目次

5 廃藩置県と諸改革 −1869〜1873年−


政治史 欧米諸国に対抗できる国力を育成するためには,欧化政策をすすめて欧米の政治・経済制度を導入することが不可欠と考えられていたが,それを遂行するにあたって何が必要だったか?それは,財源と軍隊の確保,そして人びとの自発的な活動と新政府に対する忠誠心だ。そのために,新政府はどのような政策を実施したのか?

1 廃藩置県

 戊辰戦争と版籍奉還の結果,新政府が全国支配を実現させたとはいえ,政府直属の軍隊は存在せず,その財政基盤は旧幕府領を中心とする直轄地に限定されていた。また,版籍奉還後も旧藩主(知藩事)による統治形式が踏襲され,半独立国であった藩政の伝統が残っていった。このように新政府の基盤と権限は,欧化政策を推進するにはきわめて不安定だった。さらに,新政に対する期待はずれから,各地で百姓一揆が発生したり,不平士族による政府高官へのテロ事件が発生していた。そこで政府の権力強化をはかるため,1871年廃藩置県のクーデターを断行した。その結果,全国の徴兵権・徴税権が中央に集中され,各府県へは官僚(府知事・県令)が派遣されて,中央集権体制の土台ができあがった。

廃藩置県
(1)準備…薩摩・長州・土佐藩兵1万人を政府直属軍(御親兵)に編制
(2)内容…知藩事を罷免して東京移住を命令→新たに府知事・県令を任命
(3)結果…3府302県→3府72県(1871年末)→3府43県(1888年)

 予想された諸藩からの抵抗はほとんどなかった。それは,戊辰戦争などにより藩財政が極度に悪化し,また広域にわたる草莽層の動きや百姓一揆の激化などで諸藩が統治能力を低下させていたからだ。
 廃藩置県と同時に官制改革が実施され,太政官三院制が採用された。太政大臣・左大臣・右大臣・参議で構成された正院が最高機関,左院が立法審議の諮問機関,右院が各省の連絡機関だ。
 要職は旧薩長土肥4藩の出身者が占め,藩閥の形成がすすんだ。

2 四民平等

 政府は版籍奉還にあたり,大名を上層公家(公卿)とともに華族とし,藩士・旧幕臣などを士族に編成して,封建的主従関係の解消をはかった。また農工商を平民とし,1871年えた・非人の称をやめて身分・職業ともに平民と同じにするとともに,平民に苗字を許し,移転や職業選択の自由を認めた。四民平等が実現したのだ(四民とは士農工商のこと)。
 そして政府は1871年戸籍法を制定し,翌年全国的に統一された戸籍を編成した(壬申戸籍)。人びとを新たに戸に編制し直し,徴税・徴兵の基本単位をつくりあげたのだ。四民平等は,政府がすすめる新しい国家づくりに人びとを組み込むための政策だった。

3 地租改正と徴兵制

 廃藩置県によって全国の徴税権・徴兵権を中央に集中させた政府は,土地制度の改革(地租改正)と国民皆兵による常備軍の編制に着手した。

地租改正
前提…1872年田畑永代売買を解禁→地主・自作農に地券を交付して土地所有権を保障
地租改正条例(1873年)
   土地所有者が地価の3%を地租として金納する
   地主が取得する小作料は高率・現物納を保障する
結果…国家の財政基盤が安定
   地主・小作関係が法認され,地主制発展の基礎をつくる

 地租改正の目的は,租税制度を,石高(標準収穫高)にもとづく米納から,地価にもとづく定額金納へと変更することにより,国家の財源を安定させることにあった。
 しかし,地租改正は「旧来の歳入を減ぜざる」方針で遂行されたために,農民の負担は軽減されず,地価の算定をめぐる対立もあって,各地で地租改正反対一揆を招いた。

国民皆兵による常備軍の編制(徴兵制)
(1)大村益次郎が構想→山県有朋が実現
(2)徴兵告諭(1872年)→徴兵令(1873年)
  20歳男子に兵役の義務(3年間)→鎮台(のち師団)に配属
  戸主・官吏や代人料270円を納入したものなどは兵役を免除

 徴兵制は,身分の区別なく兵役の義務を課す軍隊制度を導入しようとしたものだ。これは,江戸時代のように武士身分だけを編成するのではなく,また幕末期から戊辰戦争期の軍隊が身分を問わない志願兵によって構成されていたこととも異なる。平時における経費をおさえながら戦時において大量の軍事動員を確保するために,徴兵制が採用されたのだ。
 ところが,兵役により働き手をうばわれることへの不満や徴兵告諭のなかの「血税」との表現への恐怖から,各地で反対一揆がおこった(血税騒動)。また,兵役免除規定にしたがって徴兵を忌避する人びとが多く,国民皆兵の原則が確立するのは1889年のことだった。

