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年度 2005年

設問番号 第1問

テーマ 嵯峨朝のもつ意味/古代


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問われているのは,嵯峨天皇・上皇が朝廷に重きをなした時期が,古代における律令国家や文化の変化の中でもつ意味。条件として,政策と文化の関わりに注目することが求められている。

まず,嵯峨天皇・上皇が朝廷に重きをなした時期(嵯峨期と表現しておく)が「律令国家や文化」という面でどのような特徴をもっているのかを,考えよう。
参考年表は嵯峨期に限定されているから,そこに掲載されているデータから,嵯峨期の特徴をつかもう。
特徴をつかむためには,それらのデータをグループ分け(特徴づけ=ラベルづけしながら)することが不可欠。

(1)
○蔵人所を設置する
○検非違使を設置する
これらは嵯峨天皇により新設された令外官であるが,どのような特徴をもつ令下官か? それまでに置かれた令下官と何が異なるのか?
1989年第1問に類題が既出だが,嵯峨期に新設され,9世紀を通じて整備される蔵人所,検非違使(庁)は,それまでの令外官(参議・中納言など)と異なり,官職に就いているもののなかから天皇が特別に任命する職であり,つねに他の官職を兼ねながら蔵人所・検非違使(庁)としての職務に従事した。それゆえ,蔵人所・検非違使(庁)は,その職員が兼ねている本官(もともと就任していた官職)の職務を吸収するようになる。検非違使が弾正台や刑部省,京職などの職務を吸収したというのは,そうした事態についての説明である。
さらに,この2つの令外官は天皇直属であった。それゆえ,天皇は蔵人所・検非違使庁を通じて令制諸官庁の重要な機能を(太政官とは独自のルートで)掌握することが可能となったのであり,天皇が貴族をおさえて強い指導力を発揮する基盤がこうして形成されたのである。つまり,天皇権力の強化という平安初期の特徴的な動向を象徴的に示すのが,蔵人所・検非違使(庁)の設置・整備なのである。

(2)
○『弘仁格』『弘仁式』が成立する
○『令義解』が完成する
しばしば法典の編纂・整備とまとめられるところ。なぜこれらの編纂・整備が必要とされたのだろうか? たとえば,格はこのときに初めて定められたわけではない。いいかえれば,社会の実情にあった形に律令を補足・修正する作業がこのときに初めて着手されたわけではない。では,格や式をまとめ直すこと,養老令の公的な注釈書を作成し,条文解釈を統一することは,いったい誰にとって意味,もしくは効果があったのか? −それは行政を担う貴族・官人であることは言うまでもない。このことを念頭におけば,格式や令の公的注釈書の編纂は,しばしば律令政治の立て直しと特徴づけられるが,官僚制の整備・充実のための施策であったと位置づけることができる。

(3)
○唐風をとり入れた儀式次第を記す勅撰儀式書『内裏式』が成立する
朝廷での儀式とは,天皇と貴族・官人,さらには貴族・官人相互のあいだの関係や秩序を(再)確認する象徴的行為である。それについて,唐風,儀式次第の整備,という2点が指摘されている。これは,どういう意味をもつのか?
朝廷のもとでの政治秩序を律する作業が,伝統的な儀礼(だけ)ではなく唐風をとり入れた形で進められたというのだから,(1)と関連づければ,天皇を頂点とする貴族社会の再編成,古くからの氏族という枠組みを取っ払ったところの新しい貴族社会の構築の第1歩と位置づけることができる。

(4)
○『凌雲集』ができる
○『文華秀麗集』ができる
○『経国集』ができる
これらは勅撰漢詩文集。この時期は唐風文化の全盛期で,それを象徴したことがら。しかし,これほどまで漢詩文が隆盛したのはなぜなのか?
文章経国思想の普及といえばそれまでだが,この表現を知らずとも,貴族・官人に対して行政能力とともに漢詩文など中国的な(唐風の)教養が要請された結果と考えればよい。つまり,行政や貴族社会のあり方だけでなく貴族・官人の教養についても唐風化が図られたのであり,いいかえれば,(天皇権力の強化も含め)唐の政治制度・文化の定着・浸透が意識的に図られた結果,勅撰漢詩文集の編纂が続いたのだと言える。

(5)
○空海が『風信帖』を書く
これも唐風文化の全盛を象徴することがら。それ以外の意味を考えてもよいが,(1)〜(4)で見てきたこととの関連から,唐風の教養が浸透した事例のひとつとおさえておく。

(6)
○藤原冬嗣が勧学院を設置する
勧学院などの大学別曹が設けられるようになったのは,大学が隆盛したため。奈良時代は,蔭位の制ゆえに大学はそれほど盛んではなかったというのに,なぜ嵯峨期には大学が隆盛したのか? それは(4)ですでに確認した通り,貴族・官人には行政能力とともに漢詩文など唐風の教養が要請されたからであり,それらを身につけない限り(古くからの氏族という枠組みに依拠するだけでは),貴族社会では生き残れない時代が訪れたからである。

(7)
○平安宮の諸門・建物の名称を唐風にあらためる
これは「律令国家」に関連するのか,それとも「文化」に関することがらなのか? 行政のあり方でもなければ唐風の教養にかかわることがらでもなさそうだ。これ以上の考察が進まない場合,唐風が全盛であった嵯峨期の雰囲気を示すものと考えておいて,それで十分だろう。
なお,嵯峨期までの諸門は律令以前から宮門の警備を担っていた氏族の名を冠して称されていたが(朱雀門は例外),それが,氏名の読みにちなみながらも,唐風の名称へ変更されたのである。つまり,現象的な唐風化にとどまらず,古くからの氏族という枠組みを取っ払ったところの新しい貴族社会を構築しようという方向性のなかでの政策と位置づけることができる。

このように特徴をつかんでくれば,「律令国家や文化の変化の中でもつ意味」はすぐに推理できるだろう。
もし特徴づけはできるが「変化の中でもつ意味」は分かりにくいというのなら,嵯峨期に始まった格式や儀式書の編纂が清和天皇期(9世紀後半),醍醐天皇期(10世紀前半)と継続され,そこで一つの完成を向かえること(→だからこそ摂関政治期は貴族男性による日記が隆盛するのだし,儀式や先例を研究する有職故実という学問が登場する)を想起すればよい。嵯峨期に始まった政策は,次の清和・醍醐期へと継承されていくのだ(国風文化が唐風の教養を規範としていたことについては1987年第1問を参照のこと)。
まとめれば,嵯峨期は,天皇権力の強化とそのもとでの官僚制の整備・充実,新しい貴族社会の編成原理の創出が本格的に始まっていった時代だったのであり,古くからの氏族の枠組みに依拠した政治・社会秩序(伝統的な社会)が大きく変容する画期をなしていたのである。


(解答例)
9世紀前半は,格式や令の公的注釈書が編纂され,実情に即した官僚制の整備・充実が進むとともに,天皇直属の令外官を中心とした官庁の再編,唐風を取り入れた儀礼の整備が進んで天皇の権威・権力の強化が図られ,それに伴って貴族・官人には行政能力と儒教・漢詩文など唐風の教養が求められた。こうして唐風の政治制度や文化が社会に浸透・定着し,伝統的社会を変容させる画期となった。(180字)