年度 2013年

設問番号 第2問


12世紀末の日本では,西国を基盤とする平氏,東国を基盤とする源頼朝,奥羽を基盤とする奥州藤原氏の3つの武家政権が分立する状態が生まれ,最後には源頼朝が勝利して鎌倉幕府を開いた。このことに関連する⑴~⑸の文章を読んで,下記の設問A~Cに答えなさい。

⑴1126年,藤原清衡は,平泉に「鎮護国家の大伽藍」中尊寺が落成した際の願文において,前半では自己を奥羽の蝦夷や北方の海洋民族を従える頭領と呼び,後半では天皇・上皇・女院らの長寿と五畿七道の官・民の安楽を祈願している。
⑵ 1180年,富士川で平氏軍を破り上洛しようとする頼朝を,東国武士団の族長たちは,「東国の平定が先です」と言って引き止め,頼朝は鎌倉に戻った。
⑶ 1185年,頼朝は,弟義経の追討を名目に,御家人を守護・地頭に任じて軍事・行政にあたらせる権限を,朝廷にせまって獲得した。その後義経は,奥州藤原氏のもとへ逃げこんだ。
⑷ 地頭は平氏政権のもとでも存在したが,それは朝廷の認可を経たものではなく,平氏や国司・領家が私の「恩」として平氏の家人を任じたものだった。
⑸ はじめ,奥州の貢物は奥州藤原氏から京都へ直接納められていたが,1186年,頼朝は,それを鎌倉を経由する形に改めさせた。3年後,奥州藤原氏を滅ぼして平泉に入った頼朝は,整った都市景観と豊富な財宝に衝撃を受け,鎌倉の都市建設にあたって平泉を手本とした。

設問
A 奥州藤原氏はどのような姿勢で政権を維持しようとしたか。京都の朝廷および日本の外との関係にふれながら,2行以内で述べなさい。
B 頼朝政権が,全国平定の仕上げとして奥州藤原氏政権を滅ぼさなければならなかったのはなぜか。朝廷の動きを含めて,2行以内で述べなさい。
C 平氏政権と異なって,頼朝政権が最初の安定した武家政権(幕府)となりえたのはなぜか。地理的要因と武士の編成のあり方の両面から,3行以内で述べなさい。


解法のヒント