年度 2025年
設問番号 第4問
テーマ 近代の初等教育における音楽教育/近代
A
問われているのは,⑴のように,当初の学校教育において唱歌を当面実施しないとされたのはなぜか。条件として,史料にあるチェンバレンの見解に留意することが求められている。
最初に,「当初の学校教育」と「唱歌」を確認しておこう。
「当初の学校教育」とは,資料文⑴に即せば「小学校」での教育である。
「唱歌」がどのような性格をもつのかは,資料文⑵から推論したい。
資料文⑵1870年代末〜1880年代
◦音楽教育者ルーサー・ホワイティング・メーソンを招く→唱歌教育を整備
◦「唱歌の過半数は……西洋の歌を原曲とするものであった」
ここから,唱歌とは西洋音楽を指すと判断することができる。
では,学制発布の当初,小学校での西洋音楽の教育を「当面は実施しないこととされていた」,つまり,実施は時期尚早と考えられた理由を考えていこう。
学制で想定された教育制度のもとでは,計画立案の段階でも,小学校で西洋音楽の教育を実施するのが困難だと判断されたという話なので,第一に学制発布の当初,小学校でどのような教育を進めようとしていたのか,第二に西洋音楽の教育を実施するには何が必要なのか,を考えたい。
まず学制について。
・理念:身分や性別の区別なく人民に等しく学ばせること
・目的:個人の立身・出世を助ける(人民各自が身を立て産をつくるための学問を学ばせる)
・制度面の特徴:フランスにならって画一的
次に西洋音楽の教育を実施するのに必要なものについて。次の2つくらいは思いつくだろう。
・小学校の教員が西洋音楽に通じていること
・活字で印刷された教材以外に楽器を用意すること
これらのことをふまえれば,全国の小学校で画一的に西洋音楽の教育を実施するには,それを教える能力をもつ教員,教えるための楽器といった教育環境の整備が不可欠であったと判断できる。
ところが,政府が学制を立案している段階ですでに,そうした教育環境の整備が間に合わないと判断されたわけである。それはなぜか。史料(1890年のチェンバレンの著述)を手がかりとして考えるしかない。
史料(チェンバレンの著述)
◦日本にも音楽は存在してきた(西洋基準で考えると音楽とは言えないが)
◦日本の音楽は音階や旋法が西洋の音楽と全く異なる(西洋人にとっていらだたしい)
◦日本人は音楽(=西洋基準の音楽)に無関心
チェンバレンにとって音楽は西洋の音楽でしかないようで,日本の音楽を侮蔑的に扱っているが,このチェンバレンの評価に即す必要はない。日本の伝統的な音楽と西洋音楽とが音階や旋法において全く異なるものであるという事態が,西洋を文明とする色眼鏡のもとで,このような評価として現れていると判断できればよい。 この史料で示されている事態を前提とすれば,チェンバレンの来日当初,日本で西洋音楽に通じる教員,西洋音楽を教えるのに必要な楽器といった環境を全国で画一的に用意することは到底無理であるとわかる。学制を構想立案している段階で,政府内部で時期尚早と判断されたのも当然である。
B
『小学唱歌集』から『尋常小学唱歌』への内容の変化がどのような事情により生じたのか。
まず,内容がどのように変化したのかを確認したい。
資料文⑵『小学唱歌集』(1884年までに発行)
◦唱歌の過半数は西洋の歌が原曲
例)「みわたせば」(のちの「むすんでひらいて」)や「蛍」(のちの「蛍の光」)
資料文⑷『尋常小学唱歌』(1911年から1914年にかけて発行)
◦音階や旋法といった面では『小学唱歌集』と大きな違いはない
◦日本人によって作詞・作曲された唱歌のみが
例)「春が来た」や「ふるさと」
ここから変化がわかるのは,おそらく作曲についてだけだろうし,それで十分である。
『小学唱歌集』=西洋の歌が原曲(西洋人が作曲)→『尋常小学唱歌』=日本人が作曲
続いて,変化の事情である。
字数が3行(90字)もあることを考えると,それぞれが編纂された時期の事情を対比的に説明すればよい。