4 国家意識の養成

 欧化政策を推進する基礎として,人びとを国家のもとに統合し,そのうえで彼らの自主的な経済活動をひきだすことが要請された。学校とは,そうした要請にこたえ,国家を支える存在(国民)としての意識を培っていくための装置だ。政府は1872年学制を公布し,小学校の設立を促進した。

学制
目標…国民皆学=義務教育制の実現
内容…フランスを模倣
   個人の立身出世・実学を重視←福沢諭吉『学問ノススメ』の影響

 学制は画一的な制度だったために地方の実情にあわず,また学校の建設費・就学費用などが住民の負担とされたため,各地で学制反対一揆がおこった。


経済史 欧米優位の自由貿易体制に対応していくために,経済の土台である交通・通信制度を近代化するとともに,通貨制度の統一を急いだ。

5 交通・通信制度の近代化

 政府は,株仲間・関所などを廃止して営業・交通の自由を保障するとともに,人びとの往来や物資の輸送,意志・情報の伝達をスピード・アップさせるため,鉄道・電信・郵便などの制度を移植しはじめた。

交通・通信制度
電信…1869年新橋−横浜間に開通→1875年長崎経由で東京とヨーロッパを結ぶ国際通信が始まる
郵便…1871年飛脚にかえて郵便事業を開始・前島密が立案→1873年全国一律料金となる
鉄道…1872年新橋−横浜間に開通(イギリスの資金・技術指導)

6 通貨制度の統一

 政府が戊辰戦争中に発行した紙幣(太政官札・民部省札)は,あくまでも政府の信用がおよぶ範囲でしか貨幣として通用しなかったが,貿易では国際的に通用する貨幣で決済を行う必要がある。それが当時は金貨や銀貨だったのだから(とくに東アジアでは銀貨が基準貨幣),金・銀を基準とする通貨制度を整える必要があった。そこで,まず1871年新貨条例を定め,1.5gの金を日本では1円と呼ぶと規定した。

新貨条例
(1)金本位制を採用(金貨を基準貨幣に定めた)
 →貿易では銀貨も自由使用=実際は金銀複本位制
(2)呼称単位=円・銭・厘の10進法 ←(江戸)両・分・朱の4進法

 さらに1872年,伊藤博文の建議にもとづき,渋沢栄一が中心となって国立銀行条例を制定した。アメリカを模倣して,政府認可の民間銀行である国立銀行に銀行券(紙幣)を発行させ,金との兌換(1円紙幣を1円金貨と無条件で交換できるシステム)を義務づけた。
 翌年渋沢栄一が第一国立銀行を設立したものの,結局,国立銀行は4行しか設立されず,のちには民間での経済活動への資金を確保するために,兌換制度を放棄せざるをえなくなってしまう。


外交史 政府の主眼は,すべてを西欧流儀のものへと変更させていくこと,そのなかで日本の存立を確保することだった。そのためにも,欧米諸国と結んだ不平等条約を改正すること,東アジア諸国と間において西欧流儀の国交関係を整備していくことが課題となった。

7 岩倉遣外使節団

 安政の五か国条約は1872年が改定期限とされており,それをきっかけに欧米諸国がさらに有利な条件をもとめて改正要求をもちだしてくることが予想されたため,政府は先手をうって,欧化政策が実現するまでのあいだ条約改正交渉を延期することを要請する必要があった。そこで,1871年右大臣岩倉具視を大使とする使節団をアメリカ・イギリスなどに派遣し,条約改正の予備交渉をおこなうとともに,制度・文物を視察させた。

岩倉遣外使節団
大使:右大臣岩倉具視 副使:木戸孝允・大久保利通・伊藤博文ら
留学生:津田梅子(のち女子英学塾を開く)・山川捨松(のち大山巌夫人)ら女子5名をふくむ約60名が同行
→久米邦武が報告書『米欧回覧実記』を著わす

 条約改正の予備交渉は最初の訪問国アメリカで失敗におわったが,その後の視察は,岩倉・木戸・大久保ら政府首脳に欧米と日本との格差が想像以上に大きいことを痛感させることになる。だからこそ,彼らは帰国後の征韓論争において内治優先を主張することになるのだ。

