年度 2025年
設問番号 第4問
次の史料は,1873年に来日し,お雇い外国人となったバジル・ホール・チェンバレンが1890年に著した『日本事物誌』の記述である。この史料と以下の⑴〜⑷の文章とを読んで,下記の設問A・Bに答えよ。解答は,解答用紙(ニ)の欄に,設問ごとに改行し,設問の記号を付して記入せよ。
史料
音楽〔ミュージック〕,この美しい言葉を東洋人による弦のかき鳴らしや金切り声を表すほどに貶〔おとし〕めて用いることが許されるならば,日本には神話の時代以来,音楽が存在してきたことになる。(中略)音階がどうであれ,日本の音楽の効果は,ヨーロッパ人の胸を落ち着かせることではなく,耐えがたいほどにいらだたせることである。(中略)日本の音楽は,私たちの旋法〔モード〕の区別を何ひとつわきまえておらず,そのため,(中略)長旋法〔メジャーモード〕の力強さや荘厳さ,短旋法〔マイナー・モード〕の哀調を帯びた優しさ,そしてその両方の交替から生じる光と影のすばらしい効果が欠けている。おそらくこれが,日本人自身が音楽にこんなにも無関心である理由であろう。
⑴ 1872年に学制が定められた。そこには小学校の教科として「唱歌」があげられていたが,当面は実施しないこととされていた。
⑵ 1879年,伊沢修二の上申により文部省に音楽取調掛が置かれた。伊沢は,米国留学中に指導を受けた音楽教育者ルーサー・ホワイティング・メーソンを招き,唱歌教育の整備を進めた。伊沢を中心とする音楽取調掛は,1884年までに『小学唱歌集』を発行した。『小学唱歌集』に掲載された唱歌の過半数は,「みわたせば」(のちの「むすんでひらいて」)や「蛍」(のちの「蛍の光」)など,西洋の歌を原曲とするものであった。
⑶ 1887年,東京音楽学校が設立され,伊沢修二はその初代校長となった。1901年には,東京音楽学校の卒業生である滝廉太郎が作曲した「荒城の月」が発表された。
⑷ 義務教育が6年になったことに対応して,1911年から1914年にかけて『尋常小学唱歌』が発行された。『尋常小学唱歌』は,音階や旋法といった面では『小学唱歌集』と大きな違いはなかったが,「春が来た」や「ふるさと」など,日本人によって作詞・作曲された唱歌のみが掲載された。
設問
A ⑴にあるように,当初の学校教育において唱歌を当面実施しないとされたのはなぜか。史料にあるチェンバレンの見解に留意して,2行以内で述べよ。
B 『小学唱歌集』から『尋常小学唱歌』への内容の変化はどのような事情により生じたものか。3行以内で述べよ。