過去問リストに戻る

年度 2003年

設問番号 第1問

テーマ 律令国家の国家意識と外交姿勢/古代


問題をみる

設問の要求は、8世紀の日本にとって、「唐との関係」と「新羅との関係」のもつ意味にどのような違いがあるか。条件として、「たて前」と「実際」の差に注目することが求められている。

設問では、唐や新羅との個別的な関係に焦点があたっているが、まずは律令国家日本の国際認識を考えておきたい。
その際に注目してよいのは、資料文(1)にある「中国と同じように」という表現である。ここから、日本は自国と外国との関係を「中国と同じように」作り上げようとしていたことがわかる。つまり、律令国家日本は自らを“中華”とみなし、周辺地域は“野蛮な地域”、日本に服属すべき地域と考えていたのである。
このことを念頭におけば、資料文(1)の「外国を「外蕃」「蕃国」と呼んだ」ことがどういうことなのか、「外蕃」「蕃国」とはどのような意味をもっていたのかが了解できるだろう。「蕃国」とは、単に外国、異国というのではなく、“日本に服属すべき(する)国”を意味するのである。

では、「唐との関係」についてみていこう。
資料文(1)では、「ただし唐を他と区別して,「隣国」と称することもあった」と書かれている。ここから、新羅や渤海といった諸国は「蕃国」、服属国と扱われていたのに対し、唐は必ずしも「蕃国」とは扱われていなかったことがわかる。ただし、「称することもあった」という表現に注目すれば、実は唐を「蕃国」と扱わなかったのではなく、「蕃国」と扱おうとすることもあれば、それとは区別して「隣国」と扱うこともあった、と考えるのが適当である。
これはどういうことか。
タテマエとしては唐も含めて日本に服属すべき地域と意識された(意識したかった)のだろうが、東アジアには唐を政治的・文化的中心とする国際秩序が成立しており、日本としてもその存在を認めざるをえない−実際、白村江の戦いで唐に敗北している−。それだけではない。資料文(2)によれば、日本からの遣唐使は、唐への「朝貢」と扱われ、唐の皇帝のもとで催される儀式に「臣下」として参加している。
こうしたタテマエと実際のズレが、「唐を他と区別して,「隣国」と称すること"も"あった」という事態をもたらしていたと考えることができる。

次に「新羅との関係」について。
最初に確認したように、日本は周辺諸国を服属させ、それらに君臨する帝国を自認していたのだから、新羅も服属国、朝貢国と扱おうとしていた。資料文(3)のなかで新羅使が日本の朝廷にもたらした物資について「それまでの「調」という貢進物の名称」と書かれている点−特に“貢進物”との表現−からも、そのことがわかる。
ところが、新羅側は、8世紀半ばに、「貢進物の名称を「土毛」(土地の物産)に改めた」という。この行為は、それに対して日本の朝廷が「受けとりを拒否した」ことも念頭におけば、日本への服属国・朝貢国という立場から離脱し、対等な立場を主張しようとして取った態度であることがわかる。つまり、新羅を服属国・朝貢国として扱うという日本側の姿勢は、必ずしも新羅によって受容されていたわけではないのである−だからこそタテマエなのである−。
さらに、資料文(4)をみると、新羅を服属国、新羅使を朝貢のための使節として扱おうとするタテマエと実際のズレは、それ以外にもあったことがわかる。
それによれば、新羅使は貴族たちが「競って購入」しようとした「アジア各地のさまざまな品物」をもたらしたという。また、長屋王のような、遣唐使として派遣される可能性のない(少ない)皇族・上級貴族たちが大陸の文化(漢詩など)に直接接することのできる、またとない機会であったこともわかる。さらに、新羅使(8世紀に20回)は遣唐使(20年に1回)に比べてきわめて頻繁に来日しており、大陸の文化・文物を摂取する機会としては遣唐使とは比べものにならないくらい貴重なものであったことがわかる。

なお、類題として1992名古屋大がある。


(解答例)
東アジアには唐を頂点とする国際秩序が成立しており,日本も他の東アジア諸国と同じように唐に朝貢し,先進文物の摂取に努めた。しかし,独自の律令法を制定した日本は周辺諸国を服属させる帝国との認識をもち,新羅からの使節来日を臣属と位置づけた。実際には,新羅が服属儀礼を拒否したうえ,頻繁な新羅使の来日は先進文物を摂取する貴重な機会であり,日本の帝国構造は虚構であった。