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年度 2011年

設問番号 第1問

テーマ 白村江の戦いとその影響/古代


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問われているのは,白村江の戦いに倭から派遣された軍勢の構成。
教科書レベルでは知識がないので,資料文からデータをひっぱってくるとよい。

百済救援の戦いに動員された軍勢に関する記述は,資料文(4)と(5)。
資料文(4):「筑紫国の兵士」「ともに唐軍に捕えられた豪族の筑紫君」
資料文(5):「備後国三谷郡司の先祖」
まず,「豪族」が登場するが,これは,「君」姓をもち,「郡司の先祖」となるのだから,国造(あるいは旧国造)と判断できる。
次に,「筑紫国の兵士」について,資料文(4)では,「豪族の筑紫君ら4人を帰国させるために自らの身を売った」とある。この表現から,「兵士」と「豪族」とのどのような関係を推論するか?
「兵士」がまったくの自発的な意思から「自ら身を売った」のか,それとも「豪族」らの示唆(明示的であれ,暗黙のものであれ)を背景として「自ら身を売った」のかは不明だが,ここから,「豪族」が「兵士」を個別的に,あるいは直接的に,人格的に支配する,という関係が前提として存在していたと推論することができる。


問われているのは,白村江での敗戦が律令国家の形成にもたらした影響。条件として,「その後」の東アジアの国際情勢にもふれることが求められている。

白村江での敗戦により,朝廷では対外的な危機意識が高まり,水城や朝鮮式山城を築くなど防衛体制の整備が進み,そうした軍事的な要因から律令制の導入が進んでいったことは知っているはず(たとえば1999年度第1問を参照のこと)。資料文(1)がこのデータを表現したもの。
そして,資料文(1)に列挙されている3名の人物のうち,答●[火+本]春初と憶礼福留は資料文(3)にも記載されており,彼らが百済貴族(百済からの亡命貴族)だと分かる。つまり,防衛体制の整備を含め,律令制の導入にあたって,彼ら百済貴族の知識が活用されていたと判断することができる。

次に,資料文(2)について。
ここには,高句麗滅亡(668年)後の情勢が書かれている。条件であげられている,「その後の東アジアの国際情勢」である。
高句麗滅亡後には,朝鮮支配をめぐって新羅と唐が対立する。この新たな情勢のもとで,新羅が日本に接近し,日本は新羅を服属国として位置づけて中華帝国秩序を(フィクションとして)整えたことは知識として持っていると思う。しかし,資料文(2)には,それに関連する内容は記されていない。資料文の記述に即してみていこう。
まず,新羅には船を贈ったことが記されている。先に確認したことを念頭におけば,軍船である可能性もある。それは推測でしかないが,新羅とは頻繁に使節が往来したのに対して,唐とは,高句麗制圧を祝う使節を派遣して以降,国交途絶状態になることとあわせて考えれば,軍事的な支援とまでいわずとも,新羅・唐の対立関係のなかで新羅に肩入れしている,との判断が成り立つ。
そして,白鳳文化が「新羅から伝えられた中国の唐初期の文化の影響を受け」(山川『詳説日本史』)ていることは知っていると思うので,これもあわせて考えれば,新羅・唐の対立を利用しつつ,新羅を通じて先進文物を摂取したことが,律令国家形成に役立ったと,考えることができる。

ここまでのデータで答案は書けてしまいそうだが,まだ資料文(5)が残っている。
資料文(5):百済救援の戦いに動員された旧国造の豪族が,百済人の僧侶の力を借りて「立派な」寺院を建立。
寺院の建立は,単に仏教の受容だけを意味するのではなく,瓦葺・礎石を使った建築技術,仏像の彫刻技術といった新しい手工業技術を受容することでもあり,僧侶や経典の整備も必要である。つまり,寺院の建立は先進文物の受容を象徴する行為だといえ,先に朝廷レベルで確認したことがらの在地(地方)バージョンである。
そして,この動きは「出征前の誓いどおり」と記されているように,在地での豪族による独自な動き,と考えてよい。

では,こうした在地で豪族が独自に先進文物を受容する動きは,律令国家の形成とどのように関わるのか?
ここで想起したいのが,律令支配が文書行政をともなうことであり,先進文物と一般化されるものには漢字文化も含まれること。
これらのことを念頭におけば,在地での豪族による寺院の建立は,律令国家,つまり中央・地方に大量の官人をそろえ,文書行政をともなった中央集権的な国家体制の形成を,在地で支える基礎・受け皿の形成を意味する,と判断することができる。


(解答例)
A旧国造の豪族と,その直接的(人格的)な支配をうける人々で構成された。(30字)
B朝廷は,白村江での敗戦にともなう対外的危機に対処するため,百済の亡命貴族を登用した防衛政策を梃子とし,新たに朝鮮支配をめぐって生じた唐と新羅の対立を利用しつつ,律令法に基づく中央集権化を進めた。一方,在地では豪族が大陸の先進文物を独自に受容する動きが進み,律令支配を支える基礎が地方でも形成された。(150字)