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年度 2006年

設問番号 第1問

テーマ 奈良時代の政治と貴族のありかた/古代


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設問で問われているのは,奈良時代の政治と貴族のありかた。条件として,律令制にはそれ以前の氏族制を継承する面と新しい面があることに注目することが求められている。

「政治と貴族のありかた」と表現されているが,これだけでは具体的に何を書けばよいのか,曖昧である。条件が付されることで初めて焦点を絞り込むことが可能となっている。
そこで,まずは資料文のなかで 1.それ以前の氏族制を継承する面,2.新しい面がどのように説明されているのかを確認したい。その際,対比的に説明されていることがらを資料文からピックアップしたいところ。

資料文(1)について。
「が」という接続表現を用いて,2つのことがらが対比的に説明されている。
◎官人は能力に応じて位階が進む仕組み
☆地方の豪族が五位に昇って貴族として中央で活躍することは多くはなかった
このうち,◎が官僚制と呼ぶことのできる「2.新しい面」であることは問題なく判断できると思うが,となると,それと対比的に説明されている☆は「1.それ以前の氏族制を継承する面」であることがわかる。つまり,律令制では,新しく官僚制が導入されたものの,畿内の有力豪族が貴族として様々な特権をもち,地方の豪族が朝廷での政治や貴族の地位から実質的に排除されるという点で氏族制を継承していた,ということを資料文(1)から把握することができる。

次に,設問で「古くからの豪族を代表する「大伴的」なものと新しい「藤原的」なものが対立していたとする見方」が示されていることを念頭におくと,資料文(4)と資料文(2)が対比的に配置されていると判断できる。
具体的に何が対比されているのか。
資料文(2)
藤原武智麻呂の事例:ア.初めての任官では「官僚の見習い」である内舎人に任じられた。イ.学問にも力を注いだ。 ところで,イの「学問」とは何だろうか? 奈良時代の大学では明経道が重視されていたことを念頭におけば,「学問」=儒教である可能性が高い。
つまり,藤原武智麻呂は官僚としての経験を積んで行政能力を身につけ,さらに儒教的な学識を蓄えることで右大臣にまで昇進できたのだと考えることができる。これが「新しい「藤原的」なもの」。
なお,アについては「周囲には良家の嫡男として地位が低すぎるという声もあった」と説明されている。ここから,「良家」=古くからの有力豪族は「官僚の見習い」を経ずとも官人となることができた状況を推測することができる。藤原武智麻呂はこうした選択肢をとらなかったということなので,こちらは「古くからの豪族を代表する「大伴的」なもの」についての説明だと判断することができる。
資料文(4)
大伴氏の事例:奈良時代においても,大伴氏が先祖以来の軍事氏族としての伝統を受け継いでいることを示している。 つまり,特定の職能を世襲で担うという形態(あるいは意識)が,官僚制に対立する「古くからの豪族を代表する「大伴的」なもの」であると判断できる。

最後に資料文(3)について。
ここでは政治のあり方が説明されている。「それに対して」という接続表現に注目するならば,
☆公卿には,同一氏族から一人が出ることが一般的=それまでの慣例
◎藤原氏は兄弟四人が同時に公卿の地位に昇った
の2つが対比されていることがわかり,☆が氏族制を継承する面,◎が新しい面であると判断できる。そして,資料文(2)をあわせて考えるならば,藤原氏は官僚としての経験を積んで行政能力を身につけ,さらに儒教的な学識を蓄えたからこそ,☆で示されたような慣例を破ることができたのだと考えることができる。
ちなみに,☆は大化以前における大臣・大夫の合議制を継承したものである。

ところで,この問題は氏族制と官僚制の併存・二重構造,官僚制の浸透と氏族制の後退をめぐる出題であり,その意味で2005年第1問(嵯峨朝の歴史的意義)と同じフレームを扱った問題といえる。


(解答例)
奈良時代,畿内の有力氏族が貴族として特権的な地位を保証され,地方の豪族は貴族の地位と朝廷での政治運営から実質的に排除されていた。そして,氏族を単位とした合議政治の慣例,特定の職能を世襲で担うとの意識など,氏族制的な要素が継承されていた。しかし,官僚制原理が機能するなか,貴族のなかから儒教的学識と行政能力をそなえた官僚政治家が台頭し,氏族制は次第に打破された。