過去問リストに戻る

年度 2003年

設問番号 第3問

テーマ 17世紀後半の歴史書編纂と国家意識/近世


問題をみる

問われているのは、17世紀後半に歴史書の編纂がさかんになった理由。条件として、当時の幕藩体制の動向に関連させることが求められている。

まず、どのような人びとが歴史書の編纂に携わったのか、を確認しよう。
問題文では、歴史書の編纂に携わった人びととして「儒学者の林羅山・林鵞峰父子」、「儒学者の山鹿素行」が挙げられている。いずれも“儒学者”である。水戸藩の『大日本史』については編纂者に関するデータが記されていないが、『大日本史』編纂の過程で水戸学と称される独自の朱子学派が形成されたことは知っているはず。
また、林羅山・鵞峰父子は「幕府に仕えた」人物であり(→そこから幕府の命に基づいて『本朝通鑑』を完成させたことも推測できる)、『大日本史』の編纂主体は水戸藩(親藩の一つ)であった。山鹿素行の場合は異なるが、幕藩領主(特に徳川家)の側で歴史書編纂への動きが進んでいたことがわかる−新井白石『読史余論』も想起したい−。
これらのことを念頭におけば、この問題は

 17世紀後半、儒学者により、主に幕藩領主のもとで歴史書の編纂がさかんになった理由

が問われていると、読みかえることができる。

さて、ここで条件に目を向けてみよう。
「当時の幕藩体制の動向」に関連させることが条件づけられているが、まず「当時」=17世紀後半がどのような時代であったかを確認しよう。
17世紀後半=4代家綱、5代綱吉の治世
○政治面…文治政治が展開
○経済面…小農経営を特徴とする本百姓体制が確立→農業生産力の向上
     東・西廻り航路の整備=全国的流通網が確立→経済流通の発達
○文化面…元禄文化
○外交面…明清の動乱(明滅亡〜清の中国支配〜旧明勢力の抵抗)→これがおさまった後は清船の来航が増加=長崎での貿易額が増加

これらのデータのうち、儒学者により、主に幕藩領主のもとで歴史書の編纂がさかんになったことと関連があるのは、どれか?
それを考えるには、何を目的として歴史書が編纂されたのかを考える必要があるが、三省堂『詳解日本史』では次のように説明されている。

「歴史学は,幕府の正統性と,為政者の道徳がいかに政権の盛衰を左右したかを過去の事実から証明して,武士に自覚を求めようとしたので,研究がさかんになった。」(p.167)
つまり、武士に対して戦士(それが武士本来の役目である)として以上に、為政者としての自覚を求めようとする動き−儒学の徳治主義を想起したい!−のなかで、歴史研究がさかんになったというのである。武断政治から文治政治への転換という動向が、歴史書編纂の活発化と関連していることがわかるだろう。


設問で問われているのは、「日本こそが「中華」である」との主張がうまれてくる背景。条件として、“幕府が作り上げた対外関係の動向”を中心として説明すること、「この時期」(17世紀後半)の東アジア情勢にもふれることが求められている。

この問題を解くにあたって意識してほしいのは、
○「「中華」である」とは、どういう意味か。
○「日本“こそ”が「中華」である」と、なぜ“こそ”と表現されているのか。
の2点である。
これらを意識しながら、条件についてデータを確認していこう。

