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年度 2000年

設問番号 第2問

テーマ 一向一揆・キリスト教と秀吉の天下統一/中世・近世


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設問の要求は,戦国時代の一向一揆の行動の特徴。条件(というよりヒント)として,伴天連追放令の“第6条”を参考にすることが求められている。

第6条には,「一向宗,その国郡に寺内を立て,給人へ年貢を成さず,ならぶに加賀一国を門徒に成し候て,国主の富樫を追い出し,一向宗の坊主のもとへ知行せしめ,その上越前まで取り候て」とある。
ここで表現されているのは,(1)寺内町を建設していたこと,(2)年貢の納入を拒否していたこと,(3)加賀や越前では本願寺を頂点とする門徒領国を実現したことである。
この3点をどのように答案のなかに活かすかがポイント。字数が2行(60字)と非常に短いため,これらのデータをそのまま順番に記述すれば答案がつくれてしまう(河合塾の解答はそのパターン)。入試本番ではそれも1つの対応策だが(あくまでも本番でのテクニックにすぎない),受験勉強のなかでこの問題を解く際にはそうした手法を採ってはならない。全く勉強にならないし,単に史料のデータをピックアップしただけでは設問で要求されている“特徴”を記述することはできない。BやCとの関連を考えるならば,“信仰のもとで団結”,“大名支配を拒否・排除”の2点をなんらかの形で表現することが不可欠である。

まず一向一揆がどのような組織なのかを確認しよう。
浄土真宗(本願寺派)は交通の要地に寺院を中心とした寺内町を建設し(商工業者が集住),惣村には道場をつくり,門徒を講に組織していた。一向一揆は,そうした形で本願寺を頂点とする教団組織に編成された門徒たちが結んだものだった。

次に一向一揆の行動。
加賀で守護富樫氏を排除して自治支配を実現し門徒領国をつくりあげたことは,周知のことがら。伴天連追放令第6条では越前も挙げられている。朝倉氏滅亡後に織田信長の支配を排除して門徒領国を実現していたのである(それに対して信長は徹底した弾圧を断行)。これらは,国規模で大名支配の排除を実現した事例である。
これら以外に一向一揆に関する知識はないか。
伴天連追放令第6条には“寺内町”や“年貢納入の拒否”が挙げられているが(年貢納入の拒否については知識がないと思うのでそのまま答案に活かせばよい),寺内町については教科書で次のように書かれている。
「不入権・免税権などの特権を持ち,商取引が平等に行われる楽座(無座)などを原則とした楽市でもある場合が多かった」(山川『詳説日本史改訂版』p.146)
こうした特権は,細川晴元政権との争乱のなかでまず石山本願寺(大坂)が獲得し,次いで各地の寺内町も本願寺末寺であることを根拠に獲得していったものであるが,大名領国のなかにあって局地的に大名の支配を拒否するものであり(“不入権”と大名支配については1988年第2問も参照),惣村での“年貢納入の拒否”という動きと共通した性格をもつものである。

これらのデータをコンパクトにまとめれば答案ができ上がる。


設問の要求は,日本布教にあたって伴天連(キリスト教宣教師)はどのような方針を採ったか。条件として,伴天連追放令の“第8条”から読み取ることが求められている。

第8条には,「国郡または在所を持ち候大名,その家中の者共を伴天連門徒に押し付け成し候」とある。教科書では“大名のなかにはキリスト教の信仰にひかれて洗礼をうけるものもあった”くらいの記述しかないが,この第8条からすると,キリシタン大名は「家中の者共」=家臣や領内の民衆に対してキリスト教への改宗を「押し付け」ていたことがわかる。
このことをキリスト教宣教師の立場から表現すればよい。


設問の要求は,豊臣秀吉が一向宗や伴天連門徒を「天下の障り」と考えた理由。

伴天連追放令発令の背景について,教科書では“秀吉のつくりあげようとした国家体制にさまたげになる”(山川),“全国統一のさまたげになる”(三省堂)などと記述されているが,それだけでは設問の要求にこたえたことにならない。
前提作業として,(1)豊臣秀吉がつくりあげようとした国家体制がどのようなものであり,さらに(2)一向宗門徒やキリシタンの行動がどのようなものであったかを確認することが必要である。
(1)秀吉は,太閤検地・刀狩・身分法令を通して兵農商分離を進め,土地・人民の一元支配(在地支配の貫徹)をめざしていた。それに対し,(2)一向宗門徒やキリシタンには武士・農民・商工業者などさまざまな身分のものが含まれ,それらが信仰のもとに強く団結し,大名支配から独立した勢力を築きあげていた。


