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年度 2004年

設問番号 第3問

テーマ 蝦夷地が幕藩体制にとってもった意味/近世


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問われているのは、蝦夷地が幕藩体制にとって、どのような意味で、なくてはならない地域となっていたか。蝦夷地が幕藩体制において果たした役割、と言い換えることができるだろう。そして条件として、(ア)生産、(イ)流通、(ウ)長崎貿易との関係を中心に説明することが求められている。

まず「蝦夷地」とは何か、どのような地域であったのか、を確認しておこう。
「蝦夷地」とは、ほぼ現在の北海道を指す呼称(千島や樺太の一部も含む)であり、この地域にはアイヌが居住していたが、アイヌの居住地域は北海道から東北北部まで及んでおり、「蝦夷地」とアイヌ居住地が一致していたわけではない。
では、「蝦夷地」はなぜ「蝦夷」地と称されたのか。
蝦夷地とは、厳密にいえば北海道全域を指すのではなく、松前地(和人地)=松前氏の領地を除いた地域の呼称である。松前氏は将軍と主従関係を結んだ大名だから、その領地以外の地域ということは、結局、江戸幕府による幕藩制支配の及ばない地域(異域)だ(だった)と言える。だからこそ「蝦夷」地なのである。
とはいえ、幕藩制支配(幕藩体制)と無関係だったわけではない。蝦夷地は松前氏が交易の独占権を保障されており、松前藩はそのことを基盤として存立していた(石高に裏づけられた土地の支配権ではなく、蝦夷地交易の独占権のみを存立基盤としていた点において、松前氏は非常に特異な大名である)。松前氏は、家臣に対して交易権を分与すること(商場知行制)を通じて藩制を成り立たせていたのである。
このように、蝦夷地は松前氏を通じて幕藩体制と関係づけられており、ある意味では、宗氏を介した朝鮮、島津氏を介した琉球と共通するものがあったと言える。実際、蝦夷地は朝鮮や琉球とともに江戸幕府に服属する存在と位置づけられ(だからこそ「蝦夷」地と称されたのだと言えよう)、朝鮮や琉球のように幕府のもとへ使節を派遣することこそなかったが、将軍の代替りに際して諸国に派遣された巡見使に対して服属儀礼(ウィマムという)を行っていた。

では続いて、資料文の内容確認に入ろう。
(1)
○アイヌは漁業や狩猟で得たものを和人などと交易。
○松前藩はアイヌとの交易から得る利益を主な収入とする。
→松前氏は江戸幕府から蝦夷地交易の独占権を認められていた(家臣に対してはその交易権を分与していた=商場知行制)。

(2)
○18世紀以降、松前藩=場所請負制へ移行→商人が漁獲物や毛皮・木材などを求めて殺到
○18世紀後半頃=松前・江差・箱館〜日本海〜下関〜上方という廻船のルートが確立

(3)
○蝦夷地での漁獲物とその用途
☆鯡…食用、肥料用の〆粕への加工(19世紀)
☆鮭…食用や贈答品
☆なまこや鮑(あわび)…食用

さて、以上を念頭におきながら、蝦夷地と(ア)生産、(イ)流通、(ウ)長崎貿易との関係について確認していこう。
(ア)生産との関係。
資料文(3)に「肥料」への加工についての説明があり、農業生産の発展に関わっていたことがわかる。〆粕は干鰯と同じように、綿作などの商品作物生産にかかせない肥料であった。
なお、設問では「18世紀中ごろまでには,蝦夷地は幕藩体制にとって,なくてはならない地域となっていた。」と記されているものの、資料文(3)によれば、〆粕への加工は19世紀以降のことという。ここに注目すれば、〆粕を考察の材料から除外した方がよいようにも見える。しかし、〆粕を除外すれば「生産との関係」を考える素材がなくなってしまう。また、出題者があえて資料文に書き込んだということは、受験生に考察の材料として提示したことを意味している。それゆえ、時期のズレを意識する必要はないだろう。

