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年度 2022年

設問番号 第3問

テーマ 徳川綱吉の政治とその背景/近世


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設問の要求は,元禄時代(資料文⑶),江戸幕府はどのような用途を想定して鉄砲の所持や使用を認めたと考えられるか。条件として,豊臣政権(資料文⑴)で鉄砲が没収された理由と対比することが求められている。

まず,資料文⑴から確認しておく。
資料文⑴
◦1588年の刀狩令
 諸国の百姓から刀・鉄砲など武具の類を没収
 百姓は農具さえ持って耕作に専念すれば子孫まで末長く繁栄すると述べる

ここから,武具の所持と農具の所持とをそれぞれ武士,百姓の身分標識として明示し,兵農分離を進めることが刀狩令の目的であったことがわかる。
なお,刀狩を通じて一揆の防止をはかろうとしていたことは知識として持っているだろうが,資料文⑴には書かれておらず,あえて考察の外に置いておく。(一揆の防止という点では豊臣政権と江戸幕府には違いはないと判断できるし)

次に資料文⑶の内容を確認したい。
◦幕府の命令(1687年)
 全国の村々で条件をつけて鉄砲の所持や使用を認める
 →それ以外の鉄砲をすべて没収 ……①
◦幕府の補足説明(1689年)
 作毛を荒らされるか,人間や家畜の命にかかわるような場合には鉄砲を使ってよい ……②

①から,鉄砲の所持・使用は「条件」に合致した場合に限られることがわかる。そして,②の補足説明を根拠とすれば,
「条件」=作毛(田畑に耕作されている農作物)を荒らされるか,人間や家畜の命にかかわるような場合
である。
では,何が農作物を荒らし,人間や家畜の命を脅かすのか?
それはイノシシなどの鳥獣である。17世紀を通じて新田開発が活発に行われ,それにともなって百姓と野生の鳥獣(なかでもイノシシやシカなどの獣)の生活域が接近したため,イノシシやシカなどの野生獣が農作物や人間,家畜を襲うことが増加していた。
こうした農業など百姓の生活に被害を及ぼす野生獣への対策(駆除など)に限って鉄砲の所持・使用が認められた。

設問の要求に従えば,用途・理由さえ説明すれば最低限の答案を作成できるが,豊臣政権の刀狩令で鉄砲が没収されたにも拘わらず,元禄時代には江戸幕府が鉄砲の所持・使用を認めている点に注目し,江戸幕府が所持・使用を認めるにいたった背景についても説明しておけば,江戸幕府が想定した用途についての説明がより具体的になるだろう。


設問の要求は,⑷のような手厚い対応をとるようになった背景。条件として,⑵⑶をふまえることが求められている。

資料文⑵と資料文⑷とが「同じ大名の江戸藩邸」をめぐるエピソードなので,まず最初に両者を並列して内容を確認しておく。
資料文⑵:1675年(4代家綱期)のエピソード
◦藩邸の門外にむしろに包んだ死体が置かれていた

◦江戸の事情に詳しい人の説明:
 おそらく死んだ乞食を捨てたもの
 江戸では時々ある(珍しくない)
◦藩邸側の対応=死体を他所へ捨てさせた

資料文⑷:1696年(5代綱吉期)のエピソード
◦ある藩邸の堀に老女が落ちた
◦藩邸側の対応
 番人が見つけてすぐに引きあげた
 医師に容体を診察させた→着替えと食事を提供
 幕府の指示に従ってできる限り介抱
 →翌日に町奉行所へ引き渡す

資料文⑵は藩邸の門外に置かれた乞食の死体を他所へ捨てさせたエピソードで,それに対して資料文⑷は藩邸の堀に落ちた老女を手厚く保護したエピソードであり,ともに当該の藩とは無関係なものへの対応を示したものである。資料文⑵はぞんざいに扱っているのに対して資料文⑷は手厚く扱っている,という相違点を指摘することができる。
では,4代家綱期と5代綱吉期とでそうした相違が生じた背景・事情は何か。
それを考える手がかりが,条件として資料文⑶をふまえることが求められている点である。

資料文⑶:1687年・89年(5代綱吉期)
◦鳥獣被害対策という用途に限って鉄砲の所持・使用を認めた
↓裏返すと
◦鳥獣被害対策という用途を除いて鉄砲の所持・使用を禁じた

このように捉え返せば,資料文⑶は鳥獣の無用な殺生を禁じる政策についての説明でもあると判断でき,そこから生類憐みの令を想起することができる。
生類憐みの令とはどのような政策なのか。
山川『詳説日本史B』には「生類憐みの令と服忌令」というコラムが掲載され,そのなかで
「殺生を禁じ,生あるものを放つ,仏教の放生の思想にもとづく生類憐みの令は,捨子の保護など綱吉政権による慈愛の政治という一面をもっている。」(p.201)
と説明されている。
実教『日本史B』では,
「捨子・捨牛馬の禁止や犬愛護など,生類全般に対する憐みを過度に強制したため(生類憐みの令)」(p.174)
と説明されている。
つまり生類憐みの令は,犬などの動物に対する愛護を命じただけでなく捨子の保護・禁止も含み,人間を含む全ての生類への慈愛を求め,全ての生命を尊重する仏教道徳の定着をはかろうとする政策であった。
(今回の問題が「藩邸」の対応である点に注目すれば、武士に「仁政」が求められたことを指摘してもよい)
ここから,⑷のような手厚い対応をとるようになった背景を端的に表現すれば,5代将軍綱吉のもとで生類憐みの令が出されたことと考えることができる。

なお,資料文⑷のエピソード(老女は死んでいない)を念頭におけば,「死を忌む風潮の広がり」を指摘するだけで止めるのは的外れである。注意しておきたい。


(解答例)
A豊臣政権は兵農分離を進めるため鉄砲を没収した。17世紀に新田開発が広がって鳥獣が農作物や人間,家畜を襲うことが増えると,江戸幕府は鳥獣被害対策という用途に限って所持・使用を認めた。(90字)
(別解)豊臣政権は兵農分離を進めるために鉄砲を没収したが,江戸幕府は新田開発が広がって鳥獣が農作物や人間,家畜を襲うことが増加するなか,鳥獣被害対策という用途に限って所持・使用を認めた。(90字)
B徳川綱吉政権が生類すべての殺生を禁止する生類憐みの令を出したため,諸藩には民衆の生命を尊重・保護する仁政が求められた。(60字)
(別解)5代将軍綱吉のもとで生類憐みの令が出されたため,殺生を避け,困窮する人を保護するなど生命を尊重する風潮が広まっていた。(60字)