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年度 2012年

設問番号 第1問


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【解答例】
1都城には貴族・官人が居住し,その生活は主に,戸籍に登録された人民の負担する調庸によって支えられた。
2武家政権の成立とともに内裏警固に勤務する地方武士が増え,室町時代には幕府所在地となったため,将軍・守護など多数の武士が居住した。また,経済流通の発達とともに商工業者も増加し,初め寺社や官衙に隷属したが,のち地縁に基づく住民組織を形成した。
3博多は活発な対外貿易を背景に貿易都市として発展し,堺は瀬戸内海と畿内を結ぶ水運の要衝として成長し,日明勘合貿易の開始とともに拠点の一つとして発展した。しかし,ともに,鎖国制の形成にともなって衰えた。
4江戸は将軍のお膝元であり,将軍直属の旗本・御家人,参勤交代を勤める大名とその家臣など多くの武士が居住し,その需要を満たすため,商工業者も多く集まった。
5大名が兵農分離政策のもとで家臣を集住させたうえ,積極的に商工業者を集め,領国の政治・経済の中心地となった。
(総計400字)


【解法の手がかり】

問1
問われているのは,①都城にどのような人々が居住してたのか,②その生活を経済的に支えていたものは何か,である。
①について。
貴族・官人
庶民
僧尼(←元興寺・大安寺などの寺院)
これらの居住者を想定できる。
全てを列挙するのもよいが,問2で「中世の京都」における「変化」が問われていることに注目し,それと対照しながら書く内容を絞り込めばよい。したがって,最低限,貴族・官人を指摘できればよい。
(なお②については,僧尼はともかく,庶民については「その生活を経済的に支えていたもの」を説明するのは難しく,その点も念頭におけば,貴族・官人が指摘できればよいと判断できる。)
②について。
貴族・官人の経済基盤は朝廷からの公的な給付である。位階・官職に応じて上級貴族には封戸や田地など,中級貴族には禄が支給され,貴族・官人すべてには季禄が支給された。これらのうち,すべての貴族・官人に共通する季禄に注目すればよい。季禄は,公民が負担する調庸から給付された。

問2
問われているのは,中世の京都において,住民の(a)あり方,(b)構成がどのように変化したか。
「変化」が問われているのだから,古代(問1)と対比することが不可欠である。
まず(b)構成から。
○荘園制(荘園公領制)の展開とともに京都は経済流通の中核として発展した。
→商工業者が増加した。
○武家政権が出現。平安末期に平氏政権,室町時代に室町幕府が京都に成立した。
→地方武士の居住(居留)が増加した。平氏政権のもとで地方武士が内裏警固に勤務するシステムが整い,鎌倉幕府のもとでも継承される(京都大番役)。さらに,室町時代に幕府所在地となり,守護に任じられた大名が家臣(被官)とともに京都に在住した。
次に(a)あり方。
「あり方」との表現は曖昧で分かりにくい。そこで,京都という都市そのものの性格の変化に注目し,その点に即して考えてみるとよい。
京都(平安京)はもともと朝廷の所在地=政治都市として出発し,市政権も官庁が握っていた(京職→検非違使庁)。室町時代になり市政権は室町幕府(侍所)へと移るものの,一方,平安後期以降,公家・寺社(権門と総称される)による個別的な住民支配も進んでいた(商工業者は公家・寺社に対して個別に奉仕し,保護を受けていた)。そして応仁の乱以降,町という地縁的な住民組織を構成した富裕な商工業者(町衆)により,自治運営されるようになっていく。
この点を即すならば,商工業者のあり方が中世になって変化していることに気づく。
つまり,官庁によって支配される存在から,公家・寺社(権門)に個別に奉仕し,保護を受ける存在,さらには地縁的な住民組織を構成し,自治を担う存在へと変化している。
(この点を意識すれば,(b)構成については商工業者の増加にのみ言及し,武士の増加は省略しても構わないと判断できる。)

問3
問われているのは,(a)博多(11世紀後半頃から)と堺(14世紀後半頃から)が発展した理由,(b)それぞれが近世にかけてどのように変化したか。
(b)で「それぞれ」について問われているので,博多と堺のそれぞれに場合分けしながら考えるとよい(共通点しか思いつかないのであれば場合分けする必要はないが)。そして,博多・堺とも港町であることは知っているはずなので,国内における海運や対外貿易に注目すればよい。
まず博多について。
(a)博多はもともと大宰府の外港(那の津)として発展してきたが,日宋貿易が活発化するなか,その拠点として11世紀後半頃から発展した(宋商が多く居留)。
(b)日明勘合貿易でも拠点として繁栄していたことは,16世紀に大内氏が博多商人と結んで貿易を主導したとの知識から了解できるだろうが,その後はどうか。16世紀半ばから南蛮貿易が活発となるが,その拠点として出てくるのは長崎や平戸などである。豊臣政権期に活躍した博多商人もいるが(茶人としても有名な神谷宗湛など),江戸幕府が17世紀初めに導入した糸割符制度では博多が欠落している(京都・堺・長崎の三か所商人だけ)。つまり,近世になると長崎などにその地位を奪われたことが想像できる。そして鎖国制の形成にともなって貿易港としての機能は失われてしまう。
次に堺について。
(a)「14世紀後半頃から」という時期設定に注目したい。16世紀に細川氏が堺商人と結んで貿易に関わったことを念頭におけば,日明勘合貿易の開始とともに堺が発展したことは想像がつくが,日明勘合貿易が始まるのは15世紀である。その点に配慮するならば,日明勘合貿易が始まる以前の堺の地位についても説明しておきたい。地図を思い浮かべれば,堺が瀬戸内海と畿内を結ぶ水運の要衝であったことは想像がつくだろう。
(b)豊臣政権により大坂城が築かれて以降,大坂が経済的にも発展したことを念頭におけば,それにともなって堺が圧迫をうけたと考えたくなるが,先にも指摘したように,江戸幕府が17世紀初めに導入した糸割符制度では,京都・長崎の商人とともに糸割符仲間を構成している。つまり,江戸初期においても,堺はまだ貿易港として重要な地位を占めていたことが想像つく。しかし,鎖国制の形成とともにその地位を低下させた。

問4
問われているのは,江戸が「このような」巨大都市となった理由。
「このような」とは下線部(4)にある「江戸は人口百万という当時の世界最大の都市となった」を指しているのだから,「人口百万」という点に焦点をあてて考えればよい。武士50万,町人50万という知識もあると思うので,そこに即して,どのような人々が江戸に居住していたかを説明していこう。
まずは武士。江戸は幕府の所在地(将軍のお膝元)であったため,将軍直属の旗本・御家人だけでなく,参勤交代制のもとで大名とその家臣たちが居住していた。
次に町人。商工業者が多く集住していたが,彼らは江戸に居住する武士たちの需要をまかなうことが役割の一つであった。

問5
問われているのは,近世に大名城下町が成立・発展した理由。
やや問4と重複するテーマになっている。基本的に,大名の家臣たちが集住させられたこと,商工業者の集住が促されたことが書ければよい。