年度 2024年
設問番号 第3問
テーマ 鎖国政策と沿岸防備体制の整備/近世
A
問われているのは,この間,長崎やポルトガル船に対する幕府の政策は,どのように転換したか。条件として,島原の乱の影響を考慮することが求められている。
最初に,「この間」がいつを指すのかを確認しておく。
資料文を読んで答えることが求められているので,「この間」とは1633年から1639年であると判断できる。
続いて,幕府の政策を具体的に確認していきたい。
まず,1633年の段階において幕府がどのような政策をとっていたのかを整理しておく。
資料文⑴
①長崎から渡航する日本船:奉書船に限定
②日本人の海外渡航 :禁止
③海外在住日本人の帰国 :5年以上のものは禁止
④長崎に来るポルトガル船:来航と貿易を認める
⑤ポルトガル人 :長崎の町に居留
最後のポルトガル人については,資料文⑴に情報が記載されていないが,資料文⑵・⑶との対比を前提として書き込んでおく。
次に,翌34年から39年にかけて幕府がどのような政策をとっていたのかをそれぞれについて整理したい。
①長崎から渡航する日本船:海外渡航を禁止(資料文⑶)
②日本人の海外渡航 :禁止(資料文⑶)
③海外在住日本人の帰国 :禁止(資料文⑶)
④長崎に来るポルトガル船:日本来航を禁止(資料文⑸)
⑤ポルトガル人 :出島に隔離(資料文⑵)→長崎の町に居留する血縁者を追放(資料文⑶)
以上を対比すると,「日本人の海外渡航」を禁止するという政策は変化がなく,それ以外の政策が変化(転換)していることがわかる。結果だけを整理すれば,次の通りとなる。
・日本船の海外渡航を禁止
・海外在住日本人の帰国を禁止
・ポルトガル人(とその血縁者)を隔離
<島原の乱
・ポルトガル船の日本来航を禁止
なお,「転換」を説明するには「はじめ→のち」を表現し,違いをはっきりさせたいが,指定字数を考えると難しい。したがって,「のち」=転換後に焦点を絞り込んで答案を書いてよい。
ところで,こうした幕府の政策のうち,島原の乱の影響を受けたものはポルトガル船の日本来航の禁止であるが,なぜ「島原の乱の影響を考慮」することが条件として求められているのだろうか。このことを考える素材を資料文から拾ってきたい。
資料文⑴〜⑶:1633〜36年
・来航ポルトガル船とその貿易に関わる諸規定が毎年同一内容である
資料文⑷:1639年
・幕府がオランダ商館長に対し,ポルトガル人が日本にもたらしているような商品をオランダ人が供給できるかどうか,複数回尋ねる
このうち,「ポルトガル人が日本にもたらしているような商品」が生糸(中国産生糸)を指すことは言うまでもないだろう。
そして,幕府がオランダ人が生糸を供給できるかどうかを何度も尋ねている,ということは,ポルトガル船の来航とその生糸貿易を停止する方向に動いていたものの,中国産生糸を確保できるかどうかの懸念から,その決断を迷っていたことを示している。敷衍すれば,1630年代前半,キリスト教禁制を徹底するため長崎での貿易を厳しく制限し,ポルトガル人(とその血縁者)を日本人から隔離する政策をとっていたにもかかわらず,ポルトガル船の来航とその貿易を制限・禁止しなかったのは,ポルトガル船の来航が中国産生糸を確保するうえで不可欠だったからだと分かるし,さらに,島原の乱がなければ,ポルトガル船の来航を禁止するという決断を幕府が下す可能性は低かったことを示している。
島原の乱はそれほど大きな衝撃を幕府に与えたと判断できる。
キリスト教の信仰に立ち返った潜伏キリシタンらが蜂起して島原の乱が生じたことで,幕府はキリスト教禁制を徹底する必要を痛感し,宣教師の(密)入国を防ぐため,ポルトガル船の来航を禁止する措置をとった。
ところで,オランダ船による代替という要素を答案のなかに書き込む際,どのような構成で書き込むのかは細心の注意をはかりたい。
ポルトガル船の来航を禁じ,オランダ船に切り替えて生糸を確保した,という風に書いてしまうと,当時オランダ船は長崎ではなく平戸に来航していたのだから,「長崎やポルトガル船に対する幕府の政策」の説明にならない。1641年までを意識すればよいとも言えるが,それだと「この間」からずれる。もしオランダについて触れるのなら,オランダ船による代替のめどが立つと,ポルトガル船の来航を禁じた,という構成で表現したい。
整理しておくと,次のようになる。
