断定することもありえるように思えるのですがね。つまり,境内都市でないものは全て「都市」と呼ばない,という立場です。暴論ですが(笑),立論としては面白いでしょう。
阿満利麿『法然の衝撃 −日本仏教のラディカル』(ちくま学芸文庫,2005,原著は1989)を読了。個人の自覚に基づく新しい仏教を説いた法然の画期性を論じたもので,阿満氏の議論を念頭におけば,松尾剛次氏(『鎌倉新仏教の誕生 −勧進・穢れ・破戒の中世』)のように,「個人の救済」のための仏教を説いた点をもって新仏教とする立場だと,法然の画期性が見えてこず,かえってそれ以前の聖の活動も同様に「新仏教」に含めてしまえそうに思う。だからこそ,松尾氏は庶民を含めた信者の組織,教団の形成に重きを置くのだろうが,だとすれば今度は,法然や親鸞のように,教団を自発的に作ろうとしなかった人々は「新仏教を開いた人物」とは言えなくなってしまう。あくまでも教団を形成したのは,彼らの「後継者」にすぎないのだから。
なお,阿満氏は法然,親鸞と一遍との異質性を強調している。僕も最近,痛感するところです。一遍はどのような意味で「新仏教」なんでしょうね。一般的に「新仏教」を考えるのならば,実教出版の『日本史B』にある,「真言律宗は……(中略)……室町時代から衰退して真言宗や律宗に吸収されていったため,一般に鎌倉新仏教の宗派に含めていない」(p.126)との記述が,その規定に近いのかもしれない。つまり,「開祖」本人の主張・意思いかんによらず,その僧侶を「開祖」と仰ぐ独自の教団(宗派)が後に形成された(そして江戸時代に独自の宗派として認知された)潮流が鎌倉新仏教なのだ,と。
昨日,根来寺と粉河寺(ともに和歌山県)に行ってきました。和歌山と言えば遠い,という勝手なイメージがあるのですが(苦笑),京都から名神,近畿自動車道を経て,阪和自動車道を泉佐野インターで下り,山を越えれば根来寺ですから,予想以上に近かったです。ただ,伊藤正敏『寺社勢力の中世 −無縁・有縁・移民』で根来寺の境内都市のあり様が紹介されていたこともあり門前の賑わいを想像していたのですが,大したことがなく,拍子抜けでした。確かに中世のありさまがほぼそのまま残っているなんてことはあり得ない,想像するほうが間違えているのでしょうがね(苦笑)。
伊藤正敏『寺社勢力の中世 −無縁・有縁・移民』(ちくま新書,2008)を読了。少しコメントしたいことがあるのですが,時間的な余裕がないので,後ほどということで。
上橋菜穂子『天と地の守り人 第2部』(偕成社,2007),『同 第3部』(偕成社,2007)を読了。守り人シリーズを全巻,読み終えました。少し前までテレビで「精霊の守り人」のアニメ(再放送)をやっていたそうだが,指輪物語みたいに実写+CGで映画化してほしいものだ。
山口二郎『戦後政治の崩壊 −デモクラシーはどこへゆくか−』(岩波新書,2004)を読了。
昨日,上橋菜穂子『天と地の守り人 第1部』(偕成社ポッシュ版)を読了。そして,第2・3部がまだポッシュ版になっていないので,普通の単行本を買おうと京都のジュンク堂書店(四条通の方)に行ったのですが,ともに店頭にはなかった(涙)。
上橋菜穂子『蒼路の旅人』(偕成社ポッシュ版)を読了。
上橋菜穂子『神の守り人』(偕成社ポッシュ版)を上下2巻とも読了。
上橋菜穂子『虚空の旅人』(新潮文庫版)を読了。
張作霖爆殺事件KGB説というのがあるらしい(→たとえば産経新聞の記事)。不勉強で,つい最近まで知らなかったのですが,[張作霖爆殺事件について]や[張作霖爆殺事件(2) −「KGB犯行説」をめぐって−]で論じられている内容を読む限り,眉唾ものですね。
大橋幸泰『検証島原天草一揆』(吉川弘文館,2008),上橋菜穂子『夢の守り人』(新潮文庫版)を読了。
上橋菜穂子『闇の守り人』(新潮文庫版)を読了。
村上隆『金・銀・銅の日本史』(岩波新書,2007),上橋菜穂子『精霊の守り人』(新潮文庫版)を読了。
高橋富雄『徳一と最澄 −もう一つの正統仏教』(中公新書,1990)をひとまず読了。
これに手をつけたのは,少し前,松尾剛次『鎌倉新仏教の誕生 −勧進・穢れ・破戒の中世』(講談社現代新書,1995)のメモをとった際,南都六宗や天台・真言宗の僧侶たちは基本的には,悩める人々の個人的な救済願望に応えたり在家の信者を組織する必要がなかった,と論じられている部分に違和感を覚えたからでした。7世紀後半以降,各地の地方豪族によって数多くの寺院が建立されたことは,今では教科書にも書かれている事実ですし,都の大寺院に所属する官僧たちがしばしば,そうした地方の寺院を訪れ,都と地方を往き来して活動していたことも知られています。官僧たちの活動が,まずもって国家のためであったにせよ,こうした都鄙の往来に注目した場合,そこだけに安住していたわけではないことも事実じゃないですか。となると,松尾氏の立論は,氏なりの「鎌倉新仏教」を提示するために論理的に要請されたものなんじゃないのか,と思えたため,会津や筑波など東国で活動し,最澄と激しい論争をくり広げた徳一という法相宗僧侶が気になり,読んでみたのです。「蝦夷征討」との関連が指摘されてはいるものの,その一方で,平安新仏教への反発と,それに触発された旧仏教に対する改革という衝動のなかで東国に赴き,庶民信仰のこころにまで降り立ちながら,庶民の教化につとめた様子が描かれていました。これは,松尾氏が言うような「変則的な存在」でしかないのだろうか。確かに「教団」を樹立しなかったことは確かですが。
鯖田豊之『金(ゴールド)が語る20世紀 −金本位制が揺らいでも』(中公新書,1999)を読了。19世紀から現代に至るまでの国際通貨制度(金本位制など)の移り変わりを概説したものです。国際政治の動向などもあわせて記述されているため,単に金融だけを焦点とした概説書より読み易いと思います。
金田章裕『古地図からみた古代日本 −土地制度と景観』(中公新書,1999)を読了。墾田永年私財法が律令政府の土地支配を強化する政策であったことは,今や一般化した認識だと思いますが,土地管理の面からいえば,墾田永年私財法をきっかけとして政府が校班田図を整備し,耕地を緻密に把握する体制を構築していったことを論じながら,さまざまな古代荘園図の読み取りがなされています。このなかで驚いたのは,「畠」がいわゆる畑ではないことの指摘でした。もちろん律令法上の規定ではありませんけど。
この間,西谷正浩『日本中世の所有構造』(塙書房,2006),深井雅海『江戸城 −本丸御殿と幕府政治』(中公新書,2008)を読了。
西谷氏のものは,もともと「「鹿子木荘事書」成立の背景−徳政と「職の体系」の変質」を読みたくて購入したもので,中世の荘園や職についての研究書です。頭のなかがいろいろと整理されたような印象がありますが,高橋一樹氏などの研究と読み比べておかないといけません。
なお,勝俣鎮夫氏らが強調する本主の権利の強さは,鎌倉後期の徳政以降の中世後期における特有の現象じゃないのかと,以前から思っていたのですが,そのことが明確に論じられていてスッキリしました。さらに,寄進者と寄進を受けた者との関係についても,寄進者に大きな権利が留保されるとの見解がきれいに否定されており,これまた意を強くしました。いいかげん,「鹿子木荘」の史料を教科書から取り除いてほしいものです。
とはいえ,ひとつ,すごくひっかかっている箇所があります。西谷氏は,古代から中世にかけて共通する荘園の本質を「私的土地所有」と規定しているのですが,古代荘園には「領域型」もあると指摘されています。田地以外を私有しえた根拠は何なんでしょう? 勝手に占有するのなら分かるのですが,山野を私有できる法的根拠が知りたいところです。
小島毅『足利義満 消された日本国王』(光文社新書,2008)を読了。「北条時輔ファンサイト」というブログの7月24日の記事で知り,面白そうだったので読んで見ました。著者みずからが書いている通り,「蛮勇」ふるった著作で,いっきに読み通してしまいました。
次の指摘など,刺激的です。
「天皇って,そんなに偉いのか? 私たちにとってではない。当の義満にとってどうだったかという話だ。(中略)自分がすでに乗り越えてしまった相手の地位を奪おうとなんぞ,するものだろうか?」(p.143)。
明皇帝から授かった日本国王という称号が,国内において天皇を超越するものとして使われておらず,国外に対してのみ使用されたものであることは,近年,しばしば強調されることですが,日本国王に封じられる前の義満にとって,すでに天皇は彼によって超越された存在であった,と捉える視点は斬新ですね(学界的には僕が知らないだけのことかもしれませんが)。
さらに,朱子学では「革命」思想が消し去られているとの指摘(朱熹流の孟子は「革命」を肯定していないというのだ)は,驚きです。
ところで,福岡校への出講中に,丹羽邦男『土地問題の起源 村と自然と明治維新』(平凡社,1989)を読了していたのを書くのを忘れていました。ちなみに,読み通さず,途中でとまったままになっているものに,歴史科学協議会編『天皇・天皇制をよむ』(東京大学出版会,2008),国立歴史民俗博物館編『生業から見る日本史 新しい歴史学の射程』(吉川弘文館,2008)があります。『天皇・天皇制を読む』は,近年の研究動向を俯瞰するものとして便利です。ただ近代のところは,ちょっと物足りない。
前田秀幸『東大合格への日本史』(データハウス)を本屋で立ち読みしました。買っていませんが(苦笑)。
「プロフェッショナルが導き出した東大日本史公式120」というサブタイトルは,「公式」が120もあっちゃ,「覚える」のが大変じゃないですか,とツッコミを入れたくなりますね。それはともかく,あがっている「公式」のなかには,疑問に思うものも含まれます。たとえば,日本国憲法はよいにしても,民政局長のホイットニーや次長のケーディスなど,東大向けの知識としては不必要じゃないですか。 早慶向けの知識がそろえられていると考えたほうがよいという印象を受けました。
中島岳志・西部邁『パール判決を問い直す 「日本無罪論」の真相』(講談社現代新書,2008)を読了。「保守派」が東京裁判を批判するのに「パール判決」は活用しえないことを,パールに即して論じており,中島岳志『パール判事 東京裁判批判と絶対平和主義』(白水社,2007)を補うものと言えます。西部の<近代主義=左翼思想>という設定に辟易しますし,東京裁判が政治的なショーであったことはそんなに強調しなくっても,普通に常識じゃないのかと思ったりもするが,それなりに面白く読めます。
雨宮昭一『シリーズ日本近現代史7 占領と改革』(岩波新書,2008)を読了。
雨宮氏は,連合国軍による占領と改革を,サクセスストーリーではない語り方で説明しようという問題意識から,戦前や戦時期からの連続性に注目している。そして,「女性の社会的な地位の向上と発言権の拡大がすでにあって,遅かれ早かれ婦人参政権の付与はありえたのである」(p.41)とか,「占領がなくても遅かれ早かれ労働組合の結成(引用者補:文脈から言えばここは「労働組合の法認,労働組合法制定」と表現するのが適切なところ)ということはありえただろう」(同前)などとの評価を下している。しかし,問題は「遅かれ早かれ」という点ではないか。
また,教育改革についての説明のなかでは,「敗戦ということになれば,その制度と内容が少なくとも平常への復帰,つまり二〇年代への復帰ということが当然考えられるので,占領当局が勧告しなくても,敗戦によって軍国主義的な内容が変えられるということはほぼ自明と考えてよい」(p.44)と論じている。しかし,「総力戦体制下での敗戦」だからといって,「二〇年代への復帰」が「当然」なのか。「もし」と仮定するのなら,もっと留保をつけ,いろいろな選択肢を考える必要があるんじゃないか。たとえば,阿南惟幾らの4条件でのポツダム宣言受諾という形があり得たとしたら.......。占領がなくても改革の可能性があったのだという点を強調したいがための早急な議論にみえる。雨宮氏は天皇の退位問題にからんで,日本が「一つの政治体としての自立したあり方」を占領軍により阻止され,奪われたことを指摘していますが,それが「無条件降伏」という事態なんじゃないのか。「無条件降伏」にもう少し注目してもいいのでは?と思いますね。
もちろん,戦時体制が占領期の諸政策のひとつの前提になっていることを論じることがおかしいなどとは思いません。「総力戦体制下での敗戦による変革と占領によるそれとを明確に区別する必要があると思われる」(「はじめに」より)という問題意識も分からなくはない。しかし,「明確に区別する」ための方法論が雨宮氏の議論からは見えてこない,というのが正直なところです。
ところで,戦時下の政治潮流を「国防国家派」「社会国民主義派」「自由主義派」「反動派」の4つに区分し,その絡み合いで占領期以降の政治動向も論じています。なんとなく分かりやすそうなのですが,無理がありませんかね。たとえば,近衛文麿はどこに入るんでしょうね?
