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年度 2013年

設問番号 第1問

テーマ ワカタケル大王の時代のもつ意味/古代


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問われているのは,5世紀後半の「ワカタケル大王の時代」が「古代国家成立の過程」で持っていた意味。条件として,宋の皇帝に官職を求める国際的な立場と「治天下大王」という国内での称号の相違に留意することが求められている。

最初に注意したいのは,「ワカタケル大王の時代」を説明することが問われているのではなく,その時代が「古代国家成立の過程」において持っている意味を説明することが求められている点である。したがって,「古代国家成立の過程」をどのように考えるのか,このイメージをまず固めておく必要がある。もちろん,好き勝手に考えてよいわけではなく,出題者の設定に即して考えていきたい。
第一に注意したいのは,「宋の皇帝に官職を求める国際的な立場と「治天下大王」という国内での称号の相違」という設定であり,なかでも,「天下」(あるいは「天下を治める」)との表現である。第二には,資料文⑴の最後に「こののち推古朝の遣隋使まで中国への遣使は見られない。」との説明が入っている点であり,2009年度第1問を想起したい。
この2点に注目すれば,中国の冊封(あるいは中国皇帝の支配する「天下」)から自立し,独自の支配を主張する君主を首長とする国家が成立していく過程が「古代国家成立の過程」であると判断できる。

続いて資料文の内容を確認していこう。
資料文(1)
・宋の皇帝に官職(官爵)を求め,自称そのものではないにせよ,官職(官爵)を授かった。
ところで,「周辺の国を征服したことを述べ」と書かれているが,「周辺の国」とは具体的にどこを指すのか?
武の上表文のなかで西の「衆夷」や東の「毛人」,さらに「海北」を平らげたことが述べられていることは知っているはず。では,ここで「征服した」と称している「周辺の国」とは,それら全てなのか。もちろん「衆夷」「毛人」「海北」全てを含むものと考えてよいが,宋の皇帝から任じられた官職に列挙されている国々が「倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓」であることを意識すれば,「新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓」,そして百済(宋の皇帝に求めた官職のなかには百済も含まれていたことも知っているはず),つまり朝鮮半島南部の国々をもっぱら指すものと考えておきたい。そして,それらの国々に対する軍事的支配権(軍事指揮権)を宋の皇帝の権威をよりどころに,いいかえれば,中国皇帝の支配(「天下」に対する支配)を前提として確保しようとしたのが,この倭王武の上表であった。
なお,倭王武が478年段階で朝鮮半島南部の国々に対する軍事的支配権(軍事指揮権)を確保しようとした目的,背景はなにか?
高句麗との対抗関係が背景にあったことを知識として持っている人もいると思うが,資料文(4)に参考になる史実が示されている。「475年に百済は高句麗に攻められ,王が戦死していったん滅び,そののち都を南に移した」ことである。
以上をまとめれば,
・高句麗との対立関係のなか,中国皇帝の権威をよりどころに朝鮮半島南部に対する軍事的支配権(軍事指揮権)を確保(正当化)
となる。

とはいえ,「こののち推古朝の遣隋使まで中国への遣使は見られない」ということは,中国皇帝の権威を必要とする事態がなくなった,ということである。朝鮮半島南部から完全に後退し,そこでの勢力・影響力を確保しようという動きが全くなくなったのか,中国皇帝の権威がなくとも(ある程度の)支配権を確保することができたのか。史実としては,そのいずれでもないが,ただ倭国内を対象とすれば中国皇帝の権威をよりどころを必要としない状態が訪れていた,と言える。ただし,それは以下の資料文で扱われる内容である。

