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年度 2022年

設問番号 第2問

テーマ 朝廷の経済基盤をめぐる状況の変化/中世


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設問の要求は,資料文⑸に述べる3代の天皇が譲位を果たせなかったのはなぜか。
条件として,鎌倉時代以来の朝廷の経済基盤をめぐる状況の変化と,それに関する室町幕府の対応にふれることが求められている。

まず,朝廷の経済基盤が何かを確認しておく。その際,「鎌倉時代」という時期設定に注目したい。
資料文⑴
◦鎌倉時代後期:5人の上皇たちの生活は荘園群(持明院統=長講堂領,大覚寺統=八条院領)に支えられていた
資料文⑶
◦平安時代後期以来:内裏の造営や即位にともなう大嘗祭などの経費は,各国内の荘園公領に一律に賦課する一国平均役でまかなわれていた

次に,これらの経済基盤の「状況」が鎌倉時代以来,どのように変化したのかを確認する。
資料文⑵
◦南北朝動乱のなかで諸国の守護や武士により荘園公領への侵略がすすむ

こうした状況の変化に関する室町幕府の対応について。
資料文⑵
◦戦時における一時的な措置
 荘園領主の権益半分については侵害を認める
◦平時への転換のなかでの措置
 権益半分の侵害は一般の公家に限る
 天皇や院,摂関家などの所領を全面的に保障
資料文⑶
◦内裏の造営や即位にともなう大嘗祭などの経費=室町幕府が守護に徴収させた

まとめれば,動乱が終息するなか,室町幕府は武士の荘園公領への侵略を一部認めつつも抑制し,守護を通じて天皇家・摂関家の荘園(所領)や一国平均役(段銭・棟別銭)の確保をはかった,と表現できる。
このことをふまえて資料文⑷・⑸をみておく。

資料文⑷
◦譲位(1464年)した後花園上皇のための所領=幕府(足利義政)がそのつど設定するものと想定されている
◦譲位された後土御門天皇の即位にともなう大嘗祭(1466年)=幕府の経費負担によりおこなう
 これが室町時代最後の大嘗祭
資料文⑸
◦織田信長が譲位を取りはからうとの意思を示す

後花園天皇の譲位が1464年,後土御門天皇の即位にともなう大嘗祭が1466年で,いずれも応仁の乱以前のことであり,室町幕府・守護の支配体制とそのもとでの全国支配が機能している段階である。
一方,後土御門天皇の次から大嘗祭が行われなくなったことは,幕府が守護を通じて段銭・棟別銭を徴収して経費を確保することができなくなったことを意味する。後土御門天皇の次の天皇がいつ即位したのかは,教科書レベルの知識にないが,応仁の乱が勃発(1467年)して以降のことだろうとの推測は成り立つ。
つまり,応仁の乱により幕府の全国支配が解体して以降,幕府は朝廷の経済基盤を確保・保障することができなくなった,と判断してよい。

それに対して資料文⑸では,織田信長が「譲位を取りはからう」との意思を示している。このことは,資料文⑷と対照させれば,織田政権が(室町幕府に代わって)譲位後の所領を確保・保障する姿勢を示したことを意味する(大嘗祭は江戸幕府5代将軍徳川綱吉の代になって初めて再興されるので,その経費確保についてここでは考慮する必要はない)。つまり,織田政権の成立により朝廷の経済基盤(の一部)が確保できる見通しが立ったことを意味し,正親町天皇が「譲位を実現できることは朝廷の復興につながる」と考えたことも納得がいく。
このことをふまえれば,「3代の天皇が譲位を果たせなかった」のは,天下(京・畿内とその周辺)を支配する武家政権が不在で,朝廷の経済基盤が確保できず,上皇の所領や後継天皇の即位儀礼の経費を調達できなくなったためである,と表現することもできる。


(解答例)
朝廷の経済基盤は皇室領荘園群と一国平均役であったが,南北朝の動乱のなか,武士の侵略により確保が困難となっていた。それに対して室町幕府は,武士の侵略を部分的に抑制し,守護を通じて朝廷の経済基盤を確保した。しかし応仁の乱以降,幕府・守護の支配が後退したため,天皇の譲位に必要な諸経費を調達できなくなった。(150字)
(別解)鎌倉時代以来,天皇や上皇の生活は荘園により,天皇の即位儀礼の経費は一国平均役によりまかなわれており,室町幕府は武士の荘園公領への侵略を部分的に抑制し,朝廷の経済基盤を守護を通じて確保していた。しかし,応仁の乱により幕府の全国支配が崩壊すると,上皇の所領や後継天皇の即位儀礼の経費を確保できなくなった。(150字)