年度 2025年
設問番号 第2問
テーマ 室町幕府の土一揆への対応/中世
問われているのは,室町幕府が土一揆の蜂起に対してどのように対応したか。条件として,徳政令の発布や鎮圧軍の派遣を除くこと,⑴⑵と⑶⑷にみえる土一揆の構成や基盤の違いにふれることが求められている。
まず,条件となっている「土一揆の構成や基盤の違い」から見ていこう。その際,構成や基盤を具体的に考えるのが難しそうであれば,資料文に出てくる人々をピックアップし,そのなかから土一揆を構成しそうな人々,土一揆を構成すると想定されている人々を考えればよい。
資料文⑴・⑵
⑴1459年の土一揆について
◦東寺領内の者が加担(噂)
◦「東寺領内の者」の具体例=上久世荘・下久世荘という荘園内の沙汰人と住民
⑵1480年の土一揆について
◦山科七郷の住民が参加することを想定(危惧)
◦山科七郷に「村」が形成されていることがわかる
→沙汰人と住民で構成していると判断できる
資料文⑶・⑷
⑶1485年の土一揆について
◦首謀者=地侍
◦首謀者の一人は守護細川政之を主君とする(守護の家来)
◦首謀者には他の守護たちの家来もいる
⑷1486年の土一揆について
◦守護細川政元の配下の地侍が参加することを想定(危惧)
両者を対比すると,次のような違いがあることがわかる。
⑴⑵=村を形成した荘園・郷の沙汰人や住民
⑶⑷=守護たちの家来となった地侍
高校日本史の教科書ではたいてい,土一揆は村々(惣村)の結合をもとに土一揆が蜂起したと説明されているので,⑴⑵では村々の結合が土一揆の基盤となっていると考えてもよい。ただ,資料文⑴・⑵には荘園・郷に形成された村々がまとまって土一揆に参加しているかどうかを示す内容は含まれていない。その点をどのように判断するのかは迷うところである。個人的には,荘園・郷で形成された村々の住民のなかに土一揆に参加するものがいた事例と考えたいところ。
一方,資料文⑶によれば,異なる守護を主君とするものが複数集まって土一揆を首謀していることがわかるので,その点に注目すれば,⑶⑷では守護の家来となった地侍たちの,主君の違いをこえた連携(結合)が土一揆の基盤となっていると推論することができる。
このように⑴⑵と⑶⑷とで土一揆の構成(や基盤)の違いを見ることができるものの,注意しておいてよいのは,これは時期による違い,より正確に言えば,土一揆の構成や基盤が時期によって変化したことを示すのかどうか。資料文⑵と資料文⑶のあいだは5年しかない。応仁・文明の乱が終わってしばらくの時期,それも山城の国一揆が発生する前後つまり両畠山氏が戦闘を継続してくり広げている時期という点を考えても,高校日本史の知識からすると,情勢に大きな変化はない。この5年間で土一揆の構成や基盤に変化が生じたとは考えにくい。
ここで意識してよいのは,荘園・郷の沙汰人は村々の指導層であり,そのなかには守護などの家来となった地侍がいる点である。1480年から85年の間に,村々の指導層である沙汰人が新しく守護などの家来となったという状況を想定するのは,高校日本史の知識としては無理がある。したがって⑴⑵と⑶⑷に見られる違いは,時期による変化ではなく,土一揆(の構成員)に対する視点・観点の違いと判断しておくのが適切だろう。
では,ここまでの考察をふまえつつ,幕府の対応を考えよう。
資料文⑴・⑵
⑴
◦領主の東寺を通じて荘園の沙汰人へ
◦沙汰人と住民が一緒に誓約書を作成して加担していないことを主張
⑵
◦山科七郷の沙汰人たちへ
◦住民が参加した場合は村を処罰すると通達
ここから,沙汰人と住民が村としてまとまっていること,言い換えれば,荘園・郷のなかには村が共同体として形成され自治が成長していることがうかがえ,幕府はそれを基礎として,個々の住民ではなく村に対して処罰や参加の禁止を求めていることがわかる。
資料文⑶・⑷
⑶
◦地侍の主君に対して処罰を求める
⑷
◦守護に対し,配下の地侍が参加することを禁じるよう命令
守護の家来となっている地侍たちに対しては,主君の守護を通じて対処していたとまとめることができる。
以上をまとめれば,次のように整理することができる。
⑴⑵のように,荘園・郷の住民が土一揆に参加した場合は,村を対象として対処
⑶⑷のように,守護の家来である地侍が土一揆に参加(土一揆を首謀)した場合は,主君である守護を通じて対処
なお,両者の共通点をとってまとめることができれば,よりよい。
村や主従関係は,荘園・郷の住民(農民)や武士がそれぞれ属する集団である。この点は江戸時代の身分社会のあり方を想起すれば了解できるだろう。
つまり,沙汰人を含む住民については村,守護の家来である地侍については主従関係というそれぞれが属する集団を通じて処罰や潔白の証明,参加の禁止など対処しようとしていたとまとめることができる。
ところで,先ほども指摘したが,荘園・郷の沙汰人(村々の指導層)のなかには守護などの家来となった地侍が含まれる。そして,資料文⑶のように,後者が土一揆を首謀していることを念頭におけば,幕府は土一揆を首謀した人々に対処するため,領主を通じて,あるいは幕府から直接,荘園・郷に形成された村々へ,守護を通じてその家中へ,という2つのルートを通じて対処しようとしていた,と推論することができる。
(解答例)
土一揆は,⑴⑵のように荘園・郷の住民が参加する場合や,⑶⑷のように守護の家来となった地侍が主君の違いをこえてまとまって参加する場合があった。そこで幕府は,荘園・郷のなかで成長した沙汰人を中心とする村の自治に依拠したり,守護と地侍の主従関係を利用したりと,それぞれが属する集団の規制力に頼って対処した。(150字)