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年度 2016年

設問番号 第1問

テーマ 律令制下の国司と郡司/古代


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問われているのは,郡司が律令制のなかで特異な性格をもつ官職といわれる歴史的背景。
まず郡司という官職のもつ「特異な性格」を確認しておく。
それを説明したのが資料文⑵である。(ア)任期の定めのない終身の官職であること,(イ)官位相当制の対象ではないこと,(ウ)職分田(職田)の支給額が多いこと,の3点が書かれており,このうち,(ア)と(イ)は律令制の官僚制原理に基づかないという点で,郡司の「特異な性格」を象徴している。
(ところで,任期がないこと,官位相当制の対象ではないことと,職分田の支給額が多いこととが,逆接の接続表現でつなげられている。両者は相反する内容をもっていると理解せよと出題者は言っているのか?)

とはいえ,「特異な性格をもつ官職」の内容を説明することは問われておらず,郡司がそのような官職であった歴史的背景が問われている。
その背景は,政府の政策・姿勢にあった。
政府は,国造など現地の豪族(国造層)をはじめ評の役人(資料文⑴),のち郡司に任用した。その際,彼らが地域社会に対して実質的(共同体的)な支配力をもってきていたことに注目し,その支配力を中央政府による地域支配の実現に活用しようとした。そのため,郡司に任用される人々には大幅に既得権を認めた。それが上記の(ア)と(イ)である。


問われているのは,国司と郡司とが①8世紀初頭にどのような関係にあったか,②それが9世紀にかけてどのように変化したか。
知識だけでも対応できなくはないが(『日本史の論点』トピック3論点2・3),資料文に即して考えていこう。

①8世紀初頭:資料文⑶,⑷の前半,⑸の前半が素材として使える。
資料文⑶
○国司・郡司が誰もいない正殿に向かって拝礼 ……(エ)
○国司長官が次官以下と郡司から祝賀をうける ……(オ)
○郡司は,国司と道で会ったときは,位階の上下にかかわらず馬を下りる礼をとる ……(カ)
資料文⑷
○郡家に,田租や出挙稲を蓄える正倉がおかれた
 →そのなかに郡司が管轄する郡稲もあった ……(キ)
資料文⑸
○郡司には,中央で式部省が候補者を試問した上で任命した ……(ク)
(資料文⑴の表現を使えば,都での政府の審査を経て任命された)

②9世紀にかけての変化:資料文⑷の後半,⑸の後半が素材として使える。
資料文⑷
○国司の単独財源である正税が成立=正倉にある郡稲や他のいくつかの稲穀を統合 ……(ケ)
資料文⑸
○国司が推薦する候補者をそのまま郡司に任命(→新興の豪族が多く任命されるようになった) ……(コ)

以上から,まず①8世紀初頭における関係を確認する。
(エ)と(ク)より,天皇から任命される官職としては対等であったことがわかる。
ところが,(オ)(カ)から,郡司は国司,とりわけ国司長官の身分的な従属下にあったことがわかる。
そして,(キ)から,郡司は伝統的な支配力を引き継ぎ,人民から徴収された田租(や出挙稲)の一部を郡稲として管理・運用することがゆだねられていた。

続いて,②9世紀にかけての変化である。
(ケ)は,郡司の伝統的な支配力,それを反映した裁量権が奪われ,地域社会に対する国司の支配力が強化されたことを示している。
(コ)は,郡司の任命権が実質的に国司のもとに移り,新興の豪族が多く任命されることによって国造層の伝統的な豪族の勢力が後退していったことがわかる。
まとめれば,地域社会が国司の統制・支配下におかれ,伝統的な秩序の残る地域社会のなかに律令制が本格的に浸透していった,と言えるだろう。このことを国司と郡司の関係に即して表現すれば,国司による支配が強まって郡司の権力・支配力が奪われ,国司の統制下に従属的に編成されていった,ということになる。


(解答例)
A政府は大化の改新以降,国造など現地の豪族がもつ地域社会への支配力に依拠し,律令制に基づく地域支配の実現をはかっていた。(60字)
B8世紀初頭,国司が郡司より身分的に上位だが,国司と郡司は天皇任命の官職として対等で,郡司が租税の管理・運用に裁量権をもった。しかし次第に租税の管理・運用の裁量権や郡司の実質的な任命権を国司が握り,9世紀には国司が郡司を支配下に従属させた。(120字)
(別解)B8世紀初頭,郡司は国司の身分的な下位にありつつ,天皇任命の官職としては国司と対等であり,租税の管理・運用に裁量権をもった。しかし9世紀にかけて,租税の管理・運用の裁量権,郡司の任命権を国司が掌握し,郡司は国司の支配下に従属的に編成された。(120字)


