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年度 2000年

設問番号 第3問

テーマ 攘夷運動と横浜鎖港問題/近代


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設問の要求は,幕府使節のフランスへの要求は何か。
史料の“幕府使節”の発言のなかに「神奈川港閉鎖いたし候わば」とある。


設問の要求は,幕府が横浜鎖港を要求する使節を派遣するにいたった背景。条件として,下線部(「すでに,不都合の事ども差し重なり」)の内容に留意することが求められている。

まず,使節団が派遣されたのが「文久3年(1863)末」であることを確認しておこう。

次に,史料からの読み取り。
(1)横浜鎖港の目的・ねらいを読み取ろう。
「ひとまず折り合いをはかり候ため」とか,「外国へ対し不都合の次第も差し起こらず,国内人心の折り合いの方便にも相成り」とある。つまり,国内における“人心の折り合い”を実現させるために横浜鎖港を企図しているのである。
次に(2)“人心不折合”とは,どのような事態を指しているのかを読み取ろう。
「外国貿易の儀は,最初より天朝において忌み嫌われ,民心にも応ぜず」とある(“天朝”とは天皇・朝廷のこと)。欧米諸国との貿易開始には当初から天皇が反対していたし,貿易開始にともなう経済混乱・物価騰貴は民衆の生活を圧迫し,そのため,条約調印をおこなった幕府や貿易相手の欧米人に対する反発が民衆のなかに強まっていた。
そして,(3)下線部「すでに,不都合の事ども差し重なり」について。
その直前に「一種の凶族ありて,人心不折合の機会に乗じ,さかんに外国人排斥の説を主張す」とあるが,この「一種の凶族」が攘夷派であることはすぐにわかるだろう。そのことを念頭において「不都合な事ども」とは何かを考えよう。
攘夷派による外国人排斥事件としては,教科書(ただし脚注)にハリスの通訳ヒュースケンが殺害された事件(1860年),イギリス公使館が2度にわたって襲撃をうけた事件(1861年の東禅寺事件と1862年のイギリス公使館焼き打ち事件),さらに生麦事件(1862年)などが紹介されている。
とはいえ生麦事件以外は細かいデータであるし,“1863年末”に使節団が派遣されたということを考えると,やや時期が離れている。1863年におこった「不都合な事ども」を思い起こすのが妥当である。
1863年といえば,攘夷をうながす朝廷の要請をうけて将軍家茂らが上洛,幕府は5月10日を攘夷決行の日とすることを公約している。そして,その当日に長州藩が下関海峡を通過する外国船を砲撃したことに対し,アメリカやフランスが下関を報復攻撃する一方,6月イギリスは生麦事件への報復のため薩摩藩と交戦していた(薩英戦争)。「不都合の事ども差し重なり」と表現するのにふさわしい情勢であった。

なお1863年といえば,八月十八日の政変が起って長州藩などの尊王攘夷派が薩摩・会津藩により朝廷から排除され,朝廷と幕府の和解(公武合体)が実現していた。とはいえ,攘夷の気運が抑制されたわけではない。幕府にとっては,朝廷との和解を維持しつつ,過激化する攘夷運動を抑制して全国支配を確保するためにも,横浜鎖港が不可欠な課題とされたのである(いわば全面的な攘夷に代わる方針として横浜鎖港が打ち出されていた)。


さまざまに公表されている解答例を見ていると,「不都合な事ども」の具体例として“外国人殺傷事件”がそろって挙げられているものの,幕府が攘夷決行を約束されたこととか下関での長州藩による外国船砲撃事件が挙げられていない。Z会の緑本の場合だと,解説のなかに「横浜鎖港の方針は,長州藩の外国船砲撃事件などの尊攘運動の高まりを封じるために公武合体派が起こした八月十八日の政変後,朝廷と幕府の一致した外交政策となった」と書いてあるにもかかわらず,解答例では長州藩の外国船砲撃事件(頻度19)が事例として挙げられていない。1863年という年代を考えると,前者よりも後者を明記する方が適切だと思うのだが,不思議だ(もしかするとインターネットに公表されている三大予備校の解答例がすべて外国人殺傷事件しか挙げていないことが原因なのかもしれない)。

設問の要求は,幕府使節が交渉を断念した理由。条件としてフランス外務大臣の対応にふれることが求められている。

そもそも横浜鎖港問題が教科書レベルを超えた知識なので,史料文からの読み取りで答案を作成するしかない。
史料の“フランス外務大臣”の発言のなかで関連しそうな箇所は,(1)「ただ今にいたり条約御違反相成り候わば,戦争に及ぶべきは必定にこれあり」と,(2)「御国海軍は,たとえば大海の一滴にて,所詮御勝算はこれあるまじく存じ候」。