(解答例)
A本願寺の下に団結し,大名支配を拒否して自治を実現した。寺内町では不入・免税の特権を獲得し,惣村では年貢納入を拒否した。
B伴天連はまず大名を布教対象とし,その上で大名を通じてその家臣や領内の民衆に対してキリスト教への改宗を強制しようとした。
C武士・農民らが信仰の下に強く団結した一向一揆やキリシタンは,秀吉がめざす兵農分離・大名知行制の確立にとって障害だった。

【添削例】

≪最初の答案≫

A一向宗徒による布教と寺内町の形成が進み、中には年貢未納など国の支配に抵抗したり、国主を追放して自治を行うものもあった。

B宣教師たちは、大名の地域での支配力を利用して、まず彼らに布教することで支配下の民衆への布教を容易に行おうとした。

C信仰からくる絶対的な崇拝対象の存在のため信徒への支配は広まりにくく、死を恐れずに抵抗するため、制圧が困難であったから。


> 一向宗徒による布教と寺内町の形成が進み、中には年貢未納など国
> の支配に抵抗したり、国主を追放して自治を行うものもあった。

「中には」という表現を用いていますが,これは“一例”を示すために用いる表現であって,その次に述べられたことがらは一向一揆に“一般的な”行動ではない,という話になってしまいます。
ということは,君の文章に従えば,一向一揆に“一般的な”行動とは「布教と寺内町の形成」だけです。果たしてそうですか?(なお,「布教」は一向一揆そのものの行動ではないんじゃないですか?)

また,「年貢未納など国の支配に抵抗」と表現しているのですが,その「国」とは具体的には何を指すのですか?
さらに,「国主を追放して」と資料文中の語彙(国主)をそのまま使っていますが,これは高校教科書レベルで一般に用いられている歴史用語ですか?資料文中の語彙は可能な限り教科書レベルの歴史用語に置き換えましょう。


> 宣教師たちは、大名の地域での支配力を利用して、まず彼らに布教
> することで支配下の民衆への布教を容易に行おうとした。

これはOKです。


> 信仰からくる絶対的な崇拝対象の存在のため信徒への支配は広まり
> にくく、死を恐れずに抵抗するため、制圧が困難であったから。

「信徒への支配は広まりにくく」とありますが,一向宗は江戸時代以降も合法的な形で存続しています(つまり信徒のなかへ支配が浸透している)が,そのこととの整合性は?

「死を恐れずに抵抗する」とあるのですが,キリスト教徒もそうだったのですか?豊臣秀吉はキリスト教徒との何らかの武力衝突を経験してますか?
「制圧が困難であった」とあります。確かに織田信長は一向一揆の制圧にたいへんな苦労をしていますが,豊臣秀吉の支配下にあっては一向宗はしっかりと制圧されてしまっているように思います(例外はあるかもしれませんが)。

ここまでは個別的なことがらですが,より根本的には,この答案では秀吉が「天下の障り」と考えた理由の説明としては不十分です。一向宗徒やキリスト教徒の存在形態・行動形態が,秀吉の支配とどのような点において対立・矛盾していたのかを考え,それを説明しないとダメです。設問AとBは,そのための前提なんです。そうした設問全体の構成を意識した答案を作ること!

≪書き直し≫

A本願寺を中心に寺内町を形成するとともに、年貢未進など大名支配に抵抗し、中には大名を倒して一国を自治支配するものもあった。

Cキリスト教や一向宗の、身分に関わらず信仰の下に一致団結するという性質が、秀吉の兵農分離などの政策の方針に反したから。

ABで“身分に関わらず団結する”という性質を、Cでそれが“天下の障り”となる理由を問題にしてるんですよね?

書き直しの答案で OK です。

> ABで“身分に関わらず団結する”という性質を、Cでそれが“天
> 下の障り”となる理由を問題にしてるんですよね?

その通りです。このテーマについては類題が1982年第二問にあるので,もし余裕があればそれもチャレンジしてみるといいです。