・はじめ ポルトガル船の来航を認める=生糸確保のため <島原の乱 ・ポルトガル船の来航を禁止=オランダ船による代替のめどが立ったことが契機
B
問われているのは,⑸において,幕府が,それまでと異なり,政策を広く大名たちに知らせたのは何のためだったか。
まず,幕府が政策を伝えた相手が「それまで」と資料文⑸とでどのように異なるのかを整理しておく。
◎それまで:資料文⑴・⑵・⑶
・長崎へ赴く奉行に毎年,幕府が命令書を出す …a
◎1639年:資料文⑸
・幕府が長崎に使者を派遣 …b
・幕府が決定を諸大名にも広く伝える …c
設問では「それまでと異なり,政策を広く大名たちに知らせた」と書かれているのだから,aとcに違いがある,ということになる。異なるのは,諸大名に対して直接伝えているかどうか,である。
aでは幕府は諸大名に政策を伝えていない,と読めてしまうかもしれないが,資料文ではあくまでも「長崎へ赴く奉行」(長崎奉行)に伝えた(命じた)ことが書かれているだけにすぎない。長崎奉行は長崎で諸大名に幕府の政策を伝達していない,と判断できるわけではない。
ここで注目したいのが,資料文⑴によれば,奉書船だけ海外渡航を認めるにもかかわらず,日本人の海外渡航を禁止する命令を長崎奉行に伝えている点である。この命令は,日本人が奉書船に乗り込んで海外へ渡航することを禁止しているのだろうか。奉書船には日本人以外の人々だけが乗り込むように命じろと言っているのだろうか。
奉書船の派遣には末吉孫左衛門や末次平蔵,茶屋四郎次郎,角倉素庵(了以の子)らが関わったとされ,その配下の日本人が奉書船に乗り込んで海外へ渡航していると考えるのが普通だろう。
だとすれば,資料文⑴にいう「日本人の海外渡航」とは,日本人がポルトガル船やオランダ船,中国船に乗り込んで海外へ渡航することを想定するのが適当だろう。
1633年当時,ヨーロッパ船の寄港地は長崎と平戸に限られており,ポルトガル船は長崎に来航していたが,平戸にはオランダ船が来航していた。さらに,中国船はまだ寄港地をまだ制限されていなかった。この点を念頭に置けば,長崎奉行は主に九州の諸大名に対して幕府の政策を伝え,その徹底を監視する役割を果たしていたと判断することができる。幕府と諸大名との関係に即して考えれば,幕府は「それまで」,長崎奉行を通じて諸大名を監視・統制する政策をとり,政策の徹底をはかっていた,と言える。
ところが,1639年段階ではポルトガル船の日本来航禁止を諸大名にも伝えた。つまり,幕府は政策を直接,大名に伝えるという姿勢へと転換した。
このように,「諸大名に直接知らせるかどうか」に違いがあると判断できる。
次に,なぜ諸大名に直接,決定を知らせる必要があったのかを考えたい。
すでに資料文⑸に答えが書かれている。
資料文⑸
・この決定を諸大名にも伝える
→警戒を呼びかける
つまり,「警戒」を呼びかけるため,諸大名に直接伝えたというわけである。
では,何を警戒することを呼びかけたのか。
ここで注目したいのは,資料文⑸ではポルトガル船について「長崎来航」ではなく「日本来航」とある点である。長崎だけでなく,どこの港に来航するのも禁止したという話である。したがって,ポルトガル船の(再)来航をしっかりと取り締まるには,長崎だけで対処していては不十分である(長崎に再来航する可能性がもっとも高いにせよ)。ここから,長崎など九州に限らず,広く諸大名に警戒を呼びかける必要があったことがわかる。
つまり,ポルトガル船の(再)来航を取り締まるため,広く諸大名を動員して沿岸の監視・警備体制を整えるようと,幕府は諸大名に直接伝えた,と判断することができる。
ところで,なぜ取り締まるのか。
来航を禁じたのだから取り締まるのは当たり前であるが,そもそもポルトガル船の来航を禁じたのは宣教師の密入国・密航を防ぎ,キリスト教禁教を徹底するためである。宣教師の密航,言い換えれば,ポルトガル船による布教支援をシャットアウトすること,これがポルトガル船の来航を禁止した目的である。
もう一つ考えることができるのは,ポルトガル船が再来航した際,日本の禁止措置への報復として軍事衝突が起こる可能性である。幕府がマニラ(スペイン政庁の所在地)ではなくマカオをどれほど軍事的に警戒していたのか,という点で疑念はあるものの,可能性としては否定できない。これを書き込んでもよい。