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<解法の手がかり>
問われているのは,室町幕府が関東に設置した「東国を支配する地方機関」とは①どのようなものか,②いかなる展開過程をたどったのか。条件として,京都の将軍権力との関係に留意することが求められている。
鎌倉府(関東府)について説明していけばよい。
①どのようなものか
伊豆・甲斐を含む関東10カ国を管轄した機関で,長官は鎌倉公方(関東公方)といい,足利尊氏の子基氏が最初に任じられ,以後,基氏の子孫が世襲した。補佐するのが関東管領で,上杉氏が世襲した。さらに,京都の室町幕府と同様,政所・侍所などの機関が設けられ,職務を分担していた。
②展開過程
足利尊氏によって設置されて以降,鎌倉府が解体・消滅するまでを対象として書いていくことになるだろう。
その間の出来事として想起できるのは上杉禅秀の乱,永享の乱(と結城合戦),享徳の乱であり,京都の将軍権力との関係に留意するという条件を念頭におけば,永享の乱と享徳の乱に焦点をあてて論じていけばよいと判断できる。その際に注目すべきは,鎌倉公方が基氏の子孫により世襲されたうえ,恩賞を独自に給付する権限を認められており,それゆえ,京都の幕府から自立する傾向を強くもち,京都との関係を重視する関東管領との間でしばしば緊張が生じていたことである。
◦上杉禅秀の乱(1416~17年)…前関東管領上杉禅秀(氏憲)が鎌倉公方足利持氏と対立して挙兵→将軍足利義持が鎌倉公方を支援・鎌倉公方により禅秀の反乱が鎮圧される
◦永享の乱(1438~39年)…京都からの自立傾向を強める鎌倉公方足利持氏と関東管領上杉憲実とが対立→将軍足利義教が関東管領を支援・鎌倉公方持氏を滅ぼす
◦享徳の乱(1454~82年)…鎌倉公方足利成氏が関東管領上杉憲忠を殺害し,京都の幕府に対抗して古河に移る(古河公方)→京都から足利政知が新しく鎌倉公方として派遣され,堀越(伊豆)に留まる→京都の幕府が支援する堀越公方・関東管領と古河公方との対立が続く(1582年まで)
→やがて関東管領上杉氏も内紛(山内家と扇谷家が対立)
こののち,古河公方・堀越公方がどうなったのかについては,堀越公方が伊勢宗瑞によって滅ぼされたことは知っていても,古河公方の行く末は高校日本史レベルでは不明。したがって,享徳の乱により鎌倉公方・関東管領の鎌倉府体制が事実上崩壊したことでもって答案を〆ればよい。
<解答例>
室町幕府は,伊豆・甲斐を含む関東10カ国を支配する地方機関として鎌倉府を設置した。長官の鎌倉公方は足利尊氏の子基氏の子孫,補佐する関東管領は上杉氏が世襲し,京都の幕府同様の組織をもった。鎌倉公方が京都の将軍権力から自立する動きをみせたため,京都との関係を重視する関東管領としばしば対立し,京都の幕府とも緊張した。15世紀前半,永享の乱では鎌倉公方足利持氏が関東管領上杉氏と対立して幕府に滅ぼされ,15世紀後半,享徳の乱で鎌倉公方が古河公方と堀越公方に分裂し,鎌倉府は事実上消滅した。(238字)