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年度 2020年

設問番号 第4問

テーマ 明治前期の軍隊と政治・社会/近代


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設問A
問われているのは,資料文⑴の主張の背景にある,当時の政府の方針と社会情勢である。

資料文⑴は,1878年5月に西周が陸軍将校を対象として行った講演の記録である。
1878年(5月)という時期を念頭におきつつ,まずは資料文⑴の内容に即して考えていきたい。
資料文⑴
・軍人が「民権家風」に染まることを避けなくてはいけない …a
・理由
 軍人は大元帥である天皇を戴き,上下の序列を重んじて命令に服従する …b
・当時の政府の動き
 幕府に見られた専権圧制の体制を脱する …c
 人民の自治・自由の精神を鼓舞しようとしている …d

・一般人民がそれに呼応するのは当然である …e
 しかし軍人は別であるべき …f

このうち,当時の「政府の方針」に関連するのはcとdである。
これを高校日本史レベルの知識に対応させたい。
cについては,いわゆる四民平等つまり身分制の解体を思い浮かべることができる。たとえば,百姓・町人にも苗字を許可し,移住・職業選択の自由を認めている。他に,秩禄処分や廃刀令などを通じて旧武士身分を解体したり,徴兵制(国民皆兵の原則)による軍隊を整備したことも,思い浮かぶだろう。軍隊・軍人に焦点をあてるなら,後者を特に意識したい。
dについては,次の2つを思い浮かべることができるだろう。
①漸次立憲政体樹立の詔(1875年)。
元老院・大審院を設置し,地方官会議を召集することを示したもので,三権分立を整え,漸進主義の立場から立憲政体(立憲制)の導入を進めようとしていた。
②地方三新法を制定(1878年)
江戸時代以来の町村を単位とした行政区画を定めるとともに,公選制の府県会を開設するなどした。
この2つを思い浮かべることができる。
ただし,②は注意が必要である。地方三新法が制定された時期が資料文⑴の講演よりも前か後かが,高校日本史レベルの知識では,不明である。こういう場合は,考察の対象から外しておくほうがよい(地方三新法は1878年7月に制定されており,資料文⑴の講演よりも後である)。
以上から,当時の「政府の方針」は次の2点にまとめることができる。
・身分制を解体し,徴兵制に基づく軍隊の整備を進める
・漸進主義の立場から立憲制の導入をはかる

続いて,当時の「社会情勢」についてである。考える手がかりはaとeである。
aとeから,自由民権運動の広まりを思い浮かべぶ。士族を中心とした国会開設の要求や,地租改正事業が進むなかで各地に広まった豪農を中心とする地方民会の要求である。具体的な出来事をあげるとすれば,1877年の立志社建白がある。
なお,政府の「人民の自治・自由の精神を鼓舞」する政策に「呼応する」動きではないものの,政府の政策(身分制の解体)への反発という点では,士族反乱など不平士族の動きにもめくばりしたいところである。

設問B
問われているのは,資料文⑵のような規律を掲げた政府の意図である。条件として,当時の国内政治の状況に即すことが求められている。

まず,条件にあげられている当時の国内政治の状況である。資料文⑵の「1882年1月」に出されているので,1881年までの段階に限って考察したい。
1881年は明治14年の政変が起こり,その際,政府は国会開設の勅諭を出して1890年の国会開設を公約するとともに,それに向けて憲法の制定など立憲制導入に向けた動きを本格化させる。
一方,自由民権運動のなかでは国会開設を求める動きとともに憲法草案を民間で作成する動きが広まり,さらに国会期成同盟のなかから政党結成の動きが進み,そのグループを中心として自由党が結成されている。

こうした政治状況に即しながら,軍人勅諭を政府が出した意図を考えよう。
最初に,軍人勅諭の内容から確認したい。天皇(「大元帥」)による軍隊統帥を掲げ,軍人の天皇への忠節を強調し,軍人の政治関与をいましめたことは知っているはず。もちろん,このことは資料文⑵にそのまま書かれている。
資料文⑵
・軍人は忠節を尽くすことを本分とすべきである
・世論に惑わず,政治に関わらず,ひたすら忠節を守れ

ここでは「忠節を尽くす」としか書かれていないが,資料文⑴に「軍人は大元帥である天皇を戴き」とあることに注目すれば,天皇に忠節を尽くすことが求められていることはすぐわかる。
続いて,こうした内容を掲げた政府の意図を考えよう。
自由党が結成されるなど自由民権運動が高まっていること,将来開設される議会に民権派が進出すると予測されることを念頭におけば,軍隊に民権派の影響が及ぶことを防ぐことを意図として考えられる。ただし,「政治に関わらず」との表現は,民権思想を排除するだけでなく,より広く政治関与を排除しようとするものであり,軍隊・軍人の政治的中立を確保しようとしたものと広く把握しておくのが適切である。
ところで,軍人の政治的中立は,議会との関係だけで考えられるものだろうか。
1878年に参謀本部が設けられ,軍令(軍の作戦と指揮・運用)にあたる機関が政府(太政官)から独立して天皇に直属(直隷)するようになったことを出発点とし,軍の統帥権は天皇がもち,政府から独立する慣行が整ったこと(政府が関与できないという話ではないが)を念頭におきたい。そうすれば,議会だけでなく政府との関係も含めて,軍人の政治的中立を掲げたものと判断しておきたい。
つまり,天皇による軍の統帥(あるいは統帥権の独立)を明示し,軍人の政治的中立を確保することが軍人勅諭のなかで資料文⑴を掲げた政府の目的であったと考えることができる。


(解答例)
A政府は身分制を解体し,徴兵制による軍隊を整備すると共に,漸進主義の立場で立憲制の導入を進めていた。社会では不平士族の反乱が起こり,国会開設などを求める自由民権運動が広まっていた。
B政府が国会開設を公約し,憲法制定を本格化させる一方,民権派により政党が結成された。そうしたなか,政府は天皇による軍隊の統帥を明示し,軍隊・軍人の政治からの中立を確保しようとした。