まず、幕府が作り上げた対外関係の動向から。
いわゆる鎖国制下の対外関係といえば、次の3点がポイント。
(1)日本人の海外渡航・帰国を禁止
(2)対外交渉の窓口を四口に限定=自由な民間貿易を禁止
 →長崎口を幕府が直轄したほかは、対馬口・鹿児島口・松前口はそれぞれ宗氏・島津氏・松前氏に委ねた(独占権を認めた)
(3)交渉相手を朝鮮・琉球・オランダ・中国・アイヌ(蝦夷地)に限定
ところが、これだけの知識では「日本こそが「中華」である」という主張との関連が見えてこない。もう少し突っ込んだ知識・理解が必要になってくる。
果たして、幕府はこのような対外関係を作り上げることで何を実現させたのか、あるいは実現させようとしたのか。
鎖国制形成の要因としては、キリスト教禁制を徹底させるための貿易統制の強化が指摘されるが、しかしそれは、日本人の海外渡航・帰国を全面禁止するとともに、ポルトガル船の来航を禁止し、キリスト教国との交渉をオランダに限ったことの背景でしかない。交渉をもった朝鮮・琉球・オランダ・中国・アイヌをどのように位置づけたのかを考えなければならない。そうでなければ、当時(鎖国制下)の対外関係の動向は見えてこない。
その際、貿易・交易に交渉が限られていたオランダ・中国・アイヌを除外し、国交をもった朝鮮・琉球に考察の対象を限定してもよいだろう。
朝鮮からは将軍の代替りに(朝鮮)通信使が来日し、島津氏支配のもとで幕藩体制の枠内に組み込まれつつも独立国としての体裁が存続した琉球からは、将軍の代替りに慶賀使、国王の代替りに謝恩使が来日していた。琉球使節が異国風の風俗を強制されたことは教科書にも記載されているが、これらの使節来日は、幕府の権威が海外へも及んでいるように見せかけるための儀礼(演出)としての意味をもっていたのである。
ここから、幕府が朝鮮や琉球といった異国を臣従させるかのような国際関係を作り上げていたことが分かるだろう−なお、オランダ商館長は毎年、江戸へ参府することが義務づけられていたが、これもオランダ商館長の将軍への臣従を演出させるセレモニーであった−。
つまり、幕府は、かつて明が東アジア世界において作り上げていた国際秩序を、日本を中心として独自に作り上げようとしていたのである。「中華」の模倣である(→日本型華夷秩序などと呼ばれる)。

次に、17世紀後半の東アジア情勢。
この知識が欠落している受験生が多いだろう。
しかし、たとえば山川の『詳説日本史【改訂版】』では、「中国では漢民族のたてた明朝が17世紀半ばにほろび,中国東北部からおこった満州民族の清朝が成立した。」と記述されており、この程度の知識で十分に対応できる。
その際、リード文に「それまで日本は異民族に征服されその支配をうけることがなかったことや,王朝の交替がなかったこと」と記述されていることに注目しよう。この記述を念頭におけば、“当時の中国では明清交替が進み、異民族支配が成立していた”−華夷変態と称された−と整理することができる。
ここに「日本“こそ”が「中華」である」という主張の含意がある。異民族による征服・支配が進展した中国(という儒学の本国)よりも、異民族による征服・支配を経験していない日本の方が「中華」としてふさわしいとの優越意識が生じたのである−とはいえ、清が琉球に対して朝貢を求めた際、幕府は琉球にそれに応じさせ、清との争いを回避している−。

以上を総合すれば、山鹿素行という儒学者が「日本こそ「中華」である」と主張した背景はおのずと見えてくる。
江戸幕府は、自らを「中華」と位置づけ、中国とは独自に華夷秩序を作り上げていた。ところが、中国では「夷狄」による支配が形成されていた。日本も清もどちらも「夷狄」であることに違いはないのだが、異民族による征服・支配を経験していないことを根拠に、中国(という儒学の本国)よりも日本が「中華」としてふさわしいとの優越意識が生じたのである。


(解答例)
A幕藩体制が安定し、礼儀による秩序を重視する文治政治が展開するにともない、幕府の正統性を論証すると共に、武士に対して為政者としての自覚を求めるため、歴史書の編纂がさかんになった。
B幕府は朝鮮・琉球・オランダを将軍に臣従する異国と位置づけ、独自の華夷秩序を形成したが、中国では明から清へと王朝が交替して異民族支配が進展したため、中国に対する優越意識が生じた。