忘れていましたが,『文藝春秋』七月号に,1960年の日米安保改定に際しての「朝鮮半島有事の際の在日米軍基地使用に関する密約」が紹介されています(春名幹男「日米密約 岸・佐藤の裏切り」)。
この間,歴史科学協議会編『天皇・天皇制をよむ』(東京大学出版会,2008),日下力『いくさ物語の世界 −中世軍記文学を読む』(岩波新書,2008)を読了。『天皇・天皇制をよむ』は,古代から現代までを対象として,天皇や天皇制に関するテーマを70ほどあげ,最近の研究動向に即した説明がほどこされています。ただ,近代については伊藤之雄氏や永井和氏らの業績が参照されていないように思えました。『いくさ物語の世界』は,『保元物語』『平治物語』『平家物語』『承久記』という4つの作品(日下氏は共に1230〜40年頃に成立したとされる)をとりあげ,叙事詩との評価ではくみ取ることのできない,さまざまな軍記物語の様相を紹介している。
なお,最近,『図説日本の「間取り」』(インテリアマガジンconfort2001年5月増刊,建築資料研究社)を購入しました。文化住宅についての文献をネットで探してたら,この本にたどりつき,古本屋で購入しました(ネット上では日本の古本屋を利用しています)。文化住宅や同潤会アパートなどが,写真,間取り図とともに紹介されており,見るだけでも楽しいです。
平安時代後期,中国から輸入された銅銭は,経筒などの銅製品の原料として活用され,鎌倉大仏の材料も中国銭なのだ,という。こういう研究が登場したことが,昨日の朝日新聞で紹介されている(詳しくはこちら)。銅銭輸入の初発の理由としては,なるほどと思わせるところがあります。そこで,さっそく『経筒が語る中世の世界』(思文閣出版)を注文してしまいました。
ここのところ,康越「中原大戦期における張学良政権と国民政府」(→こちら)と,小林道彦「浜口雄幸内閣期の政党と陸軍」,「第二次若槻礼次郎内閣期の政党と陸軍」,「日本陸軍と中原大戦」(それぞれ『北九州市立大法政論集』2003.1,2004.1,2004.6)を読んでいました。小林氏の論文では,満州事変前の陸軍(省)が中国の安定化を望み,国民政府に対する宥和的姿勢をもっていたこと,永田鉄山もその一人であったこと,との評価が下されていた点が印象的でした。
小林丈広『明治維新と京都 −公家社会の解体』(臨川書店,1998)を読了。江戸時代の京都が身分制社会であるがゆえにさまざまな身分集団によって構成されていたことって,案外,見逃しがちですが,明治維新のなかで,その京都のあり様がどのように解体され,再編されたのかを具体的に論じたものです。幕末から維新にかけての政治動向のなかで草莽が政治的に利用され,最終的には切り捨てられていったことには意識していましたが,公家も同じような境遇にあったことは意識にありませんでしたから,非常に興味深かったです。さらに,京都から東京へと「 都」が遷っていくのに対して西陣と本願寺門前の人々が反対していたこと,維新のなかで有力な寺社から所領などの封建的特権が剥奪されたため苦境に陥ったこと(それに対して寺檀組織のしっかりしていた浄土真宗や日蓮宗の寺院はそれほど被害を被らなかったこと)など,興味深い事実が論じられています。授業のなかで活かせるかと言えば難しいですが,受験とは別のところで,お薦めの一冊と言えます。〔なお,後付けには「昭和十年六月十五日初版発行」と印刷されているのですが,著者の小林氏は1961年生まれとのことですから,「平成十年」の誤植でしょうね(笑)。〕
家近良樹『幕末の朝廷 −若き孝明帝と鷹司関白』(中央公論新社,2007)を読了。
孝明天皇の即位から,1858(安政5)年,幕府の通商条約勅許の要請に対して拒否の姿勢を示す(「安政五年政変」)に至るまでの間の政治過程を,朝廷のなかに視点をすえた形で論じたものです。孝明天皇の人柄については,独裁者的な「豪胆さ」を否定し,頭脳は明晰でありつつも,気配りのきく,それゆえに決断力があったとは言い難い人物であったことが論じられており,それゆえ,1858年に中下層の公家たちによる集団での提訴(公家列参奏上事件)が突如として生じたこと,その突発性が了解しやすかったです。
斎藤孝/梅田望夫『私塾のすすめ −ここから創造が生まれる』(ちくま新書,2008)を読了。テンションの高い二人の対談,一気呵成に読み通しました。空気入りますね(笑)。
明石岩雄『日中戦争についての歴史的考察』(思文閣出版,2007)を読了。1920年代前後の日本の対中国政策について,満蒙の特殊地位の強化と中国・中南部への進出という二つの目的を同時に追求しようとする「二重政策」という視点を導入し,最終的に日中戦争の独自的性格をさぐろうとする論考です。福建省から湖南省に向けた「南進」政策の現実性をもっと考える必要がある,と思わせてくれます。
なお,石井・ランシング協定のランシング原案に関する次のような説明には驚かされました。
「ランシング国務長官が準備した原案には,あきらかにアメリカの極東政策におけるひとつの転換が見られた。それは,それまで日本の特殊関係の対象を「属領地に接壌する部分」に限定し,中国全域におよぶことを否定してきたアメリカが,その地域的限定をはずして,中国全体をその対象として認めたことである」(p.29)。
ランシング原案がそのまま協定となったわけではないにせよ,協定には確かに「合衆国政府ハ日本国カ支那ニ於テ特殊ノ利益ヲ有スルコトヲ承認ス、日本ノ所領ニ接壌セル地方ニ於テ殊ニ然リトス」とあります。
では,そのような譲歩をアメリカがなぜ行ったのか。明石氏はその背景として,長江流域への進出を策すアメリカとその流域に多くの既得権益をもつイギリスとの間で行われていた交渉との関連を指摘しています。日本だけに視点をすえていては見えてこない関連です。
黒崎直『日本史リブレット71 飛鳥の宮と寺』(山川出版社,2007)を読了。
本山美彦『金融権力 −グローバル経済とリスク・ビジネス』(岩波新書,2008)を読了。
高橋昌明『平清盛 福原の夢』(講談社,2007)を読了。
青山忠正『明治維新史という冒険 仏教大学鷹陵文化叢書18』(思文閣出版,2008)を読了。「龍馬は「暗殺」されたのか」など,エッセー風の文章を編んだものです。
ずいぶん以前から読んでいた増田知子『天皇制と国家 近代日本の立憲君主制』(青木書店,1999)を読了。
この間,宮崎学『ヤクザと日本 −近代の無頼』(ちくま新書,2008),石川透『御伽草子の世界』(勉誠出版,2004)を読了。
渋谷由里『馬賊で見る「満州」 張作霖のあゆんだ道』(講談社,2004)を読了。張作霖が馬賊から身を起こし,地方政権を作り上げていく過程を論じている。単なる日本軍の傀儡としてではなく,満州(東三省)の地方政権としての内実にせまっている。
後藤春美『上海をめぐる日英関係 1925−1932年 日英同盟後の協調と対抗』(東京大学出版会,2006)を読了。五・三〇事件あたりから第一次上海事変あたりまでを対象として,中国をめぐる日英関係を論じたものです。憲政会内閣の幣原喜重郎外相が対中国政策においては英米との協調姿勢を取っていなかったこと(つまり英米協調と中国内政不干渉主義とは必ずしも両立しないこと)は知っていましたが,中国で反英運動もしくは反日運動が展開するという情勢のもとで,日本とイギリス双方がお互いの立場に理解を示しながらも,自国の立場保持のために,中国との関係を第一に考え,結局のところ協調関係を確保することが困難であった状況が五・三〇事件後,済南事件後,万宝山事件後などを素材としながら具体的に論じられています。
なお,アジア歴史資料センターのサイトでインターネット特別展「条約と御署名原本に見る近代日本史」が公開されています。
ソーン『太平洋戦争とは何か』(草思社),茂木健一郎『思考の補助線』(ちくま新書,2008)を読了。
最近,読み終えた書籍の紹介をやっておりませんが,いろいろあって(笑),大して読んでいなかったりします。2月後半までは原稿に追われ,そのあとは3/22の京阪神大入試研究会の資料作り(京大の青本にも取りかからないとダメなのですが,まだ何もやっていない)。まぁ,忙しいことはいいことなのかもしれませんが,実のところ,授業期間のほうが読む量は多いようです。やはり通勤があるからなんでしょう。ただ,出版されている書籍の量を考えると,いくら読んでも追いつきません。ここのところ,読みたいと思って買ってしまった本が机の回りに散乱しています(苦笑)。困ったものです。
なお,少し前に,ジジェク『人権と国家』(集英社新書,2006)を読み終え,今はソーン『太平洋戦争とは何だったのか』(草思社,1989)を読んでいるところです。まったく連続性がないのですが,ひょんなことから本棚にある『太平洋戦争とは何だったのか』を手にとってぺらぺらめくってしまったもので,こちらに移ってしまいました。この後は,予定としては,後藤春美『上海をめぐる日英関係 1925−1932年』(東京大学出版会,2006)へ移るつもりです。
東野治之『遣唐使』(岩波新書,2007),山田芳裕『へうげもの 1』(講談社,2005)を読了。『へうげもの』は古田織部を主人公にしたマンガです。
13日(日)のセミナーに参加された方々,お疲れさまでした。
「江戸中後期をどう教えるか」というテーマ設定でしたが,やや社会経済にかたより,他の分野,たとえば朝幕関係への目配りが欠けていたな,と少し反省しております。ただ,家綱と田沼時代の画期性(それらを前後のどちらと一緒に説明するにせよ)が少しでも説明できたかなとは思っています。
次は幕末・維新期となります。憲法制定期まで含めて一括したいと考えています。またご参加いただけると幸いです。
この間,とある原稿に追われていて(そろそろ別の原稿の〆切も近づいているので危ない(苦笑)),ほとんど本を読んでいません。最近,読んだのは,鹿野政直『日本の近代思想』(岩波新書,2002),竹森俊平『1997年−世界を変えた金融危機』(朝日新書,2007)です。
この間,松浦章『世界史リブレット63 中国の海商と海賊』(山川出版社,2003),香西秀信『論より詭弁』(光文社新書,2007)を読了。
小学館の『日本の歴史』の刊行が始まりました。この前の日本歴史シリーズは講談社版で,第1巻がでたのは旧石器遺跡捏造問題が明るみに出た頃でしたね。どのように歴史が書きかえられているのか,楽しみです。ただ,それより『日本歴史大事典』を早くCD(もしくはDVD)にしてほしいんですけどねぇ(それとも,もう出ているのか?)。
そして,集英社文庫版『漫画版日本の歴史』(全10巻)が完結しました。受験勉強を始めるにあたって,ザッと見通しをつけるのに便利じゃないでしょうか。
