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年度 2017年

設問番号 第1問

テーマ 律令国家とその東北支配/古代


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問われているのは,律令国家にとって東北地方の支配が持った意味。

まず,対象となっている時期を確認したい。
資料文⑴では,律令国家による国土拡張の具体例として,7世紀における渟足柵・磐舟柵の設置から始めている。ということは,渟足柵・磐舟柵が設けられた7世紀半ば,大化改新期あたりから考え始めればよい。終期は資料文からは判断できないが,律令国家は10世紀に変質・解体に向かうので,そこまでを対象に考えてよいが,蝦夷征討が9世紀前半で終了することを考えれば,9世紀前半を終期として判断してよい。

では,7世紀半ばから9世紀前半における「東アジアの国際関係の変動」とはどのようなものだったか。資料文⑴では,このように表現された国際情勢が「国土の拡張」の一環である「東北地方への進出」に関連すると説明されているのだから,東北地方の支配がもつ意味を考える前提として確認しておこう。
7世紀半ば:唐が朝鮮半島へ侵攻し,東アジア情勢が緊迫した時期。
7世紀後半から8世紀初め:唐の領土拡張が終わり,朝鮮支配をめぐって唐と新羅が緊張。
8世紀前半:7世紀末に成立した渤海と唐(・新羅)との対立が激しくなり,渤海が提携を求めて日本に使節を派遣してくる。渤海は中国東北部からロシア沿海地方にかけて成立した国家で,同時期,サハリンから北海道にかけてはオホーツク文化が展開していた(7世紀後半に阿倍比羅夫が戦った粛慎は,オホーツク文化の人々だとされる)。
8世紀後半以降:安史の乱によって唐が混乱・衰退し始める。

こうした国際関係との関連を意識したとき,律令国家にとって東北地方の支配はどのような意味をもったのか。
その際,山川『詳説日本史B』に「唐の高句麗攻撃により対外的緊張が高まった7世紀半ばに,日本海側に渟足柵・磐舟柵が設けられた。」と説明されていることに注意したい。さらに,渟足柵・磐舟柵の設置に続いて阿倍比羅夫が秋田・津軽方面に派遣され,さらに粛慎と戦っている。そのうえで,地図を思い浮かべたい。
そこから,唐が高句麗を攻めること,それにより中国東北部から朝鮮北部にかけての地域(北東アジア)で軍事的緊張が高まることが,新潟から秋田・津軽かけての地域とどのような関係をもつと推論できるか。
8世紀以降における渤海との交渉が日本海を横断する形で行われていたことや,オホーツク文化集団との交渉を念頭におけば,九州・大宰府とは別の北方経由の大陸との交渉ルートを確保するという意味を想起することができるだろう。
なお,教科書レベルではないが,多賀城跡にある多賀城碑には「蝦夷国の境を去ること百二十里」,「靺鞨国の境を去ること三千里」(靺鞨は沿海地方に居住する人々)という記載があり,8世紀半ばには,まだ服属しない蝦夷の外側に靺鞨(沿海地方)があることが具体的に認識されていたことがわかる。

とはいえ,ここで推論した内容は,東北地方の日本海側へと支配を広げていくことにしか関連しない。太平洋側も含めて東北地方に支配を広げていくことが律令国家にとってどのような意味を持ったのかを,別の観点から考えておきたい。
ここで考えたいのは,律令国家とはどのような国家なのか,についてである。
律令法のもとに統治された,天皇中心の中央集権国家であり,天皇の支配下にある地域では公地公民制を実施する一方,自らを中華と位置づけ,周辺の国家・地域を服属させる(蕃国と位置づける),唐にならった帝国構造を持っていた。
東北地方に居住し,律令国家の支配に服属していなかった人々は,この帝国構造に関連をもった。律令国家は彼らを「蝦夷」とよび,異民族的な存在として服属の対象とみなしたうえで,城柵を築くなどして蝦夷を服属関係のもとにくみ込み,城柵において朝貢儀礼を行わせた。
つまり,律令国家にとって東北地方の支配は,帝国構造を作りあげるうえで必要不可欠なパーツだったと言える。

なお,資料文⑷の金(砂金)や優秀な馬に注目し,また,8世紀半ば,陸奥から金して以降,北上川流域への侵攻(城柵の設置)が進み,8世紀末からの蝦夷の蜂起につながったことを考えると,威信財となる東北の物産を確保するという意味をみることも可能だろう。


問われているのは,7世紀半ばから9世紀に,東北地方に関する諸政策が国家と社会に与えた影響。条件として,その後の平安時代の展開にも触れることが求められている。

まず,7世紀半ばから9世紀にかけての「東北地方に関する諸政策」として関連することがらを資料文から抜き出そう。
資料文⑴
◦渟足柵・磐舟柵や多賀城などの城柵を設置 …a
◦出羽国を建てる …b
資料文⑵
◦東国から度重なる軍事動員 …c
◦東国から農民の東北への移住(城柵の周囲に柵戸として移住) …d
◦東国以外の諸国にも大量の武具製作が課される …e
◦東国以外の諸国に帰順した蝦夷(俘囚)の移住受入れが課される …f
資料文⑶
◦8世紀後期から9世紀初期の30数年間,政府と蝦夷勢力とが武力衝突 …g
 →支配がさらに北へ広がる …h

