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年度 2009年

設問番号 第1問

テーマ 遣隋使・遣唐使の意義/古代


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問われているのは,7・8世紀の遣隋使・遣唐使が果たした役割や意義。条件として,時期区分することが求められている。
まず,設問文のなかで「東アジア情勢の変化に対応してその性格も変わった」と説明されている点に着目したい。したがって,<性格の変化>に注目しながら時期区分すればよいことがわかる。そして,その性格の変化が「東アジア情勢の変化に対応」したものであると述べられているのだから,まずは「東アジア情勢の変化」を確認することから始めればよい。

東アジア情勢の変化
隋:中国を統一→高句麗との対立 ……ア
唐:朝鮮に軍事侵攻→百済・高句麗を滅ぼし倭と交戦(倭の介入を排除) ……イ
 :朝鮮支配をめぐって新羅と対立 ……ウ
 :新羅との関係改善→東アジア秩序の一定の安定 ……エ

次に,この情勢(の変化)と資料文の対応関係を考えてみる。
(1)=遣隋使 →アに対応
(2)=659年〜669年の遣唐使 →イに対応
(白村江の戦いが663年であること,資料文(2)に「高句麗平定」とあることから判断)
(3)=30年の空白 →ウに対応
  8世紀の遣唐使 →エに対応
(4)=8世紀の遣唐使 →エに対応

遣隋使・遣唐使が「果たした役割や意義」が問われており,それらを派遣した目的・意図が問われているわけではないのだから,遣唐使派遣の空白については無視して考えてよい。このことを念頭におけば,遣唐使については,イの時期に対応する資料文(2),エの時期に対応する資料文(3)?(4)を素材として<性格の変化>を考えればよい,と判断できる。

というわけで,遣唐使から。
資料文(2)
東アジア情勢の把握や唐との関係調整のために遣唐使が派遣されていることがわかる。
資料文(3)と(4)
新しい国家の樹立を報告すること(→朝貢関係の設定)と,中国から文物を摂取することが,この時期の遣唐使派遣の目的であることが分かる。
両者を対比すれば,資料文(2)=イの時期(7世紀半ば)は「政治的な」役割,資料文(3)と(4)=エの時期(8世紀)は「文化的な」役割を,それぞれ果たしていたとまとめることができる。

続いて,遣隋使。
資料文(1)
しばしば対等外交をめざしたことを示す事例としてあげられるが,倭国王も隋皇帝も「天子」と表記することから,倭国王を「天皇」,隋皇帝を「皇帝」と表記するように「改められた」と評価している点に着目すれば,中国に対する独自の立場を表そうとしたものと考えるのがよいだろう。イの時期との関連で言えば,その独自性は朝鮮諸国との関係において意識されたものと考えることができる(1994年度第1問と1992年度第1問も参照のこと)。
つまり,遣隋使を派遣することで,中国とは独自の立場から朝鮮諸国に君臨する立場(朝鮮諸国への優位性)を確保しようとしたものの,ウの時期にいたって,唐の朝鮮半島への軍事進攻という事態に直面して,その立場が崩れ,そのことが資料文(3)にみえる,唐との朝貢関係の設定,という事態につながった,と考えることができる。
ちなみに,「推古朝に天皇号が考え出されたとする説も有力である」かどうかは疑問だが,このフレーズは山川『新日本史』にほぼそのままの形で記載されている。


(解答例)
大王を中心とする政治組織の整備が進んだ7世紀初,遣隋使を派遣し,中国とは独自に朝鮮諸国へ君臨する立場を確保するのに役立てた。7世紀半ば,唐の軍事進攻により朝鮮情勢が緊迫するなかでは,遣唐使は政治的交渉の手段であった。律令国家の整備が進み,唐を中心とする東アジア秩序も安定した8世紀には,遣唐使派遣により冊封を伴わない朝貢関係を結び,先進的文物の摂取に役立てた。(180字)