ちょっと忙しいこともあって「ちょっと勧めてみたい本」10月分を登録するのを忘れていました(苦笑)。もう早くも11月ですね。原稿,頑張ります(笑)。
さて,この間,矢田俊文『日本中世戦国期権力構造の研究』(塙書房,1998),堅田理『日本の古代社会と僧尼』(法蔵館,2007)を読了。
今日は,京都国立博物館で狩野永徳展を見てきました。永徳自身の作品については金碧画よりも水墨画のほうが充実していたように思えますが(金碧画は一門のものが多かった),それは残り具合の問題でしょうか。それはともかくにしても,「洛中洛外図屏風」(織田信長ではなく足利義輝の依頼で製作されたというのが最近の説らしい)と「唐獅子図屏風」を実物で見れたのは,やはり収穫でした。「唐獅子図屏風」が想像していたよりもデカいのには驚きました。
なお,今週の水曜日24日は午後から東京で会議があったため,前日1泊し,水曜日の午前中,上野へ行き,国立西洋美術館でムンク展,東京芸術大学の美術館で岡倉天心展を見てきました。ムンクと言えば,「叫び」と「マドンナ」しか思い付かない僕には,なかなか新鮮でした。岡倉天心展では,天心が中心になって創設された東京美術学校における美術教育のさまを垣間見ることができましたが,それ以上に,「過去現在因果経」,狩野芳崖「悲母観音」,竹内久一「伎芸天立像」を見れたのが嬉しかった。芳崖の「悲母観音」はこれで3度目ですが,不思議な魅力があります。
この間,佐藤泰弘「荘園制の二冊をめぐって−日本中世荘園史研究の一側面」(『史林』463,2007),野口華世「女院領研究からみる「立荘」論」『歴史評論』691,2007.11),鎌倉佐保「荘園整理令と中世荘園の成立」『史学雑誌』114-6,2005)と,川端新・高橋一樹両氏の「立荘」論をめぐる論文を読みました。前二者は書評的な性格の強いものでしたが,鎌倉氏の論文は平安後期の荘園整理令の意義を見直したもので,荘園整理令を荘公分離政策とはとらえられないこと,記録所の役割は延久期から荘園整理をめぐる国司と荘園領主との紛争の調停であったことなどを論じながら,荘園整理策と立荘の動きとをダイナミックにとらえることを説いています。
そして,西山松之助・芳賀登編『江戸三百年 1 天下の町人』(講談社現代新書,1975)も読了。
川岡勉『室町幕府と守護権力』(吉川弘文館,2002)を読了。
この間,石井陽一『民営化で誰が得をするのか』(平凡社新書,2007),川端新『荘園制成立史の研究』(思文閣,2000)を読了。
なお,先日,アップルストアで予約していた iPod Touch が到着。ただで刻印してくれるからというので頼んでしまったため,一般よりも到着が遅くなってしまいましたが,いいですね(笑)。ただ残念なことに VoodooPad の Export to iPod に対応していないし,カレンダーの編集ができない。Safari で僕のこのサイトを表示させたら文字化けしてしまう(Index だけは文字化けしないよう対応させたのだが,そんなのブラウザ側で対応できるようにしておいてほしいものだ)。日本語入力は両手親指でやろうとしているのですが,やはりちょっと小さい(HP200LX や りなざう と同じ感覚で扱うのが間違えているのかもしれないが)。いいオモチャかもしれませんね(苦笑)。
高橋典幸「鎌倉幕府軍制の構造と展開 「武家領対本所一円地体制」の成立」(『展望日本歴史10 南北朝内乱』東京堂出版に所収),高橋典幸「武家政権と本所一円地−初期室町幕府軍制の前提−」(『日本史研究』431,1998.7),高橋典幸「荘園制と悪党」(『国立歴史民俗博物館研究報告』第104集,2003)と,高橋典幸氏の論文を3つ,一括して読了。
更新情報 [ちょっと勧めてみたい本]9月分を登録。
この間に読了したのは,後田多敦「幸地朝常(向徳宏)の渡清事件」(『日本歴史』2007年9月号),松原岩五郎『最暗黒の東京』(岩波文庫),『日本史研究』2007年8月号(特集 14世紀史の可能性),石田晴男「室町幕府・守護・国人体制と「一揆」」(『展望日本歴史12 戦国社会』所収)です。
なお,田中森一『反転』(幻冬舎,2007)も読んでいた(いる?)のですが,なかなか読み進まず,途中で止っています(苦笑)。エピソードは興味深いんだけど,なんだか面白くないんですよね。
ここのところは,まとまった書籍には手をつけず,論文をいくつか読んでいました。
志筑忠雄の『鎖国論』について,大島明秀「志筑忠雄訳「鎖国論」の誕生とその受容」(こちらにPDFあり),「十九世紀国学者における志筑忠雄訳『鎖国論』の受容と平田国学」(こちらにPDFあり)を読みましたが,ケンペルが「鎖国」を肯定的にみた根拠がなかなか面白かったです。そして,『日本経済史1 経済社会の成立』(岩波書店,1988)に収録されている新保博・長谷川彰「商品生産・流通のダイナミックス」,宮本又郎・上村雅洋「徳川経済の循環構造」に目を通し,呉座勇一「伊勢北方一揆の構造と機能」(『日本歴史』2007.9)を読みました。呉座論文を読んで,もう一度,国人をきちんと把握し直さないとあかんなと痛感しています。再度,伊藤俊一・石田晴男・川岡勉各氏をまとめて読み直すつもりなのですが,読まなきゃと思っている本が机の周りに山積みになってますね(苦笑)。
この間に読了したものをまとめて書いておきます。
1つ目は,斎藤希史『漢文脈と近代日本』(NHKブックス,2007)。漢詩文,訓読体に注目して江戸後期から明治・大正期における日本語と文学の動きを捉え直そうとしたものです。
2つ目は,中島岳志『パール判事 東京裁判批判と絶対平和主義』(白水社,2007)。講習で福岡に出講している際,天神の丸善にふらっと立ち寄ったら平積みになっていたもの,思わず買ってしまいました。となりには田中正明『日本無罪論』が平積みにされていましたが,中島著は田中著におけるパール判決書の恣意的な利用を論難していました(たとえばパールは南京虐殺を事実として認定している)。店員さんは分かって並べていたのか,それとも単にパールつながりで並べていただけなのだろうか? それはともかく,パールがどのような論理からA級戦犯無罪(日本無罪ではない)を導き出したのか,パール判決書に即して冷静に論じています。明日あたりにNHKで東京裁判特集があり,尋問調書からみた東京裁判被告とともにパール判決書が取りあげられるようですが,もしかしてこの書籍がベースだろうか?
3つ目は,三浦佑之『口語訳 古事記 神代篇』(文春文庫,2006,原著は2002)。なお,三浦氏は,古事記は7世紀後半に成立したものの,「序」は9世紀に創作されたものと論じているとのことです(毎日新聞2007.8.7付夕刊)。
4つ目は小島毅『靖国史観 −幕末維新という深淵』(ちくま新書,2007)。靖国神社の成立ちに儒学,なかでも後期水戸学が大きくかかわっていることを論じている。以前,坪内祐三『靖国』が文庫版(新潮文庫)になった際,日誌に次のように書いたことがある(2001年8月12日)。
「靖国神社の前身である東京招魂社の立地を決める過程についての記述のなかで上野がその候補の一つとしてあがったことをあげながら,上野を「断じて祀ってはいけない,「邪霊」のさ迷う「亡魂の地」だった」と表現している。旧江戸幕府に殉じた彰義隊の人びとの霊を「邪霊」と呼んでいるのだが,古来,神祇信仰のなかで神社に祀られてきたモノとは,祟りをなすモノではなかったのか(アマテラスが祟りをなす神であったことについては斎藤英喜氏らの議論がある)。そう考えれば,幕末から戊辰戦争の過程において死んでいった人びとのうち,結果的に敗者の側に置かれた人びと(「邪霊」)を祀ることこそが,古来の神祇信仰にかなった形式だったのではないかとも思えてくる。なぜ「邪霊」は祀ってはならないのか。」
僕がここで問題にした「邪霊」ではない人間を神社に祀ることの由来を,小島著は解こうとしています。そして,靖国神社には「天皇のために死んだ戦士」が祀られているとされるものの,禁門の変で戦死した,つまり天皇に刃向かって戦死した真木和泉なども祀られていて一貫性がないように見えるのですが,その経緯も論じられています。
講習などで日誌をきちんと書く時間的余裕がないもので,この間に読了したものだけを列挙しておきます。国立歴史民族博物館編『和歌と貴族の世界 うたのちから』(塙書房,2007),野口実『源氏と坂東武士』(吉川弘文館,2007)。
大山誠一『<聖徳太子>の誕生』(吉川弘文館,1999)を読了。「聖徳太子」をすべて捏造と言い切ってくれると,それはそれですっきりしていいですね(笑)。ただ,疑問が残りました。
一つは,『古事記』の扱いです。大山氏は,厩戸皇子(王)が『古事記』で「豊聡耳命」と表記されている点について,『古事記』では王族の呼称に「命」と「王」があり,「天皇に即位する皇子は「命」と呼ばれ,逆に,「王」と称する皇子の中から天皇はでていないという原則がある。ところが,唯一の例外があり,それがこの厩戸王である」(p.84)と書き,厩戸皇子が『古事記』ですでに特別扱いされていることを指摘している。ところが,「それでは『古事記』の段階で,厩戸王が神格化され,聖徳太子信仰が成立したと言えるであろうか。私の考えでは,そこまでは言えないと思う」(p.85)とした上で,聖徳太子信仰がいつ成立したのかと問いを立てて議論を進めていく。大山氏の関心が,『日本書紀』に記され,そして人口に膾炙している「聖徳太子像」にあるのだから,そうした立論は当然だろう。そして『日本書紀』編纂の過程において,道慈,藤原不比等,長屋王らの思惑が交錯するなかで「聖徳太子像」が作り上げられたことが論証されている。しかし,その「聖徳太子像」が捏造・でっち上げであることは了解しえたとして,根拠・実体のないところに創作されたものなのか? 『古事記』における特別扱いに対する考察を欠落させた状態では,根拠・実体のない捏造だと断定することはできないのではないか,と思う。
さらに,大山氏は「聖徳太子信仰の変容(もしくは完成)」として光明皇后の動きを取り上げているが,この著書を読む限り,道慈や藤原不比等らは聖徳太子を信仰しているようには思えない。彼らは,聖徳太子に加護や救いを求めているようには思えないのです。ところが,光明皇后は加護や救いを求めたと論じられている。では,光明皇后にとって,なぜ「聖徳太子」が信仰の対象となりえたのか? 「聖徳太子」はアマテラス同様,祟る存在だったのだろうか? 神じゃないんだから,それはないか。 ところで,行信ってなにものだ!?
