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年度 2013年

設問番号 第2問

テーマ 奥州藤原氏政権と源頼朝政権/中世


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問われているのは,奥州藤原氏はどのような姿勢で政権を維持しようとしたか。条件として,京都の朝廷および日本の外との関係にふれることが求められている。

資料文のなかで奥州藤原氏に触れているのは⑴,⑶,⑸であるが,そのうち,「京都の朝廷および日本の外との関係」に触れているのは⑴と⑸である。この2つを中心に考えていこう。

まず「京都の朝廷」との関係について。
資料文(1)
・中尊寺=「鎮護国家の大伽藍」
・天皇・上皇・女院らの長寿と五畿七道の官・民の安楽を祈願
→「京都の朝廷」の安泰を図る,という姿勢を示す
資料文(5)
・奥州の貢物は奥州藤原氏から京都へ直接納められていた
→「京都の朝廷」に対して貢物を納めることにより,京都の朝廷との安定した関係を確保
ところで,この貢物(貢納するさまざまな品物)とはどのような内容をもつと考えられるか?資料文⑴に「自己を奥羽の蝦夷や北方の海洋民族を従える頭領と呼び」と書かれていることに注意すれば,「従え」ている蝦夷や北方の海洋民族から得た品々を想定することができる。

次に「日本の外」との関係について。
資料文(1)
・「奥羽の蝦夷や北方の海洋民族を従える頭領」と自称
→「奥羽の蝦夷」は直接の支配下にある人々であり,これは「日本の外」とは言えないが,「北方の海洋民族」は蝦夷よりも北方に居住・活動している人々だと考えられるので,こちらを手がかりとして「日本の外」との関係を考えればよい。もしかすると奥州藤原氏が「日本の外」の海洋民族をも支配下におさめていたのかもしれないが,ここは交易を行っていたと考えるのが適当だろう。
蝦夷(そもそも朝廷の支配に服属していない人々に対する朝廷側からの呼称)にせよ,「日本の外」の北方の海洋民族にせよ,京都の朝廷が直接服属させることのできていない人々である。彼らが産する品々が貢物として朝廷にもたらされることは,朝廷にとっては「奥羽の蝦夷や北方の海洋民族」の服属を観念的に示すものであり,奥州藤原氏はそれらの支配者を称することにより,朝廷の政治秩序のもとでの自らの位置を確保しようとしていたと言える。

それ以外に資料文からうかがえることがら。
資料文(5)に,平泉について「整った都市景観と豊富な財宝」との記述がある。なかでも,頼朝が「鎌倉の都市建設にあたって平泉を手本とした」と言うのだから,「整った都市景観」に注目したい。
平泉の「都市景観」がどのようなものであったかについては知識がほとんどないだろう。しかし,源頼朝による「鎌倉の都市建設」のモデルになったとの指摘を手がかりとすれば,地方の半ば独立政権の拠点(首都)としてふさわしい計画都市であったことが推測できる。実際,柳之御所とも称される政庁を中心に一門の屋敷や倉庫などが建ち並び,大通りも整備されていた,という。
つまり,古代律令国家における都城と同じく,壮大な計画都市を建設することによって政権(地域政権)としての威容を人々に示していた,と言える。


問われているのは,頼朝政権が,全国平定の仕上げとして奥州藤原氏政権を滅ぼさなければならなかったのはなぜか。条件として,朝廷の動きを含めることが求められている。

問題文の冒頭に,「12世紀末の日本では,西国を基盤とする平氏,東国を基盤とする源頼朝,奥羽を基盤とする奥州藤原氏の3つの武家政権が分立する状態が生まれ,最後には源頼朝が勝利して鎌倉幕府を開いた」とあることを考えれば,
奥州藤原氏政権が頼朝政権とは独立した政権であったこと,
平氏政権を滅ぼしたあとは,頼朝政権に対抗しうる武家政権は奥州藤原氏政権だけだったこと,
の2点を指摘した解答がありえそうだ。
しかし,これでは「朝廷の動き」が含まれていない。少なくともそれを奥州藤原氏政権に関連づけたい。
「朝廷の動き」については資料文には明示されていないが,平氏滅亡後,後白河法皇が頼朝政権の強大化を恐れ,源義経に頼朝追討を命じたことは知っているはずだ。その直後の事態が資料文(3)であることは言うまでもない。
さらに,奥州藤原氏政権が京都の朝廷と独自な結びつきを(歴史的に)もっていたことは,設問Aで確認した(資料文(5))。その奥州藤原氏政権は,頼朝の圧力によって朝廷から義経追討が命じられて以降も義経をかくまい(資料文⑶の後半),頼朝政権に従わない姿勢をみせていた。
こうした情勢を考えれば,頼朝政権にとって奥州藤原氏政権を滅ぼすことは,朝廷(後白河法皇)と奥州藤原氏政権が直接結びついて自らの脅威になることを取り除くを意味していたことがわかる。実際,朝廷と奥州藤原氏政権との直接的な結びつきを頼朝政権がいやがっていたことが,資料文(5)の「はじめ,奥州の貢物は奥州藤原氏から京都へ直接納められていたが,1186年,頼朝は,それを鎌倉を経由する形に改めさせた」との記述からうかがえる。