(解答例)
A安政の五カ国条約で開港された横浜港を閉鎖すること。
B朝廷の意に反した貿易開始やそれに伴う経済混乱・物価騰貴は幕府への民衆の反発を強め,攘夷気運を高めた。幕府は攘夷決行の確約を余儀なくされ,下関や鹿児島で外国との交戦も起こっていた。
(別解)貿易開始に伴う経済混乱は攘夷気運を高め,外国人殺傷事件が頻発していた。さらに朝廷の条約反対の態度は変わらず,幕府は攘夷決行を確約させられ,長州では外国船砲撃事件も起きていた。
C横浜鎖港は条約違反であり,欧米諸国との戦争に発展する可能性が高く,さらにその際,日本には勝算はないと忠告されたため。

【添削例】

≪最初の答案≫

A周辺で混乱が生じたため,神奈川港の閉鎖を要求した。

B開港による貿易の開始に伴い,国内で流通制度の混乱・物価高騰・国産品の低迷などの問題が生じた。そのため,民衆の生活は圧迫され,神奈川付近では生麦事件などの激しい攘夷運動が起こった。

Cフランスは日本が条約違反することで戦争もやむを得ないという立場を明らかにしており,日本には勝算がなかったから。

> A周辺で混乱が生じたため,神奈川港の閉鎖を要求した。

基本的には問題ないのですが,「周辺で混乱が生じたため」という部分は不要です。それよりも,設問C(「条約違反」云々のところ)との関連を考えると,別のデータを説明しておく方がベターです。その“別のデータ”とは何かは分かりますね?

> B開港による貿易の開始に伴い,国内で流通制度の混乱・物価高
> 騰・国産品の低迷などの問題が生じた。そのため,民衆の生活は
> 圧迫され,神奈川付近では生麦事件などの激しい攘夷運動が起こ
> った。

基本的にはよいのですが,資料文には「最初より天朝において忌み嫌われ」というデータも記されています。できれば活用したいところです。
また,「神奈川付近では生麦事件などの激しい攘夷運動が起こった」とあるのですが,攘夷運動は必ずしも神奈川付近だけでおこったわけではなく,また「神奈川周辺」で攘夷運動が激しかったから「神奈川」(横浜)の鎖港を求めたのではなく,そもそも日本社会全体の現象として攘夷運動が激化したから最大の貿易港である「神奈川」(横浜)の鎖港を求めたのです。
さらに言えば,攘夷運動の具体例として「生麦事件」をあげているのですが,受験生の答案としてはたぶんこれでも OK だとは思うのですが,設問が「文久3年(1863)末」に派遣された幕府使節の話なんですから,それにより近い具体例の方が適当だと思います(少くとも1863年中におこった事件をあげるのが最適でしょう)。となると,長州藩の外国船砲撃事件が最適だろうと思うのですが,どうでしょう?これについてはほとんどの解答例があげていないので不思議で仕方ないのですが,君はどう思いますか?

> Cフランスは日本が条約違反することで戦争もやむを得ないとい
> う立場を明らかにしており,日本には勝算がなかったから。

OK です。

≪書き直し≫

A修好通商条約で開港された神奈川港を閉鎖すること。

Cで使う“条約違反”につながるようにしてみました。

C朝廷の許可無しに始められた貿易は,物価の高騰や流通の混乱などを招き,庶民の生活を圧迫した。これにより,国内では攘夷の気運が高まり,外国人殺傷や外国船砲撃などの事件も起こった。

> 設問が「文久3年(1863)末」に派遣された幕府使節の話なんで
> すから,それにより近い具体例の方が適当だと思います(少くとも1863年中にお
> こった事件をあげるのが最適でしょう)。となると,長州藩の外国船砲撃事件が
> 最適だろうと思うのですが,どうでしょう?これについてはほとんどの解答例が
> あげていないので・・・

多分受験生の頭の中は,『神奈川→攘夷運動=生麦事件』ってなってると思いますし,実際もそう書いたと思います。(神奈川以外を書くのは勇気がいると思う。)

A,Cともに OK です。

ちなみに,Aは「修好通商条約で開港された」の部分がないとおそらく点数は低かったんじゃないかと予想されます。

なお,Cについてですが,
> 多分受験生の頭の中は,『神奈川→攘夷運動=生麦事件』って
> なってると思いますし,実際もそう書いたと思います。(神奈
> 川以外を書くのは勇気がいると思う。)

これは異論ないのですが,出題者としては“尊王攘夷派や天皇からの要求により幕府が攘夷実行を確約することを余儀なくされていたこと”がもっとも書いて欲しかった点じゃないかと,私は判断してます。
このデータそのものは教科書の本文に明確に記述されてはいるものの,細かいとも思えます。しかし,幕府には攘夷運動(外国人殺傷事件,外国船砲撃事件や一部諸藩と欧米諸国との交戦)を抑え込むだけの力が欠如しているが故に欧米諸国に対して神奈川(横浜)鎖港を要請せざるをえないところに追い込まれているわけなんですからね。
ただ,この点を書けた受験生はほとんどいないと思うんですが(苦笑)。