加藤陽子『シリーズ日本近現代史5 満州事変から日中戦争へ』(岩波新書,2007)を読了。軍の動きや外交関係など,ワクワクさせられる記述でした。特に「特殊権益」という観念の多義性についての指摘は興味深かったです(僕はこれまで外務省流に把握していました(笑))。また,北伐や満州事変勃発をめぐる幣原外交や国際連盟脱退をめぐる広田外交についての記述は,教科書的な理解とはやや違ったイメージを提示してくれます。ただし,政治や経済などについての記述が薄いですね。だからかどうかわかりませんが,満州事変の画期さが見えてきません。さらに,「満蒙」という観念がいかに変貌・膨張していったかが解き明かされているのですが,「南満州・東部内蒙古」から「北満州」を含む観念へと膨張する過程については言及がありません。「南満州」は「東三省」そのものではないにもかかわらず,張作霖政権に依拠した北満州進出を策す田中外交についての説明でも,対ソ国防ラインを北満州にまで押し上げようとした石原莞爾についての言及でも,「北満州」へ膨張していくのが「自然な動き」のように記述されています。そこには「満蒙」観念の「膨張」がないかのような印象をうけます。その点がやや不満ですね。
ここしばらく原稿や論述授業の採点に追われ(まだ原稿には追われていますが(苦笑)),日誌が書けていませんでした。この間,読了したのは,方法論懇話会編『日本史の脱領域 多様性へのアプローチ』(森話社,2003),『東アジアの古代文化 第130号 2007年冬/特集 古代・中世の日本と奄美・沖縄諸島』,大川原竜一「大化以前の国造制の構造とその本質」(『歴史学研究』2007.7),そして惣領冬実『チェーザレ』1〜3巻(講談社,2006〜2007)です。
内田樹『私家版・ユダヤ文化論』(文春新書,2006)を読了。内田氏のブログはしばしば読むのですが,ブログとは違った硬い文体で刺激的でした。
なお,今日の毎日新聞夕刊に鹿児島県鬼界ケ島の城久遺跡群が紹介されています。古代の9世紀〜10世紀の時期と中世の12世紀代の2つの時期が中心考えられる大規模な集落跡で,中国産の青磁やヤマト産の土師器などが多数発見されたとのことです。もうすでに1年ほど前の話なんですが(沖縄タイムスの記事を参照のこと),はじめて知ったので,インターネットで検索してみたところ,『東アジアの古代文化 第130号 2007年冬/特集 古代・中世の日本と奄美・沖縄諸島』を見つけました。そこで,さっそく注文しておきました。
林淳『日本史リブレット46 天文方と陰陽道』(山川出版社,2006)を読了。江戸幕府のもとで貞享暦を作成した渋川春海は,朝廷の陰陽頭土御門家と協力しながら暦を作成し,朝廷側では土御門家の補助員と認識されていた,との指摘があり,ビックリしました。しかし,貞享暦作成の段階では改暦の権限が幕府に完全に移ったとは言い切れないことや,寛政期の改暦で洋学者が動員された事情がよくわかり,面白かったです。
5月末に新しいパソコン(ようやく Intel Mac を購入)を導入したのですが,環境を整えるのに意外と時間がかかってしまいました。というわけで,この間に読了した本をまとめて紹介しておきます。倉本一宏『戦争の日本史2 壬申の乱』(吉川弘文館,2007),曽根正人『聖徳太子と飛鳥仏教』(吉川弘文館,2007),苅谷剛彦・増田ユリヤ『欲張り過ぎるニッポンの教育』(講談社現代新書,2006)です。
倉本氏の『壬申の乱』は,乱の原因を持統にもとめる点が斬新ですが,その立論の基礎には,大海人皇子の即位は天智天皇や大友皇子にとっても既定路線であったとする解釈があります。確かに母親の地位を考えたとき大友皇子の即位が難しいというのは理解でき,説得的ではあるのですが,他の論者の反応を知りたいところです。
曽根氏の『聖徳太子と飛鳥仏教』を読み終えたと思ったら,6月4日付の毎日新聞夕刊に「「聖徳太子非実在説」の10年 進む大山誠一教授の研究」という記事が掲載されていました。「聖徳太子」なる人物(一般に「聖徳太子」という名前でイメージされている存在)が実在しないというのは首肯しうるとして,さて問題なのは,厩戸皇子の実像であり,なぜ「聖徳太子」神話が生まれたのかです。神話の形成に焦点をあわせる大山氏は厩戸皇子すら実在性を疑っているように思えますが,曽根氏はゼロからの「捏造」という発想をとらず,厩戸皇子の実像に少しでも迫ろうとしています。なかでも特徴的なのは,飛鳥時代の仏教理解を高く評価せず,たとえば憲法十七条にしても,仏教的要素の少なさ,仏教理解の素朴さを強調している点です。そもそも『日本書紀』に記載されているレベルですら書紀編纂時の仏教理解に及んでいないというわけで,目配りのきいた議論のように思えます。
ところで話は変りますが,この間,河内春人「天智「称制」考」(あたらしい古代史の会編『王権と信仰の古代史』吉川弘文館,2005)も読んだのですが,皇太子制がまだ成立していない段階での有力な王位継承者でしかない中大兄皇子の「称制」を否定したうえで,『日本書紀』には天智朝の紀年が混乱していることを素材として,天智が二度即位したと論じています。一度目はヤマト政権における君主の呼称としての「治天下王」として,二度目は「治天下天皇」として即位したというのです(「治天下天皇」は律令制下の正式な君主号としての「明神御宇天皇」への階梯と位置づけられている)。それらの称号の意味はよくわからない(苦笑)ので脇におくとして,こういう二度の即位は,河内氏が契丹→遼などの例を紹介していますが,東アジアにはあるわけで,新たな律令国家・日本の形成過程として考えると,なんとなく説得的です。
一日経て考えてみると,未来記は,今起こっていることがら,あるいは過去に起こったことがらを,それ以前に書かれたとされた偽書をもとに読み解いていくものなので,太平記の論評を軸とした太平記読みとは語る対象が異なっていますね。
小峯和明『中世日本の予言書 −<未来記>を読む』(岩波新書,2007)を読了。最近,偽書への注目が歴史学でも高まっているように思えますが(佐藤弘夫『偽書の精神史 神仏・異界と交感する中世』(講談社選書メチエ,2002)など),これは日本文学の分野からの研究です。聖徳太子に仮託された未来書や野馬台詩をめぐる言説,注釈という形をとって現実や過去をそこに読み込んで歴史を構成しようという衝動がさまざまに紹介されています。中世日本紀もこれと機を一とするものなのでしょう。この動きは,小峯氏によれば,近世になると意義を失っていくといいます。しかし,太平記読み(講釈)の動きとその影響力を考えれば(若尾政希『「太平記読み」の時代 近世政治思想史の構造』平凡社,1999など),もう少し違う評価も可能なのではないのか?とも思えます。もちろん,小峯氏も太平記読みには軽く言及しているのですが,両者には質的な違いがあるということなのでしょうか。
安田敏朗『「国語」の近代史 帝国日本と国語学者たち』(中公新書,2006)を読了。「国語」がどのように創始されたのか,日本が帝国へと展開していくこと・そして敗戦による帝国の解体が「国語」にどのような影響を及ぼしていったのか,を論じている。
これを読んでいてふと思ったのだが,律令制の時代,中央から地方へと赴任していった国司たちは在地の人々と言葉が通じたのだろうか?
山川の『詳説日本史B 改訂版』をようやく入手しました。2003年版の内容検討は江戸幕末期でとまったままなのですが(近代の変更点が多すぎて作業が面倒なために放ってあった),改訂版が出てしまっては続きをあげても意味がないのかな?(とはいえ,2003年版を採用している高校もまだまだ多いようなので意味がないわけではないかもしれない)。
それはともかく,2003年版で気になっていた箇所をいくつかチェックしてみました。
まず法隆寺の再建・非再建論争について。2003年版ではそれをめぐる説明がカットされていたのですが,1998年版までにあった説明(脚注)がそっくりそのまま復活しています(p.31)。
摂家将軍について。2003年版では「時頼は前将軍の藤原頼経を京都におくり返して幼い頼嗣を将軍とし」と事実誤認の説明になっていたのですが,改訂版では「幕府は前将軍の藤原頼経を京都におくり返して子の頼嗣を将軍とし」と改められています(p.96)。北条時頼が藤原頼嗣を将軍に擁したわけではありませんから(北条経時が正しい),「時頼」を「幕府」に書き換えたのは分かるのですが,藤原頼経が京都におくり返されたのは頼嗣の将軍就任よりも後のことですから(北条時頼がおくり返した),この修正も結局,事実誤認です。さらに,この文章は「幕府は(中略)北条氏の地位を不動のものとした」と構成されているものですから,幕府が組織的に北条氏の地位強化に尽力したかのように読めます。そりゃないんじゃないですかねぇ。
鎌倉・室町時代の座と神人・供御人について。2003年版では鎌倉時代では供御人だけ,室町時代になって供御人・神人の両方が説明される形になっていたのが,改訂版では鎌倉時代から両方とも説明されています(p.102)。さらに,2003年版では<座を組織した人々が供御人・神人となる>という説明になっていたものが,<供御人・神人となっていた人々がやがて座を結成する>という説明に改められている(同前)。
江戸時代の門跡について。2003年版では「幕府は皇子や宮家・摂家の子弟が入寺した門跡寺院が仏教諸宗の本山ともなることから,門跡を朝廷の一員とみなして統制した」という,やや意味不明な説明であったが,「幕府は仏教諸宗の本山ともなる門跡寺院に皇子や宮家・摂家の子弟が入寺したことから,門跡を朝廷の一員とみなして統制した」(p.165)という,きちんと意味の通る説明に修正されている。
江戸時代後期の在郷商人について。2003年版では<文化・文政時代>のところで「豪農(在郷商人)」という形で申し訳程度であれ記述されていたのが,改訂版ではきれいさっぱりカットされている。ところが,幕末期の<開港とその影響>のところでは「在郷商人」との表記が用いられている。教科書全体での表記の統一性をもっと考えてほしいものですね。
ほかにもいろいろと面白い変更点がありますが,それらは,そのうち,サイトのなかで紹介していきます。いつになるか,分かりませんが(苦笑)。
浦沢直樹『20世紀少年』(小学館)を22巻まで読了。遅ればせながら(えらく遅れている?),2週間ほど前からぼちぼち読み始めていたのですが,この連休で一気に読み終えました。僕より少し上の世代ならノスタルジーを感じながら読むのだろうか?との思いがよぎりますが,それはともかくも,面白い。『Monster』は連載中にわくわくしながら読みましたが,それと同様,記憶の引き出しをひっくり返しながら読まされるところがいいですね。とはいえ,さてどう終わらせてくれるのか? どのように期待を裏切ってくれるのだろうか?
森下徹『日本史リブレット45 武家奉公人と労働社会』(山川出版社,2007)を読了。萩を舞台として,江戸時代の武家奉公人のあり様を,彼らが所属した社会組織に焦点をあてて紹介したものです。城下町郊外に発展した宿を拠点とした,あるいはさまざまな縁を介した結びつきが具体的に示されており,興味深かったです。ただ不満なのは萩での個別的な事例に留まっている点です。研究者の姿勢としては了解できるのですが,日本史一般を教えることに従事している立場からすると,もう少し一般化してくれるとありがたいところ。まだ,そういう研究状況に至っていないというところなのでしょうか。もう一つ気になったのは,無宿や博徒との関係です。埒外なのかもしれませんが,紹介されていた武家奉公人たちの行動をみていると,無宿や博徒も同じようなあり様をしていたのかなぁと思ったもので....