資料文(2)〜(4)について。
これらの内容は倭国内が主な対象である。したがって,「「治天下大王」という国内での称号」に関わる資料文である。
資料文(2)
・埼玉県と熊本県の古墳が出土した鉄剣・鉄刀の銘文に「ワカタケル大王」の文字が刻まれている → 大王の称号が(すでに)成立
なお,稲荷山古墳出土鉄剣の銘文が「471年に記されたとする説が有力である」ということは,大王号が「宋の皇帝に官職を求める」という行為をよりどころに成立している,とは必ずしも言えないことを示している(倭王讃以降の「宋の皇帝に官職を求める」という行為が大王号成立の背景にあるのかもしれないが)。
このこと以外に次の2つのデータが書かれている。
・「オワケの臣が先祖以来大王に奉仕」していること
「オワケの臣」が埼玉県稲荷山古墳の被葬者であると考えれば,地方豪族が代々大王に奉仕する,という関係が(一部であれ)できあがっていたことがわかる。
・ワカタケル大王が「天下を治める」,「治天下ワカタケル大王」という表現
大王が支配する地域を「天下」と称していることがわかる。(中国)皇帝の支配する対象が「天下」=全世界であることを考えれば,倭の大王が中国皇帝とは独自の立場から,全世界(とりあえずは倭の支配権・影響力が及ぶ地域に限られるが)の支配者・統治者であると自己主張していることがわかる。もっとも,埼玉県稲荷山古墳出土鉄剣の銘文が記されたと考えられるのが「471年」で,倭王武=ワカタケル大王が宋の皇帝に官職を求めた「478年」よりも以前であることを考えれば,「治天下大王」との呼称は中国皇帝に対して示すものではなかったことがわかる。

資料文(3)
「雄略天皇を「大泊瀬幼武〔おおはつせわかたける〕天皇」と記している」とあることから,日本書紀・古事記に記されている雄略天皇の伝承がワカタケル大王の事績を反映したものと考えればよい。受験生の知識からすれば,分かり切ったことかもしれないが。
・中央の葛城氏や地方の吉備氏を攻略した → 大王に比肩する有力豪族の勢力を抑制

資料文(4)
・475年に百済は高句麗に攻められて滅亡,のち都を南に移して再興
これについては,資料文⑴のところで既に活用した。
・この戦乱によりさまざまな技術が渡来人によって伝来=ヤマト政権は彼らを部に組織 → 政府組織(統治組織)の整備
渡来人の技術を(ほぼ)独占的に組織することによって,各地の豪族に対する優位性を確保し,彼らに対する支配的地位を確保。

以上,国内に関する事績をまとめれば,各地の豪族を支配下におさめてその奉仕(仕奉)を組み込み,渡来人の技術を取り入れながら政府組織(統治組織)を整え,「治天下大王」という独自の君主号が成立した(していた)のがワカタケル大王の時代である。端的にまとめれば,ワカタケル大王の時代は推古朝以降につながる古代国家の出発点だったと言える。

なお,「治天下…大王」については,山川『新日本史』に以下のような説明がある。

関東や九州の豪族が,ヤマト政権の組織に組み込まれているだけでなく,銘文に「治天下……大王」とか「天下を治むるを左く」とあることから,臣下となっている宋皇帝中心の天下とは別に,倭の大王中心の「天下」(あめのした)が独自に形づくられ,大王のもとに中国の権威から独立した秩序がつくられていることもわかった。


(解答例)
ワカタケル大王は高句麗との対立関係のなか,中国皇帝の権威をよりどころに朝鮮南部での軍事的支配権を確保する一方,有力豪族を抑制しながら関東から九州にいたる地方豪族の奉仕を組み込み,渡来人のもつ技術を取り込んで政府組織を整えた。こうして支配地域を独自に「天下」と称する国家意識と独自の君主号が整い,中国皇帝とは独自な支配秩序をもつ古代国家が成立する出発点となった。(180字)


【添削例】

≪最初の答案≫

ワカタケル大王は国内的には有力豪族を武力で制圧し,関東から九州までの豪族を支配下に置き,百済からの渡来人も技術者として用いた。国際的には高句麗との関係が緊張する中,宋皇帝に朝貢し冊封を受けることで朝鮮半島における影響力を強化させようとした。「治天下大王」と称したことで中国皇帝の権威によらず,中華帝国中心の支配秩序とは別の古代帝国国家を形成する端緒となった。

個々の文は内容的に妥当です。
しかし,3つの文がそれぞれどのように関連しているのかが読み取れません。
「宋皇帝に朝貢し冊封を受けることで朝鮮半島における影響力を強化させようとした」ことは,「中国皇帝の権威によらず,中華帝国中心の支配秩序とは別の古代帝国国家を形成する端緒となった」ことと,どのように関連するのでしょうか。

≪書き直し≫

ワカタケル大王は国際的には高句麗との関係が緊張する中,宋皇帝に朝貢し冊封を受けることで朝鮮半島における影響力を強化させようとしつつ,国内では有力豪族を武力で制圧し関東から九州までの豪族を支配下に置き,百済からの渡来人も技術者として用いた。こうして,「治天下大王」と称したことで中国皇帝の権威によらず中華帝国中心の支配秩序とは別の古代国家形成の端緒となった。

OKです。