年度 2013年

設問番号 第1問


次の⑴~⑷の文章を読んで,下記の設問に答えなさい。

⑴ 『宋書』には,478年に倭王武が宋に遣使し,周辺の国を征服したことを述べ,「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王」に任じられたと記す。こののち推古朝の遣隋使まで中国への遣使は見られない。
⑵ 埼玉県の稲荷山古墳から出土した鉄剣の銘文には,オワケの臣が先祖以来大王に奉仕し,ワカタケル大王が「天下を治める」のをたすけたと記す。熊本県の江田船山古墳出土の鉄刀銘にも「治天下ワカタケル大王」が見える。前者の銘文は471年に記されたとする説が有力である。
⑶ 『日本書紀』には,雄略天皇を「大泊瀬幼武〔おおはつせわかたける〕天皇」と記している。「記紀」は,雄略天皇をきわめて残忍な人物として描き,中央の葛城氏や地方の吉備氏を攻略した伝承を記している。
⑷ 475年に百済は高句麗に攻められ,王が戦死していったん滅び,そののち都を南に移した。この戦乱で多くの王族とともに百済の人々が倭に渡来した。さまざまな技術が渡来人によって伝えられ,ヤマト政権は彼らを部に組織した。

設問
5世紀後半のワカタケル大王の時代は,古代国家成立の過程でどのような意味を持っていたか。宋の皇帝に官職を求める国際的な立場と「治天下大王」という国内での称号の相違に留意しながら,6行以内で説明しなさい。


解法のヒント