8 清との国交調整

 東アジアには古くから,中国を頂点とする国際秩序があり,朝鮮や琉球などの諸国は中国(清)皇帝に朝貢し,冊封をうけるという宗属関係のもとにあった。それに対して日本は,東アジア諸国とも西欧流儀の国際関係を作っていこうとした。なかでも,清とは対等な関係を作りあげた。

日清修好条規
1871年・全権は伊達宗城(日本)と李鴻章(清)
対等な条約=相互に領事裁判権を認めあう

9 琉球と蝦夷地の内国化

 明治政府は,琉球や蝦夷地のアイヌ社会をも国家領域に含めた,江戸時代の日本とは異なる,新たな日本国家を作り上げようとしていた。
 琉球は1609年いらい薩摩藩の支配下にあったが,同時に清に朝貢して冊封をうけており,いわば日清両属の状態にあった。それに対して,政府は琉球王国を解体して南西諸島を日本領に編入することをめざした。1872年琉球王国を琉球藩とし,琉球国王尚泰を琉球藩王に封じた。
 北海道は江戸時代,松前だけが和人地とされ,それ以外の地域は日本内地とは異なる異域として蝦夷地と称されていた。それに対して,政府は1869年蝦夷地を北海道と改称し(のち松前も北海道に編入),開拓使を設置して植民事業を開始した。1874年から士族授産の一環として屯田兵制度を始め,東北出身の士族らを移住させて北海道の防備と開拓をおこなわせた。

10 征韓論争による政府の分裂

 江戸時代に日本と朝鮮は国交を結んでいたが,幕府と朝鮮政府との外交交渉は,宗氏(対馬藩)が媒介していた。これに対して明治政府は,外交交渉の担当を対馬藩から外務省へと変更し,新たに国交を結ぶこと(開国)を要求した。その際,日本がそれまでの慣例を無視した高圧的な態度をとり,他方,朝鮮政府で実権を握っていた大院君が攘夷政策を展開していたため,交渉は進展しなかった。
 こうした状況のもと,欧化政策が展開するなかで高まっていた士族らの不満を背景として征韓論が高まり,政府内部でも板垣退助・江藤新平副島種臣・後藤象二郎らを中心に軍事的圧力により交渉を打開しようとする動きが強まった。1873年政府は西郷隆盛の朝鮮への派遣を決定した。このとき右大臣岩倉具視・大久保利通・木戸孝允らは遣外使節として渡欧中で不在だった。
 ところが,欧米から帰国した岩倉・大久保・木戸らは内治優先を主張して反対し,右大臣岩倉の策謀により朝鮮遣使を天皇の裁可でくつがえしてしまった。そのため,征韓派の西郷・板垣・江藤らが参議を辞職し,政府は分裂した。明治6年の政変だ。

征韓論争
征韓派………西郷隆盛・板垣退助・江藤新平・副島種臣・後藤象二郎
↑↓
内治優先派…岩倉具視・大久保利通・木戸孝允・大隈重信


文化史 欧化政策の推進がこの時期の特徴だ。版籍奉還に前後してはじまった神道国教化政策という復古的な政策と両立させることができたのか?

11 生活様式の西欧化

 江戸時代以来,日本では太陰太陽暦が用いられていたが,欧米諸国との外交や貿易などに際しての日時のとりきめに不都合なため,太陽暦を採用して1872年12月3日を1873年1月1日とし,さらに時刻の表示を1日24時間制とした。欧米で一般化していた近代的な生活様式(均質な時間で区切られた生活)を導入していこうとしたのだ。

12 神道国教化政策の後退

 政府は王政復古の大号令以降,神道国教化政策をすすめていた。1870年大教宣布の詔をだし,神道による国民教化の方針を固めて神祇官に宣教使をおいて布教にあたらせ,翌年には天皇家の氏神伊勢神宮を頂点として各地の神社を序列化した。
 ところが欧化政策がすすむなか,神道国教化政策は次第に後退していく。神祇官は1871年に神祇省と改称されて太政官配下の一官庁へと格下げされたあと,翌72年には廃止される。かわって教部省が設置され,神道だけではなく仏教・民間宗教をも大教院に動員し,神仏合同で国民教化にあたるという政策へと転換した。神仏分離の方針はわずか数年で逆転してしまったのだ。
 同時に,国家元首としての天皇の地位を人びとの意識のなかに定着させるため,1872年明治天皇の誕生日である11月3日を天長節,神武天皇が即位したとされる日(のちに2月11日)を紀元節として祝日に定めた。

神道国教化政策
(1)法令 神仏分離令(1868年)→大教宣布の詔(1870年)
(2)担当官庁 神祇官(1868年)→神祇省(1871年)→教部省(1872年)

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