年度 2024年
設問番号 第2問
テーマ 東大寺再建事業と鎌倉幕府/中世
A
問われているのは,12世紀末の東大寺再建に用いられた技術の特徴。条件として,その背景にふれることが求められている。
東大寺再建にあたって必要とされた技術がどのようなものか,資料文に即して考えたい。「技術」あるいはそれに類する表現を探して手がかりとしたい。
資料文⑶ 大仏の鋳造,伽藍の造営
資料文⑷ 仏像や伽藍の造営
ここから,鋳造,建築,彫刻という3つの技術について考えればよいと判断できる。
まず,資料文⑶である。ここから次の2点がわかる。
・大仏の鋳造…当初は技術者が不足→宋人の陳和卿を抜擢して成功させる
・伽藍の造営…大仏様とよばれる建築技法を用いる
ここで知識を活用したい。大仏様が宋の建築技術を取り入れた新技術であることを加味すれば,鋳造と建築の技術に共通点を見出すことができる。つまり,宋(南宋)から伝わった技術という共通点である。
資料文⑴で東大寺再建の責任者に任じられた重源が「宋に渡った経験もあった」ことが指摘されており,そのこととの関係を思い浮かべることが可能である。
次に,仏像の彫刻についてである。
資料文には参考になるデータがないものの,運慶・湛慶父子や快慶らの奈良仏師が仏像の彫刻にたずさわったことは知っているだろう。とはいえ,彼らがどのような技術をもとに制作したのかは細かい。東大寺南大門金剛力士像は宋代の版画に基づくという学説があるのだが,高校教科書だと,金剛力士像の力強さに満ちた写実性がどのような由来をもつものかは説明がない。したがって,仏像彫刻の技術については知識もなく,資料文での手がかりもないため,考察から外してしまい,大仏鋳造と伽藍造営の2つに絞って「技術の特徴」を考えたい。
ところで,「特徴」が問われているのだから,他と対比して違いを考えることが必要である。
では,いつの時期と対比すればよいのか。東大寺の「再建」がテーマなのだから創建当初(奈良時代)を想起すればよい。
したがって,創建当初の伝統的な技術ではなく,宋(南宋)から伝わった技術である点が「特徴」である。
続いて,背景に移ろう。資料文のなかで参考になるのは,次の2点である。
資料文⑴
・重源は,宋に渡った経験もあった
資料文⑶
・宋から来日していた商人で,技術にも通じていた陳和卿
ここから,当時,日本と宋(南宋)の間では僧侶や商人,技術者が往来していたことがわかる。
実際,日宋間を民間商船が往来し,商人や僧侶の行き来が活発であった。当時,宋が都を南に移したこと(南宋の成立)を背景として江南地方では材木の需要が高まり,その供給地の一つとして日本が重視されていた。大輪田泊の北・福原まで招き入れられた宋の商人が平清盛の別邸で後白河上皇と会ったのも,そうした材木輸出にからんでのことであったとされる。そして,重源が材木輸出の責任者として,宋の商人に乗り込み,2度にわたって日宋間を往復したともされる。
こうした,日宋間での僧侶や商人,技術者らの往来が活発であったことが背景であった。
B
問われているのは,源頼朝は東大寺再建にどのように協力したか。条件として,頼朝の権力のあり方に留意することが求められている。
この時期の東大寺再建については,2012年度第2問でも取り上げられている。
東大寺の再建は,朝廷にとって,国家の安泰,仏教のもとでの人心の統合を立て直すための国家事業である。そこで,聖武天皇の先例にならい,仏法と縁を結び(結縁),将来における救いをもたらす作善(善行を積むこと)として再建事業への協力を広く身分を超えて人々に募る,という手法をとった。
これに対して源頼朝が協力したことは知っていても,どのように協力したのかは高校日本史レベルでは知識がない。したがって,資料文を手がかりとして考えればよい。
資料文⑵
・源頼朝は米や金,絹など,たびたび多額の寄付をおこなった。
資料文⑷
・御家人に協力を求める
例)西国の地頭に対して材木の運搬を命令,有力御家人が責任をもって仏像や伽藍の造営にあたることを命令
続いて,条件であげられている「頼朝の権力のあり方」との関連を考えたい。その際,注意したいことが2点ある。
まず,東大寺再建が朝廷主導の国家事業である点を意識すれば,頼朝の権力のあり方を朝廷との関係に絞って考えたい。
そのうえで,資料文⑵に「藤原秀衡」が取り上げられていること,資料文⑷が奥州藤原氏の滅亡(1189年)や頼朝の右近衛大将任官(1190年)よりも以後のことがらであること,この2点を意識したい。
これについては,2013年度第2問が参考になるだろう。つまり,奥州藤原氏が健在な時期=戦乱期と,奥州藤原氏が滅んで以降,戦時から平時への移行期とに分けて考えるとよい。朝廷との関係に注目するならば,戦時から平時への移行期は奥州藤原氏の滅亡によって源頼朝が武家の地位を確立した時期であり,それを象徴するのが1190年,源頼朝が挙兵以来はじめて上洛し,右近衛大将に任じられたこと,それをうけてよく91年に出された建久の新制(建久二年三月の後鳥羽天皇宣旨)で朝廷から全国の治安維持機能をゆだねられ,御家人との主従関係が朝廷公認の軍事制度として整ったことである。
・戦乱期=奥州藤原氏が健在な時期
多額の寄付を行う
:奥州藤原氏に対抗し,物資面で協力
・戦時から平時への移行期=奥州藤原氏の滅亡後 つまり,頼朝政権=御家人制が朝廷公認となった段階
再建事業に御家人を動員
:御家人に命じて資材の運搬や仏像・伽藍の造営を担わせた
(解答例)
A日宋貿易が活発で,僧侶や技術者がさかんに往来していた。そのため,大仏の鋳造や伽藍の造営には南宋伝来の技術が用いられた。(60字)
B頼朝は当初,奥州藤原氏への対抗もあって多額の寄付を行った。その滅亡により武家の地位を確立し,御家人との主従関係が朝廷公認の軍事制度として整うと,御家人に命じて再建事業を担わせた。(90字)