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年度 2025年

設問番号 第1問

テーマ 7世紀から8世紀おける中国文化の受容のあり方と担い手の変化/古代


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問われているのは,7世紀から8世紀にかけて中国文化の受容のあり方や担い手がどのように変化したか,その背景は何か。

内容の検討に入る前に,言葉遣いを確認したい。
「中国文化の受容のあり方や担い手」とあるが,まず「受容のあり方」とは何を指すのか。「あり方」は曖昧な言葉で,書くべき内容を絞り込むのは難しい。したがって資料文に即して考えていくしかない。したがって,「受容のあり方」が何を指すのかはいったん留保したうえで,資料文で「中国文化」がどのように説明されているのかを整理してから考えるとよい。
「担い手」である。「中国文化の受容」の担い手なのか,それとも「中国文化」の担い手なのか。なんとなく「受容の担い手」ととるのが素直な印象をうけるが,果たして「変化」を見て取ることができるのか。これも資料文に即して考えたいところだ。
もう一つ,「その背景」の「その」の指示対象も確認したい。「どのように変化し」という文章に続いて「その背景」と書かれているので,「変化の背景」だと判断できる。つまり,それぞれの時期における中国文化受容の背景を考える必要はない。

では,資料文を分析する作業に入る。
最初に,資料文で「中国文化」がどのように説明されているのかを整理したい。
資料文⑴ 7世紀前半
◦「北魏様式」 ……ア
資料文⑵ 7世紀後半
◦「初唐の絵画様式」 ……イ
資料文⑷ 8世紀
◦唐に留学した道慈の発言:「今……のあり方は,唐とは異なる」 ……ウ
資料文⑸ 8世紀
◦「鑑真は,唐の戒律学の継承者であり……経典や戒律をもたらした」 ……エ

それぞれの時期に受容された中国文化がどのようなものだったのかを考えたい。
アは南北朝文化で,7世紀前半と同時期ではなく,少し前の時期の中国文化である。
イの初唐文化は一般には7世紀の文化を指すが,ウの道慈の発言を念頭におくと,唐の同時期の文化ではないと判断できる。
エは同時期の唐文化が伝わったことを示している。
つまり,7世紀前半と後半は,少し前の時期(同時期から見ると古い)中国文化を受容していたのに対し,8世紀(厳密には8世紀半ば)は同時期の中国文化を受容している。

続いて,資料文では中国文化に関連してどのような事柄にふれてあるのかを確認したい。
資料文⑴ 7世紀前半
◦渡来系氏族出身者が仏像を製作
◦寺院の造営に百済王が協力=技術者を派遣
資料文⑵ 7世紀後半
◦朝鮮半島の新羅を通じて中国文化を受容
◦白村江の戦い以後に百済から亡命者=大きな役割を果たす
資料文⑷ 8世紀
◦遣唐使で渡唐した玄昉が経典をもたらす
資料文⑸ 8世紀
◦唐僧鑑真が唐から経典・戒律をもたらす
◦仏像製作などの工人が鑑真とともに来日

これらは,誰が中国文化をもたらしたのか,に関わる情報である。この点をふまえると,「担い手」は中国文化の受容を媒介した人々を想定しながら考えるとよいとも推論できる。そうすると,次のような時期による違いを読み取ることができる。
7世紀:渡来系氏族や朝鮮諸国(百済や新羅)から
8世紀:遣唐使を介して唐から

もちろん,受容の担い手に注目すれば,資料文⑴に「蘇我馬子」,資料文⑸に「聖武太上天皇以下」が取り上げられている。さらに,資料文⑴の「法隆寺」から厩戸皇子,資料文⑵の「白村江の戦い以後の亡命百済人」から政府(朝廷),資料文⑸で唐僧鑑真が「日本に戒律を伝えてほしいと招かれ」たことから政府(朝廷)を引き出すことは可能である。ただし,こちらはすべて政府,あるいは政府を構成した人々であり,時期による違いを判断することができない。
つまり「変化」が問われている点に即せば,中国文化の受容を媒介した人々に即して「担い手」の変化を考えておけばよいと言える。

では,このように中国文化の受容のあり方や担い手が変化した背景は何か,に移る。
7世紀(資料文⑴・⑵)と8世紀(資料文⑷・⑸)のあいだに何があったのかを考えればよい。資料文⑶である。
資料文⑶ 8世紀初め
◦大宝の遣唐使
→唐から新たな国号「日本」を承認される=唐から自立した新たな国家が成立
 唐に対して20年に一度朝貢するという約束=唐に臣属するかたちで関係が安定

大宝の遣唐使は,大宝律令が制定されたことを契機として約30年ぶりに派遣された使節である。その際に大宝律令を持参してはいないが,それまでとは異なる国号「日本」を認められており,国内的には唐から自立した新たな律令国家としての出発点を画す出来事だったと言える。そして,定期的な遣唐使の派遣に注目すれば,唐との関係が安定したことがうかがえる。
この点を「変化」の背景として指摘すればよい。


(解答例)
7世紀は百済や新羅との交流を介し,渡来系氏族や朝鮮半島の技術者・亡命者を通じて少し前の時期の中国文化を間接的に受容した。8世紀は大宝律令により律令国家の枠組みが整い,唐との関係も安定したことを背景に,遣唐使の定期的な派遣を介し,留学生・学問僧や唐の僧侶・技術者を通じて同時期の中国文化を直接受容した。(150字)