このうち,東北地方に対する諸政策が,a,b,d,g,hである。
東北地方へ軍隊を派遣し,城柵を築いてその周囲に東国から農民を移住させ,支配の拠点を確保する(→服属した蝦夷の朝貢を受入れる)とともに,抵抗するものは軍事力によって制圧する,というものである。
こうした諸政策によって実現したのがb,hである。東北地方に国が建てられ,支配が北へと広がっていった。つまり,国土の拡張が実現したのである。
一方,これら諸政策に付随する形で生じているのが,資料文⑵からのデータであるc,(d,)e,f。これらは全て「影響」「社会的影響」である。
cとdが,東国の人民(農民)に対して負担が課せられたことを意味しているのは,すぐに判断できる。
そのうえで,資料文⑶で「桓武天皇は負担が国力の限界に達したとして……」と書かれていることを考え合わせれば,東北支配にともなう負担が東国の人民(農民)を疲弊させ,公地公民制の動揺につながっていたとの判断が成り立つ。さらに,このことが「蝦夷の軍事的征討の停止に政策を転じ」る契機になったことは,蝦夷支配の拡大(=「国土の拡張」)を実現させたとはいえ,それをさらに拡大,あるいは維持することが困難な状況をもたらしていたとも推論できる。つまり,逆説的ではあるが,東北支配を実現・拡大するための政策がかえって帝国構造の変質につながったと言える。
次に,eとfについてはどのような影響が考えられるか。eは人民(農民)負担の増加につながるとも考えられ,また,fのように生活習慣の全く異なる蝦夷の移住を受け入れるということは地域社会に緊張が招く可能性がある。このように推論すれば,c・dと同じように,公地公民制の動揺とまとめることができるだろう。
しかし,資料文⑸と関連づければ,別の観点から影響を推論することも可能である。武士団の成長という「その後の平安時代の展開」につながる観点である。
諸国で大量の武具製作が課されたことは,国衙を中心として武具製作の技術が定着・拡大し,在地社会に武力が蓄積される契機となる。実際,8世紀には非常時に備えて武具を蓄えるため,諸国の国衙で武具の生産が行われ,軍団兵士制が一部を除いて廃止されたあとの9世紀になっても続けられたとされる。そして,こうした在地に蓄積された武力を私的に組織した軍事貴族たちは,各地での反乱鎮圧にあたるとともに,「東北を鎮めるための軍事的官職」に就き,実際に武力を使って東北支配を維持・確保することを通じて武士団の棟梁としての力を築いていく。

ところで,資料文⑷をまだ参照していない。
資料文⑷
◦東北地方の物産に対する貴族らの関心が高い
 〔具体例〕金(砂金)や,昆布等の海産物,優秀な馬など
◦陸奥国と太平洋側の諸国の間では海上交通による人々の往来・交流があった
これらのデータは,資料文での表現から判断すれば,国家レベルの話ではなく国家を構成する貴族や豪族ら地域人民に関する内容である。したがって,社会への影響,それも「その後の平安時代の展開」に関連する内容と判断して考えていけばよい。
両者を総合し,中央・地方を問わず東北の物産への関心が高まったこと,そのため交易が活発となったこと,この2点が書ければよいだろうが,「金(砂金)」や「優秀な馬」が貴族らにとって威信を示す物資であったことに気づけばよりよいし,「優秀な馬」が軍事貴族にとって重要な意味をもったことにも気づいてよい。つまり,「東北を鎮めるための軍事的官職」だけが武士団の成長の要因ではなかったのである。


(解答例)
A国際関係の変動に対応する北方ルートを確保する意味をもつうえ,蝦夷の服属は唐にならう帝国構造を構築するのに必要であった。(60字)
B国土の拡張を実現させたが,農民に負担が課されて公地公民制の動揺と帝国構造の変質を招いた。一方,中央・地方を問わず威信財などとして東北地方の物産への関心を高めて交易を活発化させるとともに,在地に武力が蓄積され,武士団が成長する一因となった。(120字)


【添削例】

≪最初の答案≫

A律令国家は異域である東北地方の蝦夷を支配することで、自らが中華帝国として蕃夷を服属するということを示す意味があった。

B蝦夷征討は領土を拡大させたが農民の諸負担は重く国力は低下した。平安時代には東北の物産への関心が高まり太平洋側では海上交通が行われ、蝦夷征討のための軍事的官職についた軍事貴族は武士団の棟梁となり、武士の成長を促す一因となった。

Aについて。
資料文⑴のなかの「東アジアの国際関係の変動の中で」という部分を活用できませんか?

Bについて。
> 平安時代には東北の物産への関心が高まり
と書いていますが、資料文⑷には時期が明示されていません。
「平安時代には」と書いた根拠は何でしょうか。
そもそも陸奥から金が献上されたのは、盧舎那仏造立事業が行われている時期のことではありませんでしたか。

ところで、「東北地方に関する諸政策」という表現に留意しましたか?
「諸」政策とあるわけですが、征討事業だけに焦点をあてて書いていませんか?
他の政策として、資料文⑵の後半にある「他の諸国にも大量の武具製作や帰順した蝦夷の移住の受け入れが課され」と説明されています。たとえば、この政策の影響も考えたかったところです。

≪書き直し≫

A国際関係の変動の中で北方交渉路を確保する上,蕃夷を服属する中華帝国であることを内外に示す,という意味があった。

B領土を拡大させたが,農民の負担増加は公地公民制の動揺,帝国構造の解体を招いた。一方で,威信財として東北地方の諸物産への関心が高まり交易が活発化するとともに,軍事的官職についた軍事貴族や武力の蓄積は武士団の成長を促す一因となった。

書き直しで問題ありませんが,僕のサイトに公開している解答例をややなぞった雰囲気があります。
解説している内容を理解したうえで解答例に出てくる表現を使っていますか?