年度 1988年
設問番号 第2問
テーマ 守護大名と戦国大名の違い/中世
問題文に「戦国大名今川氏は、みずから「守護(使)不入地」に対する位置づけの相違をとおして、両者のちがいを明らかにしている」とある。守護使(守護大名の派遣する役人)の介入を拒否できる「守護使不入地」が『今川仮名目録』(史料文)のなかでどのように位置づけられているのかを明確にしよう。
守護大名は、その領国支配を実現するにあたって、将軍から守護職に任じられることを不可欠な要素としており、将軍の全国支配を背景として領国支配を実現していた。つまり、地域の最高権力者は守護大名ではなく将軍であった。
史料文によれば、「守護使不入」の特権が有効なのは、そうした時代においてのことである。そして、「守護使不入」とは守護大名の干渉を拒否できる特権でしかなく、その特権を付与した将軍権力の干渉は拒否することができない。
ところが、戦国大名は自分の実力で領国(分国)支配を実現している。つまり、戦国大名が地域の最高権力者であり、あらゆる特権を付与する主体である。
史料文でも、「自分の力で国法を制定し、領国内の秩序と平和を維持しているのである」と表現されている。そうした段階では、旧来の「守護使不入」という特権は有効ではなく、もし「不入」の特権が改めて認められたとしても、あらゆる特権を付与する主体である戦国大名の干渉を拒否することはできない。
両者の違いは、「守護使不入」という特権を許容するか否かにあるが、そのことは「守護使不入」という特権を付与する主体=地域の最高権力を誰が掌握しているかをめぐる相違である。
なお、戦国大名は城下町に新しく楽市を開設するだけではなく、寺内町など、すでに楽市として存在していた市場や町を対象としても楽市令を出し、これら既存の楽市の特権を保障している。同じ話である。
守護大名の持つ地方支配に関する権限は将軍から与えられたものであり、守護大名は将軍の定めた守護不入地の決定に従わなければならなかった。一方で、戦国大名は将軍の権力に依拠せず、分国法制定や在地の農民支配などを通じて自力での領国の自治的支配を実現し、自らを頂点とした支配体制を確立し、それにより、自ら守護不入地を設定することができた。 |
うまく書けています。
ただ,
> 自ら守護不入地を設定することができた。
という表現は不適切です。
問題で引かれている史料には
(大名が認めてやった守護使不入地に対し、)大名の干渉をまったく許さないということは、あってはならない
とあるが,そこで述べられているのは,大名今川氏が“「守護=大名今川氏」の干渉を拒否することのできる地域”を設定したということではない。大名今川氏が「不入の特権」を認めてやったとしても,大名今川氏そのものの干渉を拒否することなどできないのだ,と述べられているのです。つまり,大名今川氏が認めてやった「不入の特権」は今川氏の家臣の干渉を拒否することのできる特権でしかない。
そのことを考えれば,“守護不入地の存在を否定した”と表現するか,“自らがあらゆる特権を付与する主体であることを宣言した”などと表現するのが適当。