資料文⑵『小学唱歌集』編纂の頃
◦1879年,文部省に音楽取調掛設置
◦設置を提案した伊沢修二=アメリカに留学 ……ア
◦音楽取調掛に音楽教育者ルーサー・ホワイティング・メーソンを招く
◦1884年までに『小学唱歌集』を発行
資料文⑶
◦1887年,東京音楽学校設立=伊沢修二が初代校長 ……イ
◦滝廉太郎=東京音楽学校の卒業生→「荒城の月」を作曲・発表(1901年)
資料文⑷『尋常小学唱歌』編纂の頃
◦義務教育が6年になったことに対応 ……ウ
◦1911年~1914年に『尋常小学唱歌』を発行
日本人の作曲という観点からすれば,資料文⑶が資料文⑷の前提・背景となっていると判断できるだろう。
このことを念頭に「変化」を確認するには,資料文⑵と資料文⑶・⑷とを対比すればよい。
資料文⑵:外国人教師(お雇い外国人)の指導を仰いでいる
資料文⑶:日本人作曲家が育成されている
そして,唱歌教育の整備を進めた伊沢修二がアメリカに留学していたこと(ア),その伊沢を校長として東京音楽学校が設立されたこと(イ)をふまえれば,西洋音楽の専門的な教育体系が整ったため,日本人作曲家が育成されたと判断することができる。
もう一つ考えたいのはウであり,「1911年から1914年にかけて」という時期である。
義務教育が6年に延長されたのは日露戦争後の1907年であり,1914年は第1次世界大戦が勃発する年であり,大戦景気が始まる前年のことである。つまり,日露戦争によって日本も列強の一員に加わり,欧米諸国に並ぶという目標をいちおう達成したという気持ちが国民のなかに広がるとともに,1907年の恐慌(日露戦後恐慌)以降,不況が長引くなか,国家的な利害よりも地方社会の利益や個人的な利益を重視する風潮が現れた時期である。それに対して政府が1908年に戊申詔書を出して皇室の尊重とともに勤労・倹約(質素)を説き,それを出発点として地方改良運動を推進していた時期である。
特に地方改良運動に注目したい。この運動は,不安定な経済情勢のもとで地域社会を立て直して安定させるため,地域住民の町村への統合を強化するとともに産業組合の設立を促すなど地域経済の振興をはかったもので,同時に,青年団(青年会)の組織を進め,地域社会に献身する人物の育成をめざした。そして,こうした青年団のなかには,官僚の指導・干渉から脱して大正デモクラシーの担い手へと成長していく人々がおり,のちの時期となるが,都市部を中心とした第1次護憲運動とは異なり,第2次護憲運動が農村部にまでも広がりをもって全国的に展開したのは,こうした青年団の動きを基盤としていた。
この地方改良運動に注目すれば,「1911年から1914年にかけて」という時期が愛国心(忠君愛国の意識)ととともに郷土愛(愛郷心)の育成が教育でも重視された時期であることに気づく。そうすると,「春が来た」や「ふるさと」の歌詞とも関連づく。難しい話ではあるが,この点をもう一つの背景として指摘できるとよりよい。
背景:まとめ
◦西洋音楽の専門的な教育体系が整備→日本人作曲家が生まれる
◦愛国心とともに郷土愛(愛郷心)が重視される
(解答例)
A日本と西洋は音階や旋法が異なるため,全国で唱歌教育を画一的に導入するには教員など環境が整わず,実施は時期尚早であった。(60字)
(別解)A日本の伝統的な音楽は音階や旋法が西洋と異なり,全国の小学校で西洋音楽の教育を画一的に導入する環境が整っていなかった。(59字)
B初め西洋の歌を原曲に採用していた。西洋音楽の専門的な教育体系が整って日本人作曲家の育成が進むとともに日露戦争後に愛国心や愛郷心を強調する風潮が広がると,日本人の作曲へと変化した。(90字)
(別解)B当初,外国人教師の指導のもとで西洋の歌を原曲に採用していた。西洋音楽の専門的な教育体系が整うとともに,教育への国家統制が強まって愛国心が強調されるなか,日本人の作曲へと変化した。(90字)