井上勝生『シリーズ日本近現代1 幕末・維新』(岩波新書,2006)を読了。幕末の政治史を「尊王攘夷運動→討幕運動への転回」という枠組みで説明せず,幕府の動きや孝明天皇の独自性などに力点をおきながら描いています。一般的には,「欧米諸国による外圧に対してなすすべのない幕府」と「尊王攘夷運動のもつナショナリスティックな側面=革新性」が対比され後者の正当性が強調される傾向が強いように思うのですが,そうした一面的な記述を排し,目配りのきいた説明となっています。それゆえ,尊王攘夷運動と百姓ら民衆の動きとが峻別されて記述されている。この点,シリーズ第2巻の牧原憲夫『民権と憲法』と相通じるところがある。ただし,長州藩で指導的な役割を果たしていた周布政之助や高杉晋作・木戸孝允らが「破約攘夷」に転じた理由がわかりにくかった。周布らの「破約攘夷」への転回も単なる手段であるかのように読めるのだが,果たしてそうなのか? 疑問が残った。
長谷部恭男・杉田敦『これが憲法だ!』(朝日新書,2006)を読了。長谷部氏は以前,友人に『憲法と平和を問いなおす』(ちくま新書,2004)を勧められて読んで以来,注目していました。分かりにくい議論(憲法原理と同盟関係・戦争との関連についての議論など),憲法学者はそこまで割り切って考えるのか!?という議論(長谷部氏特有のものなのかもしれないが)などありましたが,長谷部氏の「立憲主義」の導入書として手ごろだと思います。
次は井上勝生『シリーズ日本近現代1 幕末・維新』(岩波新書)を読もうと思っています。このシリーズの2・3巻はすでに読んでいるのですが,1巻はまだ読んでいませんでしたし,昨日,お茶の水校で生徒から面白いですよと指摘されたので,これは読んでおかないと立場がないですから(笑)。
今年もまた御茶ノ水への新幹線通勤・日帰りが始まりました。よく考えると,昨年は新幹線が遅れたり,止ったりすることは一度もなかったのですが,さて今年はどうなるやら。
それはともかく,昨日の御茶ノ水校舎での特単では,野矢茂樹『論理トレーニング101題』(産業図書,2001)を授業の最後に紹介しました。「現代文が出来ないから東京大の論述もなかなか対応できない」という声があることを耳にしたからなのです。電車の中とか休み時間とかにちょこっとやれますので,頭の体操気分でやってみるとよいと思います。
伊勢崎賢治『武装解除 紛争屋が見た世界』(講談社現代新書,2004)を読了。伊勢崎氏は,東チモール,シエラレオネ,アフガニスタンで武装解除という作業に従事していたという。そして,自衛隊の海外派兵が一般化する情勢下,日本自身や同盟国の経済的利益のための海外派兵を排除しつつ,派兵された軍を平和的に利用するあり様を伊勢崎氏自身の経験のもとに探ろうとしたものです。憲法第9条の堅持が最後に掲げられるのですが,伊勢崎氏の立場からすると,「にもかかわらず」ではなく,「だからこそ」なのが興味深い。
松本利秋『戦争民営化 −10兆円ビジネスの全貌』(祥伝社新書,2005)を読了。傭兵から兵器売買,そして民間の軍事請負会社について概説したもので,戦争がいかにビジネスとなっているかを紹介しています。ずいぶんとアウトソーシングが進んでいるものです。
なお,戦争ビジネスといえば,国際紛争にともなう情報戦に暗躍するPR企業を描いたドキュメントとして,高木徹『ドキュメント 戦争広告代理店 −情報操作とボスニア紛争』(講談社,2002)があります。以前に読んだのですが,これは面白かったです。いまは文庫化されているようです(講談社文庫)。
日文研の園田英弘氏が自殺していた,という(→こちら)。『西洋化の構造 黒船・武士・国家』(思文閣出版,1993)でしか知りませんが,1853年段階においては蒸気船は軍艦としては弱体で,攻撃力が弱く,敵の攻撃にも弱いという欠陥をもっているとの指摘や,江戸幕末期における武士の「単身」化(軍隊の構成原理の転換)の指摘などが印象に残っています。特に武士の「単身」化は,言われれば当たり前なのですが,初めてこの議論に接したときは目からウロコが落ちる気分でした。
新川登亀男『聖徳太子の歴史学 記憶と想像の一四〇〇年』(講談社選書メチエ,2007)を読了。
1990年代半ばに大山誠一氏が聖徳太子の虚構性を主張してから,すでに10年がたち,高校教科書でも「聖徳太子」をメインにすえる表記が消えつつあります。しかし,「厩戸王(聖徳太子)」や「厩戸皇子(聖徳太子)などの表記で「聖徳太子」は残っていますし,小学校指導要領で指定されている教えるべき人物群のなかに「聖徳太子」が含まれているように(たとえばこちらを参照),「聖徳太子」が消えることはなさそうです。史実でないなら,文部科学省の検定により教科書記述から削除されてよいのですが,「聖徳太子」についてはそうはならない。「聖徳太子」には意味付与がなされていて,史実よりもそちらのほうが重要視されている,ということなのでしょう。
新川氏の『聖徳太子の歴史学』は,『日本書紀』以降,現代にいたるまで,どのような「聖徳太子」像がどのように形成されてきたか,その変遷を追いかけてくれます。そのなかで特に興味深かったのは,法隆寺という存在についての記述です。明治期以降,いかに法隆寺がクローズアップされてきたか,その過程の記述は興味深かったです。山川の『詳説日本史』で新課程版になって「厩戸王(聖徳太子)」との表記が導入されるとともに法隆寺の7世紀後半における焼失・再建についての記述が消えたこと,その一方で飛鳥文化のところに写真「法隆寺の西院全景」が掲げられ,そこに「中門・金堂・五重塔・歩廊は飛鳥様式を伝えており,世界でもっとも古い木像建築の遺構である」との記述があること(「飛鳥様式を伝えており」は新課程版で新しく追記されたもの)−この意味・政治性を了解できた気がしました。
なお,新川氏は『歴史と地理』565(日本史の研究201,山川出版社,2003.6)で「「聖徳太子」現象をめぐって」も書かれています。
原田敬一『シリーズ日本近現代史3 日清・日露戦争』(岩波新書,2007)を読了。日清・日露戦争前後の政治や外交のからみあいがコンパクトに,そしてテンポよく説明されています。日清戦争を朝鮮王宮占領事件(「七月二三日戦争」と表現されている)から台湾征服戦争に至る過程として描いたこと,日露戦争に至る外交交渉を説明するに際し日露協商論と日英同盟論の対立という図式をとっていないこと,日清・日露戦争がどのように記憶されたのかへの言及(『国民軍の神話』を受け継いだもの),戦争取材と新しい文体の模索につながっていく様子などが興味深かったです。とはいえ,不満もあります。まず,日露戦争についてなのですが,韓国による局外中立の声明,日韓議定書の締結という開戦後の日韓関係のあり様についての言及がない。日清戦争を朝鮮王宮占領事件から始めたのと対照的です。そして,日露戦争後の日韓関係についてです。韓国保護国化が韓国併合への過程として描かれていますが,両者のあいだに飛躍はないのでしょうか。確かに韓国併合はゴールなのかもしれませんが,義兵運動の高揚から併合後の武断政治をひと続きにとらえるとすれば,韓国併合を「国際政治的決着」とは異なる視点からも見れるのではないかと思えます。次に,経済や都市・農村の動向についての記述がきわめて少ないのが,さみしいです。検疫問題や貧民窟の取材は言及があるのですが,それも政治(国内政治・国際政治も含めて)とそれに関連する限りで触れられているにすぎず,都市における人びとの生活を直接描くという形にはなっていません。経済や貿易については日清戦後経営との関連で説明があり,アジア間貿易における日本経済の位置についての指摘もあるのですが,経済のあり様をもう少し具体的に説明してほしかったところです。とはいえ,「日清・日露戦争」というタイトルなのだから仕方がないといえば,それまでなのですが。
斎藤孝『教育力』(岩波新書,2007)を読了。斎藤氏の本は以前に何冊か読んだ記憶があるのですが,手元にあるものは全くなく,ネットで検索しても『自然体のつくり方 −レスポンスする身体へ−』(太郎次郎社,2001)くらいしか思い当たらない(苦笑)。どうしてなんだろう?
それはともかく,今回,これを読もうと思ったのは,自分が漠然と思っていることを文字で確認したいという思いがあったからなのかもしれません。読んでいると,そうだよなぁという感想と,そうか,それを忘れてたという気づきがけっこうありました。ずいぶんと以前にやっていたけれども,最近は,時間がなかなか取れないという理由だけで試みてもいなかったことの効用が力説されているところもあって,今年はちょっと試してみようかと思い直しているところです。ところで,この人,なんでも「○○力」ってネーミングすればいいってもんでもないだろって突っ込みたくなるところがありますが,そうやって名付けて意識化させる点がうまいですね。
井上章一『つくられた桂離宮神話』(講談社学術文庫,1997,原著は1986)を読了。ずいぶん以前から持っていた本で,一部だけは読んでいたのですが,通しで読んだのは今回が初めてです(苦笑)。
「いきなり自分の恥をさらすようだが,私には桂離宮の良さがよくわからない」という文章から始まるというのが,なかなか面白い。「わからない」からやるのが学問・研究なわけですが,それを前面に出すっていうのは珍しいんじゃないか(そういえば橋本治に『「「わからない」という方法』(集英社新書,2001)という本があるが)。わかった気になって議論を進める(というか,受け売りで話を合わせる)のが「楽」なわけで,たとえば高校レベルの日本史というのはその程度のものなんですが,桂離宮に対する評価を対象に,それが形成され,継承される,いいかえれば神話化される経緯が検証されています。
これを読み終わってから高校教科書を確認したら,実教『日本史B』には「桂離宮・修学院離宮のように,数寄屋造の茶室と庭園をたくみに調和させた簡素な美を求めたものもつくられた」(p.186〜7)と書かれている。「数寄(数奇)」で「簡素」というのは,なかなか逆説的な表現ですね(笑)。
最近,読了したのが,牧原憲夫『シリーズ日本近現代史2 民権と憲法』(岩波新書,2006),小林道彦『日本の大陸政策1895−1914 −桂太郎と後藤新平−』(南窓社,1996)です。牧原著はわかりやすいのですが,自由民権運動と「民衆」(たとえば秩父事件などに現れる負債農民の動き)のズレや関係が時代の全体像とどのように関連するのか,その点がやや見えにくかったように思えます。またいずれ再読してみようと思っています。小林著は以前にも読んでいたのですが,同氏の『ミネルヴァ日本評伝選 桂太郎』(ミネルヴァ書房,2006)を書店で目にしたもので(買っていないのだが),読み直してみました。軍事官僚機構の自立とその独自の政治勢力としての成立とを区別する議論,日露協商論と日英同盟論の不可分性,大陸政策や軍備政策をめぐる桂と山県とのズレ,桂の新党結成に向けた動きなど,刺激的です。
