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年度 2015年

設問番号 第3問

テーマ 大坂・江戸間の商品流通/近世


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問われているのは,1724年から30年までの7年間,繰綿・木綿・油・醤油・酒の5品目が,大坂から江戸へ大量に送られている事情。条件として,生産・加工面と運輸・流通面とに留意することが求められている。

対象時期が「1724年から30年までの7年間」とせまいものの,18世紀前半くらいの少し広めの時期設定で考えてよい。
この時期を対象とすれば,大坂と江戸に関する,次のような知識を引き出してくることができる。
すでに東・西廻り海運(航路)が整備されて大坂が諸国物資の集散地(天下の台所)という地位を確立しており,江戸の十組問屋,大坂の二十四組問屋という,大坂・江戸間の荷物を扱う問屋の連合組織も組織されている(後者は,大量の物資が大坂から江戸へ輸送されるようになった結果だが)。
さらに,江戸は幕藩領主を中心として巨大な消費人口を抱えているものの,江戸地廻りがそれに対応できるだけの生産力をもっておらず,大坂・京都など上方が生産・供給する高級品に依存する度合いが強い段階である。
これらの知識で,条件であげられている「生産・加工面と運輸・流通面」は書けてしまいそうだが,それでは資料文が出されている意味がない。資料文の内容を読み解いていこう。⑴は,繰綿・木綿・油・醤油・酒の5品目が大坂から江戸へ大量に送られている様子を示している資料なので省き,残りの資料文を確認しよう。


江戸時代を通じて一般的なことがら
◦綿や油菜(菜種)=温暖な西日本で盛んに栽培されている …ア
◦綿や油菜(菜種)=衣料や灯油の原料 …イ

◦繰綿=繰屋が綿花から種子(綿実)を器具で取り除く→流通 …ウ
◦繰綿や木綿=東北地方へも江戸などの問屋・商人を介して送られる …エ
◦東北地方=綿が栽培されない …オ

◦灯油=摂津の灘目に水車で大規模に生産する業者が出現 …カ
◦九十九里浜(上総)などで作られる魚油=質が劣る …キ

ア,イ,ウ,カからわかるのは次のことがら。
西日本…綿や油菜の栽培,繰綿・木綿や灯油への加工が盛ん

ところで,江戸地廻り(関東地方)での綿や菜種の栽培はどうだったのか。
アで,綿(綿花)や油菜(菜種)の栽培・生産が西日本で盛んであることは書かれ,オに,東北地方で綿が栽培されていないことは書かれているものの,関東地方の様子は書かれていない。アの「温暖な」西日本という表現から推測すれば関東地方はそれほど盛んではないと想像できるし,そもそも大坂から繰綿や木綿,灯油が大量に送られていることから,関東地方では江戸での莫大な消費需要をみあったほどの栽培・生産が行われていなかったことがわかる。
したがって,綿や油菜の栽培とそれらの加工が盛んなことは,西日本の地域的な特性と捉えてよい。

カとキからわかるのは次のことがら。
大坂近郊で生産される灯油…大量かつ高品質
つまり,江戸での需要を量的にも質的にもまかなうことができたのは,大坂(近郊)の品物であったことがわかる。

エからわかるのは次のことがら。
江戸から東北地方への運輸・流通が円滑に行われている
東北地方と言っても,どこを指しているのかは不明である。しかし,限定が付けられていないことを考えれば,東北地方全域を想定してよい。最初に確認したように,すでに東廻り海運は整備され,江戸と東北地方とを結ぶ海運は円滑化している。そのことを示しているものと推論できる。

ここで,ひるがえってアを見てみたい。「西日本」とだけ書かれてあり,大坂周辺と限定されていない。ここから,西日本各地から大坂への運輸・流通も円滑であった状況を想定したい。
さらに,灯油や醤油,酒といった重量のある物資は陸運では運びづらいことを念頭におけば,大坂・江戸間の海運が整備されていて初めて,大坂から江戸へのこれらの物資の大量な流通が可能であることもわかる。すでに菱垣廻船は運航しており,樽廻船も登場している。
ちなみに,西日本各地から大坂へ,そして大坂から江戸へと向かう海運は西廻り海運であり,それがすでに整備されていることは,すでに確認した。

ところで,以上の考察には「醤油・酒」がなぜ大坂から江戸へ運ばれたのか,その事情についての説明が含まれていない。
これは知識あるいは推論で対応するしかない。
酒については,樽廻船が酒を大坂から江戸へ運ぶ専用の廻船として登場したことから考えれば,西日本,あるいは大坂近郊のほうが量的にも質的にも優れていたことは想像がつく。実際,酒は摂津の伊丹や池田で盛んに作られ(のち摂津の灘や山城の伏見でも作られる),江戸では下り酒として人気を博した。
醤油については,山川『詳説日本史』でも「西日本で早くからつくられた醤油」と書かれている程度なので,知識がほぼないのではないか。とはいえ,ここまでくれば醤油もおそらく西日本,あるいは大坂近郊のほうが量的にも質的にも優れていたのだろう,と推論できるだろう。ちなみに,当時は紀伊の湯浅,播磨の竜野などで盛んに作られていた。もっとも17世紀後半から下総の野田や銚子でも醤油醸造が始まり,江戸後期には下り醤油を圧倒するようになった。


問われているのは,炭・薪・魚油・味噌の4品目がとるに足らない量で,米も江戸の人口に見あった量は送られていないのはなぜか。炭など4品目と米とを区別して説明することが求められている。

