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年度 1986年

設問番号 第2問

テーマ 中世の徳政(永仁の徳政令と徳政一揆)/中世


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設問の要求は、正長元年(1428)の徳政が非常に広汎なものとなった背景(3つ以上)。

問題文で引用されている史料からわかるように、この時の徳政は土民蜂起=土一揆のもとで実施されたものである。そのことを考慮に入れれば、この設問の要求は、“1428年に徳政を掲げた土一揆が畿内近国で広く発生した背景”と読みかえることができる。そして、設問の要求に含まれているポイントは次の3つ。
(1)なぜ1428年か。
(2)なぜ徳政という要求が広汎な人びとによって掲げられたのか。
(3)なぜ土一揆が広く発生したのか。

このうち(2)と(3)はオーソドックスなテーマ。
(2)について。
“徳政”とは“負債の破棄”であり、酒屋・土倉・寺院などの高利貸業者の活動がさかんになり、農村での経済発達を背景として農村へもその活動が浸透していたことが背景。
(3)について。
畿内近国では、農業発達を背景として小農民の自立化が進み、名主と小農民を構成員として自治村落である惣(惣村)が形成され、さらに荘園・公領の枠(つまり領主の違い)を超えて広く結びつくようになっていた。そのことが土一揆の基盤であった。

(1)については問題文からデータを読み取る。
問題文によれば、正長の土一揆がおこった1428年8月の直前には
○将軍足利義持が死去→義教が新たに幕府の首長としての政務を行なった
○称光天皇が死去→後花園天皇が跡を継いだ
○前年からの飢饉に加え、悪性の伝染病が流行して多くの死者が出た→年号を改めた
ここからわかることは、将軍(幕府の首長)も天皇もともに代替りが行なわれたこと、飢饉や伝染病の流行により社会不安が広がっており、それからの解放を願って年号改正が行なわれたこと、の2点である。これらのことが“徳政”を求める気運が引き出していたといえる。


設問の要求は、正長元年の徳政と永仁の徳政令の場合との相違点。

永仁の徳政令は、窮乏した御家人の救済を目的として鎌倉幕府が発令したもので、適用対象は御家人に限られていた。
正長元年の徳政は、土民蜂起(土一揆)の実力を背景として徳政が実施された。そして土民らは室町幕府に対して徳政令の発布を求めたが、幕府は徳政禁制を出した(徳政を承認しなかった)。

売却・質入所領の無償返還か負債の破棄かという相違があるが、金銭貸借関係をなかったことにするという点では共通しており、無視してよい。ところが、徳政実施の主体や適用対象、幕府の対応が大きく相違している。字数が2行と短いので、それら相違点をコンパクトに記述する必要がある。


(解答例)

自治村落である惣村を基盤として農民が階層や地域の違いをこえて結束を強めていた。高利貸業者への借金が農民や運送業者たちの生活をおびやかしていた。将軍・天皇が代替りし、飢饉や疫病にともなう社会不安からの解放を願って年号改正が行われた。

永仁の徳政令は幕府が御家人救済策として実施したのに対し、この時の徳政は土民が幕府の承認なく実力行動により自ら実現させた。
【添削例】

A(1)畿内を中心に自治的地縁的な農民の結合である惣を基礎として広い農民の結合が存在した。(2)貨幣・流通経済発達に伴って土倉・酒屋などの高利貸し業者が台頭し、多くの農民が負債を抱えていた。(3)政権交代・社会不安などで社会の秩序が動揺していた。
B前者は高利貸しへの負債から農民が自らの手で徳政を実現させたのに対し、後者は恩賞不十分の対応策として幕府が発している。

Aについて。
これでOKですが,
> (3)政権交代・社会不安などで社会の秩序が動揺していた。
のところは,もう少しつっこんで考えてみたい。
時期は前後するが,嘉吉の徳政一揆では「代始めの徳政」が掲げられたことを思い浮かべて欲しい。『建内記』に「今土民等,代始に此の沙汰は先例と称す」とあったはず。土民たちは「代始め」に何を期待したのだろうか?
また,なぜ年号が改正されたのか,リード文の記述から推論してみて欲しい。

ところで,もともと「徳政」とは儒教に由来することばで,もともと「徳ある政治」,社会のあるべき秩序を保つ政治のことなのですが,儒教に基づけば,為政者は有徳でなければならず,災害・飢饉などの凶事(彗星の出現や戦乱の発生なども含まれる)が起こるのは為政者の不徳,失政によるものとされます。いいかえれば,災害などの凶事とは為政者の不徳・失政に対して天により下された譴責だと考えるのです。

逆にいえば,為政者は社会のあるべき秩序を保つこと,社会秩序を安定に導く規準を示すことができて初めて,被治者から為政者として認知されたのであり,公権力として存在することができたのです。

だから,為政者はその代始めにあたって“あるべき政治・社会のあり方を示す”さまざまな法令を発すると共に,災害などの凶事に際して“政治・社会のあるべき秩序を再構築する”ためのさまざまな施策を実施します(それらは平安中期〜南北朝期においては「新制」と称されたのですが,鎌倉幕府が御成敗式目を制定したのも寛喜の飢饉の翌年のことなんです)。
さて,こうした新制=「徳政」はさまざまに発布されていますが,特に蒙古襲来に伴う軍事的緊張のなかで朝廷・幕府ともに旧領回復という形での徳政を相次いで実施しています(そのなかの最も有名な施策が幕府による永仁の徳政令で,これも当時“新制”と呼ばれていた)。

そして室町中期になると,土民たちが「徳政」を掲げて実力行動にでるようになるのですが,そのタイミングは......。

Bについて。
実施主体については対比できているのだが,徳政の適用対象の違いについても触れたい。

それから,永仁の徳政令について「恩賞不十分の対応策」との説明は適切ではない。
蒙古襲来の際の恩賞が不十分であったことが御家人の経済的窮乏を招いた原因のひとつであったことは事実だが,永仁の徳政令を発布して売却所領の無償返還を規定したのは,あくまでも経済的に困窮して所領を売却してしまい御家人役を担えない御家人が増加していたことへの対応策です。