鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇は自らの理念のもとに「建武の新政」とよばれる政治を行ったが,これは数年しか続かなかった。その理由について,鎌倉時代の政治との違いに留意しながら,具体的に述べなさい(200字程度)。
<解法の手がかり>
問われているのは,建武の新政が数年しか続かなかった理由。条件として「鎌倉時代の政治との違い」に留意することが求められている。この条件に注目すると,建武の新政の特徴を説明しておくことが必要であることがわかる。ただし,その際,鎌倉幕府に焦点をあてて政治を説明してはならない点に注意が必要である。「鎌倉時代の政治」が取り上げらているのだし,後醍醐天皇が朝廷側の人物であることを念頭におけば,朝廷,そして朝廷と幕府の関係に焦点をあてながら考えていきたい。
◎鎌倉時代の政治
朝廷の政治=院政が一般的,摂政・関白も継続
朝廷と幕府の関係=幕府優位の公武二元支配
◎後醍醐天皇の政治
天皇へ権限集中(天皇専制)=幕府や院政,摂政・関白を否定
↓
武家・公家双方の慣習・先例(従来の政治・社会のあり方)を無視
例)天皇が所領を直接安堵=武家社会の慣習を無視,摂政・関白(や院政)を否定=公家政治の慣習を無視
朝令暮改=政治に一貫性が欠ける
例「近臣臨時に内奏を経て非義を申行間、綸言朝に変じ暮に改りし程に、諸人の浮沈掌を返すが如し」(『梅松論』)
◎影響
武家・公家を問わず政権への失望・不満が高まる
政務の停滞や社会の混乱を招く
↓
足利尊氏が中先代の乱を契機に挙兵
<解答例>
鎌倉時代には承久の乱後,幕府優位のもと公武二元支配が続き,朝廷では院政が一般的であった。ところが,幕府を倒した後醍醐天皇は天皇専制の政治体制をとり,院政や摂関を否定し,武家社会の慣習を無視するなど,公武にわたって先例に拘らなかっただけでなく,一貫性を欠いた政治を行った。そのため政務の停滞や社会の混乱を招き,恩賞が少ないと不満をもつ武士を中心として政権への失望と不満が高まり,足利尊氏が中先代の乱を契機に挙兵して建武の新政は崩壊した。(217字)