なお,奥州藤原氏政権が滅ぼされたのは義経が殺害された後のことなので,奥州藤原氏が義経をかくまったことそのものは答案のなかに含めなくともよい。

<参考> 奥州合戦が頼朝政権にとって,源頼義の由緒に仮託することによって頼朝の地位を正統化(伝統化)する作業であった側面を指摘してもよいかもしれない。挙兵以来,戦時において作り上げてきた東国などの武士団との主従関係を安定させ,永続化させるためのプロセスだったのだから。


問われているのは,頼朝政権が最初の安定した武家政権(幕府)となりえたのはなぜか。その際,地理的要因と武士の編成のあり方の両面から説明することが求められている。
最初に注意しておきたいのは,「平氏政権と異なって」と書かれている点である。つまり,平氏政権と頼朝政権とを対比しながら考えていけばよいことがわかる。なお,平氏政権との対比が直接求められているわけではないので,平氏政権のあり方まで答案のなかに書き込まなくともよい。

まず,地理的要因について。
平氏政権は京都(六波羅)または福原を拠点としたのに対し,頼朝政権は鎌倉を拠点とした。
両者の違いは,京都の朝廷からの遠さ,と言えるかもしれない。しかし,京都の朝廷との距離が遠いからと言って,それだけの理由で安定した(地域)政権となりえるわけではない。
では,源頼義以降,河内源氏がもっていたとされる東国武士団との結びつきか?
しかし,その結びつきも平治の乱で断たれており,伊豆に配流された源頼朝には,その基盤となる武士団が強固なかたちで東国に存在していたわけではない。それゆえ,資料文(2)にあるように,参陣した「東国武士団の族長たち」が頼朝の行動を抑制し,(頼朝が意図する)上洛よりも東国の平定を優先させる事態となったのである。
とはいえ,このことが頼朝政権の基盤を安定させる結果となる。朝廷への反乱という形式を維持したまま,東国武士団の実力によって東国諸国を制圧し,国司や荘園領主(資料文(4)の表現を使えば「領家」)をさしおいて所領支配の権利を保証していく。敵方の所領を軍事占領して支配下に組み込み,味方どうしの所領(本領)を相互に尊重しあう,という体制が実力で形成されていき,その結果,頼朝政権の朝廷からの自立性(独立性)が確保されることとなったのである。 これが「東国ゆえ」なのかは,不明としか言いようがない。しかし,上洛して京都に拠点を構えず(構えようとせず),朝廷と距離をおき,朝廷への反乱という形式を維持したことが頼朝政権の安定性につながったことは確かである。

続いて,武士の編成のあり方に移ろう。
東国を制圧するなかで頼朝と「東国武士団の族長たち」との主従関係が形成されていったことは,先に確認した通り。そして,東国での所領保障は「国司・領家が私の「恩」として」認めたものではなく,頼朝政権のもと,国司・領家をさしおいて実施されたものであることも,先に確認した。
これだけでも,資料文(4)に記された,平氏政権のもとでの武士の編成(家人の地頭への補任)のあり方とは異なる。
それだけではない。
資料文(3)にあるように,1185年以降,「御家人を守護・地頭に任じて軍事・行政にあたらせる」ことは「朝廷の認可」を経たシステム,つまり国家的(あるいは公的)な制度となった。東国での挙兵以来,実力で行ってきたこと(敵方所領没収・没収地給与)を朝廷に追認させつつ,同時に,朝廷中心の政治秩序のもとに頼朝政権を組み込み,そういう形で朝廷と頼朝政権の安定した関係を確保したのである。
「1185年の守護・地頭補任の勅許」をどのように判断するのかについては諸説あるが,この時期前後に謀叛人跡(敵方所領)への地頭補任をめぐって朝廷と頼朝政権の合意が形成され,地頭補任が一斉に展開していくともされる(高橋典幸「地頭制・御家人制研究の新段階をさぐる」『歴史評論』714号を参照)。


(解答例)
A奥州藤原氏は蝦夷を支配し北方交易を掌握する政権としての威容を示す一方,朝廷に貢物を納め,その安泰を支える姿勢をとった。
B後白河院が源頼朝に対抗する動きをみせる一方,奥州藤原氏政権は頼朝政権からの自立性を保ち,朝廷とも独自に結びついていた。
C頼朝政権は朝廷から距離をおき,東国を制圧するなかで武士を主従制下に編成し,国司・領家をさしおいて所領支配を保障したうえで,朝廷の認可を獲得してその主従制を公的な制度として整えた。