【添削例】

≪最初の答案≫

A郡司は旧国造層から世襲で任命されており、地方への影響力が強かったので、政府は郡司の影響力を地方支配に利用した。

B8世紀初頭は、身分的には国司が郡司より上位だったが、地方支配の面では国司は郡司に依存した。国司が次第に郡家の管理も行うようになったり9世紀には郡司の任命権も国司が掌握するようになったりして、郡司は弱体化し、国司より完全に下位となった。

Aについて。
論理が堂々巡りしていますよ。
「郡司は旧国造層から世襲で任命されており」と書いていますが、任命の主体は誰(もしくは何)ですか?天皇(もしくは政府)ですよね?
では、なぜ天皇(政府)は旧国造層を郡司に(実質的な)世襲制のもとで任命したのですか?
そもそも、郡司という官職のもつ特異な性格の「歴史的」背景が問われているのに、どうして郡司を説明すればよいと判断したのですか?

この答案を対面で添削していたら、何のコメントもなしに突き返していますよ。

Bについて。
資料文⑶の第1文「国府の中心にある国庁では,元日に,国司・郡司が誰もいない正殿に向かって拝礼した」を活用しましたか?

次に、答案には「国司が次第に郡家の管理も行うようになったり」と書いていますが、「郡家の管理」となぜ判断しましたか?
資料文⑷の「国司の単独財源…(中略)…が成立した」という部分をどのように考えますか?

≪書き直し≫

A律令制に基づく地方行政を目指したが中央集権化が不十分で、国造などの現地の有力者が支配した律令制以前の構造を継承した。

B8世紀初頭、国司は身分的に郡司より上位で、天皇の代理としての国司に郡司が服属し、一方で、国司は郡司の伝統的支配力に依拠して地方行政を行った。しかし、郡司の権力を国司が次第に吸収していき、郡司は弱体化した国司を補助するだけの存在となった。

> 質問の回答です。
> 天皇が旧国造層を任命した理由...中央集権化が不十分だったから。
> 資料文(3)第一文は、天皇に向かって国司、郡司が服属を示すために拝礼したと考えました。
> 資料文(4)は、国司が郡司の権力を吸収していったと考えました。

Aについて。
「中央集権化が不十分」なのは、律令政府にとって「歴史的」背景ですか?同時代的な、構造的な背景ではありませんか?

ところで、資料文⑴は活用しましたか?これは、律令制のもとでのエピソードですか、それとも、律令制以前のエピソードですか?

Bについて。
> 資料文(3)第一文は、天皇に向かって国司、郡司が服属を示すために拝礼したと考えました。
と回答してくれましたが、このデータを答案に活かさなかったのはなぜですか?

資料文⑷の「国司の単独財源…(中略)…が成立した」という部分をどのように考えますか?
という質問に対して、
> 国司が郡司の権力を吸収していったと考えました。
と回答してくれましたが、
郡司がどのような権限(権力)を持っていたのかを説明しなかったのはなぜですか?
君の答案からすると、「伝統的支配力」を吸収したとも受け取れるのですが、資料文⑷を活用して表現できませんか?

≪書き直し2回目≫

A大化の改新後、自立的に地方を支配し朝廷に服属の意を示した国造層の支配力を利用し、政府は律令制の下での支配をめざした。

B8世紀初頭、身分的には国司が郡司より上位だったが、ともに天皇に服属したという意味では対等だった。国司は郡司の伝統的支配力に依拠したが、租税の管理・運用権といった郡司の権利を国司が吸収し郡司任命権も国司が掌握し始めると、郡司は弱体化した。

Aについて。
> 大化の改新後、自立的に地方を支配し朝廷に服属の意を示した国造層
大化の改新後にはじめて服属の意を示したわけではなく、あくまでも朝廷のもとで地方支配を任されていたわけですから、ここの表現は言い過ぎです。
その点を修正すればOKです。

Bについて。
天皇のもとでの対等だけでなく、その前提として天皇から任命されている点にもふれることができれば、国司が任命権を実質的に握ったこととの対比が明確にでき、「変化」を表現することができたんですけどね。 それ以外は問題ありません。OKです。

≪書き直し3回目≫

A大化の改新後、朝廷のもとで地方支配を任されていた国造の支配力に依拠し、政府は律令制の下での地方支配実現を目指した。

OKです。
もし2回目の答案のように「中央集権化が不十分」という点を組み込みたければ、大化の改新時に焦点をあてて表現するのが適当です。