まず,炭など4品目について。
資料文⑵〜⑷では,魚油以外は全くふれられていないので,知識あるいは推論で対応するしかない。
その際の手がかりは魚油である。
⑷によれば,魚油は「上総の九十九里浜など」で生産されている(キ)。つまり,魚油は江戸地廻りで生産されている。
ここから,炭・薪・魚油・味噌の4品目は江戸地廻り(関東地方)で生産され,江戸での消費需要にみあった量だけ供給されている,との推論が成り立つ。
なお,味噌については教科書に記載はないが,山川『詳説日本史』には,炭・薪について次のように書かれている。
「山は,化石燃料が普及する以前の,ほぼ唯一の燃料エネルギー源である薪や炭の供給源であった。これらの薪や炭は,近隣の城下町などで大量に販売された。」

次に,米について。
東北地方と江戸を結ぶ東廻り海運が,もともと東北地方の幕領(陸奥の信夫・伊達)から江戸への米の輸送を目的として整備されたことを思い起こせば,関東・東北の幕領や諸藩から相当量の年貢米が江戸に廻送されていたことがわかる。大坂から大量の米を廻送せずとも,江戸での需要をまかなえる米を量的に確保できていたのである。もちろん,それに不足があるから大坂からも廻米があったわけだが。


(解答例)
A西日本では地域的特性から綿や油菜の栽培,繰綿・木綿の加工が盛んで,良質な油・醤油・酒が大量生産されたうえ,東・西廻り海運が整備され,大坂から江戸,東北への物資輸送も円滑であった。(90字)
B炭など4品目は江戸地廻りで生産され,米は関東・東北の幕領や諸藩から年貢米が廻送され,江戸の消費にみあった供給があった。(60字)


【添削例】

≪最初の答案≫

A東日本よりも西日本で生産の盛んだった商品やより良質な加工品が,二十四組問屋の仲間によって独占的に,西廻り航路や東廻り航路などの海運で江戸に運ばれ,江戸や東北地方に流通した。

B米は東日本の藩から幕府への年貢米があり,米以外の4品目は関東近郊で生産可能であり,江戸での需要に見合う供給が存在した。

Aについて。
まず,「二十四組問屋の仲間によって独占的に」の箇所です。
享保期から樽廻船が登場したことを知っていますか?
菱垣廻船とは別に,大坂から江戸へと酒を運んだ廻船で,これは江戸へと酒を積み出す問屋が運行させていました。ところが,二十四組問屋は菱垣廻船に乗せる船荷を仕入れる問屋です。 この点を考慮に入れると,二十四組問屋による独占と表現するのは避けたいところです。

次に,「西廻り航路や東廻り航路などの海運で江戸に運ばれ」とありますが,大坂から江戸のあいだは西廻り航路(海運)です。東廻り航路(海運)が該当するのは,江戸から東北地方への流通についてです。
ところが,君の文章だと「西廻り航路や東廻り航路などの海運で」は「江戸に運ばれ」に係っており,そのあとに読点が打たれているため,「江戸や東北地方に流通した」には係っていないように読めます。
文章構成を考え直しましょう。

Bについて。
「米は東日本の藩から幕府への年貢米があり」と書いていますが,諸藩から幕府へ年貢米が納められることはありませんよ。

≪書き直し≫

A東日本よりも西日本で生産の盛んだった商品やより良質な加工品が,二十四組問屋や十組問屋の仲間により,西廻り航路で江戸へ運ばれ,東廻り航路で江戸から東北地方へと流通した。

B米は東日本の諸藩からの年貢米があり,米以外の4品目は関東近郊で生産可能であったので,江戸の需要に見合う供給が存在した。

> A
> 問屋は二十四組問屋と十組問屋でしょうか。
> 海運のところは、「西回り航路で大阪から江戸へ運ばれ、東回り航路で江戸から東北地方へ流通した」としました。
> B
> 「幕府」を除きました。

Aについて。
先のメールで樽廻船の存在を指摘しましたが,それは菱垣廻船に関連する十組問屋(江戸)や二十四組問屋(大坂)といった具体的な問屋仲間を答案のなかに入れることによって厳密さがなくなることを指摘したいがためでした。
もともと十組問屋は大坂へ品物を注文し,江戸へと仕入れる問屋の仲間ですが,基本的に菱垣廻船にからむ問屋仲間なのに対し,享保期には酒を扱う問屋仲間が脱退して樽廻船を利用するようになっています。ですから,二十四組問屋や十組問屋に限らずに説明するのが妥当です。

Bについて。
「東日本の諸藩からの年貢米があり」と書いていますが,幕領からの年貢米は江戸には入ってこないのでしょうか?
その点を指摘していないと,東日本の諸藩から幕府へ年貢米が納められたと理解しているとも読めてしまいますよ。

≪書き直し2回目≫

A東日本よりも西日本で生産の盛んだった商品やより良質な加工品が,問屋の仲間によって西廻り航路の南海路で江戸へ運ばれ,東廻り航路で江戸から東北地方へと運ばれ,流通した。

B米は東日本の諸藩や幕領からの年貢米があり,米以外の4品目は関東近郊で生産が可能で,江戸の需要に見合う供給が存在した。

A・BともにOKです。
ちなみに,大坂・江戸間の海運は,いまでは南海路と呼ぶことがほぼありません。