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年度 2025年

設問番号 第3問

テーマ 江戸幕府による東海道整備と大名の参勤/近世


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問われているのは,関ヶ原の戦いの後の東海道の整備の特徴。条件として,徳川家康の意図に留意することが求められている。
「特徴」が問われているので,本来であれば,他と対比して違いをピックアップしたい。しかし,中山道など他の街道の整備についての知識が高校日本史レベルでは全くないことを念頭におけば,他との対比は無理である。したがって,資料文から読み取れることがらを説明しておけばよい。

まず,東海道がどういう街道なのか,から確認したい。
東海道は江戸と京都(あるいは大坂)を結ぶ街道であり,資料文⑶に関連する情報が記してあることに気づくだろう。
資料文⑶ 徳川家康の行動
◦徳川家康は京都・伏見と江戸を行き来して政務をとった
ここから,東海道は徳川家康が京都・伏見と江戸を行き来する際に利用した街道であることがわかる。
では,なぜ家康は京都・伏見と江戸を行き来して政務をとったのか。
江戸が家康の本拠(城下町)であることをふまえれば,京都・伏見で政務をとることにこだわったからだとわかる。

次に考えるのは,なぜ家康が京都・伏見で政務をとることにこだわったのか,言い換えれば,なぜ京都・伏見という場所を重視したのか。
このことを考える手がかりの一つは,資料文⑴だろう。
資料文⑴関ヶ原の戦いと徳川家康
◦関ヶ原の戦い→徳川家康=豊臣秀吉政権の後継者へ
ここで「豊臣政権」ではなく「豊臣秀吉政権」と書かれていることを意識してみるとよい。そうすれば,当時,大坂城に秀吉の子豊臣秀頼が健在であったことに気づくだろう。家康が秀吉政権の後継者の地位を固めたとはいえ,秀頼は名目的には父秀吉以来の地位を継承していた。だからこそ,家康は1603年に征夷大将軍の宣下をうけ,すべての大名に対する軍事指揮権の正当性を確保した。言い換えれば,朝廷の権威を利用することによって秀吉政権の後継者としての地位をより確固たるものにしようとした。
資料文⑵によれば,東海道の整備を進めたのは,関ヶ原の戦いと征夷大将軍の宣下の間の時期である。ここから,家康が京都・伏見にこだわる(を重視する)のは,大坂城の豊臣秀頼とともに朝廷をにらんでのことだと判断できるだろう。もちろん西国に豊臣家ゆかりの大名が多いことも重要である。しかし,それ以上に,家康が秀吉政権にはっきりと取って代わるには朝廷の権威を利用することが必要だったことを意識したい。(と同時に,家康のもとで武家政権と朝廷とが明確に分けられていったことも知っておきたい。) このように考えれば,朝廷や豊臣秀頼らを抑えるために京都(伏見)での政務を重視した家康の姿勢が,京都と江戸とを結ぶ東海道を整備しようとした背景にあったと分かる。

では,東海道をどのように整備したのか,資料文からデータを抜き出していこう。
資料文⑵東海道の整備
◦伝馬の制度を定める ……ア
◦近江大津城・伊勢桑名城・三河岡崎城・遠江浜松城・遠江掛川城・駿河府中城(駿府城)・駿河沼津城に譜代大名を配置 ……イ

まず,アについて。
伝馬の制度とは,幕府公用の移動や物資・情報の継ぎ送りを円滑に行うため,宿駅(宿場)を整備してそこに馬や人足を常備させたものである。
次に,イについて。
譜代大名はもともと徳川家の家臣であった大名であり,そうした大名が配置されるということは,その地域を徳川家の実質的な支配下におくことを意味する。そして城は軍事拠点である。東海道における通行上の安全を確保するという意図があることが判断できるだろう。


問われているのは,大名の参勤に対する意識はどのように変化したのか。条件として,資料文⑶・⑷から考えること,その背景に留意することが求められている。

資料文⑶・⑷は時期が異なるので,資料文に即して「変化」を考えたい。
それぞれ大名の参勤についてどのように説明されているか整理すると,次のようになる。
資料文⑶徳川家康の時代
◦「家康への忠誠心を示すために」参勤する ……ア
◦「必要に応じて」参勤する ……イ
◦家康から命令→「ただちにわずかな供を連れて」参勤する ……ウ
資料文⑷大坂夏の陣以降
◦元和の武家諸法度(1615年)で参勤の規定が初めて明文化
◦寛永の武家諸法度(1635年)で参勤交代が定められる
◦「儀礼的な体面を重じ」る→「家格に応じた行列を準備して」参勤 ……エ

両者を対比して違いを判断したい。
その際,資料文⑷から考えてみるとよい。大名の参勤が武家諸法度で明文化されるということは,それが制度として整うことを意味し,さらに寛永令で江戸参府の時期が規定されたことにより,将軍の意向・機嫌をうかがうことなく参勤が自動化されたこと,つまり儀礼として整った(整いはじめた)ことを意味する。
このことをふまえれば,アやウから,資料文⑶の段階では徳川家康の意向をうかがい,その機嫌をそこねないことを大名が強く意識していたことが読み取れる。
つまり,⑶では(うわべだけであれ)家康個人への忠誠心を示すことを第一に意識されていたのに対し,⑷は儀礼として,体面を示すものへの意識が変化していると判断できる。

ただ,ここで考察をとめず,いったん立ち止まって考えてみたい。
⑷のエでは,「儀礼的な体面」を重視することが「家格に応じた」行列を準備することにつながっている。「体面」とは世間体であり,世間に対するメンツである。大名にとっての世間とは何なのだろうか。
⑶では,家康に対する忠誠心を示すことに意識を向いていたため,ウにあるように「わずかな供」であってもよかった。ところが,⑷のエでは「家格に応じた行列」に変化している。「家格に応じた行列」を準備するのは将軍を意識してのことなのか,それとも,他の人々なのか。
このように考えれば,⑷の段階では(将軍以上に)他大名,あるいは江戸に住む人々を意識した行為となっていたことに気づくだろう。ここまで考えて答案を作っておきたい。

最後に,このように大名の参勤に対する意識が変化した背景に移る。
資料文⑷が1615年の大坂夏の陣,つまり豊臣家の滅亡だけでなく,1635年つまり3代将軍徳川家光の時代まで含まれていることを考えれば,将軍と大名との主従関係,言い換えれば,幕藩体制が安定に向かったことが背景にあったと判断できるだろう。


(解答例)
A徳川家康は朝廷や豊臣秀頼を抑えるため京都での政務を重視し,宿駅を整備して江戸との間の移動・情報伝達を円滑にするとともに,街道沿いを実質的に徳川家の支配下において安全を確保した。(89字)
B戦乱が終わり将軍と大名の主従関係が安定すると,将軍個人への忠誠を示す行為から他大名らに家格を誇示する儀礼へと変化した。(60字)