なお,いま読んでいる(といってもこれまた再読ですが)のは村井良太『政党内閣制の成立 一九一八〜二七年』(有斐閣,2005)。原内閣から田中(義)内閣までの内閣の成立要因を丹念に追跡し,政党内閣や政党内閣制(政党間での政権交代)がどのようにして実現したのかが分析されています。
杉仁『近世の地域と在村文化』(吉川弘文館,2001)を読了。
樋口政則『不思議の村の子どもたち1 江戸時代の間引きや捨子と社会』(名著出版,1995)を読了。
山口啓二『鎖国と開国』(岩波書店,1993)を読了。ずいぶん以前に読んだことがあるのですが,もう一度読み直してみました。江戸時代全体を概観するのにちょうどよい著作だと思います(ちなみに昨年,岩波現代文庫の一冊として再刊されています)。なお,他にもいくつか論文を読み散らかしているのですが,ちょっと面倒なので省略します。
荒瀬克己『奇跡と呼ばれた学校』(朝日新書,2006)を読了。ここ数年で進学実績を大幅に向上させた京都市立堀川高校の校長が書かれた本ですが,自由裁量がある程度保障された環境のなかで試行錯誤することの楽しさを感じました(もちろん楽ではなかったでしょうが)。もしかすると,自分たちで考え,議論し,実践すること−これらの行為が「公立高校」という場で確保されたことが「奇跡」なのかもしれません。
センター試験まで1週間をきりました。あとはこれまでやってきたことの復習と体調管理です。そして,本番にはリード文もしっかり読みましょう。下線部分と設問だけを見て答える,というのは,ヒントの見落としになることがあります。下線部分以外のところにヒントがころがっていることがありますから(後ろの場合もある),リード文を読む作業を飛ばさないようにしましょう。
悔いが残らないよう,頑張ってください>受験生のみなさん
僕はここのところ,来年度の教材の準備作業として,吉川真司「律令体制の展開と列島社会」(『列島の古代史8 古代史の流れ』岩波書店,2006),『新体系日本史1 国家史』(山川出版社,2006)に所収の倉本一宏「大和王権の成立と展開」,佐藤信「律令国家」,大津透「摂関期の国家」,五味文彦「院政期の国家」,近藤成一「鎌倉幕府と公家政権」,新田一郎「建武政権と室町幕府体制」などを読んでいました。『新体系日本史1 国家史』だけでなく吉川氏の論文も合わせて読んだのは,大津氏の論文を相対化するためなんですが,みごとに違いますね(苦笑)。
ところで,吉川氏の論文を読んでいたところ,「平将門が東国国家を樹立した際,武力こそが権力の正当性を保証すると述べ,具体例として契丹の渤海征討を挙げたというが(『将門記』),まさにこの時代に相応しい言説であった」(p.181)との文章がありました。これを見ると,京都大2003年の第1問A,『将門記』を素材とした史料問題の設問(4)(「「新皇」は坂東で政権を樹立した。この史料によれば,彼の政権は何によって正当化されていたか。最も適当な漢字一字で答えよ)について出題者が予定した解答が,「力」であった可能性が高いように思いました。ただし,もし「力」を答えさせたいのであれば,「この史料によれば,彼はみずからの政権を何によって正当化していたか」と問うのが妥当だったと言えます。つまり,誰が「正当化」していたのか,その主体を明確にして問いを立てるべきでした。そもそも,その史料(『将門記』)は「新皇」の発言を「勅して云わく」と表現し,そのことによって彼の行動とその政権を正当化しているのですから。
こういうのを目にするにつけ,論述問題の答案を作成する際には,何を主題,あるいは主語にするのかを明確に意識する必要があると,痛感します。
2006年11月19日付けの日誌に,室町時代の将軍が朝鮮に朝貢していたのかどうかについて書きましたが,先日,その件に関して橋本雄氏(九州国立博物館)からメールをいただきました。日誌のなかでも論文を2つ紹介した研究者の方なのですが,朝鮮からの大蔵経入手に関連して貴重な意見をいただきました。その内容はおおまかには下記のようなものでした(僕がまとめ直したものなので,もしかすると不適切な箇所があるかもしれませんが)。
室町幕府が朝鮮へ派遣した使節は朝鮮への朝貢使節と位置づけられるものではなく,朝鮮側も大蔵経などを幕府に「回賜」したわけでもない。朝鮮国王から室町殿への返書には「不腆弊産,謹付回价(つまらない土産を帰国する使節に謹んで託します)」などの表現がみえ,「回賜」(あたえてやる)とは異なる語調を読みとるのが妥当であり,大蔵経は朝鮮国王から室町殿(日本国王)への「回礼品」と呼ぶべきものである。そして,室町幕府は外交・貿易上,有利なものであれば体裁や体面などにこたわらずに飛びついてしまうという傾向をもっているため,大蔵経欲しさに辞を低くしたとしても,それは「朝貢」とは言い切れないだろう,とのことでした。
なお,この間,網野善彦『日本中世に何が起きたか 都市と宗教と「資本主義」』(洋泉社MC新書,2006,原著は1997)を読了。
網野氏は非常に刺激的で面白いのですが,「農本主義」と「重商主義」の二項対立で説明してしまいがちなところが危うい。
前近代における日本の社会を農業社会と考えて疑うことのない「常識」を揺るがすのはいいが,「十六,七世紀,百姓は農業に従事していればよいという「農本主義」を建前とした世俗権力と,都市民に主として支えられた宗教勢力との正面からの衝突,後者の敗退という動きの中で,商人,金融業者の俗人化と社会的地位の低下が進行してゆく」(p.245)という見通しを提示されると,網野氏も裏返しの農本主義なのだろうかとも思えてしまう。百姓が必ずしも農民ではないというのであれば,浄土真宗の基盤に単なる「都市的な」性格を見てはダメなんじゃないのかと思うのですが.....。
また,ある箇所では,「銭−貨幣そのもの,それを用いた商業・金融が得たいの知れない力に左右されるものとして,この時期(鎌倉後期:引用者補)には「悪」ととらえられたのではないかと思われる」(p.221)と書いているのですが,有徳人や悪党について述べたところではちょっとニュアンスが異なるような印象をうけました。
「十三世紀後半以降の社会の発展は,たちまちその枠(神人・供御人制:引用者補)をのりこえ,この制度を動揺させ,形骸化していった。貨幣信用経済の本格的な進展とともに,新たな商工業者,金融業者,交通運輸業者,倉庫業者たちが広範に出現してくる……(中略)……「有徳人」「徳人」とよばれたのはこうした人びと」であり,「こうした「ばさら」な有徳人は,このころの「悪党」と確実に重なる一面を持っていた」(p.217〜219)。
ここでは,神人・供御人制の枠をのりこえる動きの担い手のなかに「悪党」と重ねる面を見ているのであって,商業・金融そのものを「悪」と見る立場とはズレが生じているのではないか。個人的には,ここのように,単なる商業・金融ではなく,既存の枠をのりこえる動きに「人のたやすく制御することのできぬ得たいの知れない力」としての「悪」をみる方が整合的であるように思います。つまり,ある特定の関係や秩序との関係における「悪」,という判断です。
斎藤英喜『読み替えられた日本神話』(講談社現代新書,2006)を読了。古事記・日本書紀の神話の大雑把な紹介から,それらの神話が古代にどのように受容され,中世〜近代にどのように変容したのかが論じられているのだが,テンポよく読ませてくれた。中世神話(中世日本紀)については,以前に山本ひろ子『中世神話』(岩波書店,1998)に接して以降,少しばかり読みかじっていましたが,中世だけに限定されずに,古代や近世・近代とも関連づけながら論じられているので,知識が整理された印象があります。記述のなかで印象に残ったのは,中世日本紀という日本書紀神話の読み替えのなかで,神の根源性・唯一性についての抽象的な思考にまで展開していたことの指摘でした。神学へと転化する可能性があったというわけでしょう。ちなみに,同じ中世でも唯一神道(吉田神道)に関する言及がほとんどない。アマテラスを軸に話が展開していくのだから仕方ないのかもしれないが,その点がちょっとした不満です。
稲葉振一郎・立岩真也『所有と国家のゆくえ』(NHKブックス,2006)を読了。
小澤浩『日本史リブレット61 民衆宗教と国家神道』(山川出版社,2004),山本博文『徳川将軍と天皇』(中公文庫,2004,原著は1999)を読了。
美川圭『院政 もうひとつの天皇制』(中公新書,2006)を読了。以前に読んだ美川圭『白河法皇 中世をひらいた帝王』NHKブックス,2003)が面白かったので読んでみたのですが,なんとなく消化不良気味。何が原因なのか? いずれ読み直してみるつもりです。
塚田孝『近世の都市社会史 大坂を中心に』(青木書店,1996)を読了。
[ちょっと勧めたい本]11月分を登録。中村政則『戦後史』(岩波新書)を紹介しましたが,なぜ「戦後」なのか? その理由づけの一つとして,「国際政治に占める日本の対米従属的な位置が変わらない限り,日本の戦後は終わらない」(p.286)とのカミングスの言葉を中村氏は引いている。この言葉を念頭におけば,1960年を終期とする時期が「戦後の成立」と位置づけられるのは了解できるものの,だとすれば,「占領政策の転換」が「日本の戦後」の始まりと位置づけられているようにも思えてくる。となると,「日本の戦後」は占領期の終結以前にすでに終わっていたとの判断(「戦後」の定義が異なるが)も出てきそうだ。
粟屋憲太郎『東京裁判への道(上下)』(講談社メチエ選書,2006)を読了。今から20数年まえ,今はなき『朝日ジャーナル』という週刊誌に連載されていた同タイトルの論文の増補版です。といっても,それ以後の研究をふまえて加筆されていますから,新しく書かれたものと考えるほうがいいかもしれません。粟屋氏は僕の大学院時代(といっても修士課程しか修了していないが)の恩師でして,僕にしても感無量というところです。
ちなみに,石原莞爾や真崎甚三郎の尋問内容については面白いですね。石原は柳条湖事件への関与を尋問のなかで否認したとのことですし....