【添削例】

≪最初の答案≫

A奥州藤原氏は自らを蝦夷や北方民族の支配者と位置付ける一方で朝廷には貢物を納め、その安楽を祈願するなど服従姿勢をとった。

B後白河法皇が頼朝追討を図る一方、奥州藤原氏は朝廷と結びついており、義経が頼るなど、頼朝にとって脅威になる存在だった。

C頼朝政権は朝廷のある京都から離れた鎌倉を根拠地とし、武力で東国を制圧して政治的基盤を確立し、平氏政権の私的なものとは違い朝廷の認可を経た公的な所領安堵を保障する主従関係を作った。

Aについて。
奥州藤原氏についての説明としては妥当です。
しかし、前半部(「自らを蝦夷や北方民族の支配者と位置付ける」)がどのように「政権を維持」することと関連するのかが表現できていません。その点を明確化させましょう。

Bについて。
まず、頼朝が奥州藤原氏を滅ぼそうとした時点では、後白河法皇は頼朝追討を図ってはいません。そのことを念頭においた表現をもちいて説明したい。
次に、「義経が頼る」だけでは「頼朝にとって脅威となる存在」であることを具体的に説明できていません。朝廷との結びつき以外に、奥州藤原氏のどういった点が脅威だったのですか?

Cについて。
「平氏政権の私的なものとは違い」と書いていますが、資料文⑵の「東国の平定が先です」という東国武士の発言や、資料文⑷の「国司や領家が」の部分を活用しましたか?
そもそも頼朝は、寿永二年十月宣旨を得る前から、御家人の所領支配を保障していたのではありませんか?それは「朝廷の認可を経た公的な所領安堵」なのですか?

≪書き直し≫

A奥州藤原氏は自らを蝦夷や北方民族の支配者としめ権威付け、朝廷には貢物を納め、その安楽を祈願するなど服従姿勢をとった。

B後白河法皇が頼朝に敵対姿勢をとる一方、奥州藤原氏は朝廷と結びついて頼朝政権から自立しており、脅威となる存在だった。

C頼朝政権は朝廷から離れた鎌倉を根拠地に、武力で東国を制圧する中で東国武士との主従関係を構築し、国司や領家を媒介とした所領支配を無視し、後に朝廷の認可を得て主従関係を公的にした。

> A
> 「政権を維持」することとの関連は、蝦夷や北方民族の支配者として「権威付け」したということでしょうか。

> B
> 奥州藤原氏が脅威であった点は「頼朝政権から自立していた」ことだと考えました。

> C
> 「国司や領家が」の部分の活用がよくわかりませんでした。単に「国司や領家の所領関係を無視し」たということでしょうか。

Aについて。
「権威付け」との表現でもいいと思うのですが、「威勢(威容)を示す(誇示する)」などとも表現できます。

Bについて。
今度は、源義経が頼った点が答案から消えてしまいましたね。
朝廷から追討命令を受けた義経が頼ったことから、奥州藤原氏がどのような存在だったとわかるかを説明したい。

Cについて。
「国司や領家を媒介とした所領支配を無視し」の部分が文意不明です。
誰が「国司や領家を媒介とした所領支配」を行っていたのですか?東国武士たちは「国司や領家」から郷司・保司や荘官に任じられることで所領支配を確保していたのではありませんか?
一方、頼朝は東国武士の所領支配をどのようにして保障したのですか?それを十月宣旨が出される以前の段階で考えてみましょう。

≪書き直し2回目≫

A奥州藤原氏は蝦夷や北方民族を支配して威容を示し、一方で朝廷には貢物を納め、その安楽を祈願するなど服従姿勢をとった。

B後白河法皇が頼朝に敵対姿勢をとる一方、義経の頼った奥州藤原氏は朝廷と結びついて頼朝政権から自立しており、脅威であった。

C頼朝政権は朝廷から離れた鎌倉を根拠地に、東国を制圧する中で東国武士と主従関係を結び、国司や領家に代わり所領支配を保障した。後に朝廷の認可を得て東国武士団との主従関係を公的にした。

Aについて。
「…を支配して威容を示し」との表現ですが、
支配することそのものが威容を示すことではなく、支配していることを根拠として威容・威勢を示すわけですから、
政権維持のための姿勢を表現するには「…を支配して威勢を誇り」、「…の支配者として威容を示し」くらいの方が適切です。

Bについて。
朝廷から追討命令をうけた義経が頼った点から、
奥州藤原氏が頼朝に対抗しうるだけの軍事力をもっていたと判断したい。

Cについて。
「国司や領家に代わり」でも構いませんが、
国司や領家の支配権の及ぶ地域であるにも関わらずという意味合いを示したい。
その意味では「国司や領家をさしおいて」などと表現するのが適切です。

以上、修正すべき点はありますが、OKです。