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年度 1983年

設問番号 第1問

テーマ 摂関政治と院政/古代


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設問の要求は,ア・イのころの政治とウの頃の政治の相違。
条件として,藤原実頼・頼忠が朝廷の人々から軽視された事情と,藤原公実の要求が白河上皇に聞き入れられなかった事情とを手がかりにしながら,権力者がそれぞれ,どのような関係に頼って権力を維持していたかを考えることが求められている(エの略系図を参考にすることも忘れずに)。なお,答案のなかに含める必要はないが,掲載されている受験生の答案が低い評点しか与えられなかった理由を考えることも求められている。

ア・イの頃の政治は摂関政治と呼ばれ,摂関政治は次のような内容を持っていた。
摂関政治
・摂政・関白=太政官の上に立つ・天皇の権限に公的に関与

・天皇との外戚関係に基づいて政治を主導

ここで注意しなければならないのは,この知識だけで答案を書いてはならない点である。

ア・イの頃の摂政・関白は果たして「天皇との外戚関係」に基づいて「政治を主導」していたのか? それを確認したい。
その際,条件として「藤原実頼・頼忠が朝廷の人々から軽視された事情」を手がかりとすることが求められている点に留意したい。資料文ア・イによれば,藤原実頼・頼忠ともに当時,関白である。そして,彼らは朝廷の人々から「軽視された」というのだから,政治を主導していない。
ここから,ア・イの頃,摂政・関白だからと言って政治を主導したわけではない,言い換えれば,摂政・関白が必ずしも「権力者」とは言えない点に注意しよう。
では,「権力者」とは,この問題では,どのような人物を言うのだろうか。手がかりは次の2つである。
資料文ア
:実頼「誰も自分には昇進人事について相談に来ない」「自分が名前だけの関白にすぎない」
資料文イ
:「中納言義懐が国政の実権を握る」
ここから,人事の最終決定において発言力をもつ人物が「国政の実権を握る」権力者だと判断することができる。
では,ア・イの頃は誰が人事に発言力をもつ権力者だったのか。    ※《  》内は略系図からの読み取り
資料文ア
:昇進人事は藤原伊尹《冷泉天皇の伯父・実頼の次に摂関》が掌握
資料文イ
:藤原義懐《花山天皇の伯父》が国政の実権を掌握
 藤原兼家《皇太子(のちの一条天皇)の祖父・頼忠の次に摂関》は「自分が将来置かれるであろう立場」を考えて摂関への野望を抑える
ここから,摂関であるか否かにかかわらず,天皇と外戚関係をもつものが権力を握ったこと,換言すれば,権力者は天皇との外戚関係に頼って権力を維持していたことがわかる。

なお,摂政は天皇の代行者であるものの,関白は天皇の後見者にすぎず,天皇が最終的な決定権を保持していたために,天皇やその側近(外戚など)の意向を政治運営から排除することはできなかった。

ウの頃の政治は院政と呼ばれ,院政は次のような内容を持っていた。
院政
・院(上皇)=もと天皇

・天皇家の家長(天皇の直系尊属)という立場から天皇を私的に後見・政治を主導

ここでもまた,この知識だけで答案を書いてはならない点に注意しよう。

条件として「藤原公実の要求が白河上皇に聞き入れられなかった事情」を考慮することが求められているので,まずは藤原公実の要求がどのようなものかを確認しておこう。
資料文ウ
藤原公実《鳥羽天皇の叔父》=自分を鳥羽天皇の摂政にするように要求
理由:⑴家柄,⑵大臣一歩手前の大納言,⑶摂関には自分のような立場の者がなるべき慣行があること

白河上皇《鳥羽天皇の祖父》=その要求(人事)を拒否

(エ)の略系図をみれば,藤原忠平の子孫であることが⑴の家柄なのだろう。
⑶として「自分のような立場の者」があるが,資料文イに出てくる藤原兼家の立場,そして藤原道長・頼通に関する知識を念頭におけば,天皇の外戚が摂政・関白に就任していたこと,つまり,イよりも以降の摂関政治期においては,天皇の外戚が摂関に就任することが慣行として成立していたことがうかがえる。
しかし,後三条天皇がときの摂関(関白)を外戚としなかったことは高校日本史の知識だし,(エ)の系図によれば,白河天皇の外戚(公成や実季)は摂関に就任していない(摂関就任順の番号が付されていない)。つまり,鳥羽天皇即位の頃,天皇の外戚が摂関になることが慣行だったのかと言えば No と言うしかない。
では,その頃,誰が摂関となっていたのか。
エの系図は藤原頼通・教通兄弟で終わっている。頼通が後三条天皇の即位とともに宇治に引退したことは知っているだろうから,後三条天皇の時は藤原教通(13)が関白だったことは推測できるにせよ,それ以降,白河天皇や堀河天皇の頃の摂関は具体的には分からない。しかし,先に確認したように,天皇の外戚が摂関になる慣行は終わっていることを考えれば,藤原道長の子孫に継承された(頼通・教通どちらの子孫かはともかく)と判断することができるだろう。
つまり,白河上皇が公実の要求を聞き入れなかったのは,道長の子孫が摂関を継承するという慣行が成り立っていた(成り立ちつつあった)からだと判断できる。

なお,⑵の理由を念頭におくと,ア・イの頃,天皇の外戚の立場にあった藤原伊尹や義懐が摂関に慣れなかった理由を推測することができる。アやイの頃,伊尹,義懐ともに中納言である。「大臣一歩手前」の大納言ではない。その官職上の地位ゆえに,彼らは摂関になれなかったと判断することができ,同時に,大臣であることが摂関に就任する条件の一つだったと考えることができる。

では,白河上皇は「どのような関係」に基づいて(人事に発言力をもつ)権力者としての地位を確保・維持できていたのか。
これは,先ほどの知識をも念頭に置いて考えればよい。天皇家の家長(天皇の直系尊属)という立場から権力を確保・維持していたのである。

〔受験生が書いた答案について〕
なお,受験生の答案が悪いのは,資料として提示されている逸話を答案のなかに活かしていない点である。言い換えれば,「藤原実頼・頼忠が朝廷の人々から軽視された事情」と「藤原公実の要求が白河上皇に聞き入れられなかった事情」を全く考慮していないため(つまり,条件①を完全に無視しているため),低い評点しか与えられなかったのである。

補足)
権力者の権力基盤が問われているので,ア・イについては摂政・関白,ウについては上皇について説明すれば十分かもしれない。しかし,資料文として「摂関の地位をめぐる逸話」が提示されているのだから,摂関をめぐる相違点についても論じ,それによって字数を確保しておきたい。


(解答例)
アイの頃は,藤原忠平の子孫で大臣の職にあるものが摂関に就任して天皇の権限に公的に関与したが,実際には官職上の地位に拘わらず天皇と外戚関係をもつ人物が権力を握った。ウの頃は,上皇が天皇家の家長という私的な立場から権力を握り,摂関は天皇との外戚関係に関わりなく藤原道長の子孫が継承することが慣行となった。(150字)