山本博文『島津義弘の賭け』(中公文庫,2001,原著は1997),西林克彦『わかったつもり 読解力がつかない本当の原因』(光文社新書,2005)を読了。西林氏の著作は,以前に『「わかる」のしくみ −「わかったつもり」からの脱出』(新曜社,1997年)を読んだことがあるが,本屋で目にしたので買い,読んでみた。やはり,「わからない」ではなく「わかったつもり」が読解のさまたげになっているとの指摘は耳が痛い。とりわけ,書かれている文章と自分との親和度がなんとなく高いと感じられてしまうと,読み飛ばして「わかったつもり」になってしまうもの。「部分」を読み飛ばさず,「部分」相互をつなぎながら「整合性」のある解釈をいかに確保するのか。論述対策においても大切なことがらだと思う。いろいろと試行錯誤してみたい。
このところ,室町時代の日朝関係に関する論文をいくつか読んでいました。読んでいたのは,田代和生ほか「偽使」,吉田光男ほか「朝鮮通信使(中世編)」,伊藤幸司「日朝関係における偽使の時代」,橋本雄「朝鮮国王使と室町幕府」,韓文鐘「朝鮮前期の倭人統制策と通交違反者の処理」(以上はすべて日韓歴史共同研究委員会の報告書(2002-2005)の第2分科中近世より),橋本雄「室町・戦国期の将軍権力と外交権」(『歴史学研究』708号,1998.3),関周一「明帝国と日本」(榎原雅治編『日本の時代史11 一揆の時代』吉川弘文館,2003)といったところです。
飯田泰之『ダメな議論 −論理的思考で見抜く』(ちくま新書,2006)を読了。議論のチェックポイントの第一に【定義の誤解・失敗はないか】があげられている。論述対策でも一番重要な点です(ただ受験日本史では案外,いい加減な定義のまま使ってある用語がありますが)。
ただ飯田氏が「第4章 現代日本のダメな議論」のなかで紹介している「天ぷらそば」をめぐる議論は,やや納得がいかない。天ぷらそばを素材に「私は本当に日本食を食べたといえるだろうか?」と問いを発している箇所について,「外食で1000円の天ぷらそばを食べたとします。このとき,私たちが購入したのは何でしょう」と問いかけています(p.143)。そして,「そば屋で天ぷらそばを食べるということは,「店の人が原材料を調理してくれたものを,清潔な店内で食べ,店の人が後片づけをしてくれる」という一連の行為を購入することを意味します」(p.143〜144)と書いています。「天ぷらそばを食べる」という行為の定義にズレが生じているように思うのだが,どうだろうか? 前者では天ぷらそばという食材を食べるという行為を念頭においているものの,後者は「そば屋で天ぷらそばを食べる」という消費行為総体を念頭においている。もちろん,経済学で考えれば後者の定義を念頭におくのが当然でしょう。さらに,例文も単に「天ぷらそばを食べる」という行為を問題にしているのではなく,そこから食糧自給率,食糧安保論へと議論を展開しているので,飯田氏の立論も説得的ではあるのだが。
なお,室町時代の日朝関係をめぐる教科書記述に関して生徒から受けた質問で,よくわからない事項があり,調べているところなのですが,ウェブサイト上に研究論文をPDFで公開しているところがいくつかあり,非常に役立っています。専門的な雑誌に掲載された論文はなかなか目にすることができないので,こうした動きが広がってくれるとありがたい。ただ,そうしたウェブで公開されている研究論文を読んでいて,次はこの論文が読みたいなと思っても,なかなか入手しにくかったりするのが現状ですが。
『芸術新潮』11月号が「日本の仏像誕生!」という特集を組んでいたので購入し,御茶ノ水から帰りの新幹線のなかで読みつつ,ながめていました。解説(東京国立博物館の方2人へのインタビューとして構成)も面白く読みましたが,いろんなアップの写真があり,楽しかったです。寺院や博物館にいっても,なかなかそこまでアップで見れるわけではないので,こういう特集記事はいいですね。
京都国立近代美術館で「プライスコレクション 若冲と江戸絵画展」,京都市美術館で「浅井忠と関西美術院展」をみてきました。
「プライス・コレクション 若冲と江戸絵画展」は,円山応挙や長沢芦雪,酒井抱一,鈴木其一などさまざまな画家の作品がさまざま展示されていて,伊藤若冲はそれほど数がありませんでした。今はなにやら若冲がはやりのようなので「若冲」がタイトルに入ったのでしょうが,誇大宣伝もどきですね。もっとも僕としては,若冲の「花鳥人物図屏風」と「鶴図屏風」で和んだので,まぁいいかってとこでしたが。
「浅井忠と関西美術院展」は,関西美術院関係の画家を素材に日本近代の洋画の流れを俯瞰してもらったような展示でした。個人的には浅井忠の日本画をもうちょっと見たかったところなんですが,まぁ浅井忠個人の展示じゃないのだから仕方ないところでしょう。
なお,2つの展覧会をみて,曽我蕭白,須田国太郎のそれぞれの展覧会を見逃したことをつくづくと後悔しました。ということで,いま奈良県立美術館でやっている「応挙と芦雪」は見に行かないといかんなと思っているところです。
西村さとみ『平安京の空間と文学』(吉川弘文館,2005)を読了。
大門正克『シリーズ日本近代史11 明治・大正の農村』(岩波ブックレット,1992)を読了。ずいぶん以前に読んだ本ですが,今月の「ちょっと勧めてみたい本」で紹介しようと,久しぶりに読み直しました。産業革命や大戦景気,徴兵制や教育の浸透などによって農村がどのように変化したのかがコンパクトにまとまっています。残念な点は,大正期で終わってしまっていて,昭和戦前期が扱われていない点ですね。
黒田基樹『百姓から見た戦国大名』(ちくま新書,2006)を読了。
『戦国大名の危機管理』(吉川弘文館,2005)よりも総合的な構成になっている。飢饉を戦乱との関連のなかで把握する視点は,藤木久志『雑兵たちの戦場』などですでに目にした視点なので目新しくはないが,藤木氏にしても黒田氏にしても戦国時代が考察の対象。15世紀(義満期〜義政期)はどうなのだろうか? また,戦場を稼ぎの場とみなす傾向は,(神田千里氏のように)共同体そのものとは相対立する動きと考えるべきなのだろうか?それとも,補完的な動きなのだろうか? 応仁・文明の乱にせよ,その前後の徳政一揆にせよ,飢饉のなかで農村部から都市(京都)へ流入してきた飢民をめぐる都市問題としての性格をもっていた点はしばしば指摘されるところだけれども(神田千里『土一揆の時代』や榎原雅治「一揆の時代」『日本の時代史11 一揆の時代』吉川弘文館,2003など),それらと惣村(もしくは「村の成り立ち」)とは無関係なのか? 「村の成り立ち」を確保するために徳政をもとめる村とそれを認める戦国大名−という黒田氏が紹介する構図を考えたとき,単純に二者択一的に考えるのもどうかと思えてくる。まだまだよくわからないところだ。
佐藤弘夫『神国日本』(ちくま新書,2006)を読了。
本棚をつらつらながめてみると,佐藤氏の著作については,これまで『日本中世の国家と仏教』(吉川弘文館,1987),『神・仏・王権の中世』(法蔵館,1998),『アマテラスの変貌 中世神仏交渉史の視座』(法蔵館,2000),『偽書の精神史 神仏・異界と交感する中世』(講談社選書メチエ,2002)と読んできたようです。あまり意識したことがなかったのですが,愛読者のようです(笑)。なんとなく頭にひっかかっている人なんでしょう。仏教の末法思想と神国思想の関係を,前者を否定・克服する形で後者が出現したと把握せず(つまり仏教上の劣等国との発想を神国という言説でもって反転させたとは把握せず),前者は後者を成り立たせる不可欠な要素だと把握する点,神々だけでなく各地の寺院に安置されている仏像や「聖徳太子」のような聖人をも仏の垂迹としてとらえる視点などが気になるのだと言えます。
とはいえ疑問点もあります。
『神国日本』でいえば,中世後期以降,「他界観念の縮小と,彼岸(あの世)−此岸(この世)の二重構造の解体」が進んだと指摘している点(p.200)。書かれていることがらがわからないのではなく,どのような状況がこうした思想的変動をもたらしたのか,その関連がみえてこないのです。貨幣かなぁという勘繰りはあるんですが.....。それはともかく,本地仏の他界性が消滅して現世に内在化するようになったのだとすれば,「神」とは「人においては心と云う,心とは神なり」という吉田神道の発想は時代を象徴するものだったとも言えます。
菊池勇夫『飢饉 飢えと食の日本史』(集英社新書,2000)を読了。以前,渋谷幕張高校の高橋哲さんから紹介してもらったもので,江戸時代における飢饉がどのような構造のもとで生じたのかが豊富な具体例とともに解き明かされている。菊池氏は近世を「大規模飢饉に見舞われた」時代と把握しているが,最近,中世社会を「慢性的な飢餓」状態として把握しようとする動きが強いし,それを念頭におけば農業発達の様相も惣村形成という動向も総合的に理解しやすいように思える。では,「慢性的な飢餓(飢饉)」状態にあった中世社会と「大規模飢饉に見舞われた」近世社会。どのように関連するのだろうか? ちょうど黒田基樹『百姓から見た戦国大名』(ちくま新書,2006)が出たところなので,次はそれを読んでみようと思っているところです。
森健『グーグル・アマゾン化する社会』(光文社新書,2006),鍛代敏雄『神国論の系譜』(法蔵館,2006)を読了。とはいえ,鍛代氏の『神国論の系譜』はとりあえず読み終えたという感じです。ただ,吉田神道が公武に影響力を与えた理由は何かと問いをたてながら,公家たちの「慢性化した内面的な体制的危機感」に言及するものの,武家がなぜ受容したのかを論じないまま(p.114〜115),天下人の動向へと議論を移していくさまを見ると,もう一度読み直そうという気持ちがなかなか出てこないのが正直なところ。豊臣秀吉や徳川家康が御霊・怨霊とされたわけでもないのに神として祭られるにいたった構造をどのように解明してくれるのか,期待していたのですが......
進藤栄一『分割された領土 もうひとつの戦後史』(岩波現代文庫,2002)を読了。
先日,購入した八柏龍紀『論考テーマ型日本史論述明快講義』(旺文社)にざっと目を通したのですが,論述問題の解法についての説明が少ないですね(佐々木哲『東大入試で遊ぶ教養 日本史編』と同様)。その意味では,河合の『“考える”日本史論述』のほうが論述問題を練習するのに適していると言えます。とはいえ,それだけで事足れりとしてはダメです。しっかりと過去問研究をやりましょう。
なお,西宮秀紀『律令国家と神祇祭祀制度の研究』(塙書房,2004)を読了。
昨日,お茶の水校舎に早く着き,講師研究室でテキストをながめていたときです。帝国国防方針がテキストに出ていたので,軍令についても説明しようと考えたその時(結局,授業ではそこまで進めなかったが),ふと思いついたのですが,今年の一橋大第2問の問3(総理大臣の権限強化を講じる措置)は公式令(1907)をめぐる出題ではなかったのか。
明治憲法制定のあと,1889年末に定められた内閣官制では,国務大臣の単独輔弼制に基づき,各省のみにもっぱら関係する事務にかかわる勅令については当該の国務大臣のみの副署(署名)でよいとされていたのが,1907年に定められた公式令では全ての勅令に内閣総理大臣も副署することと改められています。確かに首相の「権限」強化に関わる措置です。これを問いたかった可能性が高そうですね。
ただ受験で問うには,やはり細かすぎますね。一橋らしいといえば,それまでですが。
棚橋光男『後白河法皇』を読んだついでということで,高橋昌明編『院政期の内裏・大内裏と院御所』(文理閣,2006)のうち,次の4論文を読了。木村英一「王権・内裏と大番」,野口実「法住寺殿造営の前提としての六波羅」,高橋一樹「六条殿長講堂の機能と荘園群編成」,上島享「法勝寺創建の歴史的意義」。このなかで非常に気になったのが,木村論文のなかで,大番役が高倉天皇即位から始まったと指摘されているものの,背景・契機についての言及がない点。背景・契機は何なんでしょう?
