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年度 2019年

設問番号 第1問

テーマ 摂関政治期における年中行事の成立と日記/古代


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設問A
問われているのは,この時期の上級貴族にはどのような能力が求められたか。

まず,「この時期」を確定しておこう。
問題の冒頭で「10世紀から11世紀前半」と書かれている。さらに,資料文⑴によれば,朝廷の儀式や政務が年中行事として整い,それらについての先例が蓄積されるようになった時期である。

次に,上級貴族とはどのような人々かを確認したい。
上級貴族とは一般に,三位以上の位階をもち,太政官の公卿を務める貴族を指す。
これは,資料文⑵で「大臣・大納言など」と書かれている人々に該当する。
この人々を対象として考えていこう。
とはいえ,上級貴族=「大臣・大納言など」の公卿が政務の合議に従事していることは知っているだろうが,貴族一般ではなく,上級貴族に限定して求められる「能力」となると,一般には知識がないはずである。
したがって,資料文に即して考えていけばよい。
まず,上級貴族がこの時期,政務の合議以外に何を行っていたのか。資料文⑵から,その内容がわかる。

資料文⑵
◦「上卿」をつとめる
 →「上卿」=朝廷の諸行事を執り行う際の責任者
では,これに関してどのような能力が求められたのか。

資料文⑶ 藤原顕光の事例
◦重要行事の手順や作法を誤ることが多かった。

◦他の貴族たちの評価=「前例(先例)に違う」→「愚か」と嘲笑する
資料文⑷ 藤原実資の事例
◦様々な儀式や政務の先例に通じる。

◦後世の評価=「賢人」

この2つの資料文を合わせて考えれば,上級貴族には
行事を主導する責任者として先例に通じ,先例通りの手順や作法に従い,行事を滞りなく執り行う能力が求められていた
と判断できる。

設問B
問われているのは,この時期に日記が書かれた目的。
設問文では日記の具体例として,資料文⑷・⑸に対応して藤原道長『御堂関白記』と藤原実資『小右記』という上級貴族の書いた日記が取りあげられているものの,「貴族の日記が多く書かれるようになった」と貴族一般が考察の対象とされている。その点を意識しながら資料文を読み進めていきたい。

上級貴族と貴族一般とで異なる点は,上級貴族は朝廷の諸行事を責任者として主導するが,それ以外の貴族は諸行事に参加するだけ,という点である。

では,行事に参加する際に必要なことは何か。
資料文⑴
◦あらゆる政務や儀式について,
 執り行う手順や作法に関する先例が蓄積されていき
 それは細かな動作にまで及んだ。
資料文⑵
◦地位によって担当できる行事が異なっていた。

資料文⑴から,行事での細かな動作にまで先例が蓄積されていることがわかり,さらに,資料文⑵から,参加する個々の貴族からすれば,それぞれの立場から注目すべき行事とそのなかの手順・作法が異なっていた,と判断することができる。

次に,日記に何が書かれていたのかを確認したい。
資料文⑷ 藤原実資のケース
◦祖父の日記を受け継いでいた
◦自らも長年日記を記していた

◦結果(影響):様々な儀式や政務の先例に通じていた
資料文⑸ 藤原師輔(道長の祖父)の遺訓
◦前日のことを日記につける
◦特に記録しておくことがら
 重要な朝廷の行事
 天皇や父親に関すること
〔理由〕「後々の参考のため」

これらの資料文から,まず,さまざまな行事の様子(手順や作法)が日記に記されていたことがわかる。
ところで,朝廷のさまざまな行事は,資料文⑴にあるように,年中行事として「繰り返される」性格のものだから,一度「上卿」として執り行った,あるいは一員として参加した際の手順や作法は既に先例とされていると判断できるので,日記には諸行事の先例が書き記されていたと表現することもできる。
言い換えれば,資料文⑷のように,孫が祖父の日記を受け継ぎ,参照・研究することによってさまざまな行事の先例を知り,通じることができたことと判断できる。
だからこそ,資料文⑸にあるように「後々の参考のため」に諸行事の手順や作法が書き記されたのであり,自分,そして子孫が先例を参照できるように,貴族たちは日記を書いたのだとわかる。

ここまでの考察で答案が書けてしまいそうだが,少し立ち止まって考えてみたい。
自らが関わった行事での細かな動作とその手順・作法を,なぜ「子孫」に伝えようとしたのだろうか。

行事に責任者として関わるのか,単なる一参加者として関わるのかなど,立場が異なれば動作の手順も異なるし,注目する観点も異なる。
したがって,自分がその時々の地位に応じて関わった行事について,自分が行った動作を細かに書き記したところで,子孫が同じ行事に同じ地位・立場で参加し,同じ動作を行わなければ意味がない。つまり,子孫が将来,自分と同じ地位に就き,諸行事において同じ立場で同じ動作を行うだろうという予想・確信を持っていて初めて,自分の記録が子孫の参考になるという発想が出てくる。言い換えれば,官職の昇進ルートとその上限とが家格によって固定される傾向が定着していて初めて,行事における細かな動作について手順や作法を書き記すことが子孫のためになる。
ここで2010年第1問を思い出してほしい。そこでは,摂関政治期には公卿を務める上級貴族と彼らに私的に奉仕し受領への任官を望む中下級貴族という家格の区別が形成されていたことを意識させる問題が出題されていた。そして,藤原師輔が特に記録しておくべきことの一つとして「父親に関すること」をあげていること(資料文⑸)を考えれば,特定の家筋ごとに家格が決まる動きが生じ始めていたこともうかがえる。(ちなみに,この動きは院政期に制度的な形を整えることになる。)
そして儀式は,参加した貴族たちが(天皇中心の)貴族社会のなかで占める位置,言い換えれば天皇との距離を可視化し,貴族たちの家格意識を再生産させるものでもある。藤原師輔が特に記録しておくべきことの一つとして「天皇……に関すること」をあげていること(資料文⑸)も,その点を意識すれば了解できることがらである。

以上の考察から,貴族社会のなかに家格秩序が形成され始めており,貴族のなかに「家とその継承」という意識が生じていたことも答案のなかに書き込むことが必要であることがわかるだろう。


(解答例)
A責任者となった年中行事を先例に従って滞りなく執行する能力。(30字)
(別解)諸行事の先例に通じ,責任者として行事を先例通りに行う能力。
B平安時代中期,家ごとに昇進できる官職の上限が固定され始め,天皇を頂点する貴族社会での位置・家格が年中行事を通じて可視化された。そこで貴族は行事での細かな動作を各自の立場から備忘のために記録し,家の行動規範として子孫へも継承させようとした。(120字)