(イ)流通との関係
“松前・江差・箱館〜日本海〜下関〜上方という廻船のルートを通じて漁獲物が各地に流通した”とまとめようと考えた受験生が多いのではないか思う。
しかし、それは、蝦夷地と「流通」との関係についての説明なのだろうか。蝦夷地の産物が流通する様子を説明しただけのことではないのか。
そもそも流通とは、商品の物理的な移動、そして移動させるための活動を指す言葉であり、それは商品の運輸・保管や商品取引などの業務を専門とする業者が活躍する舞台である。
このことを念頭におけば、単に蝦夷地の産物が流通する様子を説明するのにとどまるのではなく、その流通に関わる業者や経路・機構に関する説明が必要となってくることがわかるだろう。
さて、資料文(2)には、18世紀後半頃に「松前・江差・箱館から日本海を回り,下関を経て上方にいたる廻船のルート」が確立したと書かれているが、このルートに活躍したのが“北前船”である。この点は答案に明記しておきたいところだ。
−この点については、山川『詳説日本史』だけを参照している場合は、気がつかなかったかもしれない。なにしろ、山川『詳説日本史』の旧課程版には「北前船」は記述されていないし、新課程版でこそ記載されたものの、蝦夷地や日本海海運との関連についての説明はないのだから−
なお、北前船はそれまでの廻船とはタイプの異なる新しい廻船であった。それまでの廻船(たとえば南海路を就航する菱垣廻船など)が荷主との契約で荷物を輸送し、その運賃を収益とする運賃積方式であったのに対し、北前船は買積方式の廻船で、船主が自ら買い入れた商品を積み、輸送先で売却して利益をあげていた(尾張を拠点とした内海船も同様)。
新課程版の実教『日本史B』では、次のように説明されている。

「西回り航路を利用して蝦夷地や北陸と大坂との間を運航した北前船は,各寄港地で特産物の買い入れと積み荷の販売をおこなう買積方式によって大きな利益をあげた。」
つまり、北前船の船主たちは、(この問題に即していえば)鯡・鮭・鮑・昆布などの海産物−各地で食用品や贈答品などとして大きな需要がある商品−を、蝦夷地から日本海沿岸、そして下関、瀬戸内海沿岸、上方といった消費地へと運び、それによって大きな利益をあげていたのである−そのことが大坂(や江戸)の問屋を介さない商品流通を拡大させていく−。
このように蝦夷地は、北前船という新しいタイプの廻船業者を成長させる媒介となったわけである。

(ウ)長崎貿易との関係
資料文(3)に「なまこや鮑も食用に加工された」とあるが、ここから“俵物”が想起できれば問題はない。つまり蝦夷地は、清向け輸出品として重要度を増していく俵物の重要な供給地だったのである。

条件として列記された3点は、以上のように整理することができるが、これらだけで答案を書いてしまわないように注意してほしい。
設問の要求は、“蝦夷地が幕藩体制にとって、どのような意味で、なくてはならない地域となっていたか”である。さらに、資料文(1)には(ア)〜(ウ)に集約できないことがらも記されている。これらの点を考慮すれば、解説の最初に確認した、松前氏(藩)の蝦夷地交易の独占権や商場知行制についても答案のなかに盛り込むことが不可欠であることがわかるだろう。忘れないようにしてほしい。


(解答例)
蝦夷地では、幕府から交易独占権を認められた松前氏が商場知行制を介して藩制を整備しており、そうした形で幕藩体制に組み込まれていた。18世紀以降、場所請負制が広がり、和人商人により漁場経営が拡大すると、西廻り航路を就航した買積の北前船に交易物を提供するとともに、商品作物栽培に不可欠な〆粕、長崎貿易での清への主要な輸出品である俵物の供給地として重要な役割を果たした。
(別解) 蝦夷地は、幕府に交易独占権を認められた松前藩を通じて幕藩体制に組み込まれていた。松前藩は当初、商場知行制を介して藩制を整えたが、のち場所請負制へ移行し、漁場経営拡大を促した。その結果、上方など西日本各地と蝦夷地を結ぶ買積の北前船が成長する基盤となると共に、商品作物栽培に不可欠な〆粕、長崎貿易での清への主要な輸出品である俵物の供給地として重要な役割を果たした。