棚橋光男『後白河法皇』(講談社学術文庫,2006,原著は1995)を読了。棚橋氏の著作は『大系日本の歴史4 王朝の社会』(小学館,1988)が最初だったが,その当時,面白い文体の人だなぁと非常に印象に残ったのを覚えているが,この著作は棚橋氏の遺作。最近,講談社学術文庫に入ったのを機に読み直してみました。
なお,『日本歴史』今月号は「日本史の論点・争点」が特集。こうした特集はそれなりにありがたいのだが,できれば,こうした趣旨の書物が原始〜近現代までを何冊かの分冊であれば便利なんですがね。十数年前には新人物往来社から2つほどシリーズが出てますが,そろそろ今の研究状況に即したものが欲しいなと思う今日この頃です。
黒田基樹『戦国大名の危機管理』(吉川弘文館,2005)と神田千里『土一揆の時代』(吉川弘文館,2004)を読了。
神田千里『土一揆の時代』は,武家被官を張本とし彼らが個別に動員した流民や百姓らによって構成されたのが土一揆であり,村ぐるみの土一揆は多くない,と論じているが,結局,武家被官が徳政を掲げた土一揆の張本となる動機を神田氏がどのように判断しているのかが読み取れなかった。徳政が単なる動員手段と考えられているように思え,ならば,武家被官の目的は結局,政治抗争なのか? もしくは,一種の戦場稼ぎでしかないのか? また,神田氏は土一揆の張本たる武家被官を足軽大将と同等の存在とみなしているように見えるのだが,果たして実証に基づく判断なのだろうか? 地域のなかで債務超過によって欠落して流民となる百姓が生まれ,それにより村の維持が難しくなるという状況が生じたとするならば,その地域を所領とする武家被官にとって土一揆の張本となることは理由のある行為だし,そういうケースはないのだろうか? また,遠くから来ているという理由だけで債務のない者が土一揆に含まれていると判断している箇所もあるが,無前提にそうした判断は出てこないと思うのだが....。
山本博文『江戸城の宮廷政治 −熊本藩細川忠興・忠利父子の往復書状』講談社学術文庫(2004,原著は1993)を読了。
松永和浩「室町期における公事用途調達方式の成立過程 −「武家御訪」から段銭へ− 」『日本史研究』527,2006.7)を読了。佐藤進一氏が提示した「幕府による王権権力吸収」という現象がなぜ生じたのか,その原因を内乱という視座から見ていこうとした論文です。鎌倉幕府・地頭制の成立過程を内乱という状況を組み込んで解明しようとしたのが川合康氏だとすれば,南北朝動乱という歴史的状況を組み込み,軍事体制とその定着という視点から当該期の公武関係(具体的には幕府が段銭を賦課・徴収するという形が制度化されていく過程)を見通そうとしたのが松永氏だと言えます。実証面での当否については専門外の僕にはなかなか判断できませんが,内乱(と平時への移行)という歴史的状況を視野に含めた立論は興味深いです。
なお,東京・お茶の水での講習を終え,福岡へ移動する飛行機のなかで,服部英雄『日本史リブレット24 武士と荘園支配』(山川出版社,2004)を読み直しました。教科書では<武士=開発領主=大農場主>(→一所懸命)というイメージが強いように思うのですが,そうした(いわば)農本主義的な武士イメージを,<東馬・西船>という偏狭なイメージもろとも,さまざまな事例をもって崩してくれます。なんとか授業のなかで活用したいところですが,しかし,その鎌倉期武士のあり様とその前後の武士のそれとを関連づけることができるか。僕としては,一つの形が作れるまでには,まだまだ試行錯誤が必要ですね。
下斗米伸夫『アジア冷戦史』(中公新書,2004)を読了。冷戦史といいつつも,ソ連研究者の下斗米氏らしく(?),ソ連・中国・北朝鮮を中心とした記述となっています。ソ連の東アジアへのコミットのあり方,中国や北朝鮮との相互関係などが論じられていますが,さすがに受験日本史ではほとんどが使えそうにない(苦笑)。
ちなみに僕は,第2次世界大戦後の外交については,室山義正『日米安保体制』(有斐閣,1992)をけっこう参考にしてます。
宇月原晴明『安徳天皇漂海記』(中央公論新社,2006)を読了。宇月原氏の小説を読むのは初めてですが,「浪のしたの都」を夢見る安徳帝の荒ぶる思い,それに魅入られるさまざまな登場人物のさまが,物悲しくも清々しかったですね。前半部で「天竺の冠者」を狂言回しとして使ったのは面白い配置ですが,「水蛭子」の配置はどうなんだろう? ここが一番,ひっかかったところです。納得がいかないというのではなく,この配置はなんだろう?というひっかかりです。
これを読んで,宇月原氏の他の小説も読んでみたくはなったのですが,もっとも読みたくなったのは澁澤龍彦『高丘親王航海記』ですね。
木村茂光「日本中世史像の現在」(『日本史研究』526,2006.6)を読了。平安時代の社会動向をどのように把握するか,これは非常に難しい課題ですが,この論文は講演録だけあって読みやすかった。
とはいえ,この論文では11世紀後半以降に成立する本格的な荘園(いわゆる寄進地系荘園)についての言及が少ない。この時期の荘園については,いい加減に「寄進地系荘園」という概念を外して説明できるような状況を用意してほしいところ。僕自身は授業のなかで「寄進地系荘園」をできる限り使わないようにしているものの,やはり教科書に出てくる以上,使わざるをえない。しかし,「寄進」を契機として成立した荘園が11世紀後半以降に限られるわけではないことを考えれば,そろそろ「寄進地系荘園」という用語をやめにしてほしいものです。それよりも,「紀伊国カセダ荘絵図」をもっと教科書本文のなかで活用してほしい。たとえば,山川の『詳説日本史』では本文との関連づけがないため,なぜその荘園絵図がそこに掲載されているのか理解できない状態になっている。
ちなみに,僕は「領域型荘園」と「不入権」を軸に説明することが多いのですが,その方向を決定づけたのは,川端新「院政初期の立荘形態−寄進と立荘の間−」(『日本史研究』407号,1996.7)。川端氏の「寄進」ではなく「立荘」に焦点をあわせた議論をはじめて読んだ時,すごく感動したのを覚えています。ただ,若くして亡くなられたのが残念。いまの注目は高橋一樹氏(『中世荘園制と鎌倉幕府』塙書房,2004など)。
清水克行『喧嘩両成敗の誕生』(講談社選書メチエ,2006)と仁藤敦史『女帝の世紀』(角川選書,2006)を読了(正確には3日前に『喧嘩両成敗の誕生』を読み終え,今日,『女帝の世紀』を読了)。
清水克行『喧嘩両成敗の誕生』は,戦国大名が定めた分国法のいくつかに含まれる「喧嘩両成敗法」を,当時の武士や民衆の衡平感覚と相殺主義を基礎として形成されたもので,戦国大名主体の秩序形成策ではなく,ある意味では戦国大名の権力主体としての弱さの表現であり,自らの裁判権を確立するための過渡的な措置と論じています。もちろん,「喧嘩両成敗法」は一般に,私闘の当事者双方を処罰し,紛争解決機能(あるいは裁判権)を戦国大名に集中させることを目的としていたと説明されますから,同じような議論をしているようにも見えます。ところが,一般的な説明では「上からの平和の強制」のようなイメージがありますが,清水氏の場合,社会のなかで模索された紛争解決策の蓄積のなかに位置づけていますから,戦国大名は公平な裁判の実現をめざしつつも,人びとが喧嘩両成敗法を支持するがゆえに,選択せざるをえなかった次善策でしかない,それほど画期的な施策なわけではない,という議論になっています。
その議論の当否はともかく,室町時代の,物騒で血なまぐさいけど,なんだか生き生きとした社会の様子をうかがい知ることのできる好著です。
仁藤敦史『女帝の世紀』は,7〜8世紀における「男子嫡系継承」構想と「女帝中継ぎ」論をきれいさっぱり否定してくれます。その立論の軸になっているのが「擬制関係を含む双方的な父母子関係の連鎖という系譜意識」。当時の双方的な親族関係と,当時の系譜意識では血縁によらない地位継承関係と血縁の親子関係を区別する意識が乏しかった点に注意をはらいながら議論が進められ,さらに「男子嫡系継承」という議論の根拠とされた「不改常典」についても,通説とは異なる見解が示されています(→孝謙の即位を「血統の袋小路」と把握していない)。また,持統以降の女帝を太上天皇と天皇の共同統治システムのなかで考えようとするスタンスが示されていて(光明子の立后についてもその文脈に位置づけられている),9世紀以降(とりわけ嵯峨朝以降)との対比も意識されているので,非常に面白い。
さらに,長屋王の変の位置づけも面白い。壬申の乱で大きな役割を果たした天武系皇親の存在を,官僚制の成熟と天皇権力の強化にとっての桎梏ととらえ,長屋王の変をその桎梏を取り除くためのクーデタと位置づけています。そして,事件後の731年,式部卿・民部卿・兵部卿・大蔵卿・左大弁・右大弁についていた6名が参議に任じられた点について,「主要な官職(八省・弁官)の長官を議政官に結集させ,氏族代表から実務官僚の結集の場へと太政官が転換したことを示している」(p.223)と評されると,今年の東大第1問の記憶が新しいので,なるほどとうなずかされてしまいます(仁藤氏は東大ではないが)。
ただ,通説(藤原氏陰謀史観)に基づいて授業をしている現状を考えると,この仁藤氏の議論を活かすのはなかなか難しく,まだまだ勉強が必要なようです。
山本博文『日本史の一級史料』(光文社新書)を読了。少し前に新聞の書評欄で目にしたのと,生徒からどうですか?と評価を求められたのをきっかけに,暇がないのにもかかわらず(仕事から逃げたいがゆえかもしれないが)読んでみました。東大の史料編纂所に勤務する山本氏の歴史研究をめぐる自叙伝という体裁と内容で,非常に面白かったです。
なお,「おわりに」のなかで次のような記述があります。
「東京大学の日本史の入試問題を見ればわかるように,実際は,細かな史実を暗記するより,思考力や想像力の方が大切なのです」(p.215)。
至極もっともな正論です。
しかし,「思考力や想像力」を鍛えるのは難しい。
「一朝一夕に読めるようにはなりませんが,丹念に史料を読んでいくだけで,歴史を見る目は変わるはずです。歴史がもっとおもしろく感じられるはずです。」(p.218)
おっしゃる通りなのですが,大学受験という場面で「思考力や想像力」の鍛練を考えようとすると何が有効なのか。高校での歴史教育において,史料を丹念に読み進めるという授業はなかなか成立しえないんじゃないか。たとえば「東京大学の日本史の入試」を念頭において考えれば,古代から近代にわたって「最低限の歴史的知識」と「歴史の感覚」を身につけていかなければならないわけで,山本氏の言うとおりにすれば大変なこと(もっとも山本氏自身,そんなことを提案しているわけではない)。
結局のところ,受験勉強と考えれば,入試問題に接するなかで<出題者の思考と想像を追体験すること>なのかな,という気がします。
『展望日本歴史19 明治憲法体制』(東京堂出版)に収録されている加藤陽子氏の「再検討・軍部大臣現役規定復活問題 −陸軍中堅層と二・二六事件後の政治−」をざっと読了。
微細な政治過程はよく分かるのだが,登場するさまざまな人々について,なぜそのようなナイーブな判断・目論見が出てきたのか?と疑問に思えてしまう箇所がいくつかあった(たとえば陸軍中堅層は陸軍上層部をどのように統御しようと考えていたのだろうか?)。
また,広田内閣のもとでの現役武官制復活の意図に関するところで,予備役に編入された皇道派将校が復活して陸相になる道を断つためとの従来の評価については「明快な反論がある」と書かれているものの,そこでの典拠とされているのは,「それは,当時の陸軍指導者に対する侮辱であろう。彼らが,すでに敗北した皇道派の亡霊にうなされて,この改正の政治的効果にまったく気づかないほどに痴呆的であったとでもいうのだろうか」との五百旗部真氏の議論。はっきりして気持ちがいいという意味での「明快な」議論かもしれないが(個人的にはあまり気持ちのいい反論だとは思わないが),きわめて情緒的な議論のように思える。
つい先日までは本郷和人『人物を読む日本中世史 頼朝から信長へ』(講談社選書メチエ,2006)を読んでいました。本郷氏のものは,これと『新・中世王権論』(新人物往来社,2004)しか読んだことがないのですが,面白いネタがころがってはいるものの(北条義時と時政・朝時の関係の話など非常に面白かった),なんだか議論に無理があるような印象をうける箇所がけっこうあったりします。たとえば,足利尊氏が建武政権に反旗をひるがえし,箱根竹下の戦で勝利したあとについて,「東国にとどまって,もう一度鎌倉幕府を再興するか。それとも京都に攻め上るのか」(p.132)と立論されているのですが,ここでいう「鎌倉幕府」とは「東国政権」としての性格が強かった草創期を念頭においているのか,それとも蒙古襲来前後から「全国政権」としての性格を強めた時期を念頭においているのか(ここでも2つの路線を想定する必要があるかもしれないが)。「京都に攻め上る」との対比で用いられていることを考えると前者であるように判断できるのですが,果たして足利尊氏・直義兄弟の脳裏にあった「鎌倉幕府」が草創期のそれだったのだろうか?
とはいえ,いろいろと考えをめぐらす媒介となるので,その意味では本郷氏の本も刺激的ではあります。