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年度 1984年

設問番号 第2問

テーマ 行基と律令政府の仏教政策/古代


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(A)
設問の要求は、行基の活動が最初朝廷に抑圧された理由。

朝廷の仏教に対する態度…鎮護国家の使命を担うものとして保護・統制
 僧尼…僧尼令(律令)で身分・地位・行動を規制されていた
 →寺院にこもって学問と修行につとめる・鎮護国家のための法会や祈祷を行う
 寺院には免税特権が与えられていた…寺田は不輸祖・僧尼は不課口

行基の行動
 民間布教を行う=僧尼令に違反
 行基の活動を支持し、行基の集団に加わる人々=私度僧の集団→公地公民原則に反する

(B)
設問の要求は、朝廷がのちに行基を重んじるようになった背景。条件として、当時の政治・社会情勢や、朝廷のそれに対する政策との関連に注目することが求められている。

当時の政治・社会情勢
 天災や疫病流行で社会不安・藤原広嗣の乱で政治不安
→朝廷の政策…仏教の鎮護国家思想による政治・社会の安定をめざす=国分寺建立や大仏造立
(問題文には「743年(天平15)から天皇が始めた大事業」が指摘されているので、大仏造立事業については最低限ふれておきたい)

行基のメリット
 衆望を集めている・組織力をもつ(「行基の活動を支持し、行基の集団に加わる人々は、時には千人以上にも達したという」)
 →朝廷のねらい…行基を登用することで大仏造立事業への地方豪族や民衆の自発的参加を引き出す


(解答例)

朝廷は仏教を積極的に保護する一方で、僧尼令で僧尼の身分・地位・行動を厳しく規制していた。ところが、行基は禁制にもかかわらず民間布教を行っており、さらに彼の回りには朝廷に許可なく出家した私度僧の集団が形成され、公民制の原則にも抵触していた。

聖武朝には飢饉や疫病の流行、藤原広嗣の乱などにより政治・社会が大きく動揺していた。それに対して朝廷は、仏教の鎮護国家思想に基いて国家の安泰をめざし、国分寺建立や大仏造立事業を進めたが、民間の協力を引き出すために行基の衆望を利用しようとした。
【添削例】

≪最初の答案≫
A仏教の鎮護国家思想の下、朝廷は仏教を保護する一方、僧侶への僧尼令など厳しい統制も行っていた。行基の民間布教は僧尼令違反であり、加えて行基が集団を引き連れて社会事業を行うことは私度僧の増加につながり、民衆支配が困難になるため朝廷は彼らを弾圧した。
B奈良時代中期、藤原広嗣の乱や飢饉、疫病の流行などによって社会不安が増大していた。聖武天皇は仏教の鎮護国家思想に基づいて国分寺建立や大仏造立を行おうとしたが、多くの労働力が必要となったため、行基の集団の活動を認ることで彼らを労働力として得た。

AはOKです。

Bについて。
> 多くの労働力が必要となったため、行基の集団の活動を認ることで彼らを労働力として得た。

朝廷が行基の人的動員力を取り込もうとした点を指摘しているのは妥当なのだが、果たしてそれだけなのか。

リード文では
「人々の協力をえて、橋をかけ、灌漑施設をつくるなどの事業を行った。このような行基の活動を支持し、行基の集団に加わる人々は、時には千人以上にも達したという。」
とある。確かに「行基の集団に加わる人々」とは、橋をかけたり灌漑施設をつくったりする際の“労働力”である。
しかし、「人々の協力」とはそれだけに留まるのだろうか。そもそも、「橋をかけ、灌漑施設をつくるなどの事業を行」うのに“労働力”を確保するだけで十分なのか。
また、行基の活動に「協力」した人々とは、どういう階層の人々だったのだろうか。貧しい人々か?、それ以外には存在しないのか?
この辺りを再考してみてほしい。

≪書き直し≫
B奈良時代中期、藤原広嗣の乱や飢饉、疫病の流行などによって社会不安が増大していた。これを鎮めようと聖武天皇は仏教の鎮護国家思想に基づいて国分寺建立や大仏造立を行おうとした。そこで、民衆の賛同と協力を得るため行基の衆望の厚さを利用しようとした。

資料文で『出家』『大僧正』などの仏教関連の語句がありますが、これと大仏造立・国分寺建立との関連は示せないんですか?

> 民衆の賛同と協力を得るため

「民衆」との表現でも“とりあえずは”よいが,「橋をかけ,灌漑施設をつくるなど」といった行基の活動に「協力」した人々のなかに郡司級の地方豪族が存在していたことに気づいてほしい。
そもそも,「橋をかけ,灌漑施設をつくるなどの事業」を行うにはそれなりの資金が必要だが,行基個人にそれだけの資金力があるわけではない。彼は,自分の活動に協力することは仏への結縁であり,救済への手段であるなどと説いて,さまざまな人々に勧進を行い,寄付を募っていたものと想像できる。そうした行基の勧進に応じ,その事業に協力した人々には郡司級の地方豪族も含まれていたはず。でなければ資金は確保できないし,さらに彼らにしてみれば「橋をかけ,灌漑施設をつくるなどの事業」は彼らの在地支配(勧農など)を補完するものであり,積極的に協力して損はない。
行基の活動の背後にはそうした郡司級の地方豪族の動きがあったからこそ,国分寺建立や大仏造立への地方豪族の協力をひきだすべく,朝廷は行基を重用するようになったと言えます。つまり,大仏造立の詔と同年に墾田永年私財法を出したことと同じ意図があるわけです。

> 資料文で『出家』『大僧正』などの仏教関連の語句がありますが、これと大仏造立・
> 国分寺建立との関連は示せないんですか?

「出家」は
 731年(天平3)には、行基に従う人々に、年齢によっては出家を認めるようになり
という文章のなかに出てきますが,これは行基に従う人々が“政府に許可なく出家し,僧尼として活動している人々”であったことを示唆したものです。

次に「大僧正」です。
朝廷のもとには,仏教界全体を統括する機関として僧綱が置かれ,そのなかに僧上・僧都・律師という役職が置かれていました。
ですから,行基が大僧正に任じられたということは僧綱のトップに就いたということであり,設問で「朝廷がのちに行基を重んじるようになった」と述べられていることがらを具体的に説明しているだけのことです。

≪書き直し2回目≫
B奈良時代中期、藤原広嗣の乱や飢饉、疫病の流行などによって社会不安が増大していた。これを鎮めようと聖武天皇は仏教の鎮護国家思想に基づいて国分寺建立や大仏造立を行おうとした。そこで、民間の労働力や資本協力を得るため行基の衆望の厚さを利用しようとした。

OKです。