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年度 2003年

設問番号 第2問

テーマ 南北朝内乱と武士/中世


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問われているのは、南北朝内乱のころの武士の行動の特徴。
「行動」と尋ねられてピンとこない人は、Bから手をつけるとよい。

Bで問われているのは、南北朝内乱が全国的に展開し、また長期化した理由。
基本的なテーマからの出題である。大きく言って柱は2つ。
(1)室町幕府の内紛
(2)地方での武士団内部の分裂・抗争

もう少し具体的にデータを補えば...
(1)室町幕府の内紛
室町幕府において運営を分担していた将軍足利尊氏と弟の足利直義が対立し、守護クラスの有力武士をまきこんで観応の擾乱が発生したことを出発点としている。これは、公武協調(荘園公領制の秩序維持を第一に考える)にたつ足利直義と、荘園・公領の領主の権威を否定し、在地での武士の権益拡大の動きを支持する高師直(尊氏の執事)との対立を発端としており、避けることのできない事態だったと言える。尊氏・直義両派は、情勢の変化に応じて南朝と和睦して戦った(→資料文(2))が、結局、1352年に鎌倉で足利直義が殺害されて終結した。
こうして観応の擾乱は終結したものの、直義派の守護たちの反乱は継続し、中国地方では直義の養子足利直冬が山名氏などに擁されて抵抗を続けた。

(2)地方での武士団内部の分裂・抗争
南北朝内乱期は、所領相続法の転換を大きな要因として惣領制が解体していった時期である。鎌倉時代の武家社会においては、所領は惣領・庶子(女子も含めて)で分割相続されていたが、鎌倉後期以降、惣領による単独相続へと移行しはじめ、それにともなって惣領の地位が強化、庶子の地位が低下し、そのため、一族=武士団の内部では対立・抗争が生じるようになっていた(→資料文(1)「二男は親の命に背いて敵方に加わり」)。
さらに、鎌倉後期には、荘園・公領の領主や幕府の支配に敵対する武士たちが地縁に基づいて党を結び、悪党と称されて討伐の対象とされる状況が拡大しており、鎌倉幕府の滅亡、建武新政とその下での在地社会の混乱を経て、南北朝内乱期には、戦乱に乗じる形で、荘園・公領の領主に対抗しながら所領支配権の拡大をめざす地方武士の動きも活発化していた。

このように抗争をくり広げる各階層の武士たちが、情勢の変化に応じて、ある時は室町幕府(北朝)方に、ある時は南朝方についたため、南北朝動乱は全国化、長期化したのだ。

これらのデータをまとめれば答案ができるが、だからと言ってすぐにBの答案を書き始めてはダメだ。設問Aでどのようなデータが求められているのかを考えたうえで、データを書き分けることが必要である。

さてAに戻ろう。
問われているのは、すでに確認したように、南北朝内乱のころの武士の行動の特徴であるが、“武士の行動”といえば、先ほど確認した設問Bで出てきた。完全に重複しそうだ。
そこで考えたいのは、「特徴」が問われたときは前後の時代との対比を意識する必要があることである。
そのように頭を働かせれば、
 “鎌倉前期=血縁に基づく惣領制→鎌倉後期〜南北朝期=惣領制が解体して地縁重視の傾向”
という図式が思い浮かぶだろう。これに基づけば、南北朝期の武士の行動は
 一族(一家)として行動する惣領制が崩れている
という点に特徴がありそうだと想像がつく。資料文(1)−一家がまとまって行動するという形態が崩壊していること、所領の単独相続が始まっていること−が、その事態を表している。これは最低限、Aの答案に書き込みたい(ただし所領の単独相続への移行は「武士の行動」ではないので省く)。
とはいえ、それだけでは2行の字数には不足する。
そこで資料文(2)(3)の内容も見ておこう。
資料文(2)−観応の擾乱のなかで、足利尊氏・直義とも情勢の変化に応じて南朝と和睦して相手に対抗した。
資料文(3)−「戦いぶりによって」(合戦の状況によって)敵・味方がいれ代わる可能性が十二分にあった。
この両者に共通しているのは、敵味方が理念により区別される(固定される)のではなく、情勢・状況の変化に応じて変化していっているという事態であり、これは当時の「武士の行動の特徴」と言ってよいだろう。

このように見てくれば、足利尊氏・直義の対立や各地の武士団内部での対立・抗争はBで扱い、そうした抗争の当事者が情勢の変化に応じて、ある時は室町幕府(北朝)方に、ある時は南朝方についたことはAで書いておけばよいことがわかる。


(解答例)
A惣領の統率下に一族として行動する惣領制が崩壊し、個々の武士団がその時々の利害関係や情勢に応じて敵味方に分かれて戦った。
B各地の武士団では単独相続への移行に伴って所領支配をめぐる抗争が展開し、室町幕府では足利尊氏・直義の対立が観応の擾乱へ発展して以降、有力守護をまきこんで内部抗争が激しく、それに伴って南朝が京都を占領することもあり、内乱は全国化・長期化した。