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年度 2023年

設問番号 第3問


 次の文章を読んで下記の問いに答えなさい。(問1から問5まですべてで400字以内)

 太平洋戦争の末期の1945年3月26日,アメリカ軍は沖縄戦を開始し,4月1日に沖縄本島へ上陸した。これに対して日本軍は,⒜本土決戦の準備のための時間をかせぐため,持久戦に持ち込んだ。男子中学生も兵士として動員され,[  ①  ]と呼ばれる部隊が編成された。民間人を巻き込む激しい戦闘の結果,6月末までに現地の日本軍は壊滅し,アメリカ軍に占領された。
 9月2日に日本が正式に降伏した後も,沖縄は本土とは別にアメリカ軍の直接統治の下に置かれ,さらに1952年4月28日に⒝サンフランシスコ平和条約が発効し,日本が独立を回復した後も,沖縄はアメリカの統治下に残された。国際的な冷戦を背景として,アメリカは沖縄で恒久的な基地建設を進めた。「鉄剣とブルドーザー」と呼ばれる強制的な土地接収に反発し,1956年には住民による「島ぐるみ闘争」が起きた。
 こうしたなか,1960年4月28日に沖縄県祖国復帰協議会が結成された。1965年にアメリカがベトナム戦争への軍事介入を本格化させると,その下で大きな負担を強いられた沖縄では祖国復帰と⒞基地撤去を求める運動が高まった。一方,⒟佐藤栄作内閣は,ベトナム戦争でアメリカに協力しつつ,「核抜き・本土並み」の沖縄返還を目指した。そして,1971年6月17日に沖縄返還協定が調印され,翌年5月15日に沖縄の日本復帰が実現した。
 沖縄返還の過程で核兵器を「持たず,つくらず,持ち込ませず」という[  ②  ]が国の方針となったが,撤去された核兵器について,有事の際の際持ち込みを認める約束が密かに結ばれた。また,沖縄には広大なアメリカ軍基地が残され,事故,公害,犯罪といった多くの問題が起きている。沖縄の基地負担をめぐる問題は,日本全体で向き合わなければならない重要な課題として,現在もなお残されている。

問1 ①と②の空欄に入れるべき適切な語句を書きなさい。
問2 下線部⒜に関して,戦況の悪化を受け,本土決戦の準備と並んで日本政府が進めた外交交渉について説明しなさい。
問3 下線部⒝に関して,サンフランシスコ平和条約の締結をめぐり,日本国内でなされた批判について説明しなさい。
問4 下線部⒞に関して,1968年に核爆弾を搭載可能な戦略爆撃機B52がベトナムに出撃するために離陸した後に墜落し,爆発・炎上する事故が発生した。この事故が起きたアメリカ空軍基地の名称を書きなさい。
問5 下線部⒟に関して,佐藤栄作内閣の時期,大都市圏で革新自治体が数多く成立した経済的・社会的背景について説明しなさい。


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