年度 2025年

設問番号 第1問


次の⑴〜⑸の文章を読んで,下記の設問に答えよ。解答は,解答用紙(イ)の欄に記入せよ。

⑴ 法隆寺金堂釈迦三尊像は,623年に渡来系氏族出身の鞍作鳥(止利)によって作られ,北魏様式を伝える。蘇我馬子による飛鳥寺の造営においては,百済王が技術者を派遣したほか,鞍作鳥が仏像を作った。

⑵ 670年の火災ののち再建された法隆寺金堂の壁画は,インド的な要素もみられ初唐の絵画様式を伝える。この時期には,朝鮮半島の新羅を通じて唐文化の受容が行われ,白村江の戦い以後の亡命百済人の役割も大きかったと考えられる。

⑶ 702年,30年以上の空白をおいて大宝の遣唐使が派遣された。責任者の粟田真人〔あわたのまひと〕は,皇帝の則天武后に新たな国号「日本」を承認してもらった。唐に対して20年に一度朝貢するという約束を結んだのもこの時だったと考えられる。

⑷ この時唐に渡り,三論宗を学び718年に帰国した道慈は,多くの僧尼が正式な戒を授かっておらず,「今の日本の仏教のあり方は,唐とは異なる」と批判した。717年の遣唐使で渡唐した玄昉は,経典五千巻余りを持ち帰り,法相宗を伝えた。

⑸ 754年,鑑真が苦難を乗り越え遣唐使帰国船で来日した。鑑真は,唐の戒律学の継承者であり,日本に戒律を伝えてほしいと招かれ,東大寺大仏の前で聖武太上天皇以下に授戒し,多くの僧侶に正式な戒を授けた。鑑真は,経典や戒律をもたらしたほか,仏像製作などの工人も伴ったらしい。

設問
7世紀から8世紀にかけて,中国文化の受容のあり方や担い手はどのように変化し,その背景には何があったか。5行以内で述べよ。


解法のヒント