年度 2008年
設問番号 第1問
まず,特徴が問われていることに注目すれば,他と対比することが不可欠。条件の中で変質の内容の説明が求められていることに留意すれば,変質の内容と対比すればよいことがわかる。
(1)「律令」に規定された土地・人民支配制度=公地公民制
○基礎:戸籍・計帳により人民を把握
↓
○支配の基本単位=戸
↓
○口分田の支給により最低生活を保障
○成年男子を対象に人頭税を賦課
(2)変質=10世紀以降の土地・人民支配制度
○基礎:公田を名に編成
↓
○支配の基本単位=名
↓
○田堵に経営・納税を請け負わせる=田堵を負名に編成
○名の広さを基準に課税=土地税
(1)から(2)への変化=「律令」に規定された土地・人民支配制度の崩壊の方向
○班田収授法が機能しない←口分田不足など
○戸籍・計帳による人民支配の形骸化←浮浪・逃亡や偽籍
問2
問われているのは,御成敗式目の特徴。条件として,律令と対比させることが求められている。
何を対比すればよいのか,戸惑うかもしれないが,その場合は,とにかく両者について知っていることを羅列した上で,対比する対象を明確化しながら,対比させればよい。
律令
(1)唐の律令を日本社会に即して摂取
(2)刑罰(律)や行政機構の仕組み・人民の負担など(令)を規定=統治のための法典
(3)全国を適用範囲とする
御成敗式目
(1)道理(武家社会の慣習)や源頼朝以来の先例を取捨選択
(2)裁判の基準となる
(3)鎌倉幕府の勢力範囲のみに適用
これらの点で異なっているが,中でも(2)の,律令が統治のための法典であるのに対し,御成敗式目が裁判基準でしかないというように,法としての性格が異なっている点には必ず触れておきたい。
なお,(3)は共通点として処理することも可能である。というのも,律令が適用される「全国」とは,律令政府の支配が及ぶ範囲であり,その意味では御成敗式目が,その制定主体である鎌倉幕府の支配が及ぶ範囲に適用されたのと同次元で考えることができるからである。もちろん,答案のなかに書き込んでよい。
問3
問われているのは,分国法に取り入れられている,新しい紛争処理方式の内容。そして,その方式には「社会の変化に対応した」との限定が付せられている。
分国法で紛争処理方式とくれば,喧嘩両成敗(法)が思い浮かぶだろう。戦国大名の許可なく実力行使に及んだ場合,理由に関わらず双方ともに処罰するというもので,紛争処理を戦国大名の裁判に委ねさせようとする政策であった。
ここで注意しておきたいのは,この喧嘩両成敗(法)が「社会の変化に対応した」と書かれている点である。この点(特に「変化」)を意識すれば,地域社会における自力救済に対処,あるいは対抗するために,喧嘩両成敗(法)が取り入れられたと考えるのは,出題者の意図とはズレていることがわかる。逆に,喧嘩を抑制しよう,言い換えれば自力救済を抑止しようという動き(「変化」)が地域社会に存在したことを想定した発問であると言える。
その点については,東大1996年第2問も参照のこと。
また,清水克行『喧嘩両成敗の誕生』(講談社,2006)は,次のように説明している。
「喧嘩両成敗法は,専制的や武断的であるどころか,紛争処理法としては,むしろ同時代的にはそれなりに人々の合意を得やすいものであった。戦国大名は紛争の調停者として,そうした多くの人々が納得しやすい処置を,中世以来の慣行のなかから採用したのである」(p.146)。
「紛争当事者双方に同等の罰を加えるということ自体は,中世の人々の相殺主義に基づく究極の紛争処理策として,当時それなりに浸透していた処置である。おそらく戦国大名とはいえ,中世以来,個人や集団の正当な権利とすら考えられてきた復讐行為を抑止するのは,現実にはかなりの難事だったはずである。そのため,現実に起こってしまった喧嘩を処理せざるをえない場面に直面したとき,一方を「非」として,他方を「理」とし,なおかつ双方に禍根を残さない,というのは至難の業だったにちがいない。そこで,戦国大名としては,最も家臣や民衆の支持をえやすい方策として,喧嘩両成敗という法理を採用せざるをえなかったのである。つまり,彼らは決して積極的に「理非を問わない」わけではなく,むしろ当時の戦国大名の置かれた現実から考えれば,「理非を問えない」というほうが真実に近かったといえる」(p.180)。
もちろん,新しい紛争処理方式の「内容」さえ答えればよく,「社会の変化」にまで言及する必要はない。
問4 類題:1992年第1問
問われているのは,(1)禁中並公家諸法度を制定した目的,(2)この法度で対象となった身分集団に与えられている役割。
(1)は基本的な事項。
江戸幕府は,朝廷が独自に政治権力をふるったり,大名と個別的に結びつくことを防止するため,天皇や公家の守るべき規範・心得として禁中並公家諸法度を定めた。
もちろん,規範として提示されている以上,その規範を順守させ,それに即応した行動をとらせることも目的であったと言える。しかし,それは幕府が朝廷に対して果たすことを求めた役割と考え,(2)への解答として答えるのがよい。
では,朝廷に求められた役割は何か。
天皇の役割は第1条に規定されている通り「学問」であったが,これは現在の「学問」ではなく,朝廷の先例に関する知識であった。つまり,先例にしたがって朝廷の儀礼や政務を滞りなく行うこと,これが天皇を中心とする朝廷に求められた役割であった。具体的な行為としては,まず将軍宣下や日光東照宮への奉幣使の派遣という,将軍や幕府を権威づける(幕府権威の荘厳に協力する)儀礼がある。さらに,官位叙任がある。大名に対する官位叙任は幕府が実質的に掌握することにより,天皇のもつ官位叙任権を幕府の大名統制,大名の身分的編成に役立てていた。
これらの内容を念頭におけば,朝廷に求められた役割とは,伝統的な儀礼を通じ,幕府権威の荘厳など幕府による全国支配の正統化に協力することであったと言える。