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年度 1981年

設問番号 第2問

テーマ 平安時代の海賊発生の背景・天保期の印旛沼干拓の意義/古代・近世


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(A)
設問の要求は、平安時代になって瀬戸内海で海賊の動きが活発になった背景。

まず、瀬戸内海航路とはどういう航路だったのかを確認しておこう。
瀬戸内海航路は、大宰府と都を結ぶ航路であり、西国の諸国と都を結ぶ航路である。

では、何を運んだのだろうか。
(1)諸国で徴収された調庸(律令制期)や官物(平安中期)、荘園・公領からの年貢(平安後期)。
もともと調庸物は、律令制のもとでは負担する公民の運脚により都へ送られていたが、平安時代になると、西国では瀬戸内海で活躍していた海運業者によって,東国でも陸運業者によって輸送されるようになっていく。このような運送業者は、富豪百姓(富豪の輩)と称された地方豪族・有力農民からなっていた。
(2)国司など地方官とその私物(財物)。
平安中期以降、国司の徴税請負人化が進んだために貪欲に私財を蓄積する国司(受領)が増えていた。
(3)来日した外交使節や中国・朝鮮からもたらされた様々な文物。
とりわけ遣唐使廃止の前後から中国・朝鮮の民間商人がさかんに九州に来航し、大陸の文物がさかんに流入するようになっていた。

ところで、海賊という呼称は襲われた側や取り締まる側から発されたことばであり、海賊と称されている人びととは、結局のところ、海を生活・経済活動の舞台としていた人びとであった。具体的には、海運業者や商人(海商)などを想定することが可能である。そして彼らは、先にも確認したように、富豪百姓(富豪の輩)と称された地方豪族・有力農民からなっていた。
では、なぜ彼ら海運業者たちは海賊活動を行なったのか、あるいは、なぜ彼ら海運業者たちは海賊と称されて取り締りの対象とされたのか。
(1)(2)→国司などの地方官との対立が考えられる。
平安前期の律令制動揺期には、富豪百姓たちが中央の皇族・貴族(院宮王臣家)と結んで国司の国内支配に抵抗していた。また、平安中期になって田堵に編成された富豪百姓たちは、国司の厳しい収奪に抵抗して、朝廷に国司を告訴する愁訴(尾張国郡司百姓等解文など)や国司への襲撃を行うなどの事件をあいついでおこしていた。
(3)→さかんになった経済流通の実権をめぐる抗争が考えられる。
瀬戸内海でさまざまな海運業者が活躍するようになり、さらに中国・朝鮮からの文物がさかんに流通するようになれば、その主導権を握ることで利益を独占しようとする動きも出てくる。たとえば、平安後期における伊勢平氏の動向を想定するとよい。伊勢平氏は海賊討伐を行う一方、院と結んで日宋貿易に積極的に乗りだし、さらには瀬戸内海航路を整備して宋商人を畿内へと招き入れようとしていた。こうした立場からは、敵対する海運業者たちは討伐・排除すべき対象であり、だからこそ海賊と称されることになる。
とはいえ、ここまで答案に含める必要はないだろう。

(解答例)
瀬戸内海は西国と都を結ぶ重要な輸送路であり、諸国の官物や国司の私財、荘園年貢、中国・朝鮮からもたらされた大陸の文物などが運ばれた。経済的実力をたくわえた富豪百姓からなる海運業者が輸送を担っていたが、過酷な収奪を行う国司との対立などから、彼らはしばしば海賊となって往来する船を襲撃し、掠奪活動を行った。


(B)
設問の要求は、天保年間の干拓計画で水運路の開発が目的に加えられた理由。条件として、当時の国際的及び国内的条件から考えることが求められている。

天保年間の印旛沼干拓計画のなかで開発がもくろまれていた水運路とは、問題文によれば“江戸湾と利根川、ひいては銚子を経て太平洋を結ぶ航路”である。

まず、利根川という河川がどこを流れているのかを考えよう。
利根川水系は関東各地を流れ、長い年月をかけて関東平野を徐々につくりあげた河川であった。そして、江戸時代における物資輸送は水運が中心であったことを考えれば、利根川水系=関東各地と江戸湾を水運で結ぶということは、関東各地と江戸を結ぶ物資輸送ルートを整備するということである。
関東各地から江戸への物資輸送(流通)とくれば、その背景に江戸地廻り経済圏の成長があったことは想起できるだろう。これが“国内的条件”。

次に、銚子から江戸湾への水運路といえば東廻り航路があるはずなのに、なぜ内陸経由の水運路を新たに開発する必要があるのか、を考えよう。銚子から房総半島をめぐって江戸湾へ至る水運路に何か不都合な点でもあるのだろうか。 ここで考えたいのが“国際的条件”。天保期といえば、浦賀(江戸湾の入り口)などでアメリカ船を撃退したモリソン号事件、さらに中国でのアヘン戦争勃発と清の敗北。とくにアヘン戦争は幕府首脳の対外的な危機意識を高める。イギリス海軍が日本に接近することへの危機意識が高まり、そこで、軍事紛争の発生を回避するために異国船打払令を撤回して天保の薪水給与令を発していたのである。
このことを念頭におけば、銚子から江戸湾への内陸経由の水運路を開発しようと計画したのは、外国船による廻船への妨害、江戸湾封鎖によって江戸に物資が入らなくなる事態への対策であったことがわかるだろう。

(解答例)
清のアヘン戦争敗北など外圧の高まりのなか、外国船の江戸湾封鎖により江戸に物資が入らなくなる事態に対処すると共に、江戸地廻り経済圏の成長に対応し、関東各地と江戸を結ぶ物